2011年1月27日木曜日

シンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」を聴講して。

 去る1月15日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」に参加した。
 1976年を境に自宅死と病院死が逆転する中、自宅でのターミナルケアや慢性疾患の療養等への対応を支えるため新設された在宅療養支援診療所制度が2006年からスタートし、訪問看護ステーションのサービスも広がってきたが、他方で同じ2006年に創設された特別養護老人ホームにおける「看取り介護加算」が、2009年4月の介護報酬改定では、グループホームにまで認められるようになり、在宅での看取りが復活しつつあるとともに、施設での看取りが増える傾向にある。
 会場には多くの方々が来られ、施設関係者、現在入居施設を探そうとしている人、またこれから施設を開設しようとしている人などが大勢を占めた。
 今回、京都の2施設、神戸の1施設の方々が話題提供をされた。どこも定員は60名前後で、入居者の平均要介護度は4である。
 最初に「施設看取りの実践と職員の想い」では、京都の特養の生活相談員が報告をされた。その特養では、年間20名弱の看取りがあるが、希望者は年々増えていて、実際には契約時に看護師が同席して、看取りの意向を確認するそうである。むろん、職員はそれまでに死の場面に遭遇する機会がなく、入居者の「死」を受け入れることは容易ではない。だが逆に安らかな、満足された「死」を見ているうちに、終末期を日常生活の延長としてとらえ、その人らしい看取りをしてあげたいと思うようになったという。
 看取りに対する現在の課題として、夜間の不安があげられる。30名の入居者に対して夜勤者は1名だそうである。それと終末期の人が優先され、自ずとケアが手厚くなるが、逆に他の入居者へのケアが低下することが懸念される。そして何よりも職員のメンタルケアが必要である。入居者の「死」という悲痛な気持ちをいかにサポートしあうかが大切だと言われた。
 しかし、この仕事を続けていけるのは、入居者の「ありがとう」という言葉と「おだやかな寝顔」というのは、救われた気がした。
 「高齢者施設における看取りケアを支えるチームのマネジメント」で話題提供をされたのは、京都の高齢者福祉総合施設の施設長だった。お話の中で印象的だったのは、施設の中で、生活の中の「音」が大事である、という指摘だった。家具や備えの備品、キッチンや居間の設備に加えて、生活音にも配慮が必要である。また、生活の中の「匂い」も重要で、不快な匂いを出来るだけ軽減し、花の香り、珈琲の香りが漂うように配慮しているという。
 最後に神戸市長田区の特養の方が、「もうひとつの家(高齢者施設)でもうひとつの家族に看取られて」と話題提供をされた。福祉の必要性が浮き彫りになったのは、阪神淡路大震災であり、震災後の生活の厳しい中、多くの善意が集まり、延べ1万人から2億4千万円の寄付があり、設立されたそうである。
 3つの施設ともそうであったが、入居者は8割以上が地域の方である。この特養の理念として、①地域の人たちの参加で、お互いがお互いを支えあうこと、②高齢者の歩んできた人生、人との交わりを大切にし、心を持ち込めること、③福祉と医療の連携を強めながら、地域の人たちと共に福祉あふれる街、明るいまちづくりをすすめることなど、やはり地域コミュニティの力はなくてはならないと感じた。在宅での看取りの課題点と全く同じだと思った。
 3人の方が言われた共通したことであるが少し総花的な言い方になるが、①高齢者施設に質の悪いところが少なくない、②最初は死の兆候が分からなかったが、段々と分かってきた、③いろいろな専門職(特に嘱託医)との連携が大事である。以上のようにまだまだ発展途上であるが、毎日悩みながらも進めて行っているとのことであった。
 「施設での看取り」というのは、これからの大きな課題である。
 実際は看取りまでをしていない施設はまだまだたくさんある。今後どうして施設を増やしていけばいいのか、という関心も大きいが、会場から多く質問があったのは、どのようにすれば良い施設に巡り合えるのかということであった。在宅ホスピスの医師がどこにいるかが認知されていないのと同様に、どこに施設があるのかが分からない。市町村によってマップやパンフレットを作成しているところもあるが、やはりまだ少ない。現状での解決方法はとにかく役所、地域包括センターに聞いて、片っ端から見学に行くことしかないようである。ポイントは、施設長から受ける印象だという。せっかく良い施設に入ったのに、施設長が代わって雰囲気がガラリと違ってしまうことも多々あるようである。
 現在、在宅死の率が頭打ちの状態だ。これからは政府が発表する数字には施設も含まれていくと言われている。まだまだ施設が少ない。300人の待機者がいる施設もざらにある。
 私自身は在宅死を望んでいるが、世帯の変化や家族の多様化によって今後は施設死という選択肢も入れざるを得ない状況にあるだろう。施設の数の増加、中身の充実について、もっともっと真剣に取り組まなければならない課題だと思った。(浦嶋偉晃)

<参考>
今回このシンポジウムを主催した「ケアの臨床哲学」研究会とは、神戸を中心に活動している「患者のウェル・リビングを考える会」と京都を中心に活動している「〈ケア〉を考える会」を繋ぎながら、大阪大学大学院(臨床哲学)の教員(代表:浜渦辰二)・院生・学部生および一般の方々の有志で運営されている集まりである。医療施設で行われるケアの問題と高齢者施設で行われるケアの問題、さらに家庭で行われる在宅ケアも含め、これらは決して別々のものではないと考え、両者が繋がるところでケアの持つ問題を臨床哲学的に動きながら考えたいと集まった研究会である。