2011年8月31日水曜日

グリーフワークとしての葬送を考える~エンディングセミナーにて、小谷みどりさんの話を聞く。

 去る7月30日、應典院で開催された「夏のエンディングセミナー2011」において「グリーフワークとしての葬送を考える」という題で、小谷みどりさんの講演を聞いた。
 小谷さんは、第一生命経済研究所主任研究員であり、終末期医療から葬送までを生活設計の視点からとらえ、「エンディングデザイン」を提唱する。専門は生活設計論,死生学,葬送問題。『変わるお葬式、消えるお墓』『おとむらい新世紀』など著書多数。
 今回、日本人の死生観や葬送の多様化、そしてエンディングデザインについて、研究者ならではの統計データを駆使した講演であった。
 冒頭に、葬送儀礼はグリーフワークとして機能しているのか、またグリーフワーク自体が必要なのか、人が亡くなって悲しいのか、と立て続けに問いがあった。

■葬送の変容の背景
 最近、「死」の意味合いが変わってきた。一つは高齢者の死が増えてきたことである。特に後期高齢者の死になると、悲しさより安堵の気持ちがあり、周りも納得する死であると言える。
 また高齢社会が成熟した日本は,「多死社会」を迎えている。死の迎え方や価値観の多様化に伴い,葬送に対する意識も多様化している。家族葬や故人らしさを求める傾向が顕著になり,宗教色のないお葬式など,しきたりにとらわれない人たちも珍しくない。
 そして病院死の増加である。2008年度では85%で、病院で死ぬのがあたりまえになり、家で看取るのと違い、死に目に会えなくなる機会が増えてきている。
 長患いを経て、超高齢で亡くなるというのが、今の日本人のイメージであり、予期できない死ではなく、納得できる死であり、天寿を全うしたと思える死が圧倒的に多くなり、そういった背景の中で昨年、葬式はいらないのではないかという話題になったのではないか。
 またこれからは配偶者がいない、家族がいない男性が増えていくのではないか。2005年の統計上、男性の生涯未婚の率が6人に1人になっていて、さらに少しずつ増え続けている。これまでは高齢者の一人暮らしとは配偶者(男性)を亡くした女性が対象になっていた。これからは結婚したことがなく、家族がいない男性が高齢で亡くなった場合が問題である。特に親族が少ない場合は深刻である。男性一人暮らし世帯において、「会話頻度が1週間に1回以下、ほとんど話しをしない人」が11.8%を占めているという統計がある。この数字を見て、我々は気づかないのだ。ピンとこない。なぜかと言えば、そういう人たちは社会から埋没してしまって、我々にとって気づかない存在なのだ。これが社会の無縁化だと言えるのではないか。
 そういった中、死の自己決定が必要になってくる。日本人には、ぽっくり信仰が多い。人に迷惑をかけない死に方が、良き死という価値観を高齢者の多くが持っている。特に延命措置を拒否する高齢者が多いが、やはり家族に迷惑をかけたくないと言う思いが働いている。
一方で高齢者の自殺は、大家族の高齢者に多いのだ。これも子や孫に迷惑をかけたくないという気持ちがあるのではないか。

■人称別の死とエンディングデザイン
 人称別の死とエンディングデザインであるが、自分が死んだときと、大切な人が亡くなったときでは違う。二人称ではお墓参りに行きたいと思うが、自分のときはお墓はいらないと言う。それは延命治療にも言える。自分に死が迫っている場合はいらないと言うが、家族の場合はどうするかと言うと、延命治療をしてほしいという人が増える。
 死の分類として4つに分けられる。医学的な死、法的な死、社会的な死、文化的な死であるが、葬送はどこに関わっているのか。社会的な死とは、家の中に閉じこもっている、忘れられている人のことを言う。文化的な死において日本人はなかなか死なない。お盆であり、お墓参りで、亡くなった方の好きだった食べ物を供えるのだ。死んだ人との心の繋がりがある。亡くなったが、文化的には亡くならないのだ。
 葬送儀礼の役割において、死者と向き合う時間が重要なのではないか。儀礼は大切である。日本人は死別の悲嘆からの立ち直りが欧米から比べて早いと言われている。それは仏壇に向かって話しかけたり、鴨居の写真に話しかけたり、日本の家屋には元来、死んだ人と共存する装置があちこちにあった。しかし現在ではその装置がだんだん少なくなり、また儀礼が無くなってきて、亡くなった人と向き合う時間がなくなっている。そして亡くなった人と一緒に暮らしているんだという感覚も無くなってきて、欧米と同じ、悲嘆の問題が取りざたされるようになったのではないか。

 私もマンションに住んでいて、仏壇などの置き場所がない。欧米にはない、日本独自の「死んだ人と共存する装置」が、死者と対峙する時間を作り出し、遺族の生活の中に死者の居場所を見出すし、もう一度新しい関係を結んでいくということがグリーフワークに繋がっていくのではないか。
 このお盆は、先日亡くなった伯母の初盆で、長崎のいとこから精霊船ができたとの連絡があった。私は小学校のときに、初めて精霊流しを見て、本当に船に故人が乗っている気がし、とても厳粛な気持ちになり、そして精霊船に故人が見えるような不思議な思いをしたのを覚えている。こういう死者と向き合っている感覚が大事なのだと思う。(浦嶋偉晃)


2011年8月21日日曜日

仏教とスピリチュアルケアをつなぐもの~エンディングセミナーにて、大下大圓さんの話を聞く。

  去る7月23日、大蓮寺で開催された「夏のエンディングセミナー2011」において「仏教とスピリチュアルケアをつなぐもの」という題で、大下大圓さんの講演を聞いた。
  大下さんは、和歌山県の高野山で修行し(現在高野山傳燈大阿闍梨)、スリランカへ留学、スリランカ僧として得度研修。飛騨で約25年前より「いのち、生と死」の学習会として「ビハ-ラ飛騨」を主宰。その活動から病院や在宅への専門的なボランティア活動として「ひだ医療福祉ボランティアの会」を結成、ベットサイドのボランテイア活動を続けている。
 今回は仏教とスピリチュアルケアをどうつないでいくのか、またグリーフワークについての講演があった。

■たましいのケア
  今更、言うまでもないがスピリチュアルケアとは、さまざまな要因で死を迎えなければならない人のスピリチュアルペインを和らげるためのケアのことだ。そして、スピリチュアルペインとは、「なぜ自分だけが苦しまなければならないのか」「自分の人生に何の意味があったのか」「死んだらどうなってしまうのか」こういった心の痛みのことあり、このような深い、強い心の痛みを和らげる、なくすための援助がスピリチュアルケアになる。
 大下さんが活動している飛騨高山地区ではスピリチュアルケアを、「たましいのケア」と訳している。実際には訳語として霊的、魂的、哲学的、いのちなどいろいろな表現があるが、日本語としての訳は確立していない。何かあった時に、定型化した解釈や訳ではなく、その時々でスピリチュアルを解釈していかないと、人によってはその時の思いの内容、深さが違う。だから日本語的に表記していくのが、これから必要となる。そしてスピリチュアルなものを具体的に癒していこうとするなら、それぞれの持っている信念や信仰が必要となる。
 もちろんスピリチュアルと宗教は同じもの、同じ意味ではない。その人の価値(宗教観)によって違うのである。ケアする側の信念や価値観の押し付けでなく、相手にどこまでも寄り添うということが重要になってくる。

■死者との対話
 グリーフを癒していくには、本来はその人がその人なりのグリーフプロセスを経ていき、自分で立ち上がっていくものである。お釈迦さまの言う、「自灯明、法灯明」である。つまりあなた自身が灯明であり、あなたの目の前に出てくる課題や苦しみは、すべてあなたの中に解決の糸口(灯明)が隠されている、ということを言われている。時間がかかるかも知れないが、立ち上がっていくものだ。
  しかし最近は病的悲嘆に陥る場合が出てきている。悲嘆感情とその恢復を促すためには、急性期、中期、回復期とあるが、死別者の10~15%が病的悲嘆に陥ると言われている。すべてが順調にグリーフプロセスを経ていくわけではない。日常生活に支障をきたす場合がある。
 グリーフを乗り越える課題として、一つは喪失の事実を受け入れることであるが、それはなかなか受け入れられないのが現状である。ある研究から、スピリチュアリティの角度から考えると、信念、信仰や哲学宗教観、死生観を持っている人のほうが受容しやすいという結果がある。
  また死者を情緒的に再配置することが必要だ。つまり死者と極楽浄土で会えるんだという気持ちを持つことが重要であり、要はあるかないかの問題ではなく、そう思えるかどうかが大事なのである。
 自分の感情や思いを素直に表出し、語り合える関係性が、こころの恢復を促すことがある。つまり出せる場が重要だ。外国人から見れば、日本には仏壇に手を合わすという素晴らしい文化がある。仏壇で亡くなった人と会話が出来る場があるのである。死者と対話をしているのである。
  こういう仏教が持ってきた伝統的儀式を活用すべきである。
  仏教の宗派によって、葬式後、初七日から四十九日までのあいだ仏さまに食事を供える習慣がある。このプロセスが大変重要である。大下さんは亡くなってから毎週七日ごとに訪問し、家族と一緒になってお経をあげて、今の気持ちを聞く場にしている。そうしているとだんだんと四十九日の間に遺族が話す内容がゆっくりと変化していく。気持ちを口に出して人に伝えることにより、再構築がうまくいく場合が多い。グリーフプロセスにとって、四十九日というのは、家族が故人と対話できる最期の期間で、文化としての葬送儀礼だけでなくて、スピリチュアルケアの側面からも意味があり、とても大切な習慣、そして期間である。遺族が一つ階段を上るのである。自分の心を見て、変化していく大切なプロセスである。

■日本人の儀礼性
  大下さんは最近、葬式に関して新たな試みをおこなっている。それが「家族参加型葬儀」だ。
  僧侶と葬儀屋だけで葬式を進めていくのではなく、家族にも積極的に葬儀に参加してもらう。つまり故人に対する別れの言葉を家族から語ってもらうのである。感謝などの言葉を棺と写真に向かって語りかけるのである。家族が故人と最後にしっかり向き合える場、対話する場をつくることにより悲しみを癒すグリーフワークが成立する。遺族は喪に服し悲しみに耐えるのではなく、どこかで悲しみの感情を表出しないと、心が癒されないのだ。

  今回、大下さんの話を聞いて、シンプルかつ身近にできることがたくさんあるのに気づいた。古来より日本人が行ってきた儀式、儀礼を取り戻すことにより、グリーフを癒すことができるのだと感じた。
  私自身、実家に行った折には必ず仏壇に向かって、阿弥陀様、ご先祖に最近起こったこと、今の不安なことを語りかける。そうすると心が開けてスッとする。見えない世界に祈りを捧げる。そういう祈りの時間、祈りの場を持つことの大切さを感じている。
  仏教で「諸行無常」というように、全ての事象はつねに動いていて、苦しみを抱えている人でも、いますぐ事態が変わることはなくても、永遠にその状況が続くのではないということを、大下さんの話を聞いて、よく理解できた。
 とにかく1時間という短い時間だったのが残念である。まだまだ聴きたいと思った。(浦嶋偉晃)


2011年8月16日火曜日

グリーフから希望を ~エンディングセミナーにて尾角光美さんの話を聞く。

去る7月16日、應典院で開催された「夏のエンディングセミナー2011」において「若者発:グリーフコミュニティのすすめ」という題で、尾角光美さんの講演を聞いた。
  尾角さんは、2003年3月、母親を自死で喪い、その体験と折り合いをつけながら、2004年から「あしなが活動」を通じて病気、自殺、戦争、テロ、津波などで親を亡くした国内外の遺児に物心両面のグリーフサポートを行っている。現在、任意団体[Live on」代表として、グリーフにまつわる講演や研修などに活躍し、直接当事者に寄り添いながら、そして若者の視点から、生きやすいコミュニティづくりに向けて積極的な提言を続けている。
  本来は私の感想を中心に書こうとしたが、尾角さんの話はとても繊細で奥深く、尾角さんの発したメッセージを中心に書きたいと思う。

  「グリーフって、希望の源なんです。」と尾角さんが言ったとき、正直驚いた。喪失とはただなくすことだけでなく、そこから生まれるもの、得られるものがあると言葉を続けた。以下は尾角さんの講演の内容である。

■物語ることの力

  大切なことは、「物語ることの力」である。自分の中で体験を繰り返し物語ることにより、そのことに意味を与えることができるときがある。
 今、いろいろな人と出会い、講演などさまざまな活動をしているが、元をたどっていくと母親の喪失が今のつながりを作っていると言える。それは普段意識することではなく、自分が人に何かを語っているときにふと気づくものである。まるで母親が今のつながりを届けてくれているような気がする。そしてそれは自分なりに母親の死に対する意味づけでもある。母親の死は、悲しみも怒りも辛さもあるが、自分を生かしてくれているものであり、また感謝するものであり、今のさまざまなつながりに感謝できることが、物語ることにより見えてきた母親の喪失の意味であった。
   人が誰かと物語ることにより、グリーフの形を変えていく。悲しみを相対化するのである。人は亡くした対象など、いろいろな体験によって痛みが違う。その中で人の体験を聴くことにより、自分の悲しみが一番不幸ではないと気づくことにより、力が湧くことがある。だからこそコミュニティでの物語ることの力は大きいと感じる。
  グリーフワークとは、絵を描く、語り合う、手紙を書くなどいろいろな形で自分を表現することで、自分のグリーフの形を変えていく、自分の中で折り合いをつけていく。
現在、「母の日プロジェクト」を主宰し、母親を亡くしたひとたちから、手紙、詩、手記などメッセージを募り、文集、書籍にしている。今年で4回目になるプロジェクトである。
  母の日は誰のものか?お母さんと子どものためであろうが、その「お母さん」は「生きている」のが前提になってはいないだろうか。もともと、母の日の起源は、アメリカでお母さんを亡くした子が行った追悼のあつまりにある。そして2008年が100周年に当たると知った。
  もうこの世には生きていない、亡くなってしまった母親にギフトを贈ることはできなくても、言葉に想いをのせて届けることはできる。母の日プロジェクトと銘打って、文集を通してそんな声を届ける郵便屋さんになりたい。今、改めて母親に伝えたいこと、感謝の気持ちはもちろん、後悔、さみしさ、怒り、それぞれの心の中にある、母親への素直な「ほんとう」の気持ちを伝えてもらえればと思う。
  「何歳になっても、子どもは子ども。お母さんの子どもには変わりない。」そう言った意味から年齢制限は設けないことにしている。
  現在、母の日の文集は人の輪を広げている。投稿者の中にも「文集の中に共感し合える仲間がいて、涙を流す日がずいぶんと減った」と言っている。尾角さんの活動は、もうすでに尾角さん一人のものではないと言えるのではないかと思う。
  尾角さんは、自死で母親を亡くしたのをきっかけに、経済的、精神的、社会的な問題を複数抱えた。その中で運良くサポート資源につながることができ、今まで生きることができ、喪失の体験を希望や生きるエネルギーへと昇華させてきた。

■お寺とグリーフコミュニティ
  しかし遺児の後輩や、活動を通じて出会ってきた当事者の声を聞くと、必要なサポートにつながっていなかったり、むしろ周囲の誤解、偏見や無理解によって傷つけられている話を耳にすることが多くある。そこで、確実に必要なサポート資源につながる仕組みをまず創りだすことを考え続けている。
  グリーフのサポートが整った地域や社会というのは、痛みや悲しみを受け止める成熟した状態である。つながりのあるコミュニティ、安心して悩める間柄をグリーフサポートをきっかけにつくっていくことで、まちづくりや、ひとづくりにもつながっていく。痛みや、悲しみにフタをしない社会、むしろ闇のうちに一筋の光を見出したり、注ぎ込める社会をつくりたいと思っている。
 その中でお寺は昔から地域の拠点で、命と向き合う空間であった。グリーフケアで寺の果たす役割は大きい。

  私も全く同感だ。お寺は生と死を見つめられる文化、価値観を育む場であると思う。東日本大震災以降、なおさらそう思う。僧侶といえども、自死遺族への対応には悩みが多いと思う。しかしお寺、僧侶には、このコミュニティを再構築する責任があるとも言えるのではないか。
  私はこの日までに尾角さんの経歴はある程度知っており、母の日プロジェクトなど活動も知っていたが、今回改めて、行なっている活動と、考えを聞いて、全体のつながりが良く理解できた。尾角さんに課せられた期待や課題は大きいものであるが、それに応える能力のある尾角さんを天が選んだのでないかとさえ思った。
  これからの尾角さんの活動が楽しみであり、また私もいつか一緒にできる何かを見つけたいと思った。(浦嶋偉晃)


2011年7月10日日曜日

これからのグリーフケアのかたち

■葬儀社が主宰するグリーフケア

  去る6月18日、葬儀社 公益社のグリーフサポート「ひだまりの会」月例会の見学に参加した。
公益社は、数多くのご遺族の悲しみに接してきた経験から、葬儀だけにとどまらず社会貢献活動の一環として、グリーフサポート「ひだまりの会」の活動を2003年12月から開始している。
私が例会に参加するのは2回目だが、以前の様子については、下記のブログをご参照いただきたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html

 今回は21名のご遺族の方が来られていた。「ひだまりの会」には、ルールが二つある。1つは、「悲しみ比べをしない」。もう1つは、「(分かち合い)で起こったことは、口外しない」。この二つのルールによって、当事者にとって分かち合いの場が安全なものとなる。
 何よりも「ひだまりの会」の強みは、スタッフ間の情報共有ができていることであると思う。故人の亡くなった状況、葬儀の状況、遺族を取り巻く状況やそれぞれの気持ちなどをデータベース化しているのだが、さらに驚くのはその情報が、スタッフの頭の中に完全に入っていることだ。
 私は前回に続き、クロージングミーティングに参加させていただいたのだが、「分かち合い」の振り返りをし、一人一人の状態、そして今後のフォローをどうしていけば良いのかを話し合う。たとえば次月も月例会に誘ったほうがよいのか、数ヶ月空けたほうがよいのか、しばらくは定期的な電話のみにするのかなど、フォローのあり方について深く議論を交わす。スタッフ全員のコンセンサスのもと、方向性を共有するのである。この締めのミーティングのあり方が、本当に素晴らしいと思う。やりっぱなし、聞きっぱなしにしておかないのだ。
 昨年の春に公益社という看板を外して、「ひだまりの会」の「卒業生」が集まってNPO法人「遺族支え愛ネット」を設立した。今や会員は135名という。現在、その中の70名ほど方が、緩和ケア病棟で傾聴ボランティアをされているそうだ。すごいことだと思う。一般的に、自分の辛い体験を思い出すので、病院などそういう場を避ける傾向にあると思っていた。まさにこの人たちは、よい意味で自分の体験を客観的に捉えられるまでなられたのである。それを支えてきたのが「ひだまりの会」のスタッフの方々だ。
葬儀社によるグリーフケアの活動に対しては、営利目的の営業活動としてとらえられるおそれがあると思う。「ひだまりの会」でも、遺族に初めて会の案内の電話をする際に、遺族から警戒されることがある。そのほか、営利企業である葬儀社は、地域の自治体、医療機関との連携が困難なので、会の発足まで、社内勉強会などを重ねることを通して、医療機関や市民団体が行うグリーフケアの現状を理解する努力をしたと聞く。

■同じグリーフの体験者どうし

かけがえのない人を亡くした死別体験者を支援する「グリーフケア」という用語は、少しずつ知られるようになったが、まだまだ定着したとは言えない。しかし葬儀への世間一般の関心の高まり、超高齢化社会、死亡率が急増する多死社会の進展とともに、グリーフケアの重要性は今後ますます高まると思う。
そういった中、すでにグリーフケアを実施している様々な『自助グループ』と呼ばれる市民団体との交流がますます盛んになり、地域の社会資源との連携にまで広がることを期待する。
こういう遺族会の存在は、たった一人で立ち向かうより、同じ体験者と一緒になって立ち向かい、そしてそれぞれが別の体験を聴くことで、自らケアされるという役目をはたしている。また、「自分の経験が、他の人の役に立つ」という事実が、自尊心を回復するのではないか。傷口を舐めあうのではなく、皆で話し合って立ち直るきっかけにするということであるのであろう。
家にこもっている状態から、こういう会に出かけることで、外出着に着替え、電車から車窓の風景を見ることが、すでにグリーフサポートが始まっているのではないかと思える。
私は「ひだまりの会」のあり方が好きだ。今後も関わりを深めて、いろいろな刺激を受けさせていただければと願っている。
 私はこういう「分かち合い」を小単位からで良いので、お寺で開かれることを望んでいる。またお寺にはその可能性が大いにあると信じている。(浦嶋偉晃)

2011年6月13日月曜日

口から食べられなくなったらどうするのか。

 去る5月29日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における人工栄養を考える」に参加した。
 医療技術の発達は、これまで助からなかった多くの人々を救ってきたが、その一方で、終末期の状態にある人にまで、その技術を使うことに対しての疑問もあると思う。
 今回、京都の医師・荒金英樹さん、神戸の言語聴覚士・前田達慶さん、そして東京大学の死生学応用倫理センター・会田薫子さんの話題提供があった。
 口から食べられなくなった場合に胃ろうという処置が行われることが増えてきた。長期に渡り口から食べることが出来ない患者や、食べてもむせ込んで誤嚥などを起こす患者に対して使用され、腹壁と胃腔の間に造られた孔にチューブを通して、直接胃の中へ栄養を注入する方法である。
 現在の胃ろう栄養の患者は、50万人程度と推計されており、高齢者が増え続ける2025年くらいには100万程度に増える可能性があると言われている。
 そう言った中、今、世論は胃ろうに対して逆風であると思う。とくに昨年の2月に石飛幸三氏の著書「平穏死のすすめ」が評判になってからは、特に医療者側に顕著になってきた。今や胃ろうか平穏死かという二者択一的な傾向すらあるようにも思える。本当に胃ろうは一方的に悪なのか、それとも選択肢の一つとなり得るのかを今回を機に考えてみたいと思った。
 シンポジウムでいろいろと話を聞いて、やはり使い方によって有効な場合と、害になる場合があるようである。
 今足りないのは、インフォームド・コンセントであり、「なぜ必要なのか」、「手術内容と合併症」、「目的や治療のゴールについて」、また「メリット・デメリット」、「全ての選択肢」について医療者側にじっくりと説明をしてもらうことが大切だと思った。私の友人の親族でも、入院中に誤嚥性肺炎を起こし、急に提案をされたのだ。我々市民の駄目なところであるが、普段から勉強していない為に、何がなんだか分からないまま医療者側の言うとおりにしてしまい後悔することがある。改めて我々市民も変わらねばと考えさせられた。
 今まで私は正直、胃ろうを造設すれば、それはイコール終末期であり、二度と外すことは出来なくて、後は死を待つのみだと思っていた。しかし造設することにより確実に栄養を補給することが可能になり、身体状態を良いレベルに持っていき、また口から食べられることになることも可能であるようだ。そして不要になれば、閉鎖することも出来るようである。つまりQOLの改善をするための一時的な栄養法と言える。
 一方、認知症患者は難しい。また実際、対象者は認知症患者が多いことも確かだ。欧米の概念は、できるところまで食事介助し、それが出来なくなったときは、患者は最終段階に入ったことを理解すべきだ、というように言われていると聞く。でも正直、私にはそこまで割り切れない。色々な調査を見ると、自分のときは胃ろうなどによる延命策はいらないと言いながら、家族がそのような状態になったときには、胃ろうという延命策も選択肢に入ると答えている。日本人の死生観が固まっていないのだ。しかし欧米の死生観の直輸入が良いとも思っていない。
 老衰の過程で徐々に食べられなくなってきた高齢者に、医療者は選択肢としてこの提案する場合、患者の尊厳という観点も考えて話すべきであると思う。しかし家族にしてみれば、生死の選択を迫られて戸惑ってしまい、本人の尊厳を尊重するよりも、身内として罪悪感を感じなくてすむ選択をしてしまいがちであるのではないか。つまり普段から家族の中で延命治療について話し合っておくことが最も重要と言える。我々市民がそういう話題を避けてしまう傾向があることや、医療者側が「本人の意向」よりも「家族の意向」を安易に優先させてきた、日本の根深い非倫理的医療慣習があるのではないか。患者側も、家族に遠慮せずに自分の死生観どおりに死にたい、と声を上げるべきであると思う。
 「どのようになっても、その人らしさは失われない」、医療者をはじめ、患者を取り巻く様々な人たちの「良心」や「誠実さ」が問われているのではないか。
 この問題は超高齢社会を控えて、今後ますます議論を深めていかなければならない。その中で我々市民が何が今出来るのかを引き続き考えたい。(浦嶋偉晃)

2011年5月22日日曜日

地域力と医療との関係

 ■患者さんは皆、先生
去る5月15日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。
 開業医でもあり奈良県医師会副会長の竹村恵史さん、奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室の栗田麻美さんが登壇されて、「奈良県の在宅医療ネットワークを考える」という題で話題提供をされた。
 竹村さんは祖父の代から地域に根付いた医療をしている。医療は地域医療であるべきであり、開業医は地域の一隅にいて、住民に沿って生きていければ良い。住民、患者さんは自分の大切な先生であり、親切に日々様々なことを教えてくださる、つまり医者は何も分かっていない、世間を知らないのだ。だからこそ医者は自分の分からないことがあれば、すぐに専門家に聴き、つなげるという感性を持つべきだと言われた。
 奈良県医師会の課題として、全ての医師は、終末期ケアに対する基本的な知識を修得する必要があり、実際に在宅医療の研修をしているが、もっともっと各人が汗と恥をかいて努力しなければならないとも言われた。
 奈良県の在宅死率は全国一である。その一方で私自身は何故一番なのか?という疑問をずっと持っている。確かに優れた在宅医が多いが、決して病診連携が確立されているとは思えない。まだ属人的な部分も多い。
私が自分なりに思うつくままに要因を並べると、県内に病院が少ない、会社員が帰宅する時間が全国で一番遅い、県外就職率が一番高く、女性の就職率が低い、特別養護老人ホームが実際には大阪府の人を多く受け入れている、訪問看護ステーションが頑張っている、などが挙げられるが、どれが正解かは分からない。
 竹村さんは最後に、地域連携の枠組みが出来上がっていない。この構築がこれからの奈良県医師会の大きな課題であり、医療の目標(役割)は「『自分らしい生き方を実現する』を支援すること」である、と言われた。
 私は「医師会副会長」という名を聞いて、どんなお堅い方が来られるのかと思っていたが、日頃から地域に根付いた医療をしておられる方であり、地域の人をとても大切にされておられる方で、安心した。

 ■地域力の再構築
 栗田さんは奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室で退院調整をしている。これまで訪問看護師、ケアマネージャーを15年ほどされておられ、その時から、どうしてもっと早く自宅に帰ってこないのかと疑問に思っていたそうだ。
 現在の同病院の平均在院日数は約16日であり、退院支援の役割は、退院支援が必要な患者さんをスクリーニングし、この人が退院した時に困らないか、自宅でどんなことが出来るか、またさせてもらえるかを調査、調整する事が大きな役目だ。退院に向けた自己決定支援とも言える。退院後の療養場所には自宅、ホスピス、施設などあるが、療養場所の移行を安全、安心して行えるように、つまり退院支援により「ケア」をつなぐことが大切である。
 同病院は奈良県の中南和地区に位置する。栗田さんは、奈良県全体で今、地域力がそこなわれている。今回の東日本大震災をきっかけに再構築をしてほしいと言われた。その一方で奈良県南部(吉野郡など)では、まだまだ地域が生きている。地域の医療者は近辺の住民の健康状態を把握しており、また市町村の社会福祉協議会が中心となって強い連携を持っているところもまだまだあると言われた。
 私は改めて地域連携の大切さ、難しさを感じた。奈良県は確かに個々に優れた医療者が多いが、あくまでも全県的なネットワークではなく個々の人間関係で繋がっている傾向が見られる。
 しかしネットワークの構築を医療者だけに求めても駄目だろう。我々住民がもっと勉強して、医療者側に意見、要望を伝えなければならない。医療者側も少しずつ変わっていこうと努力をしている。だから住民ももっと変わらなければならないと思う。
 また栗田さんが冒頭に、奈良県立医科大学附属病院では「かかりつけ医」の紹介でしか診察をしないと言われた。今は大きな病院ではほとんどそのようになってようだが、しかし実際「かかりつけ医」を持っている人は一握りであろう。大病院との連携という前にまずこの「かかりつけ医」を持つことが我々住民に抜け落ちている。「かかりつけ医」をどうやって探すか、何故「かかりつけ医」を持つ必要があるのかを誰がどう広めていくのかも大きな課題だと思う。
 やはり住民や自治体が連携し,地域自ら地域医療の課題を解決していこうとする“地域力”の向上が不可欠であると思う。「住民が地域の医療を支えていく」という新たな視点から、何が自分自身に出来るかを考えなくてはならないと改めて思った。医療者による啓発活動は、医療技術的な解説に偏っていると思う。死の恐怖をどう乗り越えるのかとか、死にゆく大事に人とどう向き合うのかといった切実な問題について、しっかりと語りかける活動に乏しいと感じられる。このことについて医療者と我々がもっと議論を重ねていく場所、機会が欲しいと強く思う。(浦嶋偉晃)

2011年5月10日火曜日

人生の黄昏に至る旅~認知症を考える

■認知症とは何か
 去る4月9日、兵庫県保険医協会の第29回在宅医療研究会に参加した。
 西宮のつちやま内科クリニックの土山雅人さんがお出でになり、「認知症に基礎知識」という題で講演をされた。認知症のケースを多く扱っておられる。
 認知症患者は現在200万人を超えると推定されており、10年後には300万人に達すると言われている。これは高齢者の多く見られる疾患で、65歳以上では7~8%、85歳以上では4人に1人が認知症であると考えられている。まさに現在において地域のかかりつけ医にとっては「common disease(一般的な病気)」であると言える。
 認知症について、私が強く印象に残っているのが、アメリカのレーガン大統領がアルツハイマーにかかり、最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. (私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉である。大統領在任中の1987年にすでに兆候があったとされる。またアメリカの俳優のチャールトン・へストンがアルツハイマーであることを発表したときも、彼のファンであった私にとっては衝撃だった。しかしそれ以後も彼は映画に出て圧倒的な存在感で演じた。アルツハイマーの特徴として、新しいことは覚えることは出来ないと言われているが、病状の進行と症状の変化にはばらつきがあるのである。 
 じつは認知症の定義は難しい。一般に記憶の障害が中心になるが、記憶の障害のみでは認知症と言えない(軽度認知障害)。また認知症のなかでも初期では記憶障害が目立たない場合もある。認知症の診断には、高次脳機能検査なども重要であるが、それ以前に個々の症例における日常の生活場面での変調について情報を得て評価することが重要である。
 認知症に似た症状には、正常老化による物忘れとの違い、うつ病との区別、薬剤性のせん妄などとの切り分けが重要にもなってくる。非常に判定の難しい症状とも言える。
 認知症をきたす疾患として、①変性型認知症として、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症の3種類があり、他に②脳血管性認知症があり、アルツハイマー型が全体の50%を占める。(ここではそれぞれの特徴について深く述べない)

■認知症と地域コミュニティ
 変性型認知症に3種類あると言ったが、根本的に問題なのはそれぞれ症状が違い、治療法も違うのに、これを見極められる医師が大変少ないということだ。
 介護面から見ても、介護力不足の家庭をどう支えるか、介護施設で認知症者の対応は出来ているのか、そして福祉面から見れば、認知症について誰に相談すれば良いのか、地域における認知症家庭のセーフティネットはあるのか、患者会、ボランティア団体などのインフォーマルサービスは活用されているのか、などの問題点が山積している。さらに身寄りのない認認家庭、認知症以外の身体疾患の管理などもあげられる。
 認知症患者さんの看取りの場所として、在宅、病院、施設などがあげられるが、終末像の多様性と様々な延命処置として、胃瘻の問題もあげられる。胃瘻をするかどうかの意思を認知症患者さん自身は示すことができない。ここに家族の意向と経過に伴う心境の変化もからむ。これはこれからもっと議論を重ねなければならない課題と思う。
 土山先生が最後に、認知症には医学的アプローチより、ケア的アプローチが大事である。薬物療法はほんの少しだけで、身体管理をいかにきちんと行うかがポイントであると言われた。昔は認知症の人は地域コミュニティの連携があったので、医療の必要がなかったそうである。これは大きなポイントと思った。
 個人的なことを言わせてもらえば、私の父親が脳梗塞を患っているので、脳血管性認知症の心配をずっとしている。というより心に大きく引っかかりながら、あえて認知症に触れるのを避けていた。それはやはり怖いという気持ちである。しかし土山先生のご講演をお聞きして、周りが早めに判断して、的確な診断、治療をしてもらえれば、進行を遅らせ、良い介護を行えると言うことが理解できた。またデイケアなどの施設の役割も大きく関わってくるので、ここにも注力を充てたい。
 認知症の方が暮らしやすい社会は、一般の高齢者や子どもたちにとっても優しい社会であるはずである。そういう社会を取り戻すのが大切である。(浦嶋偉晃)

2011年5月4日水曜日

「すべては患者さんのために~長崎Dr.ネットの挑戦」

■ひとりに主治医を多数の医師が支える仕組み
 去る3月19日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。長崎の出口外科医院の出口雅浩さんが登壇され、「長崎における地域医療連携ネットワークの構築~長崎Dr.ネットの挑戦」という題で話題提供をされた。地方都市で、24時間の在宅対応されている先行例として知られている。
 「長崎在宅Dr.ネット」は、在宅訪問診療や往診を複数の医師が連携して行ない、複数の医師が連携して24時間対応を実現し、患者さんが安心して在宅療養を行えるようにすることを目的とし、平成15年3月に結成された。実際には、患者さんの居住地域にあわせて、主治医を決め、さらに、副主治医がバックアップとして控え、訪問診療の分担や万が一の際の緊急対応をおこなうシステムである。
 主治医は、主となって訪問診療・治療に当たる、一方、副主治医は主治医を補佐して訪問診療の分担や、万が一の際の緊急対応を行う。必要に応じて複数の副主治医を各医師の専門性を考慮して決定する。現在長崎市内の診療所の医師69名が登録をしている。
 考え方として、①在宅医療を希望する方が、医師に対応できないという理由で自宅に帰れないことが無いようにする(24時間365日の対応)、②自宅で療養できるだけでなく、入院中に受けたのと同様の医療を受けられることを目指す、③医療・介護・福祉等と連携し、最適な在宅医療を提供する、ことを基本としている。
そもそも8年前にDr.ネットを作ったのは、もともとは情報交換をしていた医師どうしお互い電話でアドバイスをしていたが、その内に、それじゃあ、あなたが代わりに行ってくださいよという感じになり、仲良しグループが形成されていって、Dr.ネットに繋がったようである。ここでも人間関係が基本だ。
 実際の流れだが、入院中の場合、現在入院中だが、自宅へ帰りたい患者さんやその御家族はまず主治医の先生と相談し、自宅療養が可能と判断していただいた場合、まず従来からのかかりつけの開業医の先生と相談。しかし、残念ながら往診や在宅訪問診療を頼めない場合「長崎在宅Dr.ネット」への問い合わせとなる。入院中の病院の主治医、看護師、又は地域連携室の方に相談して「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡する。また自宅療養中の場合は、現在の主治医の先生(かかりつけ医)とよく相談し、それでも在宅診療への対応が困難な場合「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡するということになる。
 主治医と副主治医の連携であるが、副主治医がサブで同行するわけではない。行けば医療費負担が2倍かかることになる。最初に一緒にご挨拶に行く程度で、家の間取りが分かるようにという感じである。あくまでも目的は、一人の主治医を多数の医師が支え、それによって頑張れる仕組み作りである。
実際のところ、主治医と副主治医の報酬の分配は、例えれば副主治医はビール1本程度とか。お互い様という感覚だろう。基本的には、副主治医の出番はないようにしているとのことである。
 一方で欠点として、患者さんが主治医を選べない、正直そりが合わない場合も少なくないという。その場合は再度病院に相談して、仕切り直しをするそうである。

■地域の特性を活かした在宅医療の在り方を
 じつは長崎は在宅死率は下位だが、奈良は全国一番を誇っている。奈良の制度もマッチしている。
 私が一番疑問に思ったのは、主治医と副主治医の関係である。基本的には副主治医が訪問診療しない、報酬がないというのが長崎の原則であるが、やはり奈良のように副主治医ももっと入っていく必要があるのではないかと思う。奈良では副主治医もコンスタントに訪問診療するため、患者さんを把握している。長崎ではそれがないのが、患者さんの不安感を与えるのでないかと感じた。このことを、最後に質問できなかったのが残念である。
 一方、長崎県が在宅死率が低い理由は、病院が多いからとのこと。原爆の関係で都市の規模に対し、非常に病院が多く、常時ベッドが空いているそうである。その分、レスパイトケアが出来やすい。また長崎は坂が多く、道がなく自動車で診療にいけない。また離島が多く、一旦自宅に帰ったら、病院に戻りにくいのでなかなか自宅に帰らないということがあるという。
 今後の長崎Dr.ネットの課題は、新人在宅医をいかに育てるかだ。そして参加医師の人数が県内の地域でばらつきがあるので、もっとネットワークを強めていきたいと言われた。
 奈良にも同様の事態があるが、在宅医の疲弊をいかに改善するかが、課題だ。長崎Dr.ネットの挑戦が在宅療養比率を向上させる取り組みであることは確かだと思った。日本全国でスタンダードな形というのは有り得ないと思うし、各地域の特性を考慮し、どうカスタマイズするかも課題である。
 今後、在宅医療の推進には、末期者はその家族だけが考えていたのでは不充分だろう。学校や家庭、地域社会にあける日常において「死」を、避けるべきものではなく、「皆がいつかは向き合うこと」としてフランクに話し合うベースを築くことがますます大事になっていくと思う。そこで初めて地域社会の中で在宅医療が根付き、成長していくと思う。(浦嶋偉晃)

2011年3月7日月曜日

お寺はまだ生きている。

「新潮社の広報紙「波」に掲載された一文です。転載します」

 昨年は、お寺バッシングの風が吹き荒れた。1月、『葬式は、要らない』がベストセラーとなって、これに週刊各誌が追随、A誌では「『お寺』はもういらない」を特集した。また5月に、葬祭業に進出した最大手スーパーが「お布施の目安」をネット上に公開、最近ではコンビニ全国チェーンが、葬儀の受注を検討中だ。
 仏教界の危機感にも火がついた。全日本仏教会の「お布施」シンポジウムをはじめ、各宗派・教団で俄に葬式仏教総点検が始まった。葬式を巡る議論が活発化するのは結構だが、「そもそも仏教では……」と説明を尽くしても、市民には建前にしか聞こえない。このままでは、人口が減る、檀家が減る、布施収入は減って、寺は滅びる? 日本に7万8千ある寺院のいくつが生き残るのか。ある識者は「50年後、6千まで減る」と断言する(慶応義塾大学・中島隆信教授)。
 1997年に、大阪の都心に新しい寺・應典院を建てた。本堂は小劇場、セミナールームやギャラリーも付設している、異貌の寺である。檀家がいないので、最初から「葬式をしない」と宣言をした。その代わり、こころの文化拠点として、若い芸術家やNPOと協働して数々の場を作り上げてきた。催しの数は大小合わせて年間百件以上。寺は夜十時までにぎわい、訪れる若者は年3万人を超える。
 もちろん、私は葬式無用論に与するつもりはない。規模や形態は変わっても、葬式は日本仏教の王道であることに違いはない。ただ寺院経済と不可分となった現在の葬式は、もはや制度疲労を来たしているといっていいだろう。地域共同体や先祖供養が衰え、無縁社会といわれる今、寺院再生のためには、新たな模索が必要なのだ。
 「葬式をしない寺」應典院が取り組んだものは、「寺=葬式」という凝り固まった枠組みを外して、創造資源としての寺の可能性を徹底的に掘り起こすことであった。演劇、美術展、講演会、ワークショップ……寺に、誰も考えたことのない、多種多様な場と関係性を呼び込んだ。担い手は、仕事もお金もない若者たち。ゼロから何かを創造していくプロセスで、彼らは学校や社会では教わらない、たいせつなものに出会う。フリーター、ニート、就職難民と、時代からはじかれた若者が、寺で「生き直し」を図るのだ。
 「こんな寺、ありなのか」と、周囲ではいぶかる声もある。逆に私は、そもそも寺とは何をする場所なのか、と問い返す。「葬式しかしない寺」からは、仏教の何事かが立ち現れる機会は決定的に乏しい。制度と慣習に安住していては、創意も挑戦も生まれることはない。
 寺は生きている。社会と向き合い、人々と対話を繰り返し、世俗と格闘しながら、寺は寺になっていくのである。
 應典院は呼吸する寺なのだ。(秋田光彦)

2011年2月15日火曜日

がん患者さんにかかわるということ

■医師と患者の壁

 去る1月22日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。奈良県立医科大学附属病院 医療サービス課相談係の川本たか子さんがお出でになり、「がん患者さんにかかわって」という題で話題提供をされた。
 川本さんは27年間の看護師経験を経て、奈良県立医科大学附属病院で相談業務に就かれて、今年で3年になられる。
 現在、奈良県内に6箇所のがん診療連携拠点病院があるが、その役割の一つとして、「がん患者・家族に対する相談支援・情報提供」があり、それぞれの病院にがん相談支援センターが設立されている。
 センターの役割として、がんに関するいろいろな悩みや疑問、そして医療費のこと、セカンドオピニオンなど様々なことがあるが、私が気になったのは、「病状や治療方法についてよくわからない」という項目だった。川本さんが言われたのは、患者側に、こんなこと医師に聞くと失礼になるのでは、という遠慮がまだまだ根強く残っているという。この点が気になりながらも、続けてお話を聞いていた。
 看護師、社会福祉士を始め様々な方々が相談員をしておられるが、国立がんセンターの相談員研修を受講された方が相談員の資格を持ち、相談は無料で、その病院で治療を受けていない患者・家族の方でも相談ができるそうである。相談の場はやはり、直接来られる対面面談が多数を占めるが、川本さんの悩みは、現在入院中の方、外来に来られている方で相談者があまりいないこと。もっと増えてほしいと言われていた。
 相談内容としては一番多いのが、「社会的・経済的な問題」で、医療費・生活費の悩みや介護保険の適用の可否の問い合わせであり、2番目として「診療治療に関すること」で、がんの検査・治療、医療者との関係、診断治療の理解・選択である。私が思うにはこれは医師との関係の中で解決している問題かと思ったが、やはり患者と医師の間に未だに「壁」が存在しているようだ。ここでさっきの気になる点が改めて出てきた。
 今、世間では、「良い患者さん」になれ、とか言うが、そんなことはなかなか簡単に出来そうにない。患者は常に限りなく医療者に遠慮し、忙しいのにこんなことを聞いて良いのか、もう一度聞いたら申し訳ない、こんなこと聞いたら失礼じゃないだろうかという自己規制があり、聞きにくい。そのことが今回の川本さんのデータから改めて浮き彫りになった。
 また、がん対策基本計画の中に、がん患者や家族等が心の悩み体験を語り合う場を提供する活動を促進する、というのがあり、各所に「がんサロン」が設立されている。現在、奈良県内でも4つの病院にあり、定期的に患者・家族の出会いの場、情報交換やお互いの気持ちを聴きあう場を提供している。やはり患者さんや家族の方が、体験した人でなければ分からない「辛さ」や「生活上の工夫」などを語り合う場となっている。またいつでも予約なしで、無料で、気が向いたときに参加できる仕組みになっている。
今後の相談支援センター・患者サロンの充実に向けた課題として、
 ①利用者が増加しない→相談支援センター(窓口)の案内不足
 ②相談体制の整備→相談支援の窓口が複数の業務を担当していて、数、質ともに不足している、
というのが掲げられる。
 今後はいかに認知度を高めるための活動を続けていくのかが大きなポイントだろう。なかなか病院内での組織の無理解というのもある、組織の障壁はどこの世界でもあることなので、川本さんたちが、その中で負けずに進めていっていただくためのフォローを私たち市民が出来ればと強く思った。

■がんサロンという場所の可能性

 続いて、「がんサロンに参加して」というテーマで、がん患者の立場から野村佳子さんがお話しになられた。
 野村さんは膵臓がんを患われたが、今はお元気で「がんサロン」などでピアサポーターとして精力的に活動をされている。
 野村さんは、家族や知人に病気のことを相談するとかえって心配させてしまうが、「がんサロン」では、全てのさらけ出せるのが良い点であり、1ヶ月毎のサロンに参加することが次の目標になり、励みになったという。サロンの皆さんと、このひと月の間にどのようなことがあったかを報告しあうようになり、それが良い目標になったそうである。サロンの人の中で、「がん患者のイメージを変えたい」と、積極的にスポーツに参加する人を見て、「死」までの時間を大切にどう送るかを考えるようになった。また同世代の患者さんと家族、子ども、生活のことを気軽に話し合えるようになり、今までのように助けられるだけでなく、自分には他の人を助ける立場になれることが出来るということに気づかれ、それがとても励みになったという。
 一方で、サロンをいかに広げるかを常に考えている。なかなか県相手には難しい面もあるが、現在では市町村の広報誌に案内を掲載してもらえるようにまでなった。もっともっと気軽に参加して欲しい、病院によって特色があって面白いと、力強く言われた。
 今後サロンに望むのは、患者の思いを受け止める、温かな場所であってほしい、やはり外では泣けないのが本音である、そしてもっとも手軽な緩和ケアの場であると言われた。
 野村さんが最後に言われたのは、自分は転移したときに失望したが、サロンの存在が心強かった。生きる希望をいかに持つかが大事である。他の頑張っている人を見て、自分も他の人を元気づけることができる立場になれるんだ、と繰り返し言われた。そして何よりも、今は自分の病気のことを人前で言えるようになれたと言われた。まだ、「がんサロン」に対して理解のない病院があることも確かだ。だが、野村さんのように情熱を持たれた方がいらっしゃるのは本当に心強いこと。それに他の人にまで気持ちが行くようになったというのはすごいことだと思った。
 今日は川本さん、野村さんのお話をお聞きして、がん治療にとって3大治療以外にどれほど大切なものがあるのか気づかされた。私もがん相談支援センター、がんサロンについて、いろいろな方々にPRをしたいと思った。とても勇気の出る話をお聞きした。
 最後に勉強会が終わって、帰り際に川本さんに2つの質問をした。1つは患者・家族と医療者の壁について。川本さんは「壁は大きく存在しています」と言われた。つぎに今後、グリーフケアの相談についてどのように対応しますか、と尋ねたが、やはりご遺族からの電話はあるそうで、今はただお聞きするしかないと。今後はきちんとグリーフケアの研修を受けることを考えていると言われたのが印象的だった。(浦嶋偉晃)

2011年2月4日金曜日

年越いのちの村。悲しみに寄り添う。

 應典院で、「グリーフタイム」を定期的に催している尾角光美さんは、大学入学目前の19歳の冬、同居していたお母さんを自死で喪いました。事業に失敗した父親はその直前に出奔、一気に両親を失くした尾角さんは失意と苦悩が襲いました。
 私が出会った頃の尾角さんは、同じ境遇の自死遺児たちと東京や京都でネットワークを作り上げていました。次第に社会起業に目覚め、遺族支援の市民団体リブ・オン(生き続けるの意)を創設、去年あたりからの活躍は目覚ましく、僧侶や葬儀社に向けた研修会や中高生向けのいのちの授業の講師などを務めています。
 その尾角さんから「大晦日らから元旦に、お寺で年越村ができないか」と相談を受けました。人間関係に苦しみ、帰る場所もなく、孤独感を抱いた人たちが身を寄せて「生き続けるための場所」。見知らぬ者どうしでも、正月のある暮らしをみんなで分かち合えれば。それには、お寺こそふさわしい。自死問題をずっと考えてきた尾角さんらしい企画でした。
 昨年12月31日の大晦日、若い世代を中心に25名の人々が集まりました。会場となった應典院の部屋には、「年越いのちの村」の書が貼り出されました。多くはボランティアでしたが、中には「何度も死のうと思った」という男女の顔をありました。自殺未遂を繰り返した中年男性、発達障害を抱え、いじめに遭った女性、30代の引きこもりの男性…思いつめた表情の彼らも、最初は見知らぬ人の輪に溶け込むことに苦労しているようでした。
 固かった関係が絆に近づいたのは、意外なことに、正月の習わしでした。ボランティアがつくった年越しそばを食べる、みんなで大蓮寺の除夜の鐘を撞く、お雑煮や書き初めや、そういう年中行事を共有するに伴い、参加者の口からゆっくりと境遇が語られ始めました。
 「人間はひとり取り残されて、生きづらさを感じてしまうことがあります。病苦や経済問題より深刻なのは、苦しい時に支えとなる人とのつながりのないこと」(尾角さん)
 社会保障が充実すれば、心の痛みや生きづらさが克服できるわけではありません。どんな手の込んだサービスより、たいせつなものは、生きることを支えるつながりの感覚、あなたに寄り添う他者の存在ではないでしょうか。
 初めて会った者どうし、言葉(理)だけで共通理解は進まない。それをシンクロさせたのは、当たり前の年中行事を一緒に務めながら伝わった悲しみの体温ではなかったかと思います。大勢いたボランティアの中にも、悲苦を抱えた人がいました。彼らは悲しみの解決者ではなく、悲苦に寄り添う「同苦同悲」の存在だったのでしょう。
 もうひとつ気づいたことがあります。
 この集いに準備段階から、尾角さんのサポーターのように協力する、若い僧侶の姿がありました。大切な人を喪ったグリーフをどう支えるのか、僧侶である自分に何ができるのか---ひとりの市民が磁力となって、同じ思いを抱える若い僧侶たちが集まってきていたのです。
 自死者の遺族に不用意な言葉を吐いて、顰蹙を買う僧侶がいるといいます。ただ語ればいいというような安易な布教根性では通じない、ここは文字通り「同事」(四摂事のひとつで、他者と苦楽を共にすること)の集いではなかったかと思います。
 つながりとは、誰かが誰かに与えるものではない。人と人が思いやり、支えあう関係性の中から自ずと生起してくるものなのです。それは「慈悲」の真の姿に近い、と思います。
 1月1日正午、閉村式を行いました。参加した女性の言葉--- 。 「皆が支えてくれて、私のいのちは、私だけのものじゃない、と感じました」
(秋田光彦)


<参加者と大蓮寺本堂で新年の回向をつとめる>

2011年1月27日木曜日

シンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」を聴講して。

 去る1月15日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」に参加した。
 1976年を境に自宅死と病院死が逆転する中、自宅でのターミナルケアや慢性疾患の療養等への対応を支えるため新設された在宅療養支援診療所制度が2006年からスタートし、訪問看護ステーションのサービスも広がってきたが、他方で同じ2006年に創設された特別養護老人ホームにおける「看取り介護加算」が、2009年4月の介護報酬改定では、グループホームにまで認められるようになり、在宅での看取りが復活しつつあるとともに、施設での看取りが増える傾向にある。
 会場には多くの方々が来られ、施設関係者、現在入居施設を探そうとしている人、またこれから施設を開設しようとしている人などが大勢を占めた。
 今回、京都の2施設、神戸の1施設の方々が話題提供をされた。どこも定員は60名前後で、入居者の平均要介護度は4である。
 最初に「施設看取りの実践と職員の想い」では、京都の特養の生活相談員が報告をされた。その特養では、年間20名弱の看取りがあるが、希望者は年々増えていて、実際には契約時に看護師が同席して、看取りの意向を確認するそうである。むろん、職員はそれまでに死の場面に遭遇する機会がなく、入居者の「死」を受け入れることは容易ではない。だが逆に安らかな、満足された「死」を見ているうちに、終末期を日常生活の延長としてとらえ、その人らしい看取りをしてあげたいと思うようになったという。
 看取りに対する現在の課題として、夜間の不安があげられる。30名の入居者に対して夜勤者は1名だそうである。それと終末期の人が優先され、自ずとケアが手厚くなるが、逆に他の入居者へのケアが低下することが懸念される。そして何よりも職員のメンタルケアが必要である。入居者の「死」という悲痛な気持ちをいかにサポートしあうかが大切だと言われた。
 しかし、この仕事を続けていけるのは、入居者の「ありがとう」という言葉と「おだやかな寝顔」というのは、救われた気がした。
 「高齢者施設における看取りケアを支えるチームのマネジメント」で話題提供をされたのは、京都の高齢者福祉総合施設の施設長だった。お話の中で印象的だったのは、施設の中で、生活の中の「音」が大事である、という指摘だった。家具や備えの備品、キッチンや居間の設備に加えて、生活音にも配慮が必要である。また、生活の中の「匂い」も重要で、不快な匂いを出来るだけ軽減し、花の香り、珈琲の香りが漂うように配慮しているという。
 最後に神戸市長田区の特養の方が、「もうひとつの家(高齢者施設)でもうひとつの家族に看取られて」と話題提供をされた。福祉の必要性が浮き彫りになったのは、阪神淡路大震災であり、震災後の生活の厳しい中、多くの善意が集まり、延べ1万人から2億4千万円の寄付があり、設立されたそうである。
 3つの施設ともそうであったが、入居者は8割以上が地域の方である。この特養の理念として、①地域の人たちの参加で、お互いがお互いを支えあうこと、②高齢者の歩んできた人生、人との交わりを大切にし、心を持ち込めること、③福祉と医療の連携を強めながら、地域の人たちと共に福祉あふれる街、明るいまちづくりをすすめることなど、やはり地域コミュニティの力はなくてはならないと感じた。在宅での看取りの課題点と全く同じだと思った。
 3人の方が言われた共通したことであるが少し総花的な言い方になるが、①高齢者施設に質の悪いところが少なくない、②最初は死の兆候が分からなかったが、段々と分かってきた、③いろいろな専門職(特に嘱託医)との連携が大事である。以上のようにまだまだ発展途上であるが、毎日悩みながらも進めて行っているとのことであった。
 「施設での看取り」というのは、これからの大きな課題である。
 実際は看取りまでをしていない施設はまだまだたくさんある。今後どうして施設を増やしていけばいいのか、という関心も大きいが、会場から多く質問があったのは、どのようにすれば良い施設に巡り合えるのかということであった。在宅ホスピスの医師がどこにいるかが認知されていないのと同様に、どこに施設があるのかが分からない。市町村によってマップやパンフレットを作成しているところもあるが、やはりまだ少ない。現状での解決方法はとにかく役所、地域包括センターに聞いて、片っ端から見学に行くことしかないようである。ポイントは、施設長から受ける印象だという。せっかく良い施設に入ったのに、施設長が代わって雰囲気がガラリと違ってしまうことも多々あるようである。
 現在、在宅死の率が頭打ちの状態だ。これからは政府が発表する数字には施設も含まれていくと言われている。まだまだ施設が少ない。300人の待機者がいる施設もざらにある。
 私自身は在宅死を望んでいるが、世帯の変化や家族の多様化によって今後は施設死という選択肢も入れざるを得ない状況にあるだろう。施設の数の増加、中身の充実について、もっともっと真剣に取り組まなければならない課題だと思った。(浦嶋偉晃)

<参考>
今回このシンポジウムを主催した「ケアの臨床哲学」研究会とは、神戸を中心に活動している「患者のウェル・リビングを考える会」と京都を中心に活動している「〈ケア〉を考える会」を繋ぎながら、大阪大学大学院(臨床哲学)の教員(代表:浜渦辰二)・院生・学部生および一般の方々の有志で運営されている集まりである。医療施設で行われるケアの問題と高齢者施設で行われるケアの問題、さらに家庭で行われる在宅ケアも含め、これらは決して別々のものではないと考え、両者が繋がるところでケアの持つ問題を臨床哲学的に動きながら考えたいと集まった研究会である。