2009年10月29日木曜日

個の時代。フリースタイルな僧侶たち

8月に京都で「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」が創刊された。A4版、8頁、カラーグラビア印刷でお金がかかっているが、そもそも何で僧侶がフリーマガジンなんだろう。
 編集の仕掛け人である池口さんに会った。昭和55年生まれ、尼崎の浄土宗のお寺に生まれ、京都大学から同大学院に進み、いま総本山知恩院の職員として働いている。若いがれっきとしたプロの僧侶だ。フリーマガジンのその他の書き手は、彼の大学院での仲間の僧侶たち。宗派は異なる。その意気に応じたライターやカメラマンが参加した僧俗混成部隊だ。


 マガジンはそのままインターネット上でも読むことができるが、その中に池口さん自身が発刊の趣旨にこう書いている。
 「インターネットで僧侶一人一人の情報が交換され、それぞれの個性が評価される時代は遠くない。すでにその息吹は見受けられる。その時は、人々は「自分の価値観に合う僧侶」を選ぶだろう。それならば、手垢のついた表現を駆使するよりも、「フリースタイル」で自分の個性をアピールするほうが、時代のニーズに合っていると思うのだ」
 この文章の前後には、池口さんの僧侶としての時代認識や仏教への可能性など熱く述べられているのだが、とりわけ私が共感したのは、若い優秀な僧侶はすでに「僧侶個人」が「選択される」ことを認識している点だ。ここではフリースタイルとは、市民と僧侶個人のフリーアクセス、フリーコンタクトということであって、最初から宗派、教団という囲いの外に自分の地点を持っている。最初から相手は檀信徒ではなく、「個」としての市民を向いている。
 これまで僧侶は、外の社会とのアクセスを教団組織を介して行ってきた。教団はそこに所属する僧侶にとってだいじな出世機関であり、いい意味で僧侶(人材)の能力を吸い上げるヒエラルキーでもあった。そのため宗内には星の数ほど団体や役職が設けられ、若い僧侶を囲い込んできた。
 が、同時に徹底したムラ社会である教団では、際立った個人の能力は嫌われる。布教、でも子ども会でも、昔ながらの教化には鉄壁の上意下達のシステムがあって、若い才能など発揮しようもない。そもそも若い人材を活かそうという発想が教団にはない。幹部職は大抵が70代以上なのだから無理もないのだが。
 「個」が隆起する時代にあって、組織にしがみついている場合ではないのだ。寺は一つ一つが独立した拠点であって、教団組織の下部にぶらさがっているわけではない。自分で考え、自分で判断する。同じ宗門人だからといって、何でも教団に横並びでいいのか。でなければ、日本に寺が7万5千もある説明がつかないではないか。
 ひとりの僧侶としての生涯において、青年僧の時代は貴重だ。無垢なまま社会と向き合い、自他の関係に身を投じてみる。外とフリーアクセスすれば、教団の言葉が閉じた世界でしか通用しないことがわかるだろう。自分たちが何を期待されていて、何がズレているか、よくわかるだろう。次代の仏教者の基本は、教化でも折伏でもなく、協働と対話であることが骨にしみてわかるだろう。
 よるべきなき「個」の時代である。「個」が確立されないまま「自己決定」「自己責任」と追いたくられ、現代の「個」は孤立して喘いでいる。仏教は集団や組織の原理でなく、いま目の前の「個」を救う教えでなくてはならない。たくましい「個」をつなぎ、もうひとつの共同体を形成する力といおうか。これまでの仏教とは異なる、語り口やスタイルが必要とされている。
 ちなみに池口さんのフリーマガジンは、京都市内の大手書店にも置いてある。聞けば、書店とは一軒一軒足を運んで直接交渉したとか。「どうせ仏教なんて…」などとやりもしないで、嘆くなかれ。青年僧の情熱に、きっと社会は答えてくれている。(秋田光彦)

*ネットでフリスタを読むこともできます。
http://www.freemonk.net/

2009年10月19日月曜日

グリーフケア「ひだまりの会」月例会

 去る9月20日、「應典院 夏のエンディングセミナー」でも講演いただいた、公益社の廣江輝夫さんが中心に活動しているグリーフケア「ひだまりの会」の月例会の見学をした。
 「ひだまりの会」の活動については、ブログの「公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー」を参照してほしいが、見学をして最初にすごいと思ったのは、ひだまりの会事務局長の出口さんが、来場された人たちに気さくに声をかけ、また手を握ったりして会話をし、緊張している会員の方に対して和やかな雰囲気づくりをしておられたことだった。初参加の人は非常な不安を持っているだろうが、その緊張をやわらかにほぐされているのを見て、出口さんの細やかな心配りを感じた。何よりも笑顔が素敵だった。
 午前中の第1部は、初めて参加される方や、悲嘆の強い方が中心で20名の方が来られていた。男女比率も同じくらいで、年齢層は会社を定年した方から若い方まで様々だった。

 最初は岡本双美子さんが、「大切な人を亡くすという体験」という題で講演され、その後、「分かち合い」と呼ばれる小グループに分かれ、体験談を話し合う場に移った。私は龍谷大学の教員の黒川雅代子さんがファシリテーターをされているグループの見学をした。4名の会員の方が体験を話された。涙をずっと流さている方や、まだ大切な方の死を受容できない人など、まだまだ悲嘆の強い状態であった。もし私に何か発言をしろと言われても、とてもとても私などが意見できるようなものではなかった。
 黒川さんは、「大切な人を亡くした悲しみとどう向き合えるか?」その「答え」は、その人の中にしかないのかもしれない。しかし、その「答え」は、そう簡単に導き出せるものではない。そのために、時間や、そばで寄り添い傾聴し共感してくれる人が必要なのかもしれない。その「答え」を導き出すための過程の中で、同じ体験者同士の分かち合いは大きな役割を果たすのではないだろうかと言われた。
 その言葉通り、分かち合いが終了する頃には、皆さんの表情が柔らかになっていく印象を得た。もちろん一回ですっきりするわけではない。何回も同じ場を繰り返し、少しずつ悲嘆を和らげていくことが必要である。また実際、アンケートでも皆さん、また参加したいと書かれていた。
 「ひだまりの会」は傷口のなめあいでもなく、また他の人との悲しみの比較をするわけでもない。お互いの経験を話し合い、次のステップ、残された人生を生きる活力、エネルギーを養う場である。
 午後からの2部は、ある程度、立ち直られた方が90名ほど集まられた。ここでも驚いたのだが、受付も進行も会員の方が担当されており、表情も明るく、月一回の同窓会のような感じがした。これが「ひだまりの会」が目指している、ライフサポート、つまりマイナスからゼロではなく、ゼロからプラスに転換するという実践がうかがえた。
 音楽グループの方が合唱し、会員の皆さんの一緒に口ずさむ、そんな明るい風景が見られた。とにかく明るい、言い方は悪いが、うるさいほど会話が弾んでいるのを見て、「ひだまりの会」が果たしてきた役割の大きさを感じた。
 私は、1部でお会いした悲嘆の強い方々が、この会に参加してきっと変わっていくだろうと強い確信を持った。また変わっていく姿を見たいとも思った。
 人によって悲しみの度合いも違い、悲嘆の大きさ、立ち直りの時期も違う。しかし廣江さん、出口さんを始め、「ひだまりの会」のスタッフの方々の会員さんとの接し方を見て、本当に何か安らぎを得た一日であった。(浦嶋偉晃)

2009年10月15日木曜日

阿修羅像、奈良に帰る。失われた中心への回復。

 東京、九州を巡回していた国宝・阿修羅像が奈良の興福寺に帰り、17日から本家での展示が始まる。両方で165万という記録的な観覧者を迎えた阿修羅像は、最近の仏像ブームも牽引した。いったい何が人々を魅了したのか、14日の朝日新聞で記事が載っていた。



 納得したのは、「芸術新潮」の編集長が言っていた「阿修羅はキャラ立ちしている」というコメント。この像の造形的なキャラクターは世界に冠たるものと私も思う。興福寺の多川俊映さんも「心をくすぐる、何か懐かしい面相」が人々をひきつけたといい、「戦いに疲れて釈迦の教えを聞き、安らぎに到達した阿修羅に、自分も安らぎたいという思いを無意識のうちに感じるのでしょう」。
 同感だが、それはいつの時代にも不変のもの。阿修羅の美学的価値は絶対的だが、それを評価せしめているのはそれぞれの時代の感覚だ。仏像ガールというようなキャラ(最近仏教教団の講演会などで引っ張りだのお姉さん)が登場するのも時代の要請なのだろう。
 不景気、失業、自死、そして衝動殺人…世情は殺伐として、一向に明るい兆しは見られない。デジタル万能化が進み、会社も学校もすべてが異様なスピードで「決済」されていく中で、人々は自分の中に大きな欠落感を感じているのではないか。皆が荒々しい変化の風を、背中に受けながらじっと耐えている。東京展では長い行列で、入場まで6時間静かに待った人もいたという。
 現代は変化することは成長と等価である。変化こそ絶対善の今にあって、仏像のように不変の存在はそれだけで希少であり、そこに揺るぎない規範のようなものを求めたのだと思う。失われた中心に回復していくような感覚。それは「癒し」という感覚と少し違って、再生への希望の色を留めている(私はその希望を、阿修羅の姿形に感じる)。
 17日から始まる興福寺展では、「お堂でみる阿修羅」と副題がついている。お寺だけど「みる」であって「拝む」ではないのはちょっと複雑だが、堂内照明(展示的には照明効果が大きい)もあるそうだから、行ってみたら。(蓮池潤三)

2009年10月8日木曜日

見えない死を、見えるカタチにする。

 死ぬと、私という存在が消滅するのではないか…そのような死後の行方の不確かさについて、人は恐怖心を抱きます。身近な人を喪った時も、「いまどこにいるのだろう」「本当に安らかに逝ったのだろうか」と不安をおぼえる遺族は少なくありません。
日本の仏教は、お釈迦さまが説かれた直説的な教えとは別に「いかに死すべきか」を説き、日本人固有の死生観をつくってきました。中でも浄土教は「極楽浄土に行って仏として生まれ変わる」と死後の世界を保証しました。つまり、生と死を連続した「いのち」としてとらえたのです。
昔、お寺は、病院や薬局の機能も兼ね備えた医療福祉センターとして成り立っていました。ご本尊のあるお堂はホスピスです。看取りも僧侶たちの役割であって、「病気をいかに治すか」よりも「安楽に往生させるか(看取ることができるか)」を追求していました。今風にいえば、スピリチュアルな痛みを緩和させていたわけですが、同じ信仰に支えられた者どうし、死へのソフトランディングを可能にしたのだと思います。
 いま看取りの作法や文化がなくなりつつあります。臨終は家族から病院へ、葬儀も自宅から葬斎場へとアウトソーシングされていく。かつて家族が、共同体が喪の作業として協同してきたものが、外部サービへとス委託されることで、死が見えにくくなっています。いかに老い、いかに死ぬかは、年齢を重ねれば自ずと理解できるわけではない。後事は子どもにすべて任せるといえる人も今や少数派です。
 少子高齢化の時代といえど、人間は誰の世話にもならず死ぬことはできません。血縁に頼る看取りが実現しにくくなっている今、死を孤立させずに、互いサポートする仕組みと関係が必要となっています。自分の死を、生前に準備する。固有の死を支えあうもうひとつの家族が必要になります。
 それは、見えなくなった死を、見えるカタチにする(デザイン)ということと同義です。エンディングデザインの思想がそこから生まれます。(秋田光彦)