2010年12月30日木曜日

年末回想。若者たちの未来の死生観に希望を託して。

 2010年、今年は、いのちのありようについて重く考えさせられた一年でした。
 身近には葬式仏教への逆風、社会面では、幼児や高齢者への虐待が相次ぎました。また、脳死・臓器移植の改正法や市民参加の裁判員裁判で死刑判決が初めて下されました。十分な検討も熟慮も伴わず、私には、ただ状況ばかりが前のめりに加速している印象があります。
 人間は、葬式の形態や規模は別にして、死者を供養しないではいられない存在です。
 年が明けるとまた「1.17」が巡ってきますが、いまなお、あれだけの人々が現地で、また日本中の人々も死者たちを鎮魂するのは何故でしょう。人間だけでありません。宮崎県を襲った口蹄疫の時も、殺処分される牛馬のために、畜産農家の人たちがこぞってユリの花を供えたと聞きます。
 私は、生前個人墓「自然」を通してこれまで、結縁を希望する、200人以上の高齢者と面談してきました。多くはとりたてて宗教には関係を持たずに来た人たちでしたが、分かったことがあります。日本人は、それが家であるなしにかかわらず、「供養」という文脈を使いながら、自らの死生観を形成していくのだと。今までは家制度によって暗黙に「保証」されてきた供養が、環境の変化によって急に、個人の問題として突き付けられ、人は自分の「死後の供養」を考えて、準備に急ぎ始めたのです。「自然」という墓を契機として、いきいきと死生観を語り始める人たち。葬式や墓は、今まで眠っていた死生観を想起させる装置といっていいのかもしれません。
 しかし、現実には、葬式仏教への不信は根強く、そして、消費者として君臨する人々との溝はあまりに大きい。消費者には、葬式仏教の教えはすべて建前であって、要求すべきはサービスとコストなのです。日本人は、この間、死生観を予行する大切な体験を根こそぎ喪ってしまうのではないか、という危惧も覚えます。

 話はかわりますが、今月初め、ある若者の葬儀の参列しました。
 彼女は息子の友人で、自宅で急に倒れ、9日間病床に伏せって、25年の生涯を閉じました。ご家族は「家族葬で」と計画したらしいですが、若い友人たちの要望で一般葬に変更となったと聞きました。
 お通夜の式場は、高校、大学、職場とずっと吹奏楽を嗜んできた彼女の仲間たちで、埋め尽くされました。20代の若者たちは、ひょっとして初めて遺影に向かって手を合わせたのかもしれません。あまりに早すぎる親友の死を、まだ受け入れがたいのでしょうか、取り乱した様子もなく、式は淡々と進行していきました。
 読経が終わって、若い僧侶がふりかえって語り始めました。
 「私も26歳です」
 けっして上手な説教というものではなかったけど、式場には若者どうしの一体感のようなものがこみ上げてきました。
 「同じ世代として、もっと生きたかったろうに、やりたいこともたくさんあったろうに。そう思うと残念でなりません」
 会葬者の席でずっと時間を共有しながら、私はふと不思議な感覚に襲われました。この若者たちの死者に対する謙虚で、誠実な態度は何だろう。メディアでは若い人の暴力沙汰がしばしば報道されるというのに、一転してこの身近な死に対する敬虔な姿に接し、私は、何か大きな落差を感じてしまったのです。
 「いまどきの若者にふさわしくない…」と言いたいのではありません。逆に、情報とサービス漬けとなって、消費者として完成されてしまった人々には窺えない、生と死の美しい対話劇を見るような感覚でした。身近な人の死を、三人称(他人)の「死」として扱わず、自らのいのちの一脈として感応しあう。いや、あまりに急な死であったからかも、また彼らには慣れない体験であったからかもしれません。しかし、それ以上に、私は「死」に対する「若さ」の持つ清らかさと愛おしさを見てしまったような気がしてならないのです。
 この国には、もはや紛争も飢餓もありません。死にゆく人は、みな病院の個室に運ばれ、多くの日本人が考えている「死」は、実体験を伴わない「死」です。それとまともに向き合わず、「千の風になって」を歌って、見せかけのイメージに溺れているのではありませんか。
 だからこそ、私は若者たちの未来の死生観に、一縷の望みを託したい。
 今年10月には、川中大輔さん(30歳)のグループが、應典院で「生と死を考える共育ワークショップ」を1泊2日で開催、「看取り」をわかちあいました。また、大晦日から元旦にかけては、尾角光美さん(28歳)のグループと、「年越し・いのちの村」を開催します。こちらは、年末年始、帰る場所もなく、孤立に陥る人たちと温かい正月をお寺で過ごそうという企画です。
 若者たちに、決まり切った先祖供養は似合わない。あるのは、他者の「死」に自分の「生」を重ねることです。他者の死とは、ここでは、生きる痛み、悲しみといってもいい。私には、こうして若者たちの試みに寺として加担することが、「消費されていく仏教」を遠回りかもしれないが、徐々に本来の軌道に回復させる、唯一の道のように思えてならないのです。
 どうぞよき新年をお迎えください。南無阿弥陀仏。(秋田光彦)

2010年12月23日木曜日

介護施設で看取りが浸透しないわけ

去る11月27日、尼崎にて「第19回阪神ホームホスピスを考える会」があり、「施設での看取り」というテーマで講演を聴いた。
 最初に、特別養護老人ホーム けま嬉楽苑の土谷施設長が、「そのひとらしい暮らしを支えるターミナルケア」という話題提供をされた。
 施設の入口には鍵はかけておらず、入居者は自由に出入りできる(もちろん認知症の方も)が、トラブルはないそうである。入居者には事前に普段の雑談の中で自分の「死に対する考え」について確認をし、死後の世界などもタブー視しない雰囲気作りをしている。施設で亡くなられた方に対しては、お別れ会をして、正面玄関からご遺体は出棺される。入居者全員でお見送りをするのだが、それを見て認知症の方も一緒に涙をこぼされるという。現在入居者55人で看取りは年間7名。平均要介護度3.9、そして何と待機者が700人もいらっしゃるそうである。
 この施設のスタッフは、皆さんがホスピスマインドを持たれているように感じた。高齢者の虐待とか孤独とか、そんなニュースが絶えない中で、がんばっておられる特養の話を聞いて気持ちが明るくなった。


 続いて特別講演として、拓海会の藤田拓司先生が「介護施設の終末期ケア」というテーマで講演をされた。
 2025年には160万人の多死社会を迎えると言われており、現状より50万人増えることになる。そういった背景の中で、藤田さんが冒頭に「家での在宅医療が限界かなと思う」と言われたのは衝撃であった。病院でも死ねない。家でも死ねない時代がやってくるのかとゾッとした。
 家族の介護力が小さくなり、自宅での療養継続も困難になり、介護施設へ入所を希望する人、余儀なくされる人が少なくない。本来医療の現場ではない介護施設における終末期ケアを考えなければならないと言われた。しかし、介護施設では容易には死ねない現実もある。介護施設のスタッフたちの、看取りに対する忌避感が強いからだ。「死が怖い」「死にかかわりたくない」という気持ちもわかる。若いスタッフに死生観など要求するほどが酷なのかもしれない。そのため、藤田さんは「看取り」の研修を繰り返し実施されているそうだ。
もちろん「死生観」は人から教えられるものではないし、マニュアルなどない。でもその気づきのためのヒントになる研修を繰り返し実施されているのは、すごいと思った。
最後に藤田さんが言われたのは、今後、多死社会を迎える日本では、介護施設での看取りを積極的に行う必要がある。医療現場ではない介護施設で看取りを行うことは、困難を伴うが可能ではないか。そのためには医師の積極的な関与が必要である。自宅での在宅医療に近づけるために、①訪問看護が利用しやすいように制度を整備、②介護職による「吸引」などの医療処置が行えるように環境を整備することが必要、そして最も強調されたのは、③介護職に「死」を受け入れる教育が必要であると言われた。
すでに多死社会といわれ久しい。在宅看取りに比べて、施設での看取りはかなり遅れていると言われてきたが、必死でがんばっておられる現状が分かった。
残念ながら、この日の講演会では「死生観」の話は出てきたが、「宗教」というキーワードが出てこなかった。だからこそ、むしろこれからの宗教の可能性を感じた。

私自身、今まで在宅医療について知識を積んできたが、今後は介護施設についても深く考えてみたいと感じた。ただ最後にまったく個人的な見解を言わせてもらうと、私がお付き合いさせていただいている在宅の医師たちは、在宅の側にいて在宅を考えているので、限界なんてないぞと思っておられるが、一方で圧倒的多数の医療者や福祉の方は病院や施設にいらっしゃるのが現状である。施設重点主義は根強い。だから、そういう人が多いのではないか。また在宅が増えない理由もそこにあるのではないか。(浦嶋偉晃)

2010年12月19日日曜日

無縁から生まれた、結縁の場所

 今年の流行語大賞に「無縁社会」がランクインしました。NHKが年初に放送した番組がきっかけだが、年末にはすっかり時世を映す言葉として定着した感があります。また、それを裏打ちするような事件が、今年は相次ぎました。酷暑につづいた真夏には、児童虐待の惨い事件が連続して発生し、死んだ老親をタンスに隠した事件もありました。親名義の年金欲しさにだ。無縁というより、もはや絶縁社会といったほうが的確かもしれません。
 私が「無縁」という言葉に初めてふれたのは、学生時代に網野善彦さんの名著「無縁・苦界・楽座」を読んだ時です。日本の中世には無縁所という寺社を中心とした独特の共同体があって、そこには世俗を逸脱した人びと、職人や芸能者、宗教者が集住していた、といいます。鮮烈な印象が残りましたが、無縁に対する解釈は、むしろ束縛されない自由区というイメージに近いものがありました。
 現代の無縁社会は、イコール悪であり絶望を意味します。それを救済するには行政サービスや社会保障に頼むしかなく、しばしば政治の無策や不正が指弾されます。それは一面その通りなのですが、それだけが救済なら、われわれは結局権力の支配にすがる他はありません。むしろ無縁だからこそ、そこから生まれる新しいつながりやネットワークに知恵を働かせるべきではないか。家族にせよ地域にせよ、従来の共同体からこぼれおちた人びとを「結縁」するために、宗教者にやれることはないのでしょうか。
 今年は、釜ヶ崎で活動する宗教者たちと出会いがありました。寺もない、檀家もない、釜ヶ崎という独特のエリアで葬送の支援をしようという志に生きる僧侶もいました。対象の多くは日雇いの労務者であったり、野宿者です。ここでは、布教教化というような振る舞いが傲慢に見えるほど、宗教者と対象者の関係は限りなく近い。確かに無縁ではあるが、絶望ではない。あるのは、何とかしようという宗教者の意志と、それに協働する、さまざまな市民のはたらきです。利他の共同体ともいうべき「志縁のネットワーク」が、無縁社会の片隅から生まれつつあります。
 と同時に、そこから窺える、これまでとは異なる仏教者像に、私は気づかされます。布教者としての勇ましい使命感や責任感は棚上げして、ただ対象に寄り添う、という共感共苦に生きる態度です。あれこれ建前に惑わない。自分の感覚に正直に行動する。徹底的に自意識を退けた、その無為な立ち方やふるまいに、小さな希望を垣間見るのは私だけでしょうか。無縁とは、ひょっとして布教エゴに凝り固まった僧侶たちを、一度結縁の淵へと押し戻す、如来の導きではないか、とふと感じました。
 そして、間もなく大晦日。大蓮寺と應典院では翌元旦にかけて寺域を開放、生きることに疲れ、居場所を失った人びとが集う、「年越しいのちの村」(共催Live on)を開催する準備に忙しい。これもまた無縁から生まれた、もうひとつの場所なのです。(秋田光彦)

2010年12月15日水曜日

死後をともに「生きる」仲間

(前回12月11日ブログから引き続きお読みください)

続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。
秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。
長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。
石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。
最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。
現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。
また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。

 私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。(浦嶋偉晃)

2010年12月11日土曜日

おせっかいと看取り~いのちと出会う会 100回記念講演「地域でつなぐ、いのちの絆」

 去る11月23日、應典院で「いのちと出会う会 100回記念講演」として、「地域でつなぐ、いのちの絆」というテーマで、講演とシンポジウムがあり、参加した。

 「いのちと出会う会」は代表世話人の石黒大圓さんが中心となり、2000年よりほぼ毎週木曜日に應典院で開催され、毎回話題提供者を迎え、いつか来る「人生の店じまい」を見据え、生きること、老いること、病すること、そして死についてじっくり語り合う「場」であり、このたび晴れて100回目の記念を迎えた。
 冒頭の挨拶で石黒さんは、人は生老病死の苦難を乗り越えられたときに、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰さま」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びつくものであり、その結果、人間性もまた一回りも大きく成長していくと言われた。
 まずオープニングは、口笛演奏家のもくまさあきさんの素晴らしい演奏で幕開け、記念講演として、長尾クリニックの長尾和宏院長の「在宅医療といのちの絆」という講演があった。長尾さんは尼崎で開業され、365日の診療、24時間の在宅医療をされている。
 長尾さん自身、高校のとき父親を亡くされた経験をもっておられ、その時はとにかく力を失い、気力が喪失し、学校にも行けなくなり、一旦自動車工場に就職、しかし立ち仕事で腰を痛め、改めて大学進学の道を歩まれた。その後、大病院で救急医療に関わり、様々な死をみてこられたが、そうしている内に「終末期医療」について疑問を持ち始めた。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、スラム化した病院ではなく、もっと患者に寄り添いたいという思いから開業されたという。
 在宅には、様々な人間模様がある。臨終の際には「死の壁」がある。とくに死の一日前にはもがき、大きな心の揺れがある。在宅で「死の壁」を乗り越える方法として、家族に「一日ほどの一瞬のことなので、ただただ患者さんに静かに寄り添ってほしい」と説明するという。これが現在の病院ではできない。
 言葉の通じない外国人を看取ることもあり、最初は通訳ボランティアを通じて会話をしていたが、「死の壁」がやってきた時、言葉が通じなくても身振り手振りで会話を交わしながら、家族が必死で生と死を支えているのを目の当たりにすることもある、という。生死と家族は、ここでも一緒なのだ。
 独居の看取りが、これからは当たり前のようになるだろう。独居でも、身体状態が悪くても、在宅で過ごすことは可能である。コミュニティは崩壊したと言われているが、近所の人がみているケースもある。これからの無縁社会を乗り越えていくのは「公的ヘルパー」であろう。
 これからの介護のキーワードは「おせっかい」だ。職場で死にたいという人がいれば、そこで看取りたい。もっと在宅ホスピスの可能性を知ってほしい。実際に在宅で看取るには家庭、家族によってさまざまな事情があり、難しいケースがあるが、やはり好きな人たちに囲まれて生を終えるのが理想であり、長尾さん自身、これからも理想の実現に向かって進みたいと言われた。(浦嶋偉晃)
≪この項つづく≫

2010年12月5日日曜日

「同治」によるコミュニティの力

(前回12月2日ブログから引き続きお読みください)

 應典院寺町倶楽部の名物企画で、2000年からほぼ毎月開催してきた「いのちと出会う会」が、11月に通算100回目を迎えました。私も世話人に名を連ねていますが、この功績は代表世話人として、この会とともに励んでこられた石黒良彦さんの尽力によるものです。
 さて、会の報告は別に譲るとして、「スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア」の可能性として市民学習の試みがあります。「いのちと出会う会」も「大蓮寺・エンディングを考える市民の会」も同様の場ですが、双方に通じるのは、大人が死生観について学ぶ場であることです。
 死生観は、これが正解というものがありません。昔は、仏教が大きな物語として作用してきましたが、現代は個人がバラバラになって、一人ひとりが自分の死生観を探しださなくてはならない時代です。世代間で引き継がれてきた伝統も、少子化と家族の多様化で、継承が難しい。インターネットで引っ張ってくるのは、知識や情報であって、「観」という考え方、あるいは生き方というようなものになっていない。そこに、市民学習の可能性があると思うのです。
 「いのちと出会う会」は、在宅ホスピスや成年後見制や葬儀の実際など、講師が情報を提供する学習もあるのですが、とくに特長的なのは、その後の語りあいです。参加者が裃を脱いで、今日の話題を共有しながら、少しお酒も入れながら意見交換をする。そこには問題解決してくれる専門家がいるのではなく、参加者同士が対等の関係で、共感の関係を紡いでいきます。時に死別体験やがん体験を、語り合うことも。誰かの言葉に耳をそば立て、そのことが他者に対する信頼となり、自己への安心となります。この「同治」の体験があって初めて、人は自分の中の死生観というものを養うのだと思います。誰かにケアしてもらう「対治」的なスピリチュアルケアではなく、皆でケアしあう、「同治」のスピリチュアルワークといった方がいいのかもしれません。
 そういう体験は、ネットで共有することは難しいものです。皆が対等に集えるリアルな場と、石黒さんのような市民の立場から場をつなぐような存在が必要となります。そして、この場に参加した人たちが、今度は自分の家庭や職場や地域に帰ってから、石黒さん同様につなぎ手となってくだされば、スピリチュアル・ワークはさらに拡がっていくことでしょう。
 「弱さ」には、周囲の人がそれ見捨ておけない、何とかしないではいられない、という求心力心があります。それは、人間の内部に秘められた「慈悲心」といってもいい。弱者がいたら、すぐに社会保障やサービスに頼る(そして、気に入らなければ文句を言う、という消費者的態度!)のではなく、それを支えあう「同治」によるコミュニティの力を私は信じたいと思います。
 枯渇した日本人の死生観も、そういうつながりの中から、次第ににじみ出してくるものであってほしいと願っています。≪おわり≫(秋田光彦)

2010年12月2日木曜日

スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア

 先月20日、府立の急性期総合医療センターが主催のシンポジウム「生と死を考える~がん医療とスピリチュアリティ」に出演しました。府立の総合病院が「死」をテーマに企画をし、しかも満場の聴衆が集まったことは、時代の変化を肌で感じました。
 私も黒衣に輪袈裟で登壇しましたので、十分目立ったかと思いますが、ドクターやチャプレンと並んで意見を交わしました。自ずと議論の中心は、がんの緩和ケアからスピリチュアルケアへと移っていきました。
 僧侶がこういう場に出てくると、ビハーラとか僧医とかいって、新しいお坊さんの臨床への参加と持ち上げられるのですが、それは言うほど簡単なことではありません。お隣の韓国などは総合病院内に宗教別の部屋があって、そこに宗教者が常駐しているのは当たり前ですが、日本では教団経営の病院以外は、皆無に等しいのが実態です。それほど「「葬式仏教」に対するアレルギーは強いのでしょう。また、それを口実に、仏教者側も一向にこの課題に取り組もうとしない。現実は、一部の良心的な宗教者によって、個別に執り行われているのであって、日本で言う「スピリチュアルケア」は絶えず宗教と切り離して考えられてきました(もともとWHOの健康の定義に、スピリチュアルケアを提案したのはイスラム諸国です。理由は明白ですね)。
 もちろん、仏教者の臨床参加もたいせつな実践なのですが、だからといってスピリチュアルな活動が全部病院の中に、ベッドサイドの現場にある、と捉えていいとは思いません。それは、「ケア」という言葉を用いた瞬間、ケアギバー(ケアしてくれる人)とクライアント(患者)という二者関係を連想してしまうこととも通底しています。そもそもスピリチュアルケアとは、病院内の専門用語なのでしょうか。
 年間120万人が亡くなる多死な社会にあって、「治す」医療は限界と言われています。在宅医療や訪問医療も徐々に浸透し、じつは住み慣れた家で最期を迎える人たちも微増しています(2005年の79.8%をピークに、病院死は以後微減しています)。もちろん、在宅死であっても専門職の支援は欠かせませんが、人生の最後の時間を、一緒に過ごす家族や地域との関係は、スピリチュアルケアとは言わないのでしょうか。
 「同治」と「対治」という仏教の言葉があります。例えば熱が出て、その対処法がふたつあります。水で冷やして治すのが「対治」、うんと汗をかかせて治すのが「同治」です。病院というところは、何かをしてもうところなので、自ずと関係は「対治」にならざるを得ない。外科手術も投薬もすべて高等な技術としての「対治」です。しかし、その手前に、私たちの日常の生活や暮らしの中に、それ以上の「同治」の可能性があるはず。スピリチュアルケアとは、これまで「対治」してきたケアを、「同治」の関係へと取り戻すような意味があるのかもしれません。
 シンポジウムの席で私は、「スピリチュアルケアとは言わないスピリチュアルケア」を提唱しました。本来、スピリチュアリティとは生活や暮らしの中にあるもので、自分たちがさまざまな関係性の中から育んでいいくものだと。大蓮寺の「エンディングを考える市民の会」や、應典院の「いのちで出会う会」などの活動は、まさに他者や地域、社会とふれる、貴重な機会となっているのではないでしょうか。(秋田光彦)
≪この項つづく≫

2010年11月28日日曜日

シンポジウム「生と死を、今考える」を聴講して

去る11月20日に相愛大学×府立急性期・総合医療センター連携シンポジウム「生と死を、今考える」に参加した。
最初に驚いたのは、病院の入口からシンポジウム会場に向かうまでに、案内文が各所に貼られていたが、公立病院内であるのに「死」という文字が躍っていたことだ。今、「生と死」ということについて真剣に考える時代になったのだと感じ、「死」を思うということが確実に我々にとって身近なことになってきているのだと思った。

 冒頭、相愛大学の記念コンサートがあり、リラックスしたところでシンポジウムが始まった。最初の基調講演では「がん治療最前線と緩和ケア、ターミナルケアの諸問題」で府立急性期 田中診療局長の話があった。まさに日進月歩のがん治療の最前線について具体的に話して頂き、ロボット手術など今後の新しい治療法についての可能性についてお聞きし、将来に希望を感じた。また緩和ケアについてはチームとしてのアプローチが重要であり、今までのように終末 = 緩和ケアではなくて、早期の段階から緩和ケアの必要性を訴えられた。最後に医療現場の現在の問題点として、外科医になりたい人が少なくなっており、人手不足で困っている、医師でなくても出来ることの負担を取ってもらえれば、と講演を締めくくられた。
 確かに医療の人材不足は大きな問題である。何でも専門家任せではなく、我々市民と医療側との相互理解が深まれば、またそのために今回のような市民講座を開催されたのであろうが、その必要性を感じた。
 2つ目の基調講演では相愛大学の釈徹宗教授が「スピリチュアルケアの可能性」について講演をされた。スピリチュアルケアとは痛み(ペイン)を取り除く作業ではなく、その人の死生観にかかわるものであり、自分という存在そのものに関する問いへの寄り添いである。また「宗教的ケア」と「スピリチュアルケア」は違うものであり、「スピリチュアルケア」は伝統宗教にコミットしない人たちに必要なものであるが、本来は伝統的な価値を持つ宗教をもっと活用すべきであると思う、と強調された。釈さんは「慈悲の瞑想」という言葉を出され、人間は「死」を活用して生きることが出来る。宗教には「死のイメージトレーニング」という役割を持っている。「もし明日、死ぬとしたら」とリアルに死をイメージする、そうして普段の自分の価値観の枠組みが揺さぶられ再構築していく、つまり日常を点検していく作業が必要である。また「つながり」と「共振」という言葉を出され、「共振」について、同じ生と死の物語を共有する人同士でないと、宗教の救いは語れないし、共振現象が起こりにくい。生と死を超えるリアルな世界は共振現象でなければ成立しないと言われた。
釈さんは最後にこれからの可能性として、3つのトライアングルがあり、一つはエビデンスに基づいた医療(EMB)、その相対的な概念としての患者の主観的なナラティブに基づく医療(NBM)、そして地域(NPOなど)と連携、関連し合うことで生まれる医療、この3つのトライアングルが響きあって、新たな、本当の意味での医療の連携が生まれるのではないかと提起された。
 やはり釈さんが最後に言われた地域コミュニティの連携なくして、再生は有り得ないと思う。それを取り戻すのは決してハードルは低くないが、コミュニティの構築が大切になると思った。スピリチュアルケアはマニュアルのない、一人一人が違ったペインを持っている。難しい領域だ。

 シンポジウムの最後として、「がん医療とこころのケア」と題されたパネルディスカッションがあり、大蓮寺の秋田光彦住職、チャプレンの打本未来さん、府立急性期 吉田緩和ケアチーム長が加わって交わされた。 チャプレンの打本さんは、患者さんと2時間近くのお話しの中で、その人の人生を振り返る作業(ライフレビュー)をし、その人の歩んでこられた人生はどういうものだったのか、その人が人生の過程でぶち当たった問題に対してどうやって解決していったのかを聞き、それを話の中で参考にすると言われた。また関係性が崩れてしまった家族の場合に呼ばれることが多いという。
 秋田住職は、緩和ケアとスピリチュアルケアは元来違うものであり、そして当事者を主体としたスピリチュアルワークを積み上げていくには、「地域」こそふさわしい。一人の人間として裸になって向き合わなければならない。地図で区切られた「地域」ではなくて、場所、立場は違っても、同じ問題意識や境遇で集まってくる「コミュニティ」の再編が大切である(例えばがんコミュニティ)。また、死に対する自覚がないまま、何でも病院にお任せする前に、まず自らの死生観を学ぶことから始めなくてはならない、「今」を考えて生きることが何よりも大切であると言われた。
 秋田住職が言われた、「痛みは、悼みとも通じる。悼んでくれる誰かと出会う、悼み、悼まれる関係を整えることが必要」というのが身に沁みた。コミュニティの再構築が本当に重要だと思った。一年に一回でいいから、まず身近な家族から、こういった死生観を話し合うことから始めてみてはどうだろう。

 最初にも書いたが、府立病院が「死」という課題に取り組み、シンポジウムを開催されたのは画期的な進歩だと思う。我々市民も一緒になって、もっと「生と死」、「死生観」について考える必要性を感じた。(浦嶋偉晃)

2010年11月23日火曜日

死刑と市民と死生観

■市民が選択した極刑
 市民がかかわる裁判員裁判で、初めて死刑が選ばれました。
 11月16日、横浜地裁は、麻雀店経営者ら2名の殺害事件の被告に対し、その計画性、残虐性から死刑判決を言い渡しました。市民が自ら命の裁きを下したことになります。
今回の裁判では、事実関係の争いはありませんでした。被告は裁判当初は同情や共感を拒み、自ら死刑に追い込むような言動が目立ちました。それが審理を経るうちに「心情が変わっていくのが、よくわかった」(裁判員の男性)といいます。「被告に人間性は残っている。わずかでも死刑をためらう気持ちがあれば、死刑にしてはならない」(弁護人弁論)。そして、市民が加わって3日間の評議を経た結果の判決は、被告の人間性を問いながらも、極刑の選択をしました。
これまでは「お上にお任せ」の裁判でしたが、去年、裁判員裁判制度が始まって以来、急速に市民の関心は高まっています。量刑の如何にかかわらず、判決という究極の判断から誰もが逃れられなくなったからです。人権の立場から「死刑反対」というのは簡単だが、自分が裁く側となった時、その主張を貫くことが可能なのか、国民全員に重い課題が突き付けられています。

■他者の死と向き合う
 当初、裁判員制度立案の経緯では、裁判員のストレスなどを考慮して、刑の軽い事件から対象とすべき、という声があったといいます。しかし、それでは本当の司法の参加にならない。人の生死がかかる重大な犯罪にこそ、市民の良識を反映させる必要があるとされました。「裁判員が実際に判断することで、死刑が刑罰として適切なのか、今でも日本に必要なのかを社会全体で考えることにもつながる。制度を維持するなら、私たち1人1人が責任をもって向き合う必要がある」(土井真一京大教授)。
 市民社会は、それまでの「お任せ民主主義」を批判して生まれました。社会における重大な決定を、お上に任せるのではなく、自分たちに主体を取り戻そうという運動の結果でもありました。裁判員制度の誕生にも、その精神は活かされているはずで、「死刑判決だけは別」とはいかないのです。
今回の判決の結果は、尊重しなくてはなりません。今後、死刑を含む司法参加は進んでいくことでしょう。同時に、「司法的殺人」として死刑に反対する声についても熟慮を重ねなくてはなりません。死刑に市民が皆、向き合わなくてはならないのです。
 私は、もう1つ、今回の死刑判決が日本人の死生観にも大きな影響を及ぼす、と感じています。人間は一般に自己を中心に、家族や同僚、知人といった、親しい2人称の死までしか体験することはありませんでした。それが生死のかかる裁判では、自分が他者の死に意識的に関与し、責任を負い、公正な判断をしなくてはなりません。「最期まで自分らしく」というようなフレーズが委縮してしまうほど、「他者の死」は冷徹なほど自己の死生観を相対化していきます。
 判決言い渡し後、裁判員の一人は記者会見でこう発言しています。
 「日本がいまどんな状況にあるかを考えると、一般国民が裁判に参加する意味はあると思う」(趣旨)。
 犯罪、裁き、償い…そして、人間性とは何か。市民社会における死生観とは、個人の生死のみならず、そういう重く深い命題を引き受けていかざるを得ない、と思います。(秋田光彦)

*本稿は、11月16日、17日の各新聞報道を参考にしました。

2010年11月16日火曜日

無縁社会に、お寺にできること。

■家族の変化と不安

 社会の無縁化が進んでいます。人間関係や個人と地域とのつながりが急速に希薄になっており、葬送の分野でも、意識の変化は顕著です。
 読売新聞の本年の世論調査によれば、「誰と一緒に墓に入りたいか」という質問に対し、「配偶者」が最多の67%、「先祖」の27%を大きく上回ったといいます。94年調査の同じ質問が「配偶者64%・先祖33%」だっただけに、血縁意識の変化を読み取ることができます。
 自分の葬式を行う場合は、「身内と親しい人だけ」「家族だけ」を合わせると60%の人が内輪で行う、と回答、そもそも葬式とは「家」の世代交代や後継者を世間に知らせる意味がありましたが、こうした役割も低下してきているといえるのでしょうか。家族の絆やまとまりが、「弱くなってきている」と感じる人も、80%を超えています。
 むろん、無縁化には社会的な原因があります。90年には親や祖父母との同居は61%で、単身世帯や、夫婦のみ世帯は39%でしたが、今や後者は50%を超えている。同時に、一人暮らしになり面倒を見てくれる人がいなくなる不安を、「感じている」人は52%と半数を超え、高齢者ほどその不安の数値が上がっていきます。無縁化は、単純に「人の心が荒んだ」だけでなく、家族や世帯の形態の変化という大きな要因が横たわっています。
 「消えた高齢者」が多発する昨今、もはや家族のことは身内で、とはいかなくなりつつあります。

■月詣りで定期訪問

 ひとり住まいの高齢者にとって、大きな不安は孤独です。
 地域による助けあい、といっても、地縁そのものも弱まっており、昔ながらの近所づきあいだけに任せられるわけではありません。役所でも、見守りのためのさまざまな取り組みを実践しているようです。
 関西のお寺には、月詣りの習慣があります(首都圏には、ありません)。毎月のお命日に僧侶がご自宅を訪問して、ご先祖さまをご回向申し上げ、短い時間ながら、供養を通して、先祖とのつながりを感じることができるでしょう。また、当山では院代が担当していますが、親しい者が定期的に訪問させていただくことが、何らかの不安の解消につながることがあるかもしれません。恐らくは大阪の浄土宗寺院だけで、合算すれば月詣りで何万という世帯に伺っているはずです。知恵を出しあえば、無縁社会に対する抑制的な役割が見いだせるのでは、と思います。
 家族のことは家族で、という大前提が壊れつつある現代、安易に外部のサービスに頼ったり、役所任せは慎むべきですが、もう一度支えあう共同体として地域や人づきあいの役割を見直す時が来ているのかもしれません。
 日本仏教の先祖供養や年中行事が、失われつつある絆を再生していく拠り所となるのか、あるいはそれに代わる新たな共同体の揺籃となるのか、いずれにせよ、その役割は小さくないと思います。(秋田光彦)

2010年11月9日火曜日

「葬式は、要らない」の島田裕巳さんと対談して考えたこと。

■東京の情報に惑わされない

 去る9月20日、「葬式は、要らない」の著者、島田裕巳さんと対談をしました。應典院は満杯の盛況、「葬式は、要らない」と主張する宗教学者に、「葬式をしない寺」の住職が挑む、という格好で、当初は緊張がありましたが、なかなか中身のある話し合いができたと思っています。以下に私が申し上げたことを、3点にまとめておきます。
 まず、島田さんの本の論拠は、首都圏型に偏っていること。関西には月詣りの習慣があり、五重相伝で生前戒名が授与されるなど、寺と檀家の信頼関係が厚い。首都圏はそういった前提がなく、葬式になって初めて僧侶に会うことも少なくありません。そもそも流動人口が多く、寺とのつきあいがない「浮動層」が全世帯の半分近いといいます。
 メディアの責任も大きく、東京のローカル情報をさも全国ニュースのように報道し、それを鵜呑みにしている地方、という構図があります。地方にはその地方固有の伝統や習わしがあるはずなのに、情報の中央集権化に惑わされている現実は残念なことです。
 2点目は、現実の葬式仏教が、儀式主義に終わっていることです。そもそも葬式仏教の成立は、地域共同体の中心として、「寺のある暮らし」が前提となっていました。死んでから始まる関係ではなく、それに至る長い時間を共有して、ゆっくりと形成していく、寺と檀家の共通理解・共通認識がありました。その時間感覚は、現代のような効率や合理性を優先する考え方とは相いれないものかもしれません。

■ 生涯全体にかかわる仏教
 現実の仏教は、「葬式は」「戒名は」とテーマごとに別々に説いているのではない。生涯時間をかけながら、じわじわと身体に馴染ませていくものであって、需給関係に立っているわけではありません。島田さんの本は消費者的立場で述べられており、逆にいえば、それほど現実の仏教から生活感覚が薄れてきていると思います。
 このブログでも紹介してきた、大蓮寺の生前個人墓「自然」がよい例ですが、これまでまったくつきあいのなかった方々が、お墓を縁にして入信され、そして「寺のある暮らし」を始めていかれます。寺を中心として、互いに助けあい、拝みあう関係をつくりあげていく。本来、檀家さんも同じではないでしょうか。
 3点目が、では、葬式仏教はどう再生されていけばいいのか。これには統一した回答があるわけではないのですが、私はやはり生涯全体に仏教がかかわる以外ないと考えています。人生の長い時間の道のりのあちこちに、寺がある。私はいまお寺直営の幼稚園の園長を務めていますが、そこで子どもたちやその親を、應典院で若者たちを、そして大蓮寺で、と世代を選ばないかかわりを重ねている真意がそこにあります。そういう全体像の中で、人々は葬式仏教という「形式知」に、信頼や安心を寄せてくれるのではないでしょうか。
 島田さんからは「しかし、大阪がいつ東京型にならないとも限らない」と警告がありましたが、そうならないためにも、私たちは関西の、大阪の伝統をしっかり保っていくべきだと思います。(秋田光彦)

2010年8月8日日曜日

自死遺族と仏教~自殺問題に取り組む僧侶たち~

 7月25日、大蓮寺にて【夏のエンディングセミナー2010】第3回「自死遺族と仏教~自殺問題に取組む僧侶たち~」で、自殺対策に取り組む僧侶の会 代表・浄土真宗本願寺派安楽寺 住職の藤澤克己さんの講演を聞いた。
 藤澤さんは2007年5月に「自殺対策に取り組む僧侶の会」を立ち上げ、自死に関する悩みを手紙で受け付ける「自死の問い・お坊さんとの往復書簡」や、自死遺族のための追悼法要「いのちの日 いのちの時間」などを開催している。
 冒頭に藤澤さんから自死(自殺)問題とは?という問いかけがあった。「自殺対策」って自死者が減れば良いのか?、自死(自殺)は身勝手な死か?、自死(自殺)することは悪いことか?、宗教者はこの問題に関わるべきか?これらについて、どのように考えるかを心に留めながら講演を聞いてほしいと言われた。
 「自死」と「自殺」という言葉では、出来るだけ「自死」という言葉を使いたい。「殺」の字は「悪いもの」というニュアンスを含んでいて、自死遺族の方の心に突き刺さり、苦しめる。
 自死念慮者と話をすると分かるが、死にたくて自死する人はいない。「死にたい」とは言うけれど、本当は生きていたい、でも生きていくことが出来ないほど辛い、逃げたい、だから死ぬしかないというに思っている。死ぬしか選べないほど苦しいのだと。
 一方で自死遺族の方は、寂しさ以外に自責の念や怒り、疑問などの怯えがある。どうして救えなかったのかなど自分を責めてしまう。また社会の偏見があって、安心して悲しめない、語りたいのに語れないという状況に追い込まれていく。自死遺族はただでさえ悲しみがあるのに周りから、どうして気づかなかったのかと責められるのである。そして悲しみ、苦しさにも様々なパターンがあり、関わる際に万能な言葉などない、それぞれの立場によって違うので、一人ひとりと丁寧に関わっていかしかない、と藤澤さんは言う。以下に印象に残った言葉を記録しておきたい。 自殺対策を進めていくのに政府はスローガンとして、自殺は追い込まれた末の死であり、自殺は防ぐことが出来る、自殺を考える人はサインを発している、と発言しているが、これらの言葉が余計に遺族を苦しませている。
 世間では自死した人に対して「死ぬ気になれば何でも出来たのに」「いのちを粗末にした」などと言う。でも亡くなった人の気持ちを100%分かる人なんていない。
 自死遺族は世間の色々な言葉に傷つき、様々な態度に嫌な思いをしている。遺族に対し「しっかりね」「がんばってね」と不適切な言葉発し、また安易な励ましや、あなたの気持ちは良く分かると言ったりして、余計に傷つけてしまっている。色々と悩んでいるときにどうしてもらいたいか。それには支え合う、お互いさまと声を掛け合う、何か困っていることはありませんか、何か力になれることはありませんか声を掛けてもらいたいと思っているのではないだろうか。
 自死遺族支援というのは、何かしてあげることではなくて、「見守り」と「伴走」であると言える。
 そのままの気持ちに寄り添い、ペースに合わせて一緒に進むのである。その時に留意することは、上から目線は禁物で、引っ張らず、追い立てずである。何故かと言えば、「人にはだれでも回復力」を持っているのである。全ての人に回復力があると信じて、「見守り」「伴走」する関わり方が自死遺族支援として大切なことと思う。
 「自死対策で目指すもの」として、自死者は決して特別な人ではない、ほっとけない気持ちで悼むことが大切である。自死念慮者、遺族に対してはお互いに認め合い、支え合うことが大切である。誰にとっても生き心地の良い社会にしなければならない。
 冒頭の問いにあったように、この問題は、ただ自死者数が減ればいいのではない。生き生きと暮らすようになり、その結果、自死する人の数が減ってほしい。そして遺族が認め合い安心して悲しめるような社会でなければならない。安心して生きることが出来る社会づくりを目指して行きたいと言われた。そして、困っているときこそ、遠慮なく人の世話になって良いのである、そして回復すれば今度は他の人を助ければ良い。お互いさま、支え合うということである。安心して悩むことが出来る社会にしたいと最後に強く言われた。

 藤澤さんのお話しは実践に基づいたとても説得力があるところが多かった。私も昔、深く悩み自死がよぎったことがあった。というより自死しか解決法がないのではないかと考えたことがある。自分さえいなくなれば、全て上手くいくのではないかとも思ったが、今思えば身勝手な考えである。しかしそんな時に冷静には考えられない。幸いにもその時の私には、支えてくれる人がいたのである。
 藤澤さんが言われたように、「お互いさま」と支え合う、安心して悩むことが出来る社会になれば良いなあと改めて強く思った。(浦嶋偉晃)

2010年7月30日金曜日

遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~

  7月18日、大蓮寺にて夏のエンディングセミナーとして「遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~」を聴いた。講師の㈱ジーエスアイ代表 橋爪謙一郎さんは、グリーフサポートに関して、深い知識とアメリカでの実務経験を持つ、日本における第一人者である。新著に『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』(小学館新書)がある。
 最初に「グリーフ」の定義について言われた。
 例えば、男であるから悲しみを我慢しなければいけないなど、自分が持っている先入観で自分の心の中の感情を押さえつけたり、周囲の人が持っている勝手な「暗黙のルール」や、あるいは地域の習慣や社会全体の「常識」「通念」に押さえられて、気持ちを外に出せなかったりする、つまり自分の心の中ではいろいろな感情、行動が浮かびあがってきているが、それを周りの人に受け入れてもらえないのが「グリーフ」の状況だと。
 その時に、周りの人間にできるのが、「グリーフサポート」ではないか。行ったり来たりする当事者の感情を、自分らしく表現できるように寄り添って支えてあげることがグリーフの中で必要な支援だという。
 遺族や死別体験者が必要としていることは一人ひとり違うが、日本人は自分の気持ちや考え、思いを共有することに慣れていない。人と違うことを怖れるので、余計に自分の中で感情や思いを押さえ込む人が多い。
 そこで、橋爪さんは、日本の葬儀を「再評価」を試みた。
 本来、日本の葬式とは、遠慮なく悲しみなどの感情表現できる数少ない場であった。故人を知る人が集まることも大切だ。家族の知らない故人の一面を教えてもらうことによって、遺族にとって気持ちを整理できる場になる。現状の葬儀はどうか。
 また今では法要も省略される傾向にある。いろいろな法要が連続して葬儀のプロセスを形成してきたが、現在の葬儀は「点」になっている。自分の気持ちを整理する場として、どうつきあえばいいかわからい。面倒くさいものとして、省略しようという心境もある。
 葬儀が少しずつ自分の気持ちを整理する場であると気づくと、考え方ももっと変わってくるのではないか。供養の仕組みをもっと考えるべきである。「点」でなくて「プロセス」として葬式や法要を捉えなおすことによって、辛い体験を乗り越えていく。改めて「過程」をどうやって作っていくのかを再考しなければならない。
 グリーフを支えるとは、相手に「寄り添うこと」である。遺族のあるがままをどのようにして受け止められるのか、また寄り添っている相手に自分が「味方」であると気づいてもらうことが重要である。側にいて、いつでも必要な時に手を差し伸べられるようにする。
 「グリーフにおける支援」とは心理的支援だから、ある意味、葬儀社が行う、葬式の打合せ自体がカウンセリングであるとも言える。遺族が大切にしていることをどれだけ聞けるか、どれだけ心の中のことを出してもらい、整理することができるか、それができれば、必ずよい葬式になる。今の葬式は、準備の時間が少なすぎるのでないか。そしてそこが葬式に対する不全感になっているのではないか。また、情報提供も重要だ。どこにいけば葬式関連の情報が手に入るのか、すぐに分かるシステム作りが今後の課題だ。
 橋爪さんが一番強調されたのは、「大切な人を喪った人が、自分が何をしてほしいか声を上げること」。残念ながら声が聞こえてこないと、誰も手を差し伸べられない。またその時に、周りの人も自分たちができることがあることを知ってほしい。一つでも変わるとその人は元気になれる。そういう簡単なところから始めてほしいと言われたのが、印象に残った。

 橋爪さんのお話しはとても共感するところが多かった。でもやはり私は「グリーフ」はとても難しいことと感じてしまう。ある意味、グリーフというのは癒せないものであるのではないかとすら思う。私自身、心理学の勉強をしていたが、今は心理学からのアプローチの限界を感じている。
 私にとっても、これからいろいろな角度でのグリーフが訪れると思う。私は簡単に乗り切れるほど強くない。でもどうやってグリーフと共存して生きていけるかを模索していきたい。その際に大事なポイントになるものを、今回のセミナーで学んだような気がする。(浦嶋偉晃)

2010年7月24日土曜日

遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~

7月10日、應典院にて寺子屋トーク「遺族と<墓友>たち~人生の最期にこだわる仲間たち~」で、エンディングセンター代表 井上治代さんの講演を聞いた。井上さんは、今や死と葬送をめぐる環境は“選択する時代”に入っており、核家族の晩年の姿は「夫婦だけ」、最晩年は「独居」となるからこそ、個と個がどうつながり、助け合うか、家族をも含めた他者との「ゆるやかな共同性」「結縁」Support Networkを模索し、実現していきたいと活動されている。
冒頭、大蓮寺の創設した「第1回自然賞」の授賞式があり、受賞団体として、桜葬などに取組む「エンディングセンター」が選ばれ、贈呈式が行われた。

最初に井上さんは家族が遺族になった時、①死の受容、②悲嘆の回復(グリーフワーク)③高齢者が「一人で生きる」ということ、ということが課題として掲げられるが、その中で一番大切なものは、核家族が進む中、③の高齢者が「一人でどう生きていくか」が大問題であり、またそれと対になって「一人でどう死んでいくか」が課題であると言われた。現在、子どものいない高齢者世帯が増加しており、葬式でも喪主も確保できない人が増えているが、1990年代からは跡継ぎを必要としないお墓もできてきた。しかし、それは決して子どものいない夫婦ばかりでなく、むしろ子ども(娘、息子)がいる家に多く、跡継ぎがいる家族が、跡継ぎを必要としないお墓を求めだした傾向が強い。つまり現在において、血縁による継承は制度疲労を来しているのである。

1990年代からのお墓の変化として、①跡継ぎ性からの脱「継承」、継承者を必要としない集合墓など、②散骨、樹木葬などの自然志向、③個人化が挙げられる。中でも③個人化、つまり個人が選ぶ死後のあり方が進み、家族機能の外部化、社会化という時代になった。他人に託す介護保険制度がその象徴である。そこでその死後の社会化(喪主、死者祭祀の家族外部化)をサポートするのが、エンディングセンターの役割だと思っていると言われた。
葬送の中の「家」システムが後退し、「集団から個人へ」と価値意識が転換していく中、エンディングセンターでは「桜葬」墓地を作った。ここではお墓というハードだけでなく、そこに集った人達や会員でお墓を守ったり、生前から交流したりするという「墓友」グループを作っている。
今は家族の永遠性を求めることはむずかしい。桜などの自然という永遠性に囲まれて、「墓友」みんなで眠るというイメージである。
今では家族用にも「桜葬」墓地を設けている。子どもたちが入るかどうか分からないが、将来一緒に入りたいと思ったときに入れるように、可能性を保持できるところが人気となっている。子どもに墓の管理を負わすことなく、しかし一緒に入りたければ入ることが出来る、このあたりに現代の核家族の特徴があらわれていると言える。

最近は「就活」ならぬ「終活」という「死」を自分でデザインする時代に入ってきた。元気なうちに終末、むしろ死んだ後のことを考える時代に来ている。生き方にこだわる人が死に方にもこだわっている。墓を核としたネットワークはすごい。実際には家族と親族は永遠ではない。「人生の最期」にこだわる仲間たち、つまり血縁だけでない新たなサポートネットワークの時代がやってきたのではないか。家族の行方を、今後も墓を焦点に考えていきたい。

人生の最期、お墓の問題については、私にとっても悩ましい課題だ。桜葬に関しては、私自身まだまだ考え方の部分に踏み切れないところがあるが、関心を示している人が多いことも確かである。現代では「死」はあくまでも個人のものとなり、共同体のものでなくなったのだろうか。その家族の移ろいを認めざるを得ないが、私自身、一抹の空しさは感じる。
今回は私自身が、親、子どもを視野に入れつつ、自分の最期、死んだ後について考えるよい機会になった。(浦嶋偉晃)

2010年7月5日月曜日

「遺族不在」の時代とこれからの葬送     2010年、エンディングセミナーの開催にあたって思うこと

■二人称の死と家族葬
 「死の人称論」を説いたのはジャンケレヴィッチだが、日本では作家・柳田邦男が著作「犠牲(サクリファイス)」で述べて、広く一般的になった。一人称は亡くなる本人の視点、二人称は身近な家族や友人の視点、そして三人称がそれ以外の第三者の視点、といわれ、柳田の本は、「二人称の死」の重要性を訴えた。つまり、遺族としての視点を掘り起こした。
 葬式はいったい誰のものか。その問いにいろいろな答え方がある。宗教的に言えば、死者を来世へ送ることだが、社会的には死の事実を示して、死者が世帯主である場合は、その承継を地域に対し表明することでもあった。だから、一昔前までの葬儀では、遺族は町内や職場のいろいろな決まりごとを生真面目に順守してきた。遺族の視点(二人称)というより、社会の視点(三人称)が優先されてきたのだ。
 最近になって、二人称の死、遺族の視点が強調されてきたのは、葬式の形態の変化とも無関係ではない、と思う。家族葬の普及である。
 ここ20年ほどの間、伝統とされてきた葬送がリストラされて、いろいろな葬法が登場してきたが、中でも家族葬はすっかりスタンダードになった。外から会葬者を招かない、身内だけで親密な別れを告げるコンパクトな葬式は、死の視点から考えれば、従来になく死者と遺族の距離を近づけた。深い人間関係を結んできた親密感を、切り裂かれるような喪失感、悼み、悲嘆が隠しようもなく露わになる。私の印象だが、社会的な儀礼性が後退した分、家族葬はグリーフ(死別の悲嘆)の感情を浮き彫りにしたと言えるのではないか。
 最近、このグリーフという言葉の浸透が著しい。グリーフサポートとかグリーフワークという考え方は遺族を中心としているが、日本の葬式もまた遺族という二人称の視点からその意味を問い直されようとしている。

■遺族の不在、という問題
 年間114万人が亡くなる現在の多死社会は、その意味では多くのグリーフを背負う時代でもある。たいせつな人の死をどう受け入れ、どう送るか---それは日本人が独自の歴史と文化の中で育んできた遺族の精神史とも重なるが、ここにも変化の兆しが見て取れる。
 NHKが1月に「無縁社会」を報道して話題となった。日本には、身元不明の、遺体引き取りを拒否される人が1年間に3万人以上いるという事実。単身世帯の急増は、将来の無縁死や孤独死の増を示唆しているのかもしれないし、別の言い方をすれば「遺族の不在」という深刻な事態が迫ってきている。俗世のつながりが分断すれば、死者と遺族の関係も歪が生じる。そもそも少子化が加速して、死後の継承者が縮小しているので、「遺族なき供養」という問題は、どの寺院でも逼迫した課題であるはずだ。永代供養墓の普及はその証拠だし、究極の選択は、遺族がいても、葬式をしない「直葬」だろう。首都圏では、葬儀全体の3割を占めるという。多死社会において、いったい供養の担い手とは誰なのか。
 グリーフという遺族の内面にかかわる問題が生起する一方で、「遺族の不在」という社会的な現象が立ちはだかる。そもそもグリーフの主体者とは誰なのか。遺族なき時代が到来する中、死別の悲しみはどう支えられ、死者をどう悼んでいくのか。

■グリーフサポートとしての葬送
 墓、葬式など葬送儀礼、あるいは僧侶という存在は、長い歴史を通して、死別の悲しみを支える作法を伝えてきた。かつての大家族、長男世襲の時代ではそれは至極当然の生活文化であったから、とりたててグリーフという問題が取り上げられたこともなかった。しかし、家族が多様化して、遺族が急速に変容する今、葬式仏教も制度疲労を来し、逆にその間隙を縫ってグリーフの観点が浮上してきた。
 確かにこれまで通りの葬式仏教は後退するだろう。しかし、ある意味でグリーフを核とした新たな葬式の再構築が始まる、これは転機なのかもしれない。「一人では弱い存在である人間が死別と向き合ってとき、誰かに支えてもらうことで生きるために必要な力を得る時間や場所として葬儀がある」(橋爪謙一郎)ならば、グリーフサポートとしての葬送の役割を、いま真剣に考えるべき時が来ているのではないか。それは同時に、儀礼の執行役であった僧侶の役割をも問い直すものとなるだろう。
 今回のエンディングセミナーでは、3人のゲストの活動を通して、グリーフサポートとしての葬送について考えてみたい。(秋田光彦)

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大蓮寺・應典院 夏のエンディングセミナー2010
「遺族」をどう支えるか~グリーフサポートとしての葬送~


第1回 7/10(土)14:00~
應典院寺町倶楽部「寺子屋トーク第58回」
遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~
会場:應典院 <閉会16:30>
井上 治代さん(NPO法人エンディングセンター代表・東洋大学教授)
対話:秋田光彦 司会:出口久美さん(NPO法人遺族支え愛ネット)
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689
参加費 :一般1,500円・應典院寺町倶楽部会員・学生1,200円
*なお、同日、大蓮寺のエンディング奨励事業「自然賞」授賞式を併催します。

第2回 7/18(日)14:00~
遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~
会場:大蓮寺 <閉会16:00>
橋爪 謙一郎さん(株式会社ジーエスアイ代表取締役)
対話:秋田光彦
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690
参加費 :一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円

第3回 7/25(日)14:00~
自殺遺族と仏教~自殺問題に取り組む僧侶たち~
会場:大蓮寺 <閉会16:00>
藤澤 克己さん(自殺対策に取り組む僧侶の会代表・浄土真宗本願寺派安楽寺副住職)
対話:秋田光彦
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691

参加費 :一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円
主催:大蓮寺・エンディングを考える市民の会、應典院寺町倶楽部
共催:浄土宗大蓮寺、應典院
助成:公益財団法人JR西日本あんしん社会財団
協力:NPO法人遺族支え愛ネット、Live on、NPO法人エンディングセンター

<各回ともインターネットで直接申込が可能です>
10日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689
18日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690
25日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691

<事前の準備状況は大蓮寺のブログで紹介!>
http://mitoribito.blogspot.com

問合せ 應典院寺町倶楽部(おうてんいんてらまちくらぶ)
543-0076 大阪市天王寺区下寺町1-1-27 TEL 06-6771-7641 FAX 06-6770-3147
電子メール info@outenin.com ホームページ http://www.outenin.com

2010年6月14日月曜日

いただきます、という花束。

 宮崎県の口蹄疫の災禍が、一向に収まる気配がない。もちろん、拡大は食いとめなくてはならないが、そのために数万頭以上の家畜が殺処分されると知ると、慄然とする。すでに遺骸を埋める場所さえないと聞く。それ以上に、畜産農家の悲痛は察して余りある。手塩をかけて、子ども同然に育て上げた牛豚を、「感染防止」のため次々と殺処分される。あまりに痛ましい。農家の中には、遺骸に花を供えてくれ、と涙ながら係員に託する人もいるという。
 忘れてはならないことがある。もとよりこの牛や豚は、われわれ人間の「食用」として肥育されてきた、という事実。そして、私たち人間は多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいかない。
 消費優先の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかない。牛も豚もみないのちはあるが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。殺された牛豚の場面をテレビで眺めながら、何段重ねの巨大なバーガーを食らう我々がいる。
 私の幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、「食前のことば」を唱える。
 「われいまこの清き食をいただきます。
  与えられた天地の恵みを感謝します。
  いただきます」
 食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉だが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、栄養だ調理だという前に、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないか。
 仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊んできた。にもかかわらず、人間は他者のいのちの上に成り立つしかない。わが身を悲しむと同時に、それを転じてすべてのいのちへの感謝と慈しみが大切であると教えてきた。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっている。そのことを忘れてはならない。
 「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのである。(蓮池潤三)

2010年5月30日日曜日

『宗教的ケアとスピリチュアルケア』~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」を聴講して

 去る5月24日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第2回ビハーラ実践研究会」に参加した。
この研究会は、3月より隔月で開催されており、今回が2回目である。
第1回目については、下記のブログを参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
 今回はビハーラ21の理事であり、曹洞宗崇禅寺副住職 西岡秀爾さんが「ビハーラ活動再考-宗教的ケアとスピリチュアルケア-」で話題を提供された。
 僧侶、ヘルパーさんや一般の方など前回以上の30名近く方が集まられ、西岡さんの講演の後も予定時間を越える白熱したディスカッションになった。
 西岡さんからのお話で、ビハーラ活動は、「仏教を基盤とした」「仏教を機縁とした」゛いのち゛の尊さに気づき、支え合う精神に基づく活動と言えるが、それではビハーラ活動は宗教的ケアなのか?スピリチュアルケアなのか?という問いがあった。
 宗教的ケアとはケアを提供する側とされる側で互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提であり、ケアを提供する側が主導権を持つという。つまり僧侶、牧師などがいなければケアは不成立であり、援助者も僧侶、牧師などに限られることになる。本来スピリチュアルケアはケアを提供する側(援助者)がケアを受ける側(相談者)の世界観に合わせ、主導権は相談者にあって、援助者は相談者の行きたいほうに寄り添うのであるが、それ故援助者はカウンセラー、医師、ボランティアなど多岐にわたる。
 またケア援助者が提供するものとして、宗教的ケアは「答え」「気づき」を与えるが、スピリチュアルケアは答えを提供するのではなく「気づきの場」を与えるものだ。
 さらに宗教的ケアでは、相談者は援助者である宗教者を基軸とする「世界」に入り込むことになるが、スピリチュアルケアでは、その相談者の「世界」に入り込むので、信仰の種類や有無を問わないで、どのような相手にも対応できるともいえる。つまり、宗教者を基軸とする「世界」と相談者の「世界」と入り込み世界が違うのである。
 そこでビハーラ21の活動は、「ビハーラを掲げる集まり(仏教を機縁とした集まり)としては、活動の場に応じ、宗教的ケア(超宗派の活動)とスピリチュアルケアを上手く使い分けることが必要不可欠」と考える。  
 末期を迎えている方から「死んだら天国に行けますか?」と聞かれたらどう対応するのか。釈尊の立場では「有るとも無いとも言えない」ということになるが、宗教的ケアでは援助者の信仰・信念において答えを提供する。つまり「極楽浄土がありますよ」ということになる一方、スピリチュアルケアでは、援助者は答えを提供しない。あくまでも相談者が折り合いをつける、という。
 定義はそうかもしれない。しかし、もし私が末期の方に死後の世界をあるのかと尋ねられたら、何の根拠はなくとも「ある」「そこで愛する人たちと会えるよ」と答えると思う。乱暴な言い方だが、こんなとき「嘘も方便」ではないか。
これからは宗教者の役割は、問題に対し答えを出すことよりも、「問い」を「問題」まで構成し直すことができるかどうかが求められることになるであろう。
 最後に西岡さんが、ビハーラを掲げる集まりは、あくまでも仏教が機縁となっているだけで、仏教を前面に押し出すものではない。援助者側の拠り所として仏教が支えとなっているのは事実だが、それを相談者に押し付けてはならない。さらに仏教を手段として利用するのは間違っている。ケアのために、看護のために、福祉のために、癒しのために仏教を使うのではなく、有縁の援助者側のバックボーン(生き方・支え)として仏教があるのではないか、と言って締めくくられた。
 今回の話題はなかなか解答の出るものではないので、引き続き話し合えて行ければ思う。「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、このビハーラ実践研究会で議論を一つ一つじっくりと交わし、ぜひ一緒に歩んでみたいと改めて思った。
 この研究会は大河内さん、西岡さんの持っておられる居住まいが、すごく良い「場」を作っておられる。今後もとても楽しみな研究会である。
 次回のビハーラ実践研究会は7月26日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。通常、1時間半であるが、今回のように白熱したディスカッションから、今後は2時間の枠に広げるかもしれないと大河内さんが仰った。私も大賛成である。(浦嶋偉晃)

2010年5月15日土曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(5)坊さんも、大志を抱く

 「ボーズ・ビー・アンビシャス」。どこかで聞いたことがありそうな言葉だが、誤植ではない。そう、これは「青年よ、大志を抱け」をもじり、「お坊さんよ、大志を抱け」とされたスローガンなのだ。使い始めたのは、東京・港区にある青松寺。伝統ある曹洞宗のお寺で、宗門以外の講師を招いて始めた「仏教ルネッサンス塾」の上田紀行塾長(東京工業大学大学院准教授)のもと、僧侶たちが自らの問題を語り合う場がボーズ・ビー・アンビシャスである。
 去る3月9日、大阪市下寺町の應典院にて、ボーズ・ビー・アンビシャス、通称BBAの関西での第1回が開催された。きっかけは、既に7年13回にわたり開催されてきた東京での会に、関西方面から何度も参加してきた僧侶がいたことだった。そして、昨年7月20日に準備会が発足し、16人の仲間たちとともに、実現に向けて取り組んできた。結果として、63人の僧侶らによる激論の場が生まれた。BBAを知る人も、知らない人も、カミングアウトや自己宣言をする機会を得たように思う。
 ただ、開催にあたって事務局を務めさせていただいた側としての率直な感想は、「集まり、語ることに満足をしていないか」ということである。言葉を選ばずに言えば、「いけてるお坊さん」を装ったところで、それぞれの寺院が抱えている問題は、いっこうに解決を導き出すことはできないのだ。もちろん、こうして集い、考える場が無意味だとは言っていない。要するに、集い、考えたものを、どのように自らの生き方、すなわち現場に重ねていくのかが、決定的に重要なのである。
 宗教学者の島田裕巳さんの『葬式は、要らない』では、日本仏教を「墓参り教」と指摘する。今、行動する仏教者が受け止めるべきは、こうして家族が遺族になった後から、関係を維持・発展させてきたことではないかと思う。仏教者は、仏教ファンを増やすことや寺院経営のサポーターを増やすことだけに注力すべきではない。そう、檀信徒の方々と共に、今の時代を生き抜いていかねばならないのだ。
 ちなみに、BBA関西の議論は、はやりのツイッターで「中継」させていただいた。すると、会場で紡がれた言葉を、宗教者以外によってつぶやき直されることがあった。ここに、仏教の言葉は、今の時代にも響く可能性を持っているはずと会心した。だからこそ、仏教を説きながら、その言葉を届ける「あなた」に寄り添い、共に生きていく大志を抱きたい。(山口洋典)

2010年5月7日金曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(4)あなたの分まで生きる

  この1月、應典院では「震災15年の手紙」を募った。先祖供養だけではなく、時代を生きる人々と呼吸するお寺を目指すゆえの挑戦であった。そもそも供養とは、誰かの死を想い起こすことである。そこで、ことばを専門に扱う2名の表現者と共に、あの日に思いを馳せることにした。
 簡単に言えば、誰に宛ててもよいので、震災15年の今だからこそ、封書に思いをしたためて、お寺に送って下さい、という取り組みである。それを宛名がわからないようにお寺のロビーに展示した。しかもロビーはその間だけ人工芝が敷かれるなど、造園が専門のデザイナー、花村周寛さんの手によって公園のような空間に設えられていた。そこで、作家の岩淵拓郎さんの着想で、額に入れるなどした展示ではなく、公園に置き忘れたかのように演出された。また、期間中にはこうした工夫も、詩人の上田假奈代さんによる詩作と朗読のワークショップも開催した。
 新聞各紙の報道や、浄土真宗本願寺派神戸教区など、地域や宗派を超えた関心を頂いて、40通程の手紙が寄せられた。近親者の死、また当時の記憶などが綴られた手紙は、展示の最終日に、幅広く募られた参加者によって供養された。その手順は、印象に残った手紙をトレーシングペーパーで書きなぞり、写し取った部分を朗読、さらにその朗読を聞いた他の参加者が耳についた言葉を辞書で引き、朗読を重ねた。その後、大蓮寺・應典院住職の読経の中で、原典と共に火にくべる「浄焚式」が執り行われた。途中、「燃やすのはもったいない」との声が出たが、「人間の亡骸も荼毘に付した後、遺骨を大切にするのですから」など、手紙を身体に見立てて、浄焚する意味を説かせて頂いた。永遠に有形のものなど何もない、という諸行無常そのままである。
 生涯発達心理学者のやまだようこ先生によれば、「死者を葬る、忘れる」のではなく、死者と共に生きる決心をしたとき、「不在の他者と同行する物語」を紡ぎ、そこに生きる力を得ているという。まさに今回の取り組みは、名前も知らぬ他者の死を、手紙の文面から悼み、その内容を受け止めた人々が、「あなたの分まで」それぞれのいのちを生き抜くことを誓うというものであった。これも、お寺が継承してきた儀礼の文化を、表現者たちの創意工夫が異化させてくれたゆえんだろう。取り組みの全体像は「コモンズフェスタ」特別ブログで公開しているので、ご参照願いたい。(山口洋典)

2010年4月28日水曜日

世界一周自転車の旅から学んだ「感謝」のこころ

 先日、應典院で開催された「いのちと出会う会」で「世界一周自転車の旅から学んだ感謝の心」という題で、ミキハウス勤務の坂本達さんの話を聞いた。
 坂本さんは4年3ヶ月もの長い間に43ヶ国を訪れ、のべ5万5000キロを走破した。
何よりも驚くのは、有給休暇を取って、しかもボーナス、定期昇給つきだということ。
普通なら無給の休職のはずだが、ミキハウスの社長が坂本さんの熱意にほだされた結果である。
坂本さんがこの旅を通じて感じたのは、「人の支えがなければ何もできない」「小さいことに大きな感謝をする」ということである。
 自転車で一日平均120キロ近くの走行をすれば、当然トラブルが付き物である。そして最大の危機にギニアで遭遇した。マラリアに赤痢を併発したのである。しかし不幸中の幸いは村で唯一の医師の家に泊めてもらったことであった。医師は坂本さんのために村にたった一つ残っていたワクチンを使ってくれた。また村長も、村人が週に一度だけ食べる、ごちそうの鶏肉を坂本さんのために譲ってくれた。 
 またある村でイモムシを出された時は、かなり躊躇し手をつけないままでいると、村人たちの顔を表情がだんだんと曇って悲しい顔つきになってきた。しかし意を決して、目をつぶり飲み込んだ瞬間、村人たちは坂本さんを本当の仲間と思い、喜んでくれた。今まで村に来た欧米人は食べなかったそうである。
 現地の人の協力なしに旅は出来ない。
 帰国から数年後、恩返しで再度ギニアに薬を持って訪れたが、旅の時に助けてもらった医師が、「病気を防ぐのに一番必要なのは、きれいな水なんだ」、その一言で「井戸掘りプロジェクト」を思い立った。しかし村人たちは作ってもらえるのだと、つまりプレゼントしてもらえるものだと思い、傍観者になっていた。まだ垣根があったのだ。そこで坂本さんは見よう見真似でコーランを覚え、イスラム教徒の村人たちとの一体化した。坂本さんは「相手の大事にしているものを自分も尊重する。それが基本」と言う。
 恩返しはさらにギニアにきちんとした診療所を作るという所まで進んでいった。
 坂本さんに井戸を掘る技術があったわけではない。一番大切なのは、現地の人々がやる気になってもらう仕組み。何度も通い、コミュニケーションを深めて行くことが必要だと。
 坂本さんが世界を回っている時に心がけたのは、挨拶をすることを大切に、そして感謝の気持ちを持つことである。
 坂本さんの夢は再度、世界一周の旅をしたいと言われた。
 すごい夢だと思う。
 4年3ヶ月の有給休暇というのは普通の会社では有り得ないことである。だからどうしても私たちは夢をあきらめてしまう。しかし坂本さんは熱意と情熱で社長を、会社を動かしたのだ。そしてその感謝に気持ちを忘れずに、帰国後も日本全国の小学校を周って、経験を語り、「感謝」のこころとは何かを伝え続けている。
 私は今回、初めて坂本さんのことを知ったが、自分が忘れていたもの、というより意識的にあきらめてしまっていたものを思い出した。
 人間、やる気になれば何でも出来る。真の勇気を持つことを思い出せてもらった。(浦嶋偉晃)

2010年4月22日木曜日

市民は祈る。市民救助者の惨事ストレス。

  興味深い記事を見つけた。惨事ストレス。災害救援者が凄惨な現場に出動した際にかかるストレスだ。恐怖や職業上の強い責任感から心身に不調が生じるとされ、心拍数が上がったり、情景がフラッシュバックしたりする。PTSDにつながる恐れもあるという。
記事は、2005年のJR福知山線の脱線事故の際、救援を手伝った「市民救助者」に焦点を当てていた。消防隊員などプロの救助者には対策が取られているが、市民の現状はほとんど顧みられていない。北里大学の調査によると、事故から4年を経た段階で、市民の3割近くが「不眠」「疲労感」「罪悪感」などストレス症状が続いているという。
市民救助者はたまたま事故現場に居合わせたに過ぎない。状況によると思うが、「火事場の見物」でもよかったはずだが、止むにやまれず「救助者」となったのだろう。本来なら賞賛されるはずの勇気ある行為が、当人の心のトラウマとなっていくとは、何と悲痛なことだろう。
<救助にかかわったHさんは、電車内から『お母さん、助けて』」という若い女性の声がしたため、バールを探して戻ったが、もう声は聞こえなかった。負傷者に肩を貸すなど救助を手伝い、作業着は血だらけに。その日から1週間、地獄のような情景が夢に現われた。今も朝夕、現場に向かって手を合わす。「もっと多くの人を救えたのでは、と自責の念にかられた」という>(読売2010年4月8日)
Hさんの「自責の念」の要因は、自ら招いたものではない。たまたまた現場にいた、そして見かねて救援を手伝った。それが、その後何年も拭いきれない「縛り」となってしまう。それぞれに領分があって、自分にできることには限界があるのだ。プロでも苛まれる惨状であったのなら、果たして自発的であったにせよ市民救助者を迎えるべきだったか、とも考えてしまう。
Hさんは、「(その後は)冥福を祈ることが心の救いになった」という。個人では背負いきれないストレス感情を、神仏の領域に預けるということかもしれない。自分の限界点まで辿りついて、人間はようやく諦観の念を起こす。あとは仏の救済力に任せて、自分は手を引くのだ。
 近代は、ずっと個人の可能性を推し進めてきた。「自分には限りない可能性がある」と刷りこんで、自己実現から自己責任まで、実体のない「自己像」を売りさばいた。けれど、やがて個人ではどうにもならない現実に行きあたる。自分の能力の限界を思い知る。それは近代から見れば「敗北」かもしれないが、私には、もうひとつの可能性としての「霊性の気づき」のようにも見える。自らの弱さ、無力さから立ち上がる、宗教的感覚の発見といってもいい。
 国内外で自然災害や大事故が続く。死傷者何万人という数字が強調され、あちこちで募金活動が活発になる。それ自体はだいじなことだが、だから「してあげた」と傲慢になってはいけない。忘れてならないのは、自然の脅威を前に、私たちの無力さを自覚しながら、誰かのために真摯に「祈る」ということではないか。惨事ストレスのニュースを見て、そんなことを感じた。(秋田光彦)

2010年4月16日金曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(3)慈しみ、悲しむということ。

 「あの日」から15年が経つ。そう、阪神・淡路大震災から15回目の1月17日がやってくる。当時、京都で学生生活を送っていた私は、当初、事の大きさが理解できなかった。しかし、もはや朝とは呼べない時間に、実家のある静岡県からの電話口で「やっとつながった」と安堵ことばを聞いた頃、甚大な被害が出たことを実感し、言いようのない感覚に浸っていったことを今でもよく想い起こす。
 人は必ず死ぬが、突然の災害で大量の方が亡くなった空間に身を置くことは本当にいたたまれなかった。幼少の頃から「備えよ常に」と、東海地震への警鐘が鳴らされる中で育ってきたものの、「いざ、そのとき」に身体が覚えていないことは、とっさに動けないことも知った。大学の試験が落ち着いて以降、同級生らの呼びかけで、現地視察とボランティアの機会を得た。震災から1週間ほど経ち、まちは救急・救命の段階から、復旧に向けた動きが始まっていた。
 実は、今の私の生き方には、震災ボランティアとして動いたときの経験が影響している。神戸大学国際文化学部の避難所で救援物資の整理をし、瓦礫の片付けなどを山手幹線から2号線のあたりで行い、芦屋市内の幼稚園・保育園を訪問して遊び場をつくった。こうして積極的に動いたのだが、若さゆえに「何でもできる」という万能感に陥り、さらに作業や雰囲気への慣れが重なることによって、気づかぬうちに、合理的で効率ばかりを優先させてしまっていたことに後々気づいた。パソコンが得意だからと暗い中手作業でつくられていた避難所の名簿を勝手に作り替えたり、避難所に届く救援物資のパンがもったいからと徐々に店が開き始めた街角にて無料で配るなど、支援する側の視点ばかりを優先させていたのだ。
 大阪大学の渥美公秀先生は、ご自身も被災された「あの日」について、ある詩人のことばを引用し、「悲しみが果てることの悲しみ」を訴えている。ここに、大乗仏教の「慈悲」の教えを重ねれば、悲しむことに加えて、慈しむことも大切となる。震災から10年のとき、「お寺で働かないか」と声をかけて頂いたとき、私は、押しつけに近いボランティア活動で心地よさに浸ってしまった自らの愚かさと、未だに果てることのない悲しみに向き合うと共に、多くの気づきや学びをいただいた神戸のまちに慈しみの念を抱きたいと、仏道を歩むことに決めた。今年、「ことばくよう」という手紙の企画を展開し、15年目を迎えている。(山口洋典)

2010年4月9日金曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて (2)情熱は他人のためだけならず

 私が現在身を置く應典院には「呼吸するお寺」というキャッチコピーがつけられている。再建10年を記念して2007年に刊行された記念誌にも同じ名が掲げられた。人間の身体をお寺の伽藍に見立て、社会の動きを空気として捉えた比喩である。その心臓部にあたるのが、住職以下、私を含め6名のスタッフであり、血液にあたるのが本堂ホールで公演をする劇団、研修室でワークショップ等を行うNPOの皆さん、またロビーで展示を行うアーティスト等であり、またそれらの場を楽しみに集まる多くの方々という具合だ。
 昨年10月から3回連続で開催した「大乗仏典講座」の講師を務めていただいた釈徹宗先生は、「お寺には社会とは違う時間が流れるかたらこそ、そこに物語が生まれます」と語る。そして、違う時間が流れるからこそ、社会の歯車とうまく合わない人たちが救われるのだ、と説く。その前提にあるのは、お寺が人を無条件に受け入れる機能持っているからだという。それは、あくまでお寺の宗教性であって、お寺の社会性ではない、と断言する。
 特に大乗仏教では、自利利他が理想とされている。自分のための努力と他人のための行動の双方が伴っていることが大切だとされているのだ。時に「情けは人の為ならず」という表現は誤解されているようだが、このことわざのとおりに、自らの情熱は自分だけに返ってくるものでも、他人にばかりに流れていくわけでもない。なぜなら、「わたし」と「あなた」とは、かけがえのないつながりを持っているため、と経典は教えてくれる。
 仏典講座の主催者の立場だが、改めて関係性を大切にする大乗仏教の宗教性に触れると、昨今注目を集めているスピリチュアリティの概念とは大幅に異なる点に気づかされる。特に、関係性の重視とは自らが他者との間で我を見つめていくことを意味するのに対し、いわゆるスピリチュアリティのブームにおいては自らの世界に浸ることが重視されていないか、考えるようになった。宗教学者の島薗進先生による「スピリチュアリティの興隆」(岩波書店)では、健康や娯楽といった利己的な活動と、「わたし」と「あなた」の探求活動とのあいだには、大きな開きがあることが指摘されている。モノや情報があふれる現代社会を生きる上では、一面的な心地よさに浸るのでも一方的な感情移入を行うでもなく、他者との呼吸や間合いを積極的に調整する「利他心」を大切にしたい。(山口洋典)

2010年4月4日日曜日

日本人の死生観に合った看取りを。~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」

 去る3月29日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第1回ビハーラ実践研究会」に参加した。
 この研究会は、今回より隔月で開催され、毎回、話題提供者より「ビハーラ」についての発表・報告があり、その後、参加者とのディスカッションをし、「ビハーラ」に対する理解、実践の普及につなげることを目的としている。
 第1回目の話題提供者は大河内大博さん。大河内さんについてはこのブログの下記を参照頂きたい。
 http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html
 今回は初回ということで、大河内さんより、「ビハーラの展開と可能性」というテーマでビハーラの歴史、理念などのお話があった。
 20名ほどの熱心な方が参加していた。僧侶の方が多く、またすでにビハーラの研修を受けた方や、看護師、ヘルパーなど様々な顔ぶれだった。
 「ビハーラ」誕生の背景について話があった。欧米型ホスピスは1980年代に入り、日本でも相次いで設立されたが、当時から欧米直入の看取りの在り方ではなく、日本的な看取りが模索されていた。とくに日本古来の仏教を活かせないか、という視点はあったという。
また僧侶自身からは、葬祭仏教を反省し、「いのち」をめぐる「生死」の問題を最重要課題のひとつとしている仏教本来の目的に立ち還るべきであるという声が上がっていった。つまり「生きた命」にかかわっていくことこそ重要でないかという気運があった。
 「ビハーラ」の理念と基本姿勢として、①限りある生命の、その限りを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である ②利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある ③願われた生命の尊さに気づかされた人が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である(但し、利用者本人やそのご家族がいかなる信仰をもたれていても自由である)。そしてビハーラの活動は仏教の特定の一宗一派の教義に偏ったものではなく、超宗派の活動であり、布教・伝道ではないというのが基本姿勢である。
 現状では「ビハーラ」は1986年の「仏教ホスピスの会」がスタートしてから25年かかって、やっと3つが設立されただけである。(うち一つは厚生労働省の認可がおりていない)
やはり仏教者からも「ビハーラ」に対する偏見が大きかったのも確かなようである。
 私は「ホスピス」という欧米モデルの死生観を日本向けに衣替えするだけでは充分ではなく、より日本人の死生観に合った「ビハーラ」の形が望ましいと思っている。やはり欧米人と日本人とは死生観が違う。今のホスピスは輸入型が大半のように思われる。
 大河内さんは参加者に終末期に宗教者は必要ですか?と尋ねた。皆さん必要だと言われた。私もそう思う。但し「死んだらどうなるの?」というような終末期にある人にも、自分自身がぶれないで答えられることがとても重要だと思う。
 この実践研究会は今後、隔月で開催され、次回は5月24日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。
 「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、今後、回数を重ねる毎に、もっと深いディスカッションになっていくだろうという前向きな雰囲気を感じさせた。今後が楽しみな研究会であった。(浦嶋偉晃)

2010年3月31日水曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて (1)修羅の時代を生きる

今、仏教がブームだという。記憶に新しいのは、東京と九州で開催された興福寺の阿修羅像の展示に、合わせて165万人を超える人々が足を運んだことである。そのほか、座禅や写経に参加するために、お寺を訪れる人々も増えているという。
 ただし、仏像好きの若い女性を「仏女(ぶつじょ)」と呼ぶなど、軽妙な言葉で報道やビジネスが進んでいることに対し、「信心を一過性の流行として取り扱うなんて」といった批判も聞こえてきそうだ。とはいえ、経済的な合理性が追求されるなかで、特に若者の生きづらさを仏教が支えているとすれば、仏教には現代でも不変の価値、現代にも普遍の意味があることが明らかにされたと言えるだろう。
 突然、社会と仏教の関係を語り出した私は、大阪・天王寺にある應典院で僧侶をしている。この應典院というお寺は、浄土宗大蓮寺の塔頭寺院として350年の歴史を持つが、大阪大空襲の被害を受けた後、1997年に現在の形へと再建された。見かけは鉄とガラスとコンクリートでできた現代建築であるものの、寺子屋、駆け込み寺、また勧進興行など、かつて寺院が地域における教育、福祉、芸術文化の拠点であったことに着目し、多彩な場を生み出すことに注力している。要するに温故知新で、お寺の原点回帰を目指している。
 文化人類学者の上田紀行先生の言葉を用いるなら、私は應典院による「仏教ルネッサンス」の中にいる。そんな私は、実はお寺の出ではなく、しかも出身は静岡県磐田市である。こんな私を應典院の主幹へと起用したのは、大蓮寺に生まれ、映画プロデューサーの経験を携えて應典院を再建した秋田光彦住職だ。そもそも主幹とは、お寺には聞きなじみのない役職なのだが、初代主幹を兼務した秋田住職は、「場の編集者」であり「拠点のプロデューサー」と定義する。
 2006年に2代目主幹に着任してから得度した、新米僧侶の私が教育面の当コラムを担うにあたって、奈良日日新聞の担当編集者さんとテーマの相談をしたところ、「いのちのエナジー」という看板が掲げられることになった。ここには、生きづらい時代をいかに生き抜くかの知恵を、仏教を手掛かりに見いだしたいという願いが込められている。同時に、副題にあるように、読者の方々にとっても書き手の私にとっても、この場が学びの場になれば、とも思っている。
 それこそ、阿修羅像の名にも埋め込まれている「修羅場」が満ちた時代への向き合い方とつきあい方を紐(ひも)解く手掛かりとなれば幸甚である。(山口洋典)

2010年3月19日金曜日

BOOKガイド 「妻を看取る日~国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録」

 国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さんといえば、一般市民でも知る人が多いと思う。同書はその超専門家が夫人のがん闘病に文字通り悪戦苦闘する体験記であり、一年半にわたる闘病生活、自宅での看取り、夫人亡き後に押し寄せてきた激しい鬱状態から立ち直るまでの道のりを赤裸々に綴った本である。
 垣添さんが定年を迎え、夫婦でのんびり過ごしていこうと思っていた矢先に、夫人にわずか六ミリの影が襲い、勤務していた病院に夫人が入院する。せめて年末年始だけは自宅で、と外泊を計画するが、ふたりきりの家族なので垣添さんが点滴や在宅酸素療法や排せつの介助を一手に引き受け、自宅へ帰る。自宅へ帰った途端に夫人が生き生きとする。だがよかったのは帰った日だけで、病状がどんどん進んで大晦日に自宅で永眠され、そしてその後の垣添さんがようやく立ち直りの兆しを見せるまでの3ヶ月間が詳細に書かれている。まさに独力のグリーフワークそのものである。
 私はこの本を読んで、とても深い「愛」を感じた。なぜならば、本書での大切な点は夫妻のなりそめから発病して闘病、そして亡くなられた後に垣添さんが感じたご夫婦の交流にこそある。グリーフケアの参考書というより、夫人への熱い思いを込めた鎮魂の書である。
 しかし何故、誰にも頼らず一人で看取ることができたのだろう。自宅に知らない人がいるのは落ち着かないと考えたからというが、専門家が在宅ケアに加わることに危惧を覚えた。ここは非常に重要なポイントだと思う。
 また一方でいろいろな疑問も感じた。
 自宅に知らない人がいるのはなんとなく落ち着かない、夫婦二人で静かに過ごしたいという夫人の願いを聞いたのだが、派遣看護師などの専門家に具体的にどういう不安を感じたのだろう。またどういう危惧を持っていたのか? 
そのこと自体を否定しているのか、専門家の見識として問いたい。
 巻末で、垣添さん自身、在宅看護というのは非常にハードルが高く、自分の場合は医療者だったので幸運であった、一般の人だと難しいと書いているが、しかし実際に支援体制を構築されて在宅看護をされている一般人も多くいる。在宅ホスピスケアが徐々に浸透していっているのも確かであり、そこに専心する訪問医や看護師の存在もある。それをどう考えるのだろう。
 また夫人の死後のうつ状態ですが、睡眠薬は飲んでいると書いてあったが、どうしてカウンセリングなどの専門家と接しなかったのか、などいろいろと尋ねたい点はある。
 しかし、国立がんセンター名誉総長という超専門家の医師がこれほど赤裸々に語った本には出会ったことがない。ぜひ今後も在宅の社会的な支援体制の構築をお願いしたい。
 大切な人を亡くして苦しんでいる人に、読んでほしいと思う。(浦嶋偉晃)

2010年2月3日水曜日

日本人は葬式でなぜ泣かないのか

○人前で泣かないのは美徳?
 昨年11月14日に韓国の釜山の室内射撃場で陰惨な火災事故が起きて、大勢の日本人観光客が犠牲となりました。韓国ではこのニュースは大々的に論じられましたが、事故翌日に韓国に来た日本人遺族の、つつましやかな哀悼の姿に多く注目が集まりました。
 「日本人遺族は感情を抑え、悲しみを心中に押しとどめた」(東亜日報)
 「(遺族は)言葉を慎んだし、号泣することもなかった」(文化日報)
 肉親の葬儀となれば、まさに天を仰ぎ、地に伏す「慟哭」の韓国人ですから、日本人が泣き叫ぶこともせず、静かな気配を残したことに感心するのもわかるような気がしますが、その理由について朝鮮日報のコラム子は、
「日本人には自分の悲しみで他人に気遣いさせることを迷惑と考え、悲しみを外に出さないことを美徳とする態度が背景にあるから」
 と書いています。さらに、コラム子は日韓の葬祭文化の違いにも言及して、
「日本人の美徳とは日本の葬儀を見てもわかるように、他人の見ている前で感情をあらわにすることをはばかる」
 と述べています。
 むろん国や民族によって、感情の表出もさまざまです。韓国のデモのパワーなど見ればその違いは一目瞭然ですが、韓国人の行動力の根底には、政治意識というより自分たちの感情に正直に行動する気質がうかがえます。逆に日本人には、デモなどしても仕方ない、状況は変えられないという「長いものに巻かれろ」式の諦観があります。これも、大勢の影響を受け入れやすい、日本人の気質といえるでしょう。

○葬儀はもはや私事
 その彼我の違いは十分理解しつつ、果たして葬儀で泣かないことが日本人の美徳なのか、私は逆に日本人の「悲嘆の感情」の急速な退行を思わないではいられませんでした。
 最近の一般的な葬儀においても、遺族はほとんど泣くことをしません。今は家族葬など身内だけの葬儀が主流ですから、何事も合理的に効率よく運ばれていきます。けっして火災事故の日本人遺族を同列に論じるつもりはないのですが、「泣かない日本人」というのはかのコラム子が言うような美徳というより、私たちが悲しみの作法を忘れかけている、その現われではないかとも思います。
 最近、直葬の問題がよく取り沙汰されています。葬儀を執り行わず、死後24時間を経て火葬に直行する葬法ですが、首都圏ではすでに葬儀全体の15%を超えたともいわれます。バブル崩壊以降、家族葬志向も著しく、今や日本の葬儀は際限のないミニマム化が続いています。葬儀はもはや私事なのです。
 私事ですから、死という事実を公にしません。無意識に抑制しようとします。その根底には、死別した悲しみを最小限度に押しとどめる、悪い言い方をすれば、死を封印するような感性がにじみ出ているのではないでしょうか。。
 そもそも葬儀の本義とは、愛する人を喪った悲嘆を十分に表出する公認の場であったはずです。死別の悲しみを、家族や親族、友人や地域社会に対し、公的に表明していく共通の体験として、葬儀は社会に開かれてきました。家族だけでなく、会葬者もまた死者を悼み、また遺族の悲痛に寄り添うことで、共同体として死を受け入れていきます。葬儀とは一過性のイベントではなく、遺族や地域に対し、死を公のものとし、厳然とした事実を差し出す、たいせつな「喪の体験」なのです。

○グリーフワークとしての葬儀
 直葬には、そんな悲嘆に対する深い共感が見当たりません。というより、他者の死に対し無関心、不感症であり、遺体の処理だけが際立っているように見えます。家族葬もすべてとは言いませんが、私事の中に閉ざされ、遺族自身が死と十分に向き合えていない危惧があります。それは韓国メディアが礼賛するような日本人の美徳だとは、けっして言いきれないでしょう。
 死別した悲しみと向き合うための働きかけを、グリーフワークといいます。その出発点は、遺族が死という事実を認識し、それを十分に悲しみ切ることから始まります。時を重ねて新たに死者と遺族との関係を結びなおす「再生」までの道のりともいえます。また葬儀以降、中陰、一周忌、三回忌と続く、長大な供養の時間も、徐々に喪失から再生へと「成長」していくグリーフワークのプロセスではなかったかと思います。
 「葬儀で泣かない日本人」からは、死の実像に目をそらしたまま、精神的に成長しようとしない、私たちの地顔が透けて見えます。(秋田光彦)

2010年1月17日日曜日

震災15年、災害と葬送を考える

  「あの日」から15年が経ちました。地域とは何か、いのちとは何か、私とは誰か。その後、應典院再建の転換点ともなった阪神淡路大震災について、連日多くの報道が届けられています。 
  被災当時、私が所属していた仏教NGOが真っ先に着手したのは、葬送への取り組みでした。多くの遺体が、火葬も葬儀もできないまま、むごい状況にありました。当時かろうじて稼働していた神戸市北区の鵯越(ひよどりごえ)の斎場で、私たち僧侶は葬儀のボランティアにあたっていました。
 被災後、犠牲となった遺体をどう葬るのか。それまで日本が直面したことのないもうひとつの葬送問題について、1月13日付の読売新聞は、こう報じています。。 家族の遺体を安置所に置かれたまま、耐えきれず、「数日後、ある遺族から『もう見ておれない。空き地でいいから(遺体を)焼いてほしい』と懇願された。『早く火葬を』と死の災対本部に伝えたが、すぐに解決できる問題ではなかった。灘区で約700人、東灘区で約1000人などと、わかっているだけで(安置された遺体は)3300人以上だった。当時、神戸市で使える火葬場は3箇所。1日計150人しか火葬できない」 
  厚生省の役人から「野火にしては」という打診に対し、「死者への尊厳と遺族感情を優先したい。『お別れ』は大切な節目だから」と断った神戸市役所衛生局長の言葉も紹介されています。 
  死が予知可能であれば、心の準備はできたのでしょうか。いや、むしろ「日本人にとっては死を予測し、準備をしておくことなどタブー」であったと思います。だから、どこにも憤りをぶつけられない被災死に対し、死者をどのように送り、葬るのかという難しい問題が横たわっています。 
  安置所の確保、棺やドライアイスの用意や火葬、搬送の手配など、適切な死後実務は、そのまま遺族を支えるグリーフケアに直結していると容易に想像できます。しかし、遺体は火葬処理をしたから、死者になるのではない。死者はここではない、どこかに赴くのであって、そこに宗教儀礼としての葬儀の必然性が生まれてきます。 
  葬儀はあくまで個人によって選択されるものです。信仰の有無や宗派の相違といった個別性の問題が浮き立ちます。檀家の一員であっても、自分の宗旨さえ知らない人も少なくない。その違いを克服しながら、緊急対応時にあって、どう葬儀をグリーフケアとして実効させるのか、議論が必要と感じます。ある意味、公共的な宗教の役割を実践から見出すといってもいいでしょう。 
  映画「おくりびと」が大ヒットする一方で、葬儀をしない「直葬」が増えています。日本人の死生観がアンバランスに宙を漂ういま、災害と葬送を考える意味は小さくないと思います。(秋田光彦)

2010年1月4日月曜日

(5)再聖化する個人、市民とともに

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

  07年に應典院で講演をしていただいた東京大学大学院の島薗進さんは、この個人の宗教化の問題を「再聖化」という言葉を使って論じています。社会制度の原理によって成り立ってきた医療や福祉、教育などが宗教的な要素を取り込むようになって、「再聖化」していく。先に挙げたスピリチュアルケアやグリーフケア、またいのちの教育、死の準備教育などがそれです。私はこの「再聖化」がひたすら個人に内面化していくのではなく、外の社会と交渉することによって、開かれ、鍛えられていくことにも期待をしています。最近では、仏教各教団でも、ビハーラや自殺防止に教団を挙げて取り組もうとする動きが見られますが、これもまた、社会と接続することで、既存の布教主義とは異なる、公共宗教へのアプローチといえるのではないでしょうか。
 應典院の活動を通して、私は多くの「再聖化」する市民と出会ってきました。彼ら彼女らは、既存の宗教にすがるのでもなく、社会制度にも頼らず、自立した個人として仲間とネットワークをつなぎ、対話や協働を繰り返して、身近な社会や地域変革に取り組んでいます。医療や教育のみならず、環境問題や食品問題も人間のいのちに直結しており、そこには医師や教師といった高度なレベルの専門家も参加しています。私はしばしばそういう場において、教化本位ではなく、ひとりの市民として仏教を語ってきました。一方的な布教を目的としたメッセージではなく、個々人に対し生きる実践ための知として仏教を語ってきたと自覚しています。どこまで伝わっているのかはわかりませんが、選ぶのは個人です。私ができることは、個が自己を見つめ直そうとするその根拠として、仏教をいかに提示するか、です。そのためには、これまでの仏教とは違う言葉、表現をもっと開発していかなくてはならない、とも思います。
 私のような立場から、伝統仏教と再聖化する個人の関係を論じることは、非常に緊張感を伴います。ただ檀信徒教化の場面以外の生々しい臨床に立ち臨んだ時、先にも述べましたが、仏教にも組織から個へと大きな質的転換の波が迫ってきていると強く感じています。また寺や僧侶がその転換にどう呼応していくのか、接続するのか、あるいは断絶するのか。何事も教団に倣えではなく、一人ひとりの仏教者の覚悟と行動が切実に求められています。そのことを、大学の研究室からの提言ではなく、生きた臨床の現場どうしの試行錯誤も含めた対話を通して、状況は少しずつ変わっていくのではないかと思っています。
 最後に、最近、應典院で講演を行った国際日本文化研究センター教授の末木文美士さんの著書から、私たち臨床にいる僧侶への問いかけとして以下を引用させていただきたいと思います。
 「仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しか  
し、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。それでもどうしても自分が主張せずにはいられないこと、実践せずにはいられないこと---そこから出発する他ない」(「現代と仏教」佼成出版社)。(秋田光彦)

2010年1月1日金曜日

(4)若者とスピリチュアリティ

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

 死生観の個人化という変化にいま一番近接しているのが「スピリチュアリティ」だと思います。今やちょっと流行語になっていて、SOGIの前号にも碑文谷創さんが書いていましたが、あまりに多義的、多層的で私もよくわかりません。言葉の咀嚼力が大きく、何でも呑みこんでしまうような胃袋を持っているから、わからない余白の分、解釈の自由度があるのでしょうか、フレキシブルな言葉であることには違いないが、やや振り回されている感も否めません。
 7月に高知で日本在宅ホスピスケア研究会の全国大会があって参加してきたのですが、やはり大きなテーマのひとつがスピリチュアルケアでした。宗教的ケアを論じたシンポジウムでは、京都大学のカール・ベッカーさんが日本の仏教による伝統的な死生観を語る一方で、同じ舞台に幸福の科学や前世療法の信奉者(いずれも臨床医)が登壇し、非常に違和感を覚えました。何がスピリチュアリティと宗教の境界なのか、スピリチュアリティとは宗教の代替なのか、臨床の現場も混乱しているという印象でした。
 むしろ、それを現場で予感するのは、應典院(大蓮寺の塔頭寺院)で起きている、若者たちのユニークな取り組みについてです。スピリチュアリティという言葉は使いませんが、死を見据えていかに生きるかというようなワークショップの数々が連続して起きています。宗教体験も乏しい、20代の若者に死生が語れるのか、と鼻白むかもしれませんが、私はむしろそこに新たな死生観への模索が始まっていると受け止めています。
 若者たちにはそもそも従来型の死生観がありません。拘泥するものがないから、自由に死生観をデザインすることができるように思います。いまはワークショップやカウンセリングの手法が発達しており、これまで一方的に「教わる」対象であったものから、自分たちで編み出すことができます。言い換えれば「救済される客体」から「自ら変容していこうとする主体」へと自覚的な変化が起き始めているように感じます。
 應典院で実施している、二つの事例を挙げます。
 ひとつは、自死者の遺児たちが主宰する「グリーフタイム」。母親を亡くした20代のふたりの若者、臨床心理士の宮原俊也さんと大学生の尾角光美さんが9月から始めました。グリーフケアというと、私は遺族支援を連想しますが、ここでは死別のみならずここでは「大切なものを失われた方」すべてが対象です。ペットの死、健康な体を失う、両親の離婚、引っ越しや転校による人間関係や環境の変化、失業により役割や自信がなくなる…すべてがその人にとってグリーフであり、その時自分の気持ちをいかに大切にすることができるか、が重要と考えます。集まってくる人たち(全部女性でしたが)がみな原因のはっきりしたグリーフを抱えているとも限りません。本を読んだり、お茶を飲んだり、銘々に好きな時間を過ごします。全体の交流やカウンセリングはしない。助言もせずに、ただ体験者どうしが静かな時間を共有していきます。
 若年層は周囲に死別などの体験者が少なくグリーフケアから取り残されることが多いといいます。ここでは原因究明や問題解決が目的ではなく、悲嘆を抱えた若者たちが誰にも介入されず、それぞれが自分の内面と向き合う「場」を提供しているように思えます。何らかの悩みや問題を抱えている人が当事者どうしで集まり、交流を通して相互に支えあうためのネットワークをセルフヘルプグループと言いますが、こういうのも「スピリチュアルな人間関係」であり、これに救われる若者たちもいます。
 もうひとつは、NPO法人のシティズンシップ共育企画の川中大輔さんたちと3年前から共催している「生と死の共育ワークショップ」です。07年に「自死」、08年は「葬式」、09年は「老い」(予定)をテーマにそれぞれ大蓮寺に泊まり込んでの合宿形式で行われました。08年、「自分のお葬式はどうあげられたいか?」」のネットの広報文を一部少し紹介します。
 「『お葬式』」という生者と死者が共に過ごす、場の持つ意味を探りながら、自分が死ぬ時、どのように記憶され、見送られていきたいのか、その『ありたい死』」を考えた時に、私はいま何をすべきかという問いが深みをもっておとずれるのではないかと考えています。
 『よく死ぬことはよく生きることだ』」という言葉があります。自分や他者の「死」と向き合いながら、これからの自分の『生きかた』」をゆっくりと考える時間を共にしませんか? 」
 これを書いた主催の川中さんは29歳。彼は、さまざまなテーマを参加学習の手法で伝えるファシリテーターとして将来を嘱望されてる人材ですが、最大の関心のひとつが「生死」といいます。
 一日目こそ、寺の住職として私が仏式の葬儀の基本を講義しましたが、そのあとは翌日いっぱいまで参加者どうしが生と死を巡って語りたいことを存分に語り合う場となりました。自他の死の葬送、自らの死にざま・生きざま、あるいは死後のイメージなど、様々な話題が広がりました。全国から集まってきた20人ほどの若者が、お寺でひたすら死生について語り合う、というのは寺の住職にとっては感動的な場ですらありました。しかし、ここでは仏教はあくまで参照点でしかなく、重要なことはそれぞれの個にとっての死生観の創造なのです。「答えを求めるのではなく、問いを温める場所」(川中さん)として、こういうワークショップが生まれ始めていることを私は、これまでの伝統的な死生観とは異なる、スピリチュアリティの萌芽ではないかとらえています。
 ここは非常にデリケートな問題も孕んでいるのですが、私はこのスピリチュアリティの動きと伝統的な仏教が対立的な関係にあるとは思いません。彼ら彼女ら應典院というお寺に場を求め、住職である私に「法話」を要請してきました。入信・折伏といった直接的な宗教体験を求めるのではなく、一定の距離を担保しつつ、重要な参照点としてアクセスしようとしています。
 先に「伝統的な儀礼や教義は一旦退行した」と述べましたが、それは権威的であり、教条主義的なものの退行であって、若者たちもまた先人たちの知の蓄積に学ぼうとしていることを強く感じます。問題はそういう若者たちの立ち位置を尊重できない、いまの仏教の定形化された話法であり、硬直したコミュニケーションスタイルにあるのではないでしょうか。一方的な教化圧力が浮き立つだけで、若者との対話や共感がない。そうなれば、当然僧侶の役割もアジテーターからメデュエーター(仲介者)へと転換していくと思います。語ること以上に、聴く姿勢が求められます。そのうえで、両者は今後寄り添いながら、緩やかな連携を深めていくのではないでしょうか。
 川中さんの団体名にもある「シティズンシップ」とは、個人の市民性、市民的行動と訳され、市民社会とはそういった主体的な個人参加型の社会をいいます。個人というものが欲望だけを肥大させるのではなく、説明や合意をどう図りながら、ゆるやかな共同性を獲得していくのか、これは個人の時代における社会観形成の上で、極めて重要な意味を持つと思います。いま注目される「公共宗教」とは、東京基督教大学の稲垣久和さんの定義によれば、「私と公の間に市民的・公共的領域が多様に存在し、宗教はそこで(国家的統制を受けず)本来の役割を果たすことが期待」され、「そのような市民社会形成のエートスを与える宗教」(稲垣久和・金泰昌編「公共哲学16 宗教から考える公共性」東京大学出版会)を言うといいます。もし、そうであれば、まさに仏教もまたつぎのステージを模索しはじめる時を迎えているのではないでしょうか。まだまだ今後の動きを見つめていかなくてはなりませんが、その考察は今後も深めていきたいと思っています。(秋田光彦)