2010年12月30日木曜日

年末回想。若者たちの未来の死生観に希望を託して。

 2010年、今年は、いのちのありようについて重く考えさせられた一年でした。
 身近には葬式仏教への逆風、社会面では、幼児や高齢者への虐待が相次ぎました。また、脳死・臓器移植の改正法や市民参加の裁判員裁判で死刑判決が初めて下されました。十分な検討も熟慮も伴わず、私には、ただ状況ばかりが前のめりに加速している印象があります。
 人間は、葬式の形態や規模は別にして、死者を供養しないではいられない存在です。
 年が明けるとまた「1.17」が巡ってきますが、いまなお、あれだけの人々が現地で、また日本中の人々も死者たちを鎮魂するのは何故でしょう。人間だけでありません。宮崎県を襲った口蹄疫の時も、殺処分される牛馬のために、畜産農家の人たちがこぞってユリの花を供えたと聞きます。
 私は、生前個人墓「自然」を通してこれまで、結縁を希望する、200人以上の高齢者と面談してきました。多くはとりたてて宗教には関係を持たずに来た人たちでしたが、分かったことがあります。日本人は、それが家であるなしにかかわらず、「供養」という文脈を使いながら、自らの死生観を形成していくのだと。今までは家制度によって暗黙に「保証」されてきた供養が、環境の変化によって急に、個人の問題として突き付けられ、人は自分の「死後の供養」を考えて、準備に急ぎ始めたのです。「自然」という墓を契機として、いきいきと死生観を語り始める人たち。葬式や墓は、今まで眠っていた死生観を想起させる装置といっていいのかもしれません。
 しかし、現実には、葬式仏教への不信は根強く、そして、消費者として君臨する人々との溝はあまりに大きい。消費者には、葬式仏教の教えはすべて建前であって、要求すべきはサービスとコストなのです。日本人は、この間、死生観を予行する大切な体験を根こそぎ喪ってしまうのではないか、という危惧も覚えます。

 話はかわりますが、今月初め、ある若者の葬儀の参列しました。
 彼女は息子の友人で、自宅で急に倒れ、9日間病床に伏せって、25年の生涯を閉じました。ご家族は「家族葬で」と計画したらしいですが、若い友人たちの要望で一般葬に変更となったと聞きました。
 お通夜の式場は、高校、大学、職場とずっと吹奏楽を嗜んできた彼女の仲間たちで、埋め尽くされました。20代の若者たちは、ひょっとして初めて遺影に向かって手を合わせたのかもしれません。あまりに早すぎる親友の死を、まだ受け入れがたいのでしょうか、取り乱した様子もなく、式は淡々と進行していきました。
 読経が終わって、若い僧侶がふりかえって語り始めました。
 「私も26歳です」
 けっして上手な説教というものではなかったけど、式場には若者どうしの一体感のようなものがこみ上げてきました。
 「同じ世代として、もっと生きたかったろうに、やりたいこともたくさんあったろうに。そう思うと残念でなりません」
 会葬者の席でずっと時間を共有しながら、私はふと不思議な感覚に襲われました。この若者たちの死者に対する謙虚で、誠実な態度は何だろう。メディアでは若い人の暴力沙汰がしばしば報道されるというのに、一転してこの身近な死に対する敬虔な姿に接し、私は、何か大きな落差を感じてしまったのです。
 「いまどきの若者にふさわしくない…」と言いたいのではありません。逆に、情報とサービス漬けとなって、消費者として完成されてしまった人々には窺えない、生と死の美しい対話劇を見るような感覚でした。身近な人の死を、三人称(他人)の「死」として扱わず、自らのいのちの一脈として感応しあう。いや、あまりに急な死であったからかも、また彼らには慣れない体験であったからかもしれません。しかし、それ以上に、私は「死」に対する「若さ」の持つ清らかさと愛おしさを見てしまったような気がしてならないのです。
 この国には、もはや紛争も飢餓もありません。死にゆく人は、みな病院の個室に運ばれ、多くの日本人が考えている「死」は、実体験を伴わない「死」です。それとまともに向き合わず、「千の風になって」を歌って、見せかけのイメージに溺れているのではありませんか。
 だからこそ、私は若者たちの未来の死生観に、一縷の望みを託したい。
 今年10月には、川中大輔さん(30歳)のグループが、應典院で「生と死を考える共育ワークショップ」を1泊2日で開催、「看取り」をわかちあいました。また、大晦日から元旦にかけては、尾角光美さん(28歳)のグループと、「年越し・いのちの村」を開催します。こちらは、年末年始、帰る場所もなく、孤立に陥る人たちと温かい正月をお寺で過ごそうという企画です。
 若者たちに、決まり切った先祖供養は似合わない。あるのは、他者の「死」に自分の「生」を重ねることです。他者の死とは、ここでは、生きる痛み、悲しみといってもいい。私には、こうして若者たちの試みに寺として加担することが、「消費されていく仏教」を遠回りかもしれないが、徐々に本来の軌道に回復させる、唯一の道のように思えてならないのです。
 どうぞよき新年をお迎えください。南無阿弥陀仏。(秋田光彦)

2010年12月23日木曜日

介護施設で看取りが浸透しないわけ

去る11月27日、尼崎にて「第19回阪神ホームホスピスを考える会」があり、「施設での看取り」というテーマで講演を聴いた。
 最初に、特別養護老人ホーム けま嬉楽苑の土谷施設長が、「そのひとらしい暮らしを支えるターミナルケア」という話題提供をされた。
 施設の入口には鍵はかけておらず、入居者は自由に出入りできる(もちろん認知症の方も)が、トラブルはないそうである。入居者には事前に普段の雑談の中で自分の「死に対する考え」について確認をし、死後の世界などもタブー視しない雰囲気作りをしている。施設で亡くなられた方に対しては、お別れ会をして、正面玄関からご遺体は出棺される。入居者全員でお見送りをするのだが、それを見て認知症の方も一緒に涙をこぼされるという。現在入居者55人で看取りは年間7名。平均要介護度3.9、そして何と待機者が700人もいらっしゃるそうである。
 この施設のスタッフは、皆さんがホスピスマインドを持たれているように感じた。高齢者の虐待とか孤独とか、そんなニュースが絶えない中で、がんばっておられる特養の話を聞いて気持ちが明るくなった。


 続いて特別講演として、拓海会の藤田拓司先生が「介護施設の終末期ケア」というテーマで講演をされた。
 2025年には160万人の多死社会を迎えると言われており、現状より50万人増えることになる。そういった背景の中で、藤田さんが冒頭に「家での在宅医療が限界かなと思う」と言われたのは衝撃であった。病院でも死ねない。家でも死ねない時代がやってくるのかとゾッとした。
 家族の介護力が小さくなり、自宅での療養継続も困難になり、介護施設へ入所を希望する人、余儀なくされる人が少なくない。本来医療の現場ではない介護施設における終末期ケアを考えなければならないと言われた。しかし、介護施設では容易には死ねない現実もある。介護施設のスタッフたちの、看取りに対する忌避感が強いからだ。「死が怖い」「死にかかわりたくない」という気持ちもわかる。若いスタッフに死生観など要求するほどが酷なのかもしれない。そのため、藤田さんは「看取り」の研修を繰り返し実施されているそうだ。
もちろん「死生観」は人から教えられるものではないし、マニュアルなどない。でもその気づきのためのヒントになる研修を繰り返し実施されているのは、すごいと思った。
最後に藤田さんが言われたのは、今後、多死社会を迎える日本では、介護施設での看取りを積極的に行う必要がある。医療現場ではない介護施設で看取りを行うことは、困難を伴うが可能ではないか。そのためには医師の積極的な関与が必要である。自宅での在宅医療に近づけるために、①訪問看護が利用しやすいように制度を整備、②介護職による「吸引」などの医療処置が行えるように環境を整備することが必要、そして最も強調されたのは、③介護職に「死」を受け入れる教育が必要であると言われた。
すでに多死社会といわれ久しい。在宅看取りに比べて、施設での看取りはかなり遅れていると言われてきたが、必死でがんばっておられる現状が分かった。
残念ながら、この日の講演会では「死生観」の話は出てきたが、「宗教」というキーワードが出てこなかった。だからこそ、むしろこれからの宗教の可能性を感じた。

私自身、今まで在宅医療について知識を積んできたが、今後は介護施設についても深く考えてみたいと感じた。ただ最後にまったく個人的な見解を言わせてもらうと、私がお付き合いさせていただいている在宅の医師たちは、在宅の側にいて在宅を考えているので、限界なんてないぞと思っておられるが、一方で圧倒的多数の医療者や福祉の方は病院や施設にいらっしゃるのが現状である。施設重点主義は根強い。だから、そういう人が多いのではないか。また在宅が増えない理由もそこにあるのではないか。(浦嶋偉晃)

2010年12月19日日曜日

無縁から生まれた、結縁の場所

 今年の流行語大賞に「無縁社会」がランクインしました。NHKが年初に放送した番組がきっかけだが、年末にはすっかり時世を映す言葉として定着した感があります。また、それを裏打ちするような事件が、今年は相次ぎました。酷暑につづいた真夏には、児童虐待の惨い事件が連続して発生し、死んだ老親をタンスに隠した事件もありました。親名義の年金欲しさにだ。無縁というより、もはや絶縁社会といったほうが的確かもしれません。
 私が「無縁」という言葉に初めてふれたのは、学生時代に網野善彦さんの名著「無縁・苦界・楽座」を読んだ時です。日本の中世には無縁所という寺社を中心とした独特の共同体があって、そこには世俗を逸脱した人びと、職人や芸能者、宗教者が集住していた、といいます。鮮烈な印象が残りましたが、無縁に対する解釈は、むしろ束縛されない自由区というイメージに近いものがありました。
 現代の無縁社会は、イコール悪であり絶望を意味します。それを救済するには行政サービスや社会保障に頼むしかなく、しばしば政治の無策や不正が指弾されます。それは一面その通りなのですが、それだけが救済なら、われわれは結局権力の支配にすがる他はありません。むしろ無縁だからこそ、そこから生まれる新しいつながりやネットワークに知恵を働かせるべきではないか。家族にせよ地域にせよ、従来の共同体からこぼれおちた人びとを「結縁」するために、宗教者にやれることはないのでしょうか。
 今年は、釜ヶ崎で活動する宗教者たちと出会いがありました。寺もない、檀家もない、釜ヶ崎という独特のエリアで葬送の支援をしようという志に生きる僧侶もいました。対象の多くは日雇いの労務者であったり、野宿者です。ここでは、布教教化というような振る舞いが傲慢に見えるほど、宗教者と対象者の関係は限りなく近い。確かに無縁ではあるが、絶望ではない。あるのは、何とかしようという宗教者の意志と、それに協働する、さまざまな市民のはたらきです。利他の共同体ともいうべき「志縁のネットワーク」が、無縁社会の片隅から生まれつつあります。
 と同時に、そこから窺える、これまでとは異なる仏教者像に、私は気づかされます。布教者としての勇ましい使命感や責任感は棚上げして、ただ対象に寄り添う、という共感共苦に生きる態度です。あれこれ建前に惑わない。自分の感覚に正直に行動する。徹底的に自意識を退けた、その無為な立ち方やふるまいに、小さな希望を垣間見るのは私だけでしょうか。無縁とは、ひょっとして布教エゴに凝り固まった僧侶たちを、一度結縁の淵へと押し戻す、如来の導きではないか、とふと感じました。
 そして、間もなく大晦日。大蓮寺と應典院では翌元旦にかけて寺域を開放、生きることに疲れ、居場所を失った人びとが集う、「年越しいのちの村」(共催Live on)を開催する準備に忙しい。これもまた無縁から生まれた、もうひとつの場所なのです。(秋田光彦)

2010年12月15日水曜日

死後をともに「生きる」仲間

(前回12月11日ブログから引き続きお読みください)

続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。
秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。
長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。
石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。
最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。
現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。
また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。

 私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。(浦嶋偉晃)

2010年12月11日土曜日

おせっかいと看取り~いのちと出会う会 100回記念講演「地域でつなぐ、いのちの絆」

 去る11月23日、應典院で「いのちと出会う会 100回記念講演」として、「地域でつなぐ、いのちの絆」というテーマで、講演とシンポジウムがあり、参加した。

 「いのちと出会う会」は代表世話人の石黒大圓さんが中心となり、2000年よりほぼ毎週木曜日に應典院で開催され、毎回話題提供者を迎え、いつか来る「人生の店じまい」を見据え、生きること、老いること、病すること、そして死についてじっくり語り合う「場」であり、このたび晴れて100回目の記念を迎えた。
 冒頭の挨拶で石黒さんは、人は生老病死の苦難を乗り越えられたときに、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰さま」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びつくものであり、その結果、人間性もまた一回りも大きく成長していくと言われた。
 まずオープニングは、口笛演奏家のもくまさあきさんの素晴らしい演奏で幕開け、記念講演として、長尾クリニックの長尾和宏院長の「在宅医療といのちの絆」という講演があった。長尾さんは尼崎で開業され、365日の診療、24時間の在宅医療をされている。
 長尾さん自身、高校のとき父親を亡くされた経験をもっておられ、その時はとにかく力を失い、気力が喪失し、学校にも行けなくなり、一旦自動車工場に就職、しかし立ち仕事で腰を痛め、改めて大学進学の道を歩まれた。その後、大病院で救急医療に関わり、様々な死をみてこられたが、そうしている内に「終末期医療」について疑問を持ち始めた。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、スラム化した病院ではなく、もっと患者に寄り添いたいという思いから開業されたという。
 在宅には、様々な人間模様がある。臨終の際には「死の壁」がある。とくに死の一日前にはもがき、大きな心の揺れがある。在宅で「死の壁」を乗り越える方法として、家族に「一日ほどの一瞬のことなので、ただただ患者さんに静かに寄り添ってほしい」と説明するという。これが現在の病院ではできない。
 言葉の通じない外国人を看取ることもあり、最初は通訳ボランティアを通じて会話をしていたが、「死の壁」がやってきた時、言葉が通じなくても身振り手振りで会話を交わしながら、家族が必死で生と死を支えているのを目の当たりにすることもある、という。生死と家族は、ここでも一緒なのだ。
 独居の看取りが、これからは当たり前のようになるだろう。独居でも、身体状態が悪くても、在宅で過ごすことは可能である。コミュニティは崩壊したと言われているが、近所の人がみているケースもある。これからの無縁社会を乗り越えていくのは「公的ヘルパー」であろう。
 これからの介護のキーワードは「おせっかい」だ。職場で死にたいという人がいれば、そこで看取りたい。もっと在宅ホスピスの可能性を知ってほしい。実際に在宅で看取るには家庭、家族によってさまざまな事情があり、難しいケースがあるが、やはり好きな人たちに囲まれて生を終えるのが理想であり、長尾さん自身、これからも理想の実現に向かって進みたいと言われた。(浦嶋偉晃)
≪この項つづく≫

2010年12月5日日曜日

「同治」によるコミュニティの力

(前回12月2日ブログから引き続きお読みください)

 應典院寺町倶楽部の名物企画で、2000年からほぼ毎月開催してきた「いのちと出会う会」が、11月に通算100回目を迎えました。私も世話人に名を連ねていますが、この功績は代表世話人として、この会とともに励んでこられた石黒良彦さんの尽力によるものです。
 さて、会の報告は別に譲るとして、「スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア」の可能性として市民学習の試みがあります。「いのちと出会う会」も「大蓮寺・エンディングを考える市民の会」も同様の場ですが、双方に通じるのは、大人が死生観について学ぶ場であることです。
 死生観は、これが正解というものがありません。昔は、仏教が大きな物語として作用してきましたが、現代は個人がバラバラになって、一人ひとりが自分の死生観を探しださなくてはならない時代です。世代間で引き継がれてきた伝統も、少子化と家族の多様化で、継承が難しい。インターネットで引っ張ってくるのは、知識や情報であって、「観」という考え方、あるいは生き方というようなものになっていない。そこに、市民学習の可能性があると思うのです。
 「いのちと出会う会」は、在宅ホスピスや成年後見制や葬儀の実際など、講師が情報を提供する学習もあるのですが、とくに特長的なのは、その後の語りあいです。参加者が裃を脱いで、今日の話題を共有しながら、少しお酒も入れながら意見交換をする。そこには問題解決してくれる専門家がいるのではなく、参加者同士が対等の関係で、共感の関係を紡いでいきます。時に死別体験やがん体験を、語り合うことも。誰かの言葉に耳をそば立て、そのことが他者に対する信頼となり、自己への安心となります。この「同治」の体験があって初めて、人は自分の中の死生観というものを養うのだと思います。誰かにケアしてもらう「対治」的なスピリチュアルケアではなく、皆でケアしあう、「同治」のスピリチュアルワークといった方がいいのかもしれません。
 そういう体験は、ネットで共有することは難しいものです。皆が対等に集えるリアルな場と、石黒さんのような市民の立場から場をつなぐような存在が必要となります。そして、この場に参加した人たちが、今度は自分の家庭や職場や地域に帰ってから、石黒さん同様につなぎ手となってくだされば、スピリチュアル・ワークはさらに拡がっていくことでしょう。
 「弱さ」には、周囲の人がそれ見捨ておけない、何とかしないではいられない、という求心力心があります。それは、人間の内部に秘められた「慈悲心」といってもいい。弱者がいたら、すぐに社会保障やサービスに頼る(そして、気に入らなければ文句を言う、という消費者的態度!)のではなく、それを支えあう「同治」によるコミュニティの力を私は信じたいと思います。
 枯渇した日本人の死生観も、そういうつながりの中から、次第ににじみ出してくるものであってほしいと願っています。≪おわり≫(秋田光彦)

2010年12月2日木曜日

スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア

 先月20日、府立の急性期総合医療センターが主催のシンポジウム「生と死を考える~がん医療とスピリチュアリティ」に出演しました。府立の総合病院が「死」をテーマに企画をし、しかも満場の聴衆が集まったことは、時代の変化を肌で感じました。
 私も黒衣に輪袈裟で登壇しましたので、十分目立ったかと思いますが、ドクターやチャプレンと並んで意見を交わしました。自ずと議論の中心は、がんの緩和ケアからスピリチュアルケアへと移っていきました。
 僧侶がこういう場に出てくると、ビハーラとか僧医とかいって、新しいお坊さんの臨床への参加と持ち上げられるのですが、それは言うほど簡単なことではありません。お隣の韓国などは総合病院内に宗教別の部屋があって、そこに宗教者が常駐しているのは当たり前ですが、日本では教団経営の病院以外は、皆無に等しいのが実態です。それほど「「葬式仏教」に対するアレルギーは強いのでしょう。また、それを口実に、仏教者側も一向にこの課題に取り組もうとしない。現実は、一部の良心的な宗教者によって、個別に執り行われているのであって、日本で言う「スピリチュアルケア」は絶えず宗教と切り離して考えられてきました(もともとWHOの健康の定義に、スピリチュアルケアを提案したのはイスラム諸国です。理由は明白ですね)。
 もちろん、仏教者の臨床参加もたいせつな実践なのですが、だからといってスピリチュアルな活動が全部病院の中に、ベッドサイドの現場にある、と捉えていいとは思いません。それは、「ケア」という言葉を用いた瞬間、ケアギバー(ケアしてくれる人)とクライアント(患者)という二者関係を連想してしまうこととも通底しています。そもそもスピリチュアルケアとは、病院内の専門用語なのでしょうか。
 年間120万人が亡くなる多死な社会にあって、「治す」医療は限界と言われています。在宅医療や訪問医療も徐々に浸透し、じつは住み慣れた家で最期を迎える人たちも微増しています(2005年の79.8%をピークに、病院死は以後微減しています)。もちろん、在宅死であっても専門職の支援は欠かせませんが、人生の最後の時間を、一緒に過ごす家族や地域との関係は、スピリチュアルケアとは言わないのでしょうか。
 「同治」と「対治」という仏教の言葉があります。例えば熱が出て、その対処法がふたつあります。水で冷やして治すのが「対治」、うんと汗をかかせて治すのが「同治」です。病院というところは、何かをしてもうところなので、自ずと関係は「対治」にならざるを得ない。外科手術も投薬もすべて高等な技術としての「対治」です。しかし、その手前に、私たちの日常の生活や暮らしの中に、それ以上の「同治」の可能性があるはず。スピリチュアルケアとは、これまで「対治」してきたケアを、「同治」の関係へと取り戻すような意味があるのかもしれません。
 シンポジウムの席で私は、「スピリチュアルケアとは言わないスピリチュアルケア」を提唱しました。本来、スピリチュアリティとは生活や暮らしの中にあるもので、自分たちがさまざまな関係性の中から育んでいいくものだと。大蓮寺の「エンディングを考える市民の会」や、應典院の「いのちで出会う会」などの活動は、まさに他者や地域、社会とふれる、貴重な機会となっているのではないでしょうか。(秋田光彦)
≪この項つづく≫