2010年2月3日水曜日

日本人は葬式でなぜ泣かないのか

○人前で泣かないのは美徳?
 昨年11月14日に韓国の釜山の室内射撃場で陰惨な火災事故が起きて、大勢の日本人観光客が犠牲となりました。韓国ではこのニュースは大々的に論じられましたが、事故翌日に韓国に来た日本人遺族の、つつましやかな哀悼の姿に多く注目が集まりました。
 「日本人遺族は感情を抑え、悲しみを心中に押しとどめた」(東亜日報)
 「(遺族は)言葉を慎んだし、号泣することもなかった」(文化日報)
 肉親の葬儀となれば、まさに天を仰ぎ、地に伏す「慟哭」の韓国人ですから、日本人が泣き叫ぶこともせず、静かな気配を残したことに感心するのもわかるような気がしますが、その理由について朝鮮日報のコラム子は、
「日本人には自分の悲しみで他人に気遣いさせることを迷惑と考え、悲しみを外に出さないことを美徳とする態度が背景にあるから」
 と書いています。さらに、コラム子は日韓の葬祭文化の違いにも言及して、
「日本人の美徳とは日本の葬儀を見てもわかるように、他人の見ている前で感情をあらわにすることをはばかる」
 と述べています。
 むろん国や民族によって、感情の表出もさまざまです。韓国のデモのパワーなど見ればその違いは一目瞭然ですが、韓国人の行動力の根底には、政治意識というより自分たちの感情に正直に行動する気質がうかがえます。逆に日本人には、デモなどしても仕方ない、状況は変えられないという「長いものに巻かれろ」式の諦観があります。これも、大勢の影響を受け入れやすい、日本人の気質といえるでしょう。

○葬儀はもはや私事
 その彼我の違いは十分理解しつつ、果たして葬儀で泣かないことが日本人の美徳なのか、私は逆に日本人の「悲嘆の感情」の急速な退行を思わないではいられませんでした。
 最近の一般的な葬儀においても、遺族はほとんど泣くことをしません。今は家族葬など身内だけの葬儀が主流ですから、何事も合理的に効率よく運ばれていきます。けっして火災事故の日本人遺族を同列に論じるつもりはないのですが、「泣かない日本人」というのはかのコラム子が言うような美徳というより、私たちが悲しみの作法を忘れかけている、その現われではないかとも思います。
 最近、直葬の問題がよく取り沙汰されています。葬儀を執り行わず、死後24時間を経て火葬に直行する葬法ですが、首都圏ではすでに葬儀全体の15%を超えたともいわれます。バブル崩壊以降、家族葬志向も著しく、今や日本の葬儀は際限のないミニマム化が続いています。葬儀はもはや私事なのです。
 私事ですから、死という事実を公にしません。無意識に抑制しようとします。その根底には、死別した悲しみを最小限度に押しとどめる、悪い言い方をすれば、死を封印するような感性がにじみ出ているのではないでしょうか。。
 そもそも葬儀の本義とは、愛する人を喪った悲嘆を十分に表出する公認の場であったはずです。死別の悲しみを、家族や親族、友人や地域社会に対し、公的に表明していく共通の体験として、葬儀は社会に開かれてきました。家族だけでなく、会葬者もまた死者を悼み、また遺族の悲痛に寄り添うことで、共同体として死を受け入れていきます。葬儀とは一過性のイベントではなく、遺族や地域に対し、死を公のものとし、厳然とした事実を差し出す、たいせつな「喪の体験」なのです。

○グリーフワークとしての葬儀
 直葬には、そんな悲嘆に対する深い共感が見当たりません。というより、他者の死に対し無関心、不感症であり、遺体の処理だけが際立っているように見えます。家族葬もすべてとは言いませんが、私事の中に閉ざされ、遺族自身が死と十分に向き合えていない危惧があります。それは韓国メディアが礼賛するような日本人の美徳だとは、けっして言いきれないでしょう。
 死別した悲しみと向き合うための働きかけを、グリーフワークといいます。その出発点は、遺族が死という事実を認識し、それを十分に悲しみ切ることから始まります。時を重ねて新たに死者と遺族との関係を結びなおす「再生」までの道のりともいえます。また葬儀以降、中陰、一周忌、三回忌と続く、長大な供養の時間も、徐々に喪失から再生へと「成長」していくグリーフワークのプロセスではなかったかと思います。
 「葬儀で泣かない日本人」からは、死の実像に目をそらしたまま、精神的に成長しようとしない、私たちの地顔が透けて見えます。(秋田光彦)