<?xml version='1.0' encoding='UTF-8'?><?xml-stylesheet href="http://www.blogger.com/styles/atom.css" type="text/css"?><feed xmlns='http://www.w3.org/2005/Atom' xmlns:openSearch='http://a9.com/-/spec/opensearchrss/1.0/' xmlns:georss='http://www.georss.org/georss' xmlns:gd='http://schemas.google.com/g/2005' xmlns:thr='http://purl.org/syndication/thread/1.0'><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917</id><updated>2011-11-25T19:15:26.242+09:00</updated><category term='ごあいさつ'/><category term='講演会・イベント案内'/><category term='いまい内科クリニック院長・今井信行さんインタビュー'/><category term='エンディング・インタビュー'/><category term='セミナー概要'/><category term='夏のエンディングセミナー報告'/><category term='秋田光彦住職の問い'/><category term='夏のエンディングセミナー2011 報告'/><category term='アットホームホスピス代表・吉田利康さんインタビュー'/><category term='＜みとりびと＞な人々'/><category term='夏のエンディングセミナー2010 報告'/><category term='山口洋典主幹の視線'/><category term='公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー'/><category term='ＢＯＯＫガイド'/><title type='text'>みとりびとは、いく</title><subtitle type='html'>大蓮寺・エンディングを考える市民の会がお届けする、＜いのち＞を支えることの意味を考えるブログです。</subtitle><link rel='http://schemas.google.com/g/2005#feed' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/posts/default'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default?max-results=100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/'/><link rel='hub' href='http://pubsubhubbub.appspot.com/'/><author><name>山口洋典</name><uri>http://www.blogger.com/profile/02676091836103292543</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><generator version='7.00' uri='http://www.blogger.com'>Blogger</generator><openSearch:totalResults>87</openSearch:totalResults><openSearch:startIndex>1</openSearch:startIndex><openSearch:itemsPerPage>100</openSearch:itemsPerPage><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8360720058970234100</id><published>2011-08-31T12:20:00.003+09:00</published><updated>2011-08-31T12:29:06.384+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー2011 報告'/><title type='text'>グリーフワークとしての葬送を考える～エンディングセミナーにて、小谷みどりさんの話を聞く。</title><content type='html'>　去る7月30日、應典院で開催された「夏のエンディングセミナー2011」において「グリーフワークとしての葬送を考える」という題で、小谷みどりさんの講演を聞いた。&lt;br /&gt;　小谷さんは、第一生命経済研究所主任研究員であり、終末期医療から葬送までを生活設計の視点からとらえ、「エンディングデザイン」を提唱する。専門は生活設計論，死生学，葬送問題。『変わるお葬式、消えるお墓』『おとむらい新世紀』など著書多数。&lt;br /&gt;　今回、日本人の死生観や葬送の多様化、そしてエンディングデザインについて、研究者ならではの統計データを駆使した講演であった。&lt;br /&gt;　冒頭に、葬送儀礼はグリーフワークとして機能しているのか、またグリーフワーク自体が必要なのか、人が亡くなって悲しいのか、と立て続けに問いがあった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■葬送の変容の背景&lt;br /&gt;　最近、「死」の意味合いが変わってきた。一つは高齢者の死が増えてきたことである。特に後期高齢者の死になると、悲しさより安堵の気持ちがあり、周りも納得する死であると言える。&lt;br /&gt;　また高齢社会が成熟した日本は，「多死社会」を迎えている。死の迎え方や価値観の多様化に伴い，葬送に対する意識も多様化している。家族葬や故人らしさを求める傾向が顕著になり，宗教色のないお葬式など，しきたりにとらわれない人たちも珍しくない。&lt;br /&gt;　そして病院死の増加である。2008年度では85%で、病院で死ぬのがあたりまえになり、家で看取るのと違い、死に目に会えなくなる機会が増えてきている。&lt;br /&gt;　長患いを経て、超高齢で亡くなるというのが、今の日本人のイメージであり、予期できない死ではなく、納得できる死であり、天寿を全うしたと思える死が圧倒的に多くなり、そういった背景の中で昨年、葬式はいらないのではないかという話題になったのではないか。&lt;br /&gt;　またこれからは配偶者がいない、家族がいない男性が増えていくのではないか。2005年の統計上、男性の生涯未婚の率が6人に1人になっていて、さらに少しずつ増え続けている。これまでは高齢者の一人暮らしとは配偶者（男性）を亡くした女性が対象になっていた。これからは結婚したことがなく、家族がいない男性が高齢で亡くなった場合が問題である。特に親族が少ない場合は深刻である。男性一人暮らし世帯において、「会話頻度が１週間に１回以下、ほとんど話しをしない人」が11.8%を占めているという統計がある。この数字を見て、我々は気づかないのだ。ピンとこない。なぜかと言えば、そういう人たちは社会から埋没してしまって、我々にとって気づかない存在なのだ。これが社会の無縁化だと言えるのではないか。&lt;br /&gt;　そういった中、死の自己決定が必要になってくる。日本人には、ぽっくり信仰が多い。人に迷惑をかけない死に方が、良き死という価値観を高齢者の多くが持っている。特に延命措置を拒否する高齢者が多いが、やはり家族に迷惑をかけたくないと言う思いが働いている。&lt;br /&gt;一方で高齢者の自殺は、大家族の高齢者に多いのだ。これも子や孫に迷惑をかけたくないという気持ちがあるのではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■人称別の死とエンディングデザイン&lt;br /&gt;　人称別の死とエンディングデザインであるが、自分が死んだときと、大切な人が亡くなったときでは違う。二人称ではお墓参りに行きたいと思うが、自分のときはお墓はいらないと言う。それは延命治療にも言える。自分に死が迫っている場合はいらないと言うが、家族の場合はどうするかと言うと、延命治療をしてほしいという人が増える。&lt;br /&gt;　死の分類として4つに分けられる。医学的な死、法的な死、社会的な死、文化的な死であるが、葬送はどこに関わっているのか。社会的な死とは、家の中に閉じこもっている、忘れられている人のことを言う。文化的な死において日本人はなかなか死なない。お盆であり、お墓参りで、亡くなった方の好きだった食べ物を供えるのだ。死んだ人との心の繋がりがある。亡くなったが、文化的には亡くならないのだ。&lt;br /&gt;　葬送儀礼の役割において、死者と向き合う時間が重要なのではないか。儀礼は大切である。日本人は死別の悲嘆からの立ち直りが欧米から比べて早いと言われている。それは仏壇に向かって話しかけたり、鴨居の写真に話しかけたり、日本の家屋には元来、死んだ人と共存する装置があちこちにあった。しかし現在ではその装置がだんだん少なくなり、また儀礼が無くなってきて、亡くなった人と向き合う時間がなくなっている。そして亡くなった人と一緒に暮らしているんだという感覚も無くなってきて、欧米と同じ、悲嘆の問題が取りざたされるようになったのではないか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私もマンションに住んでいて、仏壇などの置き場所がない。欧米にはない、日本独自の「死んだ人と共存する装置」が、死者と対峙する時間を作り出し、遺族の生活の中に死者の居場所を見出すし、もう一度新しい関係を結んでいくということがグリーフワークに繋がっていくのではないか。&lt;br /&gt;　このお盆は、先日亡くなった伯母の初盆で、長崎のいとこから精霊船ができたとの連絡があった。私は小学校のときに、初めて精霊流しを見て、本当に船に故人が乗っている気がし、とても厳粛な気持ちになり、そして精霊船に故人が見えるような不思議な思いをしたのを覚えている。こういう死者と向き合っている感覚が大事なのだと思う。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/-p61gBi9EjOE/Tl2pRhfwI1I/AAAAAAAAALE/Q9dme7JbYTU/s1600/uid000001_20110804142535a5010c8f.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 266px;" src="http://2.bp.blogspot.com/-p61gBi9EjOE/Tl2pRhfwI1I/AAAAAAAAALE/Q9dme7JbYTU/s400/uid000001_20110804142535a5010c8f.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5646855626306888530" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8360720058970234100?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8360720058970234100/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/08/blog-post_31.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8360720058970234100'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8360720058970234100'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/08/blog-post_31.html' title='グリーフワークとしての葬送を考える～エンディングセミナーにて、小谷みどりさんの話を聞く。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/-p61gBi9EjOE/Tl2pRhfwI1I/AAAAAAAAALE/Q9dme7JbYTU/s72-c/uid000001_20110804142535a5010c8f.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2952385057937227976</id><published>2011-08-21T16:09:00.005+09:00</published><updated>2011-08-24T21:51:59.678+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー2011 報告'/><title type='text'>仏教とスピリチュアルケアをつなぐもの～エンディングセミナーにて、大下大圓さんの話を聞く。</title><content type='html'>　　去る7月23日、大蓮寺で開催された「夏のエンディングセミナー2011」において「仏教とスピリチュアルケアをつなぐもの」という題で、大下大圓さんの講演を聞いた。&lt;br /&gt; 　　大下さんは、和歌山県の高野山で修行し（現在高野山傳燈大阿闍梨）、スリランカへ留学、スリランカ僧として得度研修。飛騨で約25年前より「いのち、生と死」の学習会として「ビハ－ラ飛騨」を主宰。その活動から病院や在宅への専門的なボランティア活動として「ひだ医療福祉ボランティアの会」を結成、ベットサイドのボランテイア活動を続けている。&lt;br /&gt;　今回は仏教とスピリチュアルケアをどうつないでいくのか、またグリーフワークについての講演があった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■たましいのケア&lt;br /&gt;　　今更、言うまでもないがスピリチュアルケアとは、さまざまな要因で死を迎えなければならない人のスピリチュアルペインを和らげるためのケアのことだ。そして、スピリチュアルペインとは、「なぜ自分だけが苦しまなければならないのか」「自分の人生に何の意味があったのか」「死んだらどうなってしまうのか」こういった心の痛みのことあり、このような深い、強い心の痛みを和らげる、なくすための援助がスピリチュアルケアになる。&lt;br /&gt;　大下さんが活動している飛騨高山地区ではスピリチュアルケアを、「たましいのケア」と訳している。実際には訳語として霊的、魂的、哲学的、いのちなどいろいろな表現があるが、日本語としての訳は確立していない。何かあった時に、定型化した解釈や訳ではなく、その時々でスピリチュアルを解釈していかないと、人によってはその時の思いの内容、深さが違う。だから日本語的に表記していくのが、これから必要となる。そしてスピリチュアルなものを具体的に癒していこうとするなら、それぞれの持っている信念や信仰が必要となる。&lt;br /&gt;　もちろんスピリチュアルと宗教は同じもの、同じ意味ではない。その人の価値（宗教観）によって違うのである。ケアする側の信念や価値観の押し付けでなく、相手にどこまでも寄り添うということが重要になってくる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■死者との対話&lt;br /&gt;　グリーフを癒していくには、本来はその人がその人なりのグリーフプロセスを経ていき、自分で立ち上がっていくものである。お釈迦さまの言う、「自灯明、法灯明」である。つまりあなた自身が灯明であり、あなたの目の前に出てくる課題や苦しみは、すべてあなたの中に解決の糸口（灯明）が隠されている、ということを言われている。時間がかかるかも知れないが、立ち上がっていくものだ。&lt;br /&gt;　　しかし最近は病的悲嘆に陥る場合が出てきている。悲嘆感情とその恢復を促すためには、急性期、中期、回復期とあるが、死別者の10～15%が病的悲嘆に陥ると言われている。すべてが順調にグリーフプロセスを経ていくわけではない。日常生活に支障をきたす場合がある。&lt;br /&gt;　グリーフを乗り越える課題として、一つは喪失の事実を受け入れることであるが、それはなかなか受け入れられないのが現状である。ある研究から、スピリチュアリティの角度から考えると、信念、信仰や哲学宗教観、死生観を持っている人のほうが受容しやすいという結果がある。&lt;br /&gt;　　また死者を情緒的に再配置することが必要だ。つまり死者と極楽浄土で会えるんだという気持ちを持つことが重要であり、要はあるかないかの問題ではなく、そう思えるかどうかが大事なのである。&lt;br /&gt;　自分の感情や思いを素直に表出し、語り合える関係性が、こころの恢復を促すことがある。つまり出せる場が重要だ。外国人から見れば、日本には仏壇に手を合わすという素晴らしい文化がある。仏壇で亡くなった人と会話が出来る場があるのである。死者と対話をしているのである。&lt;br /&gt;　　こういう仏教が持ってきた伝統的儀式を活用すべきである。&lt;br /&gt;　　仏教の宗派によって、葬式後、初七日から四十九日までのあいだ仏さまに食事を供える習慣がある。このプロセスが大変重要である。大下さんは亡くなってから毎週七日ごとに訪問し、家族と一緒になってお経をあげて、今の気持ちを聞く場にしている。そうしているとだんだんと四十九日の間に遺族が話す内容がゆっくりと変化していく。気持ちを口に出して人に伝えることにより、再構築がうまくいく場合が多い。グリーフプロセスにとって、四十九日というのは、家族が故人と対話できる最期の期間で、文化としての葬送儀礼だけでなくて、スピリチュアルケアの側面からも意味があり、とても大切な習慣、そして期間である。遺族が一つ階段を上るのである。自分の心を見て、変化していく大切なプロセスである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■日本人の儀礼性&lt;br /&gt;　 大下さんは最近、葬式に関して新たな試みをおこなっている。それが「家族参加型葬儀」だ。&lt;br /&gt;　 僧侶と葬儀屋だけで葬式を進めていくのではなく、家族にも積極的に葬儀に参加してもらう。つまり故人に対する別れの言葉を家族から語ってもらうのである。感謝などの言葉を棺と写真に向かって語りかけるのである。家族が故人と最後にしっかり向き合える場、対話する場をつくることにより悲しみを癒すグリーフワークが成立する。遺族は喪に服し悲しみに耐えるのではなく、どこかで悲しみの感情を表出しないと、心が癒されないのだ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 今回、大下さんの話を聞いて、シンプルかつ身近にできることがたくさんあるのに気づいた。古来より日本人が行ってきた儀式、儀礼を取り戻すことにより、グリーフを癒すことができるのだと感じた。&lt;br /&gt;　 私自身、実家に行った折には必ず仏壇に向かって、阿弥陀様、ご先祖に最近起こったこと、今の不安なことを語りかける。そうすると心が開けてスッとする。見えない世界に祈りを捧げる。そういう祈りの時間、祈りの場を持つことの大切さを感じている。&lt;br /&gt;　 仏教で「諸行無常」というように、全ての事象はつねに動いていて、苦しみを抱えている人でも、いますぐ事態が変わることはなくても、永遠にその状況が続くのではないということを、大下さんの話を聞いて、よく理解できた。&lt;br /&gt;　とにかく1時間という短い時間だったのが残念である。まだまだ聴きたいと思った。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/-KkZ2N2ULnKQ/TlCwPItAeaI/AAAAAAAAAK8/VxrI6-AJAlw/s1600/uid000001_201108031451048430756d.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://3.bp.blogspot.com/-KkZ2N2ULnKQ/TlCwPItAeaI/AAAAAAAAAK8/VxrI6-AJAlw/s400/uid000001_201108031451048430756d.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5643204107176016290" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2952385057937227976?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2952385057937227976/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/08/blog-post_21.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2952385057937227976'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2952385057937227976'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/08/blog-post_21.html' title='仏教とスピリチュアルケアをつなぐもの～エンディングセミナーにて、大下大圓さんの話を聞く。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/-KkZ2N2ULnKQ/TlCwPItAeaI/AAAAAAAAAK8/VxrI6-AJAlw/s72-c/uid000001_201108031451048430756d.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8662658329748858542</id><published>2011-08-16T08:43:00.003+09:00</published><updated>2011-08-16T09:03:24.666+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー2011 報告'/><title type='text'>グリーフから希望を ～エンディングセミナーにて尾角光美さんの話を聞く。</title><content type='html'>                              去る7月16日、應典院で開催された「夏のエンディングセミナー2011」において「若者発：グリーフコミュニティのすすめ」という題で、尾角光美さんの講演を聞いた。&lt;br /&gt; 　 尾角さんは、2003年3月、母親を自死で喪い、その体験と折り合いをつけながら、2004年から「あしなが活動」を通じて病気、自殺、戦争、テロ、津波などで親を亡くした国内外の遺児に物心両面のグリーフサポートを行っている。現在、任意団体［Live on」代表として、グリーフにまつわる講演や研修などに活躍し、直接当事者に寄り添いながら、そして若者の視点から、生きやすいコミュニティづくりに向けて積極的な提言を続けている。&lt;br /&gt;   　　本来は私の感想を中心に書こうとしたが、尾角さんの話はとても繊細で奥深く、尾角さんの発したメッセージを中心に書きたいと思う。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  　　「グリーフって、希望の源なんです。」と尾角さんが言ったとき、正直驚いた。喪失とはただなくすことだけでなく、そこから生まれるもの、得られるものがあると言葉を続けた。以下は尾角さんの講演の内容である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■物語ることの力&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　　大切なことは、「物語ることの力」である。自分の中で体験を繰り返し物語ることにより、そのことに意味を与えることができるときがある。&lt;br /&gt;    　今、いろいろな人と出会い、講演などさまざまな活動をしているが、元をたどっていくと母親の喪失が今のつながりを作っていると言える。それは普段意識することではなく、自分が人に何かを語っているときにふと気づくものである。まるで母親が今のつながりを届けてくれているような気がする。そしてそれは自分なりに母親の死に対する意味づけでもある。母親の死は、悲しみも怒りも辛さもあるが、自分を生かしてくれているものであり、また感謝するものであり、今のさまざまなつながりに感謝できることが、物語ることにより見えてきた母親の喪失の意味であった。&lt;br /&gt;　　　人が誰かと物語ることにより、グリーフの形を変えていく。悲しみを相対化するのである。人は亡くした対象など、いろいろな体験によって痛みが違う。その中で人の体験を聴くことにより、自分の悲しみが一番不幸ではないと気づくことにより、力が湧くことがある。だからこそコミュニティでの物語ることの力は大きいと感じる。&lt;br /&gt; 　　グリーフワークとは、絵を描く、語り合う、手紙を書くなどいろいろな形で自分を表現することで、自分のグリーフの形を変えていく、自分の中で折り合いをつけていく。&lt;br /&gt; 現在、「母の日プロジェクト」を主宰し、母親を亡くしたひとたちから、手紙、詩、手記などメッセージを募り、文集、書籍にしている。今年で４回目になるプロジェクトである。&lt;br /&gt; 　　母の日は誰のものか？お母さんと子どものためであろうが、その「お母さん」は「生きている」のが前提になってはいないだろうか。もともと、母の日の起源は、アメリカでお母さんを亡くした子が行った追悼のあつまりにある。そして2008年が100周年に当たると知った。&lt;br /&gt; 　　もうこの世には生きていない、亡くなってしまった母親にギフトを贈ることはできなくても、言葉に想いをのせて届けることはできる。母の日プロジェクトと銘打って、文集を通してそんな声を届ける郵便屋さんになりたい。今、改めて母親に伝えたいこと、感謝の気持ちはもちろん、後悔、さみしさ、怒り、それぞれの心の中にある、母親への素直な「ほんとう」の気持ちを伝えてもらえればと思う。&lt;br /&gt; 　 「何歳になっても、子どもは子ども。お母さんの子どもには変わりない。」そう言った意味から年齢制限は設けないことにしている。&lt;br /&gt; 　　現在、母の日の文集は人の輪を広げている。投稿者の中にも「文集の中に共感し合える仲間がいて、涙を流す日がずいぶんと減った」と言っている。尾角さんの活動は、もうすでに尾角さん一人のものではないと言えるのではないかと思う。&lt;br /&gt;　　尾角さんは、自死で母親を亡くしたのをきっかけに、経済的、精神的、社会的な問題を複数抱えた。その中で運良くサポート資源につながることができ、今まで生きることができ、喪失の体験を希望や生きるエネルギーへと昇華させてきた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■お寺とグリーフコミュニティ&lt;br /&gt;　　しかし遺児の後輩や、活動を通じて出会ってきた当事者の声を聞くと、必要なサポートにつながっていなかったり、むしろ周囲の誤解、偏見や無理解によって傷つけられている話を耳にすることが多くある。そこで、確実に必要なサポート資源につながる仕組みをまず創りだすことを考え続けている。&lt;br /&gt;　　グリーフのサポートが整った地域や社会というのは、痛みや悲しみを受け止める成熟した状態である。つながりのあるコミュニティ、安心して悩める間柄をグリーフサポートをきっかけにつくっていくことで、まちづくりや、ひとづくりにもつながっていく。痛みや、悲しみにフタをしない社会、むしろ闇のうちに一筋の光を見出したり、注ぎ込める社会をつくりたいと思っている。&lt;br /&gt;　その中でお寺は昔から地域の拠点で、命と向き合う空間であった。グリーフケアで寺の果たす役割は大きい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　私も全く同感だ。お寺は生と死を見つめられる文化、価値観を育む場であると思う。東日本大震災以降、なおさらそう思う。僧侶といえども、自死遺族への対応には悩みが多いと思う。しかしお寺、僧侶には、このコミュニティを再構築する責任があるとも言えるのではないか。&lt;br /&gt;　　私はこの日までに尾角さんの経歴はある程度知っており、母の日プロジェクトなど活動も知っていたが、今回改めて、行なっている活動と、考えを聞いて、全体のつながりが良く理解できた。尾角さんに課せられた期待や課題は大きいものであるが、それに応える能力のある尾角さんを天が選んだのでないかとさえ思った。&lt;br /&gt;　　これからの尾角さんの活動が楽しみであり、また私もいつか一緒にできる何かを見つけたいと思った。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/-6PPtVqrkmJE/TkmyeKCJpRI/AAAAAAAAAK0/g_n03CsANME/s1600/uid000001_20110805101830d381ee37.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 266px;" src="http://1.bp.blogspot.com/-6PPtVqrkmJE/TkmyeKCJpRI/AAAAAAAAAK0/g_n03CsANME/s400/uid000001_20110805101830d381ee37.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5641236239417451794" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8662658329748858542?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8662658329748858542/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/08/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8662658329748858542'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8662658329748858542'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/08/blog-post.html' title='グリーフから希望を ～エンディングセミナーにて尾角光美さんの話を聞く。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/-6PPtVqrkmJE/TkmyeKCJpRI/AAAAAAAAAK0/g_n03CsANME/s72-c/uid000001_20110805101830d381ee37.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-853685512720156532</id><published>2011-07-10T20:39:00.004+09:00</published><updated>2011-07-10T21:03:45.591+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>これからのグリーフケアのかたち</title><content type='html'>■葬儀社が主宰するグリーフケア&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 去る6月18日、葬儀社 公益社のグリーフサポート「ひだまりの会」月例会の見学に参加した。&lt;br /&gt;公益社は、数多くのご遺族の悲しみに接してきた経験から、葬儀だけにとどまらず社会貢献活動の一環として、グリーフサポート「ひだまりの会」の活動を2003年12月から開始している。&lt;br /&gt;私が例会に参加するのは2回目だが、以前の様子については、下記のブログをご参照いただきたい。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html"&gt;http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今回は21名のご遺族の方が来られていた。「ひだまりの会」には、ルールが二つある。1つは、「悲しみ比べをしない」。もう１つは、「（分かち合い）で起こったことは、口外しない」。この二つのルールによって、当事者にとって分かち合いの場が安全なものとなる。&lt;br /&gt;　何よりも「ひだまりの会」の強みは、スタッフ間の情報共有ができていることであると思う。故人の亡くなった状況、葬儀の状況、遺族を取り巻く状況やそれぞれの気持ちなどをデータベース化しているのだが、さらに驚くのはその情報が、スタッフの頭の中に完全に入っていることだ。&lt;br /&gt;　私は前回に続き、クロージングミーティングに参加させていただいたのだが、「分かち合い」の振り返りをし、一人一人の状態、そして今後のフォローをどうしていけば良いのかを話し合う。たとえば次月も月例会に誘ったほうがよいのか、数ヶ月空けたほうがよいのか、しばらくは定期的な電話のみにするのかなど、フォローのあり方について深く議論を交わす。スタッフ全員のコンセンサスのもと、方向性を共有するのである。この締めのミーティングのあり方が、本当に素晴らしいと思う。やりっぱなし、聞きっぱなしにしておかないのだ。&lt;br /&gt;　昨年の春に公益社という看板を外して、「ひだまりの会」の「卒業生」が集まってＮＰＯ法人「遺族支え愛ネット」を設立した。今や会員は１３５名という。現在、その中の70名ほど方が、緩和ケア病棟で傾聴ボランティアをされているそうだ。すごいことだと思う。一般的に、自分の辛い体験を思い出すので、病院などそういう場を避ける傾向にあると思っていた。まさにこの人たちは、よい意味で自分の体験を客観的に捉えられるまでなられたのである。それを支えてきたのが「ひだまりの会」のスタッフの方々だ。&lt;br /&gt;葬儀社によるグリーフケアの活動に対しては、営利目的の営業活動としてとらえられるおそれがあると思う。「ひだまりの会」でも、遺族に初めて会の案内の電話をする際に、遺族から警戒されることがある。そのほか、営利企業である葬儀社は、地域の自治体、医療機関との連携が困難なので、会の発足まで、社内勉強会などを重ねることを通して、医療機関や市民団体が行うグリーフケアの現状を理解する努力をしたと聞く。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■同じグリーフの体験者どうし&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;かけがえのない人を亡くした死別体験者を支援する「グリーフケア」という用語は、少しずつ知られるようになったが、まだまだ定着したとは言えない。しかし葬儀への世間一般の関心の高まり、超高齢化社会、死亡率が急増する多死社会の進展とともに、グリーフケアの重要性は今後ますます高まると思う。&lt;br /&gt;そういった中、すでにグリーフケアを実施している様々な『自助グループ』と呼ばれる市民団体との交流がますます盛んになり、地域の社会資源との連携にまで広がることを期待する。&lt;br /&gt;こういう遺族会の存在は、たった一人で立ち向かうより、同じ体験者と一緒になって立ち向かい、そしてそれぞれが別の体験を聴くことで、自らケアされるという役目をはたしている。また、「自分の経験が、他の人の役に立つ」という事実が、自尊心を回復するのではないか。傷口を舐めあうのではなく、皆で話し合って立ち直るきっかけにするということであるのであろう。&lt;br /&gt;家にこもっている状態から、こういう会に出かけることで、外出着に着替え、電車から車窓の風景を見ることが、すでにグリーフサポートが始まっているのではないかと思える。&lt;br /&gt;私は「ひだまりの会」のあり方が好きだ。今後も関わりを深めて、いろいろな刺激を受けさせていただければと願っている。&lt;br /&gt;　私はこういう「分かち合い」を小単位からで良いので、お寺で開かれることを望んでいる。またお寺にはその可能性が大いにあると信じている。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-853685512720156532?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/853685512720156532/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/07/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/853685512720156532'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/853685512720156532'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/07/blog-post.html' title='これからのグリーフケアのかたち'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3182543578479570208</id><published>2011-06-13T20:25:00.002+09:00</published><updated>2011-06-13T20:28:59.831+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>口から食べられなくなったらどうするのか。</title><content type='html'>　去る5月29日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における人工栄養を考える」に参加した。&lt;br /&gt;　医療技術の発達は、これまで助からなかった多くの人々を救ってきたが、その一方で、終末期の状態にある人にまで、その技術を使うことに対しての疑問もあると思う。&lt;br /&gt;　今回、京都の医師・荒金英樹さん、神戸の言語聴覚士・前田達慶さん、そして東京大学の死生学応用倫理センター・会田薫子さんの話題提供があった。&lt;br /&gt;　口から食べられなくなった場合に胃ろうという処置が行われることが増えてきた。長期に渡り口から食べることが出来ない患者や、食べてもむせ込んで誤嚥などを起こす患者に対して使用され、腹壁と胃腔の間に造られた孔にチューブを通して、直接胃の中へ栄養を注入する方法である。&lt;br /&gt;　現在の胃ろう栄養の患者は、50万人程度と推計されており、高齢者が増え続ける2025年くらいには100万程度に増える可能性があると言われている。&lt;br /&gt;　そう言った中、今、世論は胃ろうに対して逆風であると思う。とくに昨年の2月に石飛幸三氏の著書「平穏死のすすめ」が評判になってからは、特に医療者側に顕著になってきた。今や胃ろうか平穏死かという二者択一的な傾向すらあるようにも思える。本当に胃ろうは一方的に悪なのか、それとも選択肢の一つとなり得るのかを今回を機に考えてみたいと思った。&lt;br /&gt;　シンポジウムでいろいろと話を聞いて、やはり使い方によって有効な場合と、害になる場合があるようである。&lt;br /&gt;　今足りないのは、インフォームド・コンセントであり、「なぜ必要なのか」、「手術内容と合併症」、「目的や治療のゴールについて」、また「メリット・デメリット」、「全ての選択肢」について医療者側にじっくりと説明をしてもらうことが大切だと思った。私の友人の親族でも、入院中に誤嚥性肺炎を起こし、急に提案をされたのだ。我々市民の駄目なところであるが、普段から勉強していない為に、何がなんだか分からないまま医療者側の言うとおりにしてしまい後悔することがある。改めて我々市民も変わらねばと考えさせられた。&lt;br /&gt;　今まで私は正直、胃ろうを造設すれば、それはイコール終末期であり、二度と外すことは出来なくて、後は死を待つのみだと思っていた。しかし造設することにより確実に栄養を補給することが可能になり、身体状態を良いレベルに持っていき、また口から食べられることになることも可能であるようだ。そして不要になれば、閉鎖することも出来るようである。つまりＱＯＬの改善をするための一時的な栄養法と言える。&lt;br /&gt;　一方、認知症患者は難しい。また実際、対象者は認知症患者が多いことも確かだ。欧米の概念は、できるところまで食事介助し、それが出来なくなったときは、患者は最終段階に入ったことを理解すべきだ、というように言われていると聞く。でも正直、私にはそこまで割り切れない。色々な調査を見ると、自分のときは胃ろうなどによる延命策はいらないと言いながら、家族がそのような状態になったときには、胃ろうという延命策も選択肢に入ると答えている。日本人の死生観が固まっていないのだ。しかし欧米の死生観の直輸入が良いとも思っていない。&lt;br /&gt;　老衰の過程で徐々に食べられなくなってきた高齢者に、医療者は選択肢としてこの提案する場合、患者の尊厳という観点も考えて話すべきであると思う。しかし家族にしてみれば、生死の選択を迫られて戸惑ってしまい、本人の尊厳を尊重するよりも、身内として罪悪感を感じなくてすむ選択をしてしまいがちであるのではないか。つまり普段から家族の中で延命治療について話し合っておくことが最も重要と言える。我々市民がそういう話題を避けてしまう傾向があることや、医療者側が「本人の意向」よりも「家族の意向」を安易に優先させてきた、日本の根深い非倫理的医療慣習があるのではないか。患者側も、家族に遠慮せずに自分の死生観どおりに死にたい、と声を上げるべきであると思う。&lt;br /&gt;　「どのようになっても、その人らしさは失われない」、医療者をはじめ、患者を取り巻く様々な人たちの「良心」や「誠実さ」が問われているのではないか。&lt;br /&gt;　この問題は超高齢社会を控えて、今後ますます議論を深めていかなければならない。その中で我々市民が何が今出来るのかを引き続き考えたい。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3182543578479570208?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3182543578479570208/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/06/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3182543578479570208'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3182543578479570208'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/06/blog-post.html' title='口から食べられなくなったらどうするのか。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4376353577422716500</id><published>2011-05-22T16:19:00.002+09:00</published><updated>2011-05-22T16:25:00.764+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>地域力と医療との関係</title><content type='html'>　■患者さんは皆、先生&lt;br /&gt;  去る5月15日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。&lt;br /&gt;　開業医でもあり奈良県医師会副会長の竹村恵史さん、奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室の栗田麻美さんが登壇されて、「奈良県の在宅医療ネットワークを考える」という題で話題提供をされた。&lt;br /&gt;　竹村さんは祖父の代から地域に根付いた医療をしている。医療は地域医療であるべきであり、開業医は地域の一隅にいて、住民に沿って生きていければ良い。住民、患者さんは自分の大切な先生であり、親切に日々様々なことを教えてくださる、つまり医者は何も分かっていない、世間を知らないのだ。だからこそ医者は自分の分からないことがあれば、すぐに専門家に聴き、つなげるという感性を持つべきだと言われた。&lt;br /&gt;　奈良県医師会の課題として、全ての医師は、終末期ケアに対する基本的な知識を修得する必要があり、実際に在宅医療の研修をしているが、もっともっと各人が汗と恥をかいて努力しなければならないとも言われた。&lt;br /&gt;　奈良県の在宅死率は全国一である。その一方で私自身は何故一番なのか？という疑問をずっと持っている。確かに優れた在宅医が多いが、決して病診連携が確立されているとは思えない。まだ属人的な部分も多い。&lt;br /&gt;私が自分なりに思うつくままに要因を並べると、県内に病院が少ない、会社員が帰宅する時間が全国で一番遅い、県外就職率が一番高く、女性の就職率が低い、特別養護老人ホームが実際には大阪府の人を多く受け入れている、訪問看護ステーションが頑張っている、などが挙げられるが、どれが正解かは分からない。&lt;br /&gt;　竹村さんは最後に、地域連携の枠組みが出来上がっていない。この構築がこれからの奈良県医師会の大きな課題であり、医療の目標(役割)は「『自分らしい生き方を実現する』を支援すること」である、と言われた。&lt;br /&gt;　私は「医師会副会長」という名を聞いて、どんなお堅い方が来られるのかと思っていたが、日頃から地域に根付いた医療をしておられる方であり、地域の人をとても大切にされておられる方で、安心した。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　■地域力の再構築&lt;br /&gt;　栗田さんは奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室で退院調整をしている。これまで訪問看護師、ケアマネージャーを15年ほどされておられ、その時から、どうしてもっと早く自宅に帰ってこないのかと疑問に思っていたそうだ。&lt;br /&gt;　現在の同病院の平均在院日数は約16日であり、退院支援の役割は、退院支援が必要な患者さんをスクリーニングし、この人が退院した時に困らないか、自宅でどんなことが出来るか、またさせてもらえるかを調査、調整する事が大きな役目だ。退院に向けた自己決定支援とも言える。退院後の療養場所には自宅、ホスピス、施設などあるが、療養場所の移行を安全、安心して行えるように、つまり退院支援により「ケア」をつなぐことが大切である。&lt;br /&gt;　同病院は奈良県の中南和地区に位置する。栗田さんは、奈良県全体で今、地域力がそこなわれている。今回の東日本大震災をきっかけに再構築をしてほしいと言われた。その一方で奈良県南部（吉野郡など）では、まだまだ地域が生きている。地域の医療者は近辺の住民の健康状態を把握しており、また市町村の社会福祉協議会が中心となって強い連携を持っているところもまだまだあると言われた。&lt;br /&gt;　私は改めて地域連携の大切さ、難しさを感じた。奈良県は確かに個々に優れた医療者が多いが、あくまでも全県的なネットワークではなく個々の人間関係で繋がっている傾向が見られる。&lt;br /&gt;　しかしネットワークの構築を医療者だけに求めても駄目だろう。我々住民がもっと勉強して、医療者側に意見、要望を伝えなければならない。医療者側も少しずつ変わっていこうと努力をしている。だから住民ももっと変わらなければならないと思う。&lt;br /&gt;　また栗田さんが冒頭に、奈良県立医科大学附属病院では「かかりつけ医」の紹介でしか診察をしないと言われた。今は大きな病院ではほとんどそのようになってようだが、しかし実際「かかりつけ医」を持っている人は一握りであろう。大病院との連携という前にまずこの「かかりつけ医」を持つことが我々住民に抜け落ちている。「かかりつけ医」をどうやって探すか、何故「かかりつけ医」を持つ必要があるのかを誰がどう広めていくのかも大きな課題だと思う。&lt;br /&gt;　やはり住民や自治体が連携し，地域自ら地域医療の課題を解決していこうとする“地域力”の向上が不可欠であると思う。「住民が地域の医療を支えていく」という新たな視点から、何が自分自身に出来るかを考えなくてはならないと改めて思った。医療者による啓発活動は、医療技術的な解説に偏っていると思う。死の恐怖をどう乗り越えるのかとか、死にゆく大事に人とどう向き合うのかといった切実な問題について、しっかりと語りかける活動に乏しいと感じられる。このことについて医療者と我々がもっと議論を重ねていく場所、機会が欲しいと強く思う。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-4376353577422716500?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/4376353577422716500/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4376353577422716500'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4376353577422716500'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/05/blog-post_22.html' title='地域力と医療との関係'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4072572380128642012</id><published>2011-05-10T22:25:00.002+09:00</published><updated>2011-05-10T22:28:52.163+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>人生の黄昏に至る旅～認知症を考える</title><content type='html'>■認知症とは何か&lt;br /&gt;　去る4月9日、兵庫県保険医協会の第29回在宅医療研究会に参加した。&lt;br /&gt;　西宮のつちやま内科クリニックの土山雅人さんがお出でになり、「認知症に基礎知識」という題で講演をされた。認知症のケースを多く扱っておられる。&lt;br /&gt;　認知症患者は現在200万人を超えると推定されており、10年後には300万人に達すると言われている。これは高齢者の多く見られる疾患で、65歳以上では7～8％、85歳以上では4人に1人が認知症であると考えられている。まさに現在において地域のかかりつけ医にとっては「common disease（一般的な病気）」であると言える。&lt;br /&gt;　認知症について、私が強く印象に残っているのが、アメリカのレーガン大統領がアルツハイマーにかかり、最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. （私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます）』という言葉である。大統領在任中の1987年にすでに兆候があったとされる。またアメリカの俳優のチャールトン・へストンがアルツハイマーであることを発表したときも、彼のファンであった私にとっては衝撃だった。しかしそれ以後も彼は映画に出て圧倒的な存在感で演じた。アルツハイマーの特徴として、新しいことは覚えることは出来ないと言われているが、病状の進行と症状の変化にはばらつきがあるのである。　&lt;br /&gt;　じつは認知症の定義は難しい。一般に記憶の障害が中心になるが、記憶の障害のみでは認知症と言えない（軽度認知障害）。また認知症のなかでも初期では記憶障害が目立たない場合もある。認知症の診断には、高次脳機能検査なども重要であるが、それ以前に個々の症例における日常の生活場面での変調について情報を得て評価することが重要である。&lt;br /&gt;　認知症に似た症状には、正常老化による物忘れとの違い、うつ病との区別、薬剤性のせん妄などとの切り分けが重要にもなってくる。非常に判定の難しい症状とも言える。&lt;br /&gt;　認知症をきたす疾患として、①変性型認知症として、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症の3種類があり、他に②脳血管性認知症があり、アルツハイマー型が全体の50％を占める。（ここではそれぞれの特徴について深く述べない）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■認知症と地域コミュニティ&lt;br /&gt;　変性型認知症に3種類あると言ったが、根本的に問題なのはそれぞれ症状が違い、治療法も違うのに、これを見極められる医師が大変少ないということだ。&lt;br /&gt;　介護面から見ても、介護力不足の家庭をどう支えるか、介護施設で認知症者の対応は出来ているのか、そして福祉面から見れば、認知症について誰に相談すれば良いのか、地域における認知症家庭のセーフティネットはあるのか、患者会、ボランティア団体などのインフォーマルサービスは活用されているのか、などの問題点が山積している。さらに身寄りのない認認家庭、認知症以外の身体疾患の管理などもあげられる。&lt;br /&gt;　認知症患者さんの看取りの場所として、在宅、病院、施設などがあげられるが、終末像の多様性と様々な延命処置として、胃瘻の問題もあげられる。胃瘻をするかどうかの意思を認知症患者さん自身は示すことができない。ここに家族の意向と経過に伴う心境の変化もからむ。これはこれからもっと議論を重ねなければならない課題と思う。&lt;br /&gt;　土山先生が最後に、認知症には医学的アプローチより、ケア的アプローチが大事である。薬物療法はほんの少しだけで、身体管理をいかにきちんと行うかがポイントであると言われた。昔は認知症の人は地域コミュニティの連携があったので、医療の必要がなかったそうである。これは大きなポイントと思った。&lt;br /&gt;　個人的なことを言わせてもらえば、私の父親が脳梗塞を患っているので、脳血管性認知症の心配をずっとしている。というより心に大きく引っかかりながら、あえて認知症に触れるのを避けていた。それはやはり怖いという気持ちである。しかし土山先生のご講演をお聞きして、周りが早めに判断して、的確な診断、治療をしてもらえれば、進行を遅らせ、良い介護を行えると言うことが理解できた。またデイケアなどの施設の役割も大きく関わってくるので、ここにも注力を充てたい。&lt;br /&gt;　認知症の方が暮らしやすい社会は、一般の高齢者や子どもたちにとっても優しい社会であるはずである。そういう社会を取り戻すのが大切である。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-4072572380128642012?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/4072572380128642012/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/05/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4072572380128642012'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4072572380128642012'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/05/blog-post.html' title='人生の黄昏に至る旅～認知症を考える'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3474007578285208448</id><published>2011-05-04T20:42:00.002+09:00</published><updated>2011-05-04T20:46:42.204+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>「すべては患者さんのために～長崎Dr.ネットの挑戦」</title><content type='html'>■ひとりに主治医を多数の医師が支える仕組み&lt;br /&gt;　去る3月19日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。長崎の出口外科医院の出口雅浩さんが登壇され、「長崎における地域医療連携ネットワークの構築～長崎Dr.ネットの挑戦」という題で話題提供をされた。地方都市で、24時間の在宅対応されている先行例として知られている。&lt;br /&gt;　「長崎在宅Dr.ネット」は、在宅訪問診療や往診を複数の医師が連携して行ない、複数の医師が連携して24時間対応を実現し、患者さんが安心して在宅療養を行えるようにすることを目的とし、平成15年3月に結成された。実際には、患者さんの居住地域にあわせて、主治医を決め、さらに、副主治医がバックアップとして控え、訪問診療の分担や万が一の際の緊急対応をおこなうシステムである。&lt;br /&gt;　主治医は、主となって訪問診療・治療に当たる、一方、副主治医は主治医を補佐して訪問診療の分担や、万が一の際の緊急対応を行う。必要に応じて複数の副主治医を各医師の専門性を考慮して決定する。現在長崎市内の診療所の医師69名が登録をしている。&lt;br /&gt;　考え方として、①在宅医療を希望する方が、医師に対応できないという理由で自宅に帰れないことが無いようにする（24時間365日の対応）、②自宅で療養できるだけでなく、入院中に受けたのと同様の医療を受けられることを目指す、③医療・介護・福祉等と連携し、最適な在宅医療を提供する、ことを基本としている。&lt;br /&gt;そもそも8年前にDr.ネットを作ったのは、もともとは情報交換をしていた医師どうしお互い電話でアドバイスをしていたが、その内に、それじゃあ、あなたが代わりに行ってくださいよという感じになり、仲良しグループが形成されていって、Dr.ネットに繋がったようである。ここでも人間関係が基本だ。&lt;br /&gt;　実際の流れだが、入院中の場合、現在入院中だが、自宅へ帰りたい患者さんやその御家族はまず主治医の先生と相談し、自宅療養が可能と判断していただいた場合、まず従来からのかかりつけの開業医の先生と相談。しかし、残念ながら往診や在宅訪問診療を頼めない場合「長崎在宅Dr.ネット」への問い合わせとなる。入院中の病院の主治医、看護師、又は地域連携室の方に相談して「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡する。また自宅療養中の場合は、現在の主治医の先生（かかりつけ医）とよく相談し、それでも在宅診療への対応が困難な場合「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡するということになる。&lt;br /&gt;　主治医と副主治医の連携であるが、副主治医がサブで同行するわけではない。行けば医療費負担が2倍かかることになる。最初に一緒にご挨拶に行く程度で、家の間取りが分かるようにという感じである。あくまでも目的は、一人の主治医を多数の医師が支え、それによって頑張れる仕組み作りである。&lt;br /&gt;実際のところ、主治医と副主治医の報酬の分配は、例えれば副主治医はビール１本程度とか。お互い様という感覚だろう。基本的には、副主治医の出番はないようにしているとのことである。&lt;br /&gt;　一方で欠点として、患者さんが主治医を選べない、正直そりが合わない場合も少なくないという。その場合は再度病院に相談して、仕切り直しをするそうである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■地域の特性を活かした在宅医療の在り方を&lt;br /&gt;　じつは長崎は在宅死率は下位だが、奈良は全国一番を誇っている。奈良の制度もマッチしている。&lt;br /&gt;　私が一番疑問に思ったのは、主治医と副主治医の関係である。基本的には副主治医が訪問診療しない、報酬がないというのが長崎の原則であるが、やはり奈良のように副主治医ももっと入っていく必要があるのではないかと思う。奈良では副主治医もコンスタントに訪問診療するため、患者さんを把握している。長崎ではそれがないのが、患者さんの不安感を与えるのでないかと感じた。このことを、最後に質問できなかったのが残念である。&lt;br /&gt;　一方、長崎県が在宅死率が低い理由は、病院が多いからとのこと。原爆の関係で都市の規模に対し、非常に病院が多く、常時ベッドが空いているそうである。その分、レスパイトケアが出来やすい。また長崎は坂が多く、道がなく自動車で診療にいけない。また離島が多く、一旦自宅に帰ったら、病院に戻りにくいのでなかなか自宅に帰らないということがあるという。&lt;br /&gt;　今後の長崎Dr.ネットの課題は、新人在宅医をいかに育てるかだ。そして参加医師の人数が県内の地域でばらつきがあるので、もっとネットワークを強めていきたいと言われた。&lt;br /&gt;　奈良にも同様の事態があるが、在宅医の疲弊をいかに改善するかが、課題だ。長崎Dr.ネットの挑戦が在宅療養比率を向上させる取り組みであることは確かだと思った。日本全国でスタンダードな形というのは有り得ないと思うし、各地域の特性を考慮し、どうカスタマイズするかも課題である。&lt;br /&gt;　今後、在宅医療の推進には、末期者はその家族だけが考えていたのでは不充分だろう。学校や家庭、地域社会にあける日常において「死」を、避けるべきものではなく、「皆がいつかは向き合うこと」としてフランクに話し合うベースを築くことがますます大事になっていくと思う。そこで初めて地域社会の中で在宅医療が根付き、成長していくと思う。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3474007578285208448?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3474007578285208448/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/05/dr.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3474007578285208448'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3474007578285208448'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/05/dr.html' title='「すべては患者さんのために～長崎Dr.ネットの挑戦」'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1860501665808905795</id><published>2011-03-07T19:30:00.002+09:00</published><updated>2011-03-07T19:34:47.421+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>お寺はまだ生きている。</title><content type='html'>&lt;em&gt;&lt;span style="font-size:85%;"&gt;「新潮社の広報紙「波」に掲載された一文です。転載します」&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/em&gt;　昨年は、お寺バッシングの風が吹き荒れた。1月、『葬式は、要らない』がベストセラーとなって、これに週刊各誌が追随、Ａ誌では「『お寺』はもういらない」を特集した。また5月に、葬祭業に進出した最大手スーパーが「お布施の目安」をネット上に公開、最近ではコンビニ全国チェーンが、葬儀の受注を検討中だ。&lt;br /&gt;　仏教界の危機感にも火がついた。全日本仏教会の「お布施」シンポジウムをはじめ、各宗派・教団で俄に葬式仏教総点検が始まった。葬式を巡る議論が活発化するのは結構だが、「そもそも仏教では……」と説明を尽くしても、市民には建前にしか聞こえない。このままでは、人口が減る、檀家が減る、布施収入は減って、寺は滅びる？　日本に7万8千ある寺院のいくつが生き残るのか。ある識者は「50年後、6千まで減る」と断言する（慶応義塾大学・中島隆信教授）。&lt;br /&gt;　1997年に、大阪の都心に新しい寺・應典院を建てた。本堂は小劇場、セミナールームやギャラリーも付設している、異貌の寺である。檀家がいないので、最初から「葬式をしない」と宣言をした。その代わり、こころの文化拠点として、若い芸術家やＮＰＯと協働して数々の場を作り上げてきた。催しの数は大小合わせて年間百件以上。寺は夜十時までにぎわい、訪れる若者は年3万人を超える。&lt;br /&gt;　もちろん、私は葬式無用論に与するつもりはない。規模や形態は変わっても、葬式は日本仏教の王道であることに違いはない。ただ寺院経済と不可分となった現在の葬式は、もはや制度疲労を来たしているといっていいだろう。地域共同体や先祖供養が衰え、無縁社会といわれる今、寺院再生のためには、新たな模索が必要なのだ。&lt;br /&gt;　「葬式をしない寺」應典院が取り組んだものは、「寺＝葬式」という凝り固まった枠組みを外して、創造資源としての寺の可能性を徹底的に掘り起こすことであった。演劇、美術展、講演会、ワークショップ……寺に、誰も考えたことのない、多種多様な場と関係性を呼び込んだ。担い手は、仕事もお金もない若者たち。ゼロから何かを創造していくプロセスで、彼らは学校や社会では教わらない、たいせつなものに出会う。フリーター、ニート、就職難民と、時代からはじかれた若者が、寺で「生き直し」を図るのだ。&lt;br /&gt;　「こんな寺、ありなのか」と、周囲ではいぶかる声もある。逆に私は、そもそも寺とは何をする場所なのか、と問い返す。「葬式しかしない寺」からは、仏教の何事かが立ち現れる機会は決定的に乏しい。制度と慣習に安住していては、創意も挑戦も生まれることはない。&lt;br /&gt;　寺は生きている。社会と向き合い、人々と対話を繰り返し、世俗と格闘しながら、寺は寺になっていくのである。&lt;br /&gt;　應典院は呼吸する寺なのだ。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1860501665808905795?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1860501665808905795/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/03/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1860501665808905795'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1860501665808905795'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/03/blog-post.html' title='お寺はまだ生きている。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1556867610707134911</id><published>2011-02-15T09:34:00.004+09:00</published><updated>2011-02-15T20:29:29.325+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>がん患者さんにかかわるということ</title><content type='html'>■医師と患者の壁&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　去る1月22日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。奈良県立医科大学附属病院　医療サービス課相談係の川本たか子さんがお出でになり、「がん患者さんにかかわって」という題で話題提供をされた。&lt;br /&gt;　川本さんは27年間の看護師経験を経て、奈良県立医科大学附属病院で相談業務に就かれて、今年で3年になられる。&lt;br /&gt;　現在、奈良県内に6箇所のがん診療連携拠点病院があるが、その役割の一つとして、「がん患者・家族に対する相談支援・情報提供」があり、それぞれの病院にがん相談支援センターが設立されている。&lt;br /&gt;　センターの役割として、がんに関するいろいろな悩みや疑問、そして医療費のこと、セカンドオピニオンなど様々なことがあるが、私が気になったのは、「病状や治療方法についてよくわからない」という項目だった。川本さんが言われたのは、患者側に、こんなこと医師に聞くと失礼になるのでは、という遠慮がまだまだ根強く残っているという。この点が気になりながらも、続けてお話を聞いていた。&lt;br /&gt;　看護師、社会福祉士を始め様々な方々が相談員をしておられるが、国立がんセンターの相談員研修を受講された方が相談員の資格を持ち、相談は無料で、その病院で治療を受けていない患者・家族の方でも相談ができるそうである。相談の場はやはり、直接来られる対面面談が多数を占めるが、川本さんの悩みは、現在入院中の方、外来に来られている方で相談者があまりいないこと。もっと増えてほしいと言われていた。&lt;br /&gt;　相談内容としては一番多いのが、「社会的・経済的な問題」で、医療費・生活費の悩みや介護保険の適用の可否の問い合わせであり、2番目として「診療治療に関すること」で、がんの検査・治療、医療者との関係、診断治療の理解・選択である。私が思うにはこれは医師との関係の中で解決している問題かと思ったが、やはり患者と医師の間に未だに「壁」が存在しているようだ。ここでさっきの気になる点が改めて出てきた。&lt;br /&gt;　今、世間では、「良い患者さん」になれ、とか言うが、そんなことはなかなか簡単に出来そうにない。患者は常に限りなく医療者に遠慮し、忙しいのにこんなことを聞いて良いのか、もう一度聞いたら申し訳ない、こんなこと聞いたら失礼じゃないだろうかという自己規制があり、聞きにくい。そのことが今回の川本さんのデータから改めて浮き彫りになった。&lt;br /&gt;　また、がん対策基本計画の中に、がん患者や家族等が心の悩み体験を語り合う場を提供する活動を促進する、というのがあり、各所に「がんサロン」が設立されている。現在、奈良県内でも4つの病院にあり、定期的に患者・家族の出会いの場、情報交換やお互いの気持ちを聴きあう場を提供している。やはり患者さんや家族の方が、体験した人でなければ分からない「辛さ」や「生活上の工夫」などを語り合う場となっている。またいつでも予約なしで、無料で、気が向いたときに参加できる仕組みになっている。&lt;br /&gt;今後の相談支援センター・患者サロンの充実に向けた課題として、&lt;br /&gt;　①利用者が増加しない→相談支援センター（窓口）の案内不足&lt;br /&gt;　②相談体制の整備→相談支援の窓口が複数の業務を担当していて、数、質ともに不足している、&lt;br /&gt;というのが掲げられる。&lt;br /&gt;　今後はいかに認知度を高めるための活動を続けていくのかが大きなポイントだろう。なかなか病院内での組織の無理解というのもある、組織の障壁はどこの世界でもあることなので、川本さんたちが、その中で負けずに進めていっていただくためのフォローを私たち市民が出来ればと強く思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■がんサロンという場所の可能性&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　続いて、「がんサロンに参加して」というテーマで、がん患者の立場から野村佳子さんがお話しになられた。&lt;br /&gt;　野村さんは膵臓がんを患われたが、今はお元気で「がんサロン」などでピアサポーターとして精力的に活動をされている。&lt;br /&gt;　野村さんは、家族や知人に病気のことを相談するとかえって心配させてしまうが、「がんサロン」では、全てのさらけ出せるのが良い点であり、1ヶ月毎のサロンに参加することが次の目標になり、励みになったという。サロンの皆さんと、このひと月の間にどのようなことがあったかを報告しあうようになり、それが良い目標になったそうである。サロンの人の中で、「がん患者のイメージを変えたい」と、積極的にスポーツに参加する人を見て、「死」までの時間を大切にどう送るかを考えるようになった。また同世代の患者さんと家族、子ども、生活のことを気軽に話し合えるようになり、今までのように助けられるだけでなく、自分には他の人を助ける立場になれることが出来るということに気づかれ、それがとても励みになったという。&lt;br /&gt;　一方で、サロンをいかに広げるかを常に考えている。なかなか県相手には難しい面もあるが、現在では市町村の広報誌に案内を掲載してもらえるようにまでなった。もっともっと気軽に参加して欲しい、病院によって特色があって面白いと、力強く言われた。&lt;br /&gt;　今後サロンに望むのは、患者の思いを受け止める、温かな場所であってほしい、やはり外では泣けないのが本音である、そしてもっとも手軽な緩和ケアの場であると言われた。&lt;br /&gt;　野村さんが最後に言われたのは、自分は転移したときに失望したが、サロンの存在が心強かった。生きる希望をいかに持つかが大事である。他の頑張っている人を見て、自分も他の人を元気づけることができる立場になれるんだ、と繰り返し言われた。そして何よりも、今は自分の病気のことを人前で言えるようになれたと言われた。まだ、「がんサロン」に対して理解のない病院があることも確かだ。だが、野村さんのように情熱を持たれた方がいらっしゃるのは本当に心強いこと。それに他の人にまで気持ちが行くようになったというのはすごいことだと思った。&lt;br /&gt;　今日は川本さん、野村さんのお話をお聞きして、がん治療にとって３大治療以外にどれほど大切なものがあるのか気づかされた。私もがん相談支援センター、がんサロンについて、いろいろな方々にＰＲをしたいと思った。とても勇気の出る話をお聞きした。&lt;br /&gt;　最後に勉強会が終わって、帰り際に川本さんに2つの質問をした。1つは患者・家族と医療者の壁について。川本さんは「壁は大きく存在しています」と言われた。つぎに今後、グリーフケアの相談についてどのように対応しますか、と尋ねたが、やはりご遺族からの電話はあるそうで、今はただお聞きするしかないと。今後はきちんとグリーフケアの研修を受けることを考えていると言われたのが印象的だった。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1556867610707134911?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1556867610707134911/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/02/blog-post_15.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1556867610707134911'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1556867610707134911'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/02/blog-post_15.html' title='がん患者さんにかかわるということ'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7029163612673121821</id><published>2011-02-04T20:20:00.005+09:00</published><updated>2011-02-04T20:28:03.249+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>年越いのちの村。悲しみに寄り添う。</title><content type='html'>　應典院で、「グリーフタイム」を定期的に催している尾角光美さんは、大学入学目前の19歳の冬、同居していたお母さんを自死で喪いました。事業に失敗した父親はその直前に出奔、一気に両親を失くした尾角さんは失意と苦悩が襲いました。&lt;br /&gt;　私が出会った頃の尾角さんは、同じ境遇の自死遺児たちと東京や京都でネットワークを作り上げていました。次第に社会起業に目覚め、遺族支援の市民団体リブ・オン（生き続けるの意）を創設、去年あたりからの活躍は目覚ましく、僧侶や葬儀社に向けた研修会や中高生向けのいのちの授業の講師などを務めています。&lt;br /&gt;　その尾角さんから「大晦日らから元旦に、お寺で年越村ができないか」と相談を受けました。人間関係に苦しみ、帰る場所もなく、孤独感を抱いた人たちが身を寄せて「生き続けるための場所」。見知らぬ者どうしでも、正月のある暮らしをみんなで分かち合えれば。それには、お寺こそふさわしい。自死問題をずっと考えてきた尾角さんらしい企画でした。&lt;br /&gt;　昨年12月31日の大晦日、若い世代を中心に25名の人々が集まりました。会場となった應典院の部屋には、「年越いのちの村」の書が貼り出されました。多くはボランティアでしたが、中には「何度も死のうと思った」という男女の顔をありました。自殺未遂を繰り返した中年男性、発達障害を抱え、いじめに遭った女性、30代の引きこもりの男性…思いつめた表情の彼らも、最初は見知らぬ人の輪に溶け込むことに苦労しているようでした。&lt;br /&gt;　固かった関係が絆に近づいたのは、意外なことに、正月の習わしでした。ボランティアがつくった年越しそばを食べる、みんなで大蓮寺の除夜の鐘を撞く、お雑煮や書き初めや、そういう年中行事を共有するに伴い、参加者の口からゆっくりと境遇が語られ始めました。&lt;br /&gt;　「人間はひとり取り残されて、生きづらさを感じてしまうことがあります。病苦や経済問題より深刻なのは、苦しい時に支えとなる人とのつながりのないこと」（尾角さん）&lt;br /&gt;　社会保障が充実すれば、心の痛みや生きづらさが克服できるわけではありません。どんな手の込んだサービスより、たいせつなものは、生きることを支えるつながりの感覚、あなたに寄り添う他者の存在ではないでしょうか。&lt;br /&gt;　初めて会った者どうし、言葉（理）だけで共通理解は進まない。それをシンクロさせたのは、当たり前の年中行事を一緒に務めながら伝わった悲しみの体温ではなかったかと思います。大勢いたボランティアの中にも、悲苦を抱えた人がいました。彼らは悲しみの解決者ではなく、悲苦に寄り添う「同苦同悲」の存在だったのでしょう。&lt;br /&gt;　もうひとつ気づいたことがあります。&lt;br /&gt;　この集いに準備段階から、尾角さんのサポーターのように協力する、若い僧侶の姿がありました。大切な人を喪ったグリーフをどう支えるのか、僧侶である自分に何ができるのか－－－ひとりの市民が磁力となって、同じ思いを抱える若い僧侶たちが集まってきていたのです。&lt;br /&gt;　自死者の遺族に不用意な言葉を吐いて、顰蹙を買う僧侶がいるといいます。ただ語ればいいというような安易な布教根性では通じない、ここは文字通り「同事」（四摂事のひとつで、他者と苦楽を共にすること）の集いではなかったかと思います。&lt;br /&gt;　つながりとは、誰かが誰かに与えるものではない。人と人が思いやり、支えあう関係性の中から自ずと生起してくるものなのです。それは「慈悲」の真の姿に近い、と思います。&lt;br /&gt;　1月1日正午、閉村式を行いました。参加した女性の言葉－－－　。　「皆が支えてくれて、私のいのちは、私だけのものじゃない、と感じました」&lt;br /&gt;（秋田光彦）&lt;br /&gt; &lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TUvhbSe7ciI/AAAAAAAAAKE/Bwk1t5_cutk/s1600/2.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 266px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TUvhbSe7ciI/AAAAAAAAAKE/Bwk1t5_cutk/s400/2.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5569793223108031010" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;＜参加者と大蓮寺本堂で新年の回向をつとめる＞&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7029163612673121821?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7029163612673121821/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/02/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7029163612673121821'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7029163612673121821'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/02/blog-post.html' title='年越いのちの村。悲しみに寄り添う。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TUvhbSe7ciI/AAAAAAAAAKE/Bwk1t5_cutk/s72-c/2.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2862289422732313127</id><published>2011-01-27T22:37:00.003+09:00</published><updated>2011-01-27T22:43:06.525+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>シンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」を聴講して。</title><content type='html'>　去る1月15日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」に参加した。&lt;br /&gt;　1976年を境に自宅死と病院死が逆転する中、自宅でのターミナルケアや慢性疾患の療養等への対応を支えるため新設された在宅療養支援診療所制度が2006年からスタートし、訪問看護ステーションのサービスも広がってきたが、他方で同じ2006年に創設された特別養護老人ホームにおける「看取り介護加算」が、2009年4月の介護報酬改定では、グループホームにまで認められるようになり、在宅での看取りが復活しつつあるとともに、施設での看取りが増える傾向にある。&lt;br /&gt;　会場には多くの方々が来られ、施設関係者、現在入居施設を探そうとしている人、またこれから施設を開設しようとしている人などが大勢を占めた。&lt;br /&gt;　今回、京都の2施設、神戸の1施設の方々が話題提供をされた。どこも定員は60名前後で、入居者の平均要介護度は4である。&lt;br /&gt;　最初に「施設看取りの実践と職員の想い」では、京都の特養の生活相談員が報告をされた。その特養では、年間20名弱の看取りがあるが、希望者は年々増えていて、実際には契約時に看護師が同席して、看取りの意向を確認するそうである。むろん、職員はそれまでに死の場面に遭遇する機会がなく、入居者の「死」を受け入れることは容易ではない。だが逆に安らかな、満足された「死」を見ているうちに、終末期を日常生活の延長としてとらえ、その人らしい看取りをしてあげたいと思うようになったという。&lt;br /&gt;　看取りに対する現在の課題として、夜間の不安があげられる。30名の入居者に対して夜勤者は1名だそうである。それと終末期の人が優先され、自ずとケアが手厚くなるが、逆に他の入居者へのケアが低下することが懸念される。そして何よりも職員のメンタルケアが必要である。入居者の「死」という悲痛な気持ちをいかにサポートしあうかが大切だと言われた。&lt;br /&gt;　しかし、この仕事を続けていけるのは、入居者の「ありがとう」という言葉と「おだやかな寝顔」というのは、救われた気がした。&lt;br /&gt;　「高齢者施設における看取りケアを支えるチームのマネジメント」で話題提供をされたのは、京都の高齢者福祉総合施設の施設長だった。お話の中で印象的だったのは、施設の中で、生活の中の「音」が大事である、という指摘だった。家具や備えの備品、キッチンや居間の設備に加えて、生活音にも配慮が必要である。また、生活の中の「匂い」も重要で、不快な匂いを出来るだけ軽減し、花の香り、珈琲の香りが漂うように配慮しているという。&lt;br /&gt;　最後に神戸市長田区の特養の方が、「もうひとつの家（高齢者施設）でもうひとつの家族に看取られて」と話題提供をされた。福祉の必要性が浮き彫りになったのは、阪神淡路大震災であり、震災後の生活の厳しい中、多くの善意が集まり、延べ1万人から2億4千万円の寄付があり、設立されたそうである。&lt;br /&gt;　3つの施設ともそうであったが、入居者は8割以上が地域の方である。この特養の理念として、①地域の人たちの参加で、お互いがお互いを支えあうこと、②高齢者の歩んできた人生、人との交わりを大切にし、心を持ち込めること、③福祉と医療の連携を強めながら、地域の人たちと共に福祉あふれる街、明るいまちづくりをすすめることなど、やはり地域コミュニティの力はなくてはならないと感じた。在宅での看取りの課題点と全く同じだと思った。&lt;br /&gt;　3人の方が言われた共通したことであるが少し総花的な言い方になるが、①高齢者施設に質の悪いところが少なくない、②最初は死の兆候が分からなかったが、段々と分かってきた、③いろいろな専門職（特に嘱託医）との連携が大事である。以上のようにまだまだ発展途上であるが、毎日悩みながらも進めて行っているとのことであった。&lt;br /&gt;　「施設での看取り」というのは、これからの大きな課題である。&lt;br /&gt;　実際は看取りまでをしていない施設はまだまだたくさんある。今後どうして施設を増やしていけばいいのか、という関心も大きいが、会場から多く質問があったのは、どのようにすれば良い施設に巡り合えるのかということであった。在宅ホスピスの医師がどこにいるかが認知されていないのと同様に、どこに施設があるのかが分からない。市町村によってマップやパンフレットを作成しているところもあるが、やはりまだ少ない。現状での解決方法はとにかく役所、地域包括センターに聞いて、片っ端から見学に行くことしかないようである。ポイントは、施設長から受ける印象だという。せっかく良い施設に入ったのに、施設長が代わって雰囲気がガラリと違ってしまうことも多々あるようである。&lt;br /&gt;　現在、在宅死の率が頭打ちの状態だ。これからは政府が発表する数字には施設も含まれていくと言われている。まだまだ施設が少ない。300人の待機者がいる施設もざらにある。&lt;br /&gt;　私自身は在宅死を望んでいるが、世帯の変化や家族の多様化によって今後は施設死という選択肢も入れざるを得ない状況にあるだろう。施設の数の増加、中身の充実について、もっともっと真剣に取り組まなければならない課題だと思った。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜参考＞&lt;br /&gt;今回このシンポジウムを主催した「ケアの臨床哲学」研究会とは、神戸を中心に活動している「患者のウェル・リビングを考える会」と京都を中心に活動している「〈ケア〉を考える会」を繋ぎながら、大阪大学大学院（臨床哲学）の教員（代表：浜渦辰二）・院生・学部生および一般の方々の有志で運営されている集まりである。医療施設で行われるケアの問題と高齢者施設で行われるケアの問題、さらに家庭で行われる在宅ケアも含め、これらは決して別々のものではないと考え、両者が繋がるところでケアの持つ問題を臨床哲学的に動きながら考えたいと集まった研究会である。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2862289422732313127?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2862289422732313127/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/01/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2862289422732313127'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2862289422732313127'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2011/01/blog-post.html' title='シンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」を聴講して。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8817783418048162679</id><published>2010-12-30T09:14:00.002+09:00</published><updated>2010-12-30T17:30:50.467+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>年末回想。若者たちの未来の死生観に希望を託して。</title><content type='html'>　2010年、今年は、いのちのありようについて重く考えさせられた一年でした。&lt;br /&gt;　身近には葬式仏教への逆風、社会面では、幼児や高齢者への虐待が相次ぎました。また、脳死・臓器移植の改正法や市民参加の裁判員裁判で死刑判決が初めて下されました。十分な検討も熟慮も伴わず、私には、ただ状況ばかりが前のめりに加速している印象があります。&lt;br /&gt;　人間は、葬式の形態や規模は別にして、死者を供養しないではいられない存在です。&lt;br /&gt;　年が明けるとまた「1.17」が巡ってきますが、いまなお、あれだけの人々が現地で、また日本中の人々も死者たちを鎮魂するのは何故でしょう。人間だけでありません。宮崎県を襲った口蹄疫の時も、殺処分される牛馬のために、畜産農家の人たちがこぞってユリの花を供えたと聞きます。&lt;br /&gt;　私は、生前個人墓「自然」を通してこれまで、結縁を希望する、200人以上の高齢者と面談してきました。多くはとりたてて宗教には関係を持たずに来た人たちでしたが、分かったことがあります。日本人は、それが家であるなしにかかわらず、「供養」という文脈を使いながら、自らの死生観を形成していくのだと。今までは家制度によって暗黙に「保証」されてきた供養が、環境の変化によって急に、個人の問題として突き付けられ、人は自分の「死後の供養」を考えて、準備に急ぎ始めたのです。「自然」という墓を契機として、いきいきと死生観を語り始める人たち。葬式や墓は、今まで眠っていた死生観を想起させる装置といっていいのかもしれません。&lt;br /&gt;　しかし、現実には、葬式仏教への不信は根強く、そして、消費者として君臨する人々との溝はあまりに大きい。消費者には、葬式仏教の教えはすべて建前であって、要求すべきはサービスとコストなのです。日本人は、この間、死生観を予行する大切な体験を根こそぎ喪ってしまうのではないか、という危惧も覚えます。&lt;br /&gt; &lt;br /&gt;　話はかわりますが、今月初め、ある若者の葬儀の参列しました。&lt;br /&gt;　彼女は息子の友人で、自宅で急に倒れ、９日間病床に伏せって、25年の生涯を閉じました。ご家族は「家族葬で」と計画したらしいですが、若い友人たちの要望で一般葬に変更となったと聞きました。&lt;br /&gt;　お通夜の式場は、高校、大学、職場とずっと吹奏楽を嗜んできた彼女の仲間たちで、埋め尽くされました。20代の若者たちは、ひょっとして初めて遺影に向かって手を合わせたのかもしれません。あまりに早すぎる親友の死を、まだ受け入れがたいのでしょうか、取り乱した様子もなく、式は淡々と進行していきました。&lt;br /&gt;　読経が終わって、若い僧侶がふりかえって語り始めました。&lt;br /&gt;　「私も26歳です」&lt;br /&gt;　けっして上手な説教というものではなかったけど、式場には若者どうしの一体感のようなものがこみ上げてきました。&lt;br /&gt;　「同じ世代として、もっと生きたかったろうに、やりたいこともたくさんあったろうに。そう思うと残念でなりません」&lt;br /&gt;　会葬者の席でずっと時間を共有しながら、私はふと不思議な感覚に襲われました。この若者たちの死者に対する謙虚で、誠実な態度は何だろう。メディアでは若い人の暴力沙汰がしばしば報道されるというのに、一転してこの身近な死に対する敬虔な姿に接し、私は、何か大きな落差を感じてしまったのです。&lt;br /&gt;　「いまどきの若者にふさわしくない…」と言いたいのではありません。逆に、情報とサービス漬けとなって、消費者として完成されてしまった人々には窺えない、生と死の美しい対話劇を見るような感覚でした。身近な人の死を、三人称（他人）の「死」として扱わず、自らのいのちの一脈として感応しあう。いや、あまりに急な死であったからかも、また彼らには慣れない体験であったからかもしれません。しかし、それ以上に、私は「死」に対する「若さ」の持つ清らかさと愛おしさを見てしまったような気がしてならないのです。&lt;br /&gt;　この国には、もはや紛争も飢餓もありません。死にゆく人は、みな病院の個室に運ばれ、多くの日本人が考えている「死」は、実体験を伴わない「死」です。それとまともに向き合わず、「千の風になって」を歌って、見せかけのイメージに溺れているのではありませんか。&lt;br /&gt;　だからこそ、私は若者たちの未来の死生観に、一縷の望みを託したい。&lt;br /&gt;　今年10月には、川中大輔さん（30歳）のグループが、應典院で「生と死を考える共育ワークショップ」を１泊２日で開催、「看取り」をわかちあいました。また、大晦日から元旦にかけては、尾角光美さん（28歳）のグループと、「年越し・いのちの村」を開催します。こちらは、年末年始、帰る場所もなく、孤立に陥る人たちと温かい正月をお寺で過ごそうという企画です。&lt;br /&gt;　若者たちに、決まり切った先祖供養は似合わない。あるのは、他者の「死」に自分の「生」を重ねることです。他者の死とは、ここでは、生きる痛み、悲しみといってもいい。私には、こうして若者たちの試みに寺として加担することが、「消費されていく仏教」を遠回りかもしれないが、徐々に本来の軌道に回復させる、唯一の道のように思えてならないのです。&lt;br /&gt;　どうぞよき新年をお迎えください。南無阿弥陀仏。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8817783418048162679?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8817783418048162679/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_30.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8817783418048162679'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8817783418048162679'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_30.html' title='年末回想。若者たちの未来の死生観に希望を託して。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3076867722709691762</id><published>2010-12-23T20:00:00.003+09:00</published><updated>2010-12-23T20:23:19.351+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>介護施設で看取りが浸透しないわけ</title><content type='html'>去る11月27日、尼崎にて「第19回阪神ホームホスピスを考える会」があり、「施設での看取り」というテーマで講演を聴いた。&lt;br /&gt;　最初に、特別養護老人ホーム けま嬉楽苑の土谷施設長が、「そのひとらしい暮らしを支えるターミナルケア」という話題提供をされた。&lt;br /&gt;　施設の入口には鍵はかけておらず、入居者は自由に出入りできる（もちろん認知症の方も）が、トラブルはないそうである。入居者には事前に普段の雑談の中で自分の「死に対する考え」について確認をし、死後の世界などもタブー視しない雰囲気作りをしている。施設で亡くなられた方に対しては、お別れ会をして、正面玄関からご遺体は出棺される。入居者全員でお見送りをするのだが、それを見て認知症の方も一緒に涙をこぼされるという。現在入居者55人で看取りは年間7名。平均要介護度3.9、そして何と待機者が700人もいらっしゃるそうである。&lt;br /&gt;　この施設のスタッフは、皆さんがホスピスマインドを持たれているように感じた。高齢者の虐待とか孤独とか、そんなニュースが絶えない中で、がんばっておられる特養の話を聞いて気持ちが明るくなった。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TRMs5az4vfI/AAAAAAAAAJ0/2YFVXKcE84I/s1600/%25E3%2581%2591%25E3%2581%25BE%25E5%2596%259C%25E6%25A5%25BD%25E8%258B%2591.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 132px; height: 99px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TRMs5az4vfI/AAAAAAAAAJ0/2YFVXKcE84I/s400/%25E3%2581%2591%25E3%2581%25BE%25E5%2596%259C%25E6%25A5%25BD%25E8%258B%2591.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5553832130439069170" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　続いて特別講演として、拓海会の藤田拓司先生が「介護施設の終末期ケア」というテーマで講演をされた。&lt;br /&gt;　2025年には160万人の多死社会を迎えると言われており、現状より50万人増えることになる。そういった背景の中で、藤田さんが冒頭に「家での在宅医療が限界かなと思う」と言われたのは衝撃であった。病院でも死ねない。家でも死ねない時代がやってくるのかとゾッとした。&lt;br /&gt;　家族の介護力が小さくなり、自宅での療養継続も困難になり、介護施設へ入所を希望する人、余儀なくされる人が少なくない。本来医療の現場ではない介護施設における終末期ケアを考えなければならないと言われた。しかし、介護施設では容易には死ねない現実もある。介護施設のスタッフたちの、看取りに対する忌避感が強いからだ。「死が怖い」「死にかかわりたくない」という気持ちもわかる。若いスタッフに死生観など要求するほどが酷なのかもしれない。そのため、藤田さんは「看取り」の研修を繰り返し実施されているそうだ。&lt;br /&gt;もちろん「死生観」は人から教えられるものではないし、マニュアルなどない。でもその気づきのためのヒントになる研修を繰り返し実施されているのは、すごいと思った。&lt;br /&gt;最後に藤田さんが言われたのは、今後、多死社会を迎える日本では、介護施設での看取りを積極的に行う必要がある。医療現場ではない介護施設で看取りを行うことは、困難を伴うが可能ではないか。そのためには医師の積極的な関与が必要である。自宅での在宅医療に近づけるために、①訪問看護が利用しやすいように制度を整備、②介護職による「吸引」などの医療処置が行えるように環境を整備することが必要、そして最も強調されたのは、③介護職に「死」を受け入れる教育が必要であると言われた。&lt;br /&gt;  すでに多死社会といわれ久しい。在宅看取りに比べて、施設での看取りはかなり遅れていると言われてきたが、必死でがんばっておられる現状が分かった。&lt;br /&gt;   残念ながら、この日の講演会では「死生観」の話は出てきたが、「宗教」というキーワードが出てこなかった。だからこそ、むしろこれからの宗教の可能性を感じた。&lt;br /&gt;  &lt;br /&gt; 私自身、今まで在宅医療について知識を積んできたが、今後は介護施設についても深く考えてみたいと感じた。ただ最後にまったく個人的な見解を言わせてもらうと、私がお付き合いさせていただいている在宅の医師たちは、在宅の側にいて在宅を考えているので、限界なんてないぞと思っておられるが、一方で圧倒的多数の医療者や福祉の方は病院や施設にいらっしゃるのが現状である。施設重点主義は根強い。だから、そういう人が多いのではないか。また在宅が増えない理由もそこにあるのではないか。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3076867722709691762?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3076867722709691762/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_23.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3076867722709691762'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3076867722709691762'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_23.html' title='介護施設で看取りが浸透しないわけ'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TRMs5az4vfI/AAAAAAAAAJ0/2YFVXKcE84I/s72-c/%25E3%2581%2591%25E3%2581%25BE%25E5%2596%259C%25E6%25A5%25BD%25E8%258B%2591.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3889097249313473289</id><published>2010-12-19T23:37:00.000+09:00</published><updated>2010-12-19T23:38:41.039+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>無縁から生まれた、結縁の場所</title><content type='html'>　今年の流行語大賞に「無縁社会」がランクインしました。ＮＨＫが年初に放送した番組がきっかけだが、年末にはすっかり時世を映す言葉として定着した感があります。また、それを裏打ちするような事件が、今年は相次ぎました。酷暑につづいた真夏には、児童虐待の惨い事件が連続して発生し、死んだ老親をタンスに隠した事件もありました。親名義の年金欲しさにだ。無縁というより、もはや絶縁社会といったほうが的確かもしれません。&lt;br /&gt;　私が「無縁」という言葉に初めてふれたのは、学生時代に網野善彦さんの名著「無縁・苦界・楽座」を読んだ時です。日本の中世には無縁所という寺社を中心とした独特の共同体があって、そこには世俗を逸脱した人びと、職人や芸能者、宗教者が集住していた、といいます。鮮烈な印象が残りましたが、無縁に対する解釈は、むしろ束縛されない自由区というイメージに近いものがありました。&lt;br /&gt;　現代の無縁社会は、イコール悪であり絶望を意味します。それを救済するには行政サービスや社会保障に頼むしかなく、しばしば政治の無策や不正が指弾されます。それは一面その通りなのですが、それだけが救済なら、われわれは結局権力の支配にすがる他はありません。むしろ無縁だからこそ、そこから生まれる新しいつながりやネットワークに知恵を働かせるべきではないか。家族にせよ地域にせよ、従来の共同体からこぼれおちた人びとを「結縁」するために、宗教者にやれることはないのでしょうか。&lt;br /&gt;　今年は、釜ヶ崎で活動する宗教者たちと出会いがありました。寺もない、檀家もない、釜ヶ崎という独特のエリアで葬送の支援をしようという志に生きる僧侶もいました。対象の多くは日雇いの労務者であったり、野宿者です。ここでは、布教教化というような振る舞いが傲慢に見えるほど、宗教者と対象者の関係は限りなく近い。確かに無縁ではあるが、絶望ではない。あるのは、何とかしようという宗教者の意志と、それに協働する、さまざまな市民のはたらきです。利他の共同体ともいうべき「志縁のネットワーク」が、無縁社会の片隅から生まれつつあります。&lt;br /&gt;　と同時に、そこから窺える、これまでとは異なる仏教者像に、私は気づかされます。布教者としての勇ましい使命感や責任感は棚上げして、ただ対象に寄り添う、という共感共苦に生きる態度です。あれこれ建前に惑わない。自分の感覚に正直に行動する。徹底的に自意識を退けた、その無為な立ち方やふるまいに、小さな希望を垣間見るのは私だけでしょうか。無縁とは、ひょっとして布教エゴに凝り固まった僧侶たちを、一度結縁の淵へと押し戻す、如来の導きではないか、とふと感じました。&lt;br /&gt;　そして、間もなく大晦日。大蓮寺と應典院では翌元旦にかけて寺域を開放、生きることに疲れ、居場所を失った人びとが集う、「年越しいのちの村」（共催Live　on)を開催する準備に忙しい。これもまた無縁から生まれた、もうひとつの場所なのです。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3889097249313473289?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3889097249313473289/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_19.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3889097249313473289'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3889097249313473289'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_19.html' title='無縁から生まれた、結縁の場所'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4756061323702715754</id><published>2010-12-15T22:59:00.003+09:00</published><updated>2010-12-15T23:05:38.667+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>死後をともに「生きる」仲間</title><content type='html'>（前回12月11日ブログから引き続きお読みください）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。&lt;br /&gt;  秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。&lt;br /&gt; 長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。&lt;br /&gt;   石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。&lt;br /&gt;  最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。&lt;br /&gt;現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。&lt;br /&gt;また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TQjKz2lPkAI/AAAAAAAAAJs/GtDP5a45eVY/s1600/%25E3%2581%2584%25E3%2581%25AE%25E3%2581%25A1%25E3%2581%25A8%25E5%2587%25BA%25E4%25BC%259A%25E3%2581%2586%25E4%25BC%259A.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TQjKz2lPkAI/AAAAAAAAAJs/GtDP5a45eVY/s400/%25E3%2581%2584%25E3%2581%25AE%25E3%2581%25A1%25E3%2581%25A8%25E5%2587%25BA%25E4%25BC%259A%25E3%2581%2586%25E4%25BC%259A.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5550909532907999234" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-4756061323702715754?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/4756061323702715754/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_15.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4756061323702715754'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4756061323702715754'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_15.html' title='死後をともに「生きる」仲間'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' 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/&gt;　冒頭の挨拶で石黒さんは、人は生老病死の苦難を乗り越えられたときに、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰さま」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びつくものであり、その結果、人間性もまた一回りも大きく成長していくと言われた。&lt;br /&gt;　まずオープニングは、口笛演奏家のもくまさあきさんの素晴らしい演奏で幕開け、記念講演として、長尾クリニックの長尾和宏院長の「在宅医療といのちの絆」という講演があった。長尾さんは尼崎で開業され、365日の診療、24時間の在宅医療をされている。&lt;br /&gt;　長尾さん自身、高校のとき父親を亡くされた経験をもっておられ、その時はとにかく力を失い、気力が喪失し、学校にも行けなくなり、一旦自動車工場に就職、しかし立ち仕事で腰を痛め、改めて大学進学の道を歩まれた。その後、大病院で救急医療に関わり、様々な死をみてこられたが、そうしている内に「終末期医療」について疑問を持ち始めた。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、スラム化した病院ではなく、もっと患者に寄り添いたいという思いから開業されたという。&lt;br /&gt;　在宅には、様々な人間模様がある。臨終の際には「死の壁」がある。とくに死の一日前にはもがき、大きな心の揺れがある。在宅で「死の壁」を乗り越える方法として、家族に「一日ほどの一瞬のことなので、ただただ患者さんに静かに寄り添ってほしい」と説明するという。これが現在の病院ではできない。&lt;br /&gt;　言葉の通じない外国人を看取ることもあり、最初は通訳ボランティアを通じて会話をしていたが、「死の壁」がやってきた時、言葉が通じなくても身振り手振りで会話を交わしながら、家族が必死で生と死を支えているのを目の当たりにすることもある、という。生死と家族は、ここでも一緒なのだ。&lt;br /&gt;　独居の看取りが、これからは当たり前のようになるだろう。独居でも、身体状態が悪くても、在宅で過ごすことは可能である。コミュニティは崩壊したと言われているが、近所の人がみているケースもある。これからの無縁社会を乗り越えていくのは「公的ヘルパー」であろう。&lt;br /&gt;　これからの介護のキーワードは「おせっかい」だ。職場で死にたいという人がいれば、そこで看取りたい。もっと在宅ホスピスの可能性を知ってほしい。実際に在宅で看取るには家庭、家族によってさまざまな事情があり、難しいケースがあるが、やはり好きな人たちに囲まれて生を終えるのが理想であり、長尾さん自身、これからも理想の実現に向かって進みたいと言われた。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;≪この項つづく≫&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TQNax78qeGI/AAAAAAAAAJk/BSPMXYLtoBs/s1600/%25E9%2595%25B7%25E5%25B0%25BE%25E5%2585%2588%25E7%2594%259F.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 400px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TQNax78qeGI/AAAAAAAAAJk/BSPMXYLtoBs/s400/%25E9%2595%25B7%25E5%25B0%25BE%25E5%2585%2588%25E7%2594%259F.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5549378979802806370" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-9028916390612898320?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/9028916390612898320/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/100.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9028916390612898320'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9028916390612898320'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/100.html' title='おせっかいと看取り～いのちと出会う会 100回記念講演「地域でつなぐ、いのちの絆」'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TQNax78qeGI/AAAAAAAAAJk/BSPMXYLtoBs/s72-c/%25E9%2595%25B7%25E5%25B0%25BE%25E5%2585%2588%25E7%2594%259F.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-9194125206834617086</id><published>2010-12-05T09:16:00.003+09:00</published><updated>2010-12-05T09:23:40.960+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>「同治」によるコミュニティの力</title><content type='html'>（前回12月2日ブログから引き続きお読みください）&lt;br /&gt; &lt;br /&gt;　應典院寺町倶楽部の名物企画で、2000年からほぼ毎月開催してきた「いのちと出会う会」が、11月に通算100回目を迎えました。私も世話人に名を連ねていますが、この功績は代表世話人として、この会とともに励んでこられた石黒良彦さんの尽力によるものです。&lt;br /&gt;　さて、会の報告は別に譲るとして、「スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア」の可能性として市民学習の試みがあります。「いのちと出会う会」も「大蓮寺・エンディングを考える市民の会」も同様の場ですが、双方に通じるのは、大人が死生観について学ぶ場であることです。&lt;br /&gt;　死生観は、これが正解というものがありません。昔は、仏教が大きな物語として作用してきましたが、現代は個人がバラバラになって、一人ひとりが自分の死生観を探しださなくてはならない時代です。世代間で引き継がれてきた伝統も、少子化と家族の多様化で、継承が難しい。インターネットで引っ張ってくるのは、知識や情報であって、「観」という考え方、あるいは生き方というようなものになっていない。そこに、市民学習の可能性があると思うのです。&lt;br /&gt;　「いのちと出会う会」は、在宅ホスピスや成年後見制や葬儀の実際など、講師が情報を提供する学習もあるのですが、とくに特長的なのは、その後の語りあいです。参加者が裃を脱いで、今日の話題を共有しながら、少しお酒も入れながら意見交換をする。そこには問題解決してくれる専門家がいるのではなく、参加者同士が対等の関係で、共感の関係を紡いでいきます。時に死別体験やがん体験を、語り合うことも。誰かの言葉に耳をそば立て、そのことが他者に対する信頼となり、自己への安心となります。この「同治」の体験があって初めて、人は自分の中の死生観というものを養うのだと思います。誰かにケアしてもらう「対治」的なスピリチュアルケアではなく、皆でケアしあう、「同治」のスピリチュアルワークといった方がいいのかもしれません。&lt;br /&gt;　そういう体験は、ネットで共有することは難しいものです。皆が対等に集えるリアルな場と、石黒さんのような市民の立場から場をつなぐような存在が必要となります。そして、この場に参加した人たちが、今度は自分の家庭や職場や地域に帰ってから、石黒さん同様につなぎ手となってくだされば、スピリチュアル・ワークはさらに拡がっていくことでしょう。&lt;br /&gt;　「弱さ」には、周囲の人がそれ見捨ておけない、何とかしないではいられない、という求心力心があります。それは、人間の内部に秘められた「慈悲心」といってもいい。弱者がいたら、すぐに社会保障やサービスに頼る（そして、気に入らなければ文句を言う、という消費者的態度！）のではなく、それを支えあう「同治」によるコミュニティの力を私は信じたいと思います。&lt;br /&gt;　枯渇した日本人の死生観も、そういうつながりの中から、次第ににじみ出してくるものであってほしいと願っています。≪おわり≫（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-9194125206834617086?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/9194125206834617086/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_05.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9194125206834617086'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9194125206834617086'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post_05.html' title='「同治」によるコミュニティの力'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7406749612544732607</id><published>2010-12-02T20:12:00.002+09:00</published><updated>2010-12-02T23:17:35.765+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア</title><content type='html'>　先月20日、府立の急性期総合医療センターが主催のシンポジウム「生と死を考える～がん医療とスピリチュアリティ」に出演しました。府立の総合病院が「死」をテーマに企画をし、しかも満場の聴衆が集まったことは、時代の変化を肌で感じました。&lt;br /&gt;　私も黒衣に輪袈裟で登壇しましたので、十分目立ったかと思いますが、ドクターやチャプレンと並んで意見を交わしました。自ずと議論の中心は、がんの緩和ケアからスピリチュアルケアへと移っていきました。&lt;br /&gt;　僧侶がこういう場に出てくると、ビハーラとか僧医とかいって、新しいお坊さんの臨床への参加と持ち上げられるのですが、それは言うほど簡単なことではありません。お隣の韓国などは総合病院内に宗教別の部屋があって、そこに宗教者が常駐しているのは当たり前ですが、日本では教団経営の病院以外は、皆無に等しいのが実態です。それほど「「葬式仏教」に対するアレルギーは強いのでしょう。また、それを口実に、仏教者側も一向にこの課題に取り組もうとしない。現実は、一部の良心的な宗教者によって、個別に執り行われているのであって、日本で言う「スピリチュアルケア」は絶えず宗教と切り離して考えられてきました（もともとＷＨＯの健康の定義に、スピリチュアルケアを提案したのはイスラム諸国です。理由は明白ですね）。&lt;br /&gt;　もちろん、仏教者の臨床参加もたいせつな実践なのですが、だからといってスピリチュアルな活動が全部病院の中に、ベッドサイドの現場にある、と捉えていいとは思いません。それは、「ケア」という言葉を用いた瞬間、ケアギバー（ケアしてくれる人）とクライアント（患者）という二者関係を連想してしまうこととも通底しています。そもそもスピリチュアルケアとは、病院内の専門用語なのでしょうか。&lt;br /&gt;　年間120万人が亡くなる多死な社会にあって、「治す」医療は限界と言われています。在宅医療や訪問医療も徐々に浸透し、じつは住み慣れた家で最期を迎える人たちも微増しています（2005年の79.8％をピークに、病院死は以後微減しています）。もちろん、在宅死であっても専門職の支援は欠かせませんが、人生の最後の時間を、一緒に過ごす家族や地域との関係は、スピリチュアルケアとは言わないのでしょうか。&lt;br /&gt;　「同治」と「対治」という仏教の言葉があります。例えば熱が出て、その対処法がふたつあります。水で冷やして治すのが「対治」、うんと汗をかかせて治すのが「同治」です。病院というところは、何かをしてもうところなので、自ずと関係は「対治」にならざるを得ない。外科手術も投薬もすべて高等な技術としての「対治」です。しかし、その手前に、私たちの日常の生活や暮らしの中に、それ以上の「同治」の可能性があるはず。スピリチュアルケアとは、これまで「対治」してきたケアを、「同治」の関係へと取り戻すような意味があるのかもしれません。&lt;br /&gt;　シンポジウムの席で私は、「スピリチュアルケアとは言わないスピリチュアルケア」を提唱しました。本来、スピリチュアリティとは生活や暮らしの中にあるもので、自分たちがさまざまな関係性の中から育んでいいくものだと。大蓮寺の「エンディングを考える市民の会」や、應典院の「いのちで出会う会」などの活動は、まさに他者や地域、社会とふれる、貴重な機会となっているのではないでしょうか。（秋田光彦）&lt;br /&gt;≪この項つづく≫&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TPeqXqj_VtI/AAAAAAAAAJc/VQwaBhW4rSM/s1600/%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A6%25E3%2583%25A0%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 266px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TPeqXqj_VtI/AAAAAAAAAJc/VQwaBhW4rSM/s400/%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A6%25E3%2583%25A0%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5546088789669009106" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7406749612544732607?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7406749612544732607/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7406749612544732607'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7406749612544732607'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/12/blog-post.html' title='スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TPeqXqj_VtI/AAAAAAAAAJc/VQwaBhW4rSM/s72-c/%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A6%25E3%2583%25A0%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-5174468216862094099</id><published>2010-11-28T00:09:00.002+09:00</published><updated>2010-11-28T00:16:40.009+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>シンポジウム「生と死を、今考える」を聴講して</title><content type='html'>去る11月20日に相愛大学×府立急性期・総合医療センター連携シンポジウム「生と死を、今考える」に参加した。&lt;br /&gt;   最初に驚いたのは、病院の入口からシンポジウム会場に向かうまでに、案内文が各所に貼られていたが、公立病院内であるのに「死」という文字が躍っていたことだ。今、「生と死」ということについて真剣に考える時代になったのだと感じ、「死」を思うということが確実に我々にとって身近なことになってきているのだと思った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　冒頭、相愛大学の記念コンサートがあり、リラックスしたところでシンポジウムが始まった。最初の基調講演では「がん治療最前線と緩和ケア、ターミナルケアの諸問題」で府立急性期　田中診療局長の話があった。まさに日進月歩のがん治療の最前線について具体的に話して頂き、ロボット手術など今後の新しい治療法についての可能性についてお聞きし、将来に希望を感じた。また緩和ケアについてはチームとしてのアプローチが重要であり、今までのように終末 = 緩和ケアではなくて、早期の段階から緩和ケアの必要性を訴えられた。最後に医療現場の現在の問題点として、外科医になりたい人が少なくなっており、人手不足で困っている、医師でなくても出来ることの負担を取ってもらえれば、と講演を締めくくられた。&lt;br /&gt;　確かに医療の人材不足は大きな問題である。何でも専門家任せではなく、我々市民と医療側との相互理解が深まれば、またそのために今回のような市民講座を開催されたのであろうが、その必要性を感じた。&lt;br /&gt;　2つ目の基調講演では相愛大学の釈徹宗教授が「スピリチュアルケアの可能性」について講演をされた。スピリチュアルケアとは痛み（ペイン）を取り除く作業ではなく、その人の死生観にかかわるものであり、自分という存在そのものに関する問いへの寄り添いである。また「宗教的ケア」と「スピリチュアルケア」は違うものであり、「スピリチュアルケア」は伝統宗教にコミットしない人たちに必要なものであるが、本来は伝統的な価値を持つ宗教をもっと活用すべきであると思う、と強調された。釈さんは「慈悲の瞑想」という言葉を出され、人間は「死」を活用して生きることが出来る。宗教には「死のイメージトレーニング」という役割を持っている。「もし明日、死ぬとしたら」とリアルに死をイメージする、そうして普段の自分の価値観の枠組みが揺さぶられ再構築していく、つまり日常を点検していく作業が必要である。また「つながり」と「共振」という言葉を出され、「共振」について、同じ生と死の物語を共有する人同士でないと、宗教の救いは語れないし、共振現象が起こりにくい。生と死を超えるリアルな世界は共振現象でなければ成立しないと言われた。&lt;br /&gt;釈さんは最後にこれからの可能性として、3つのトライアングルがあり、一つはエビデンスに基づいた医療(EMB)、その相対的な概念としての患者の主観的なナラティブに基づく医療(NBM)、そして地域(NPOなど)と連携、関連し合うことで生まれる医療、この3つのトライアングルが響きあって、新たな、本当の意味での医療の連携が生まれるのではないかと提起された。&lt;br /&gt;　やはり釈さんが最後に言われた地域コミュニティの連携なくして、再生は有り得ないと思う。それを取り戻すのは決してハードルは低くないが、コミュニティの構築が大切になると思った。スピリチュアルケアはマニュアルのない、一人一人が違ったペインを持っている。難しい領域だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　シンポジウムの最後として、「がん医療とこころのケア」と題されたパネルディスカッションがあり、大蓮寺の秋田光彦住職、チャプレンの打本未来さん、府立急性期 吉田緩和ケアチーム長が加わって交わされた。　チャプレンの打本さんは、患者さんと2時間近くのお話しの中で、その人の人生を振り返る作業（ライフレビュー）をし、その人の歩んでこられた人生はどういうものだったのか、その人が人生の過程でぶち当たった問題に対してどうやって解決していったのかを聞き、それを話の中で参考にすると言われた。また関係性が崩れてしまった家族の場合に呼ばれることが多いという。&lt;br /&gt;　秋田住職は、緩和ケアとスピリチュアルケアは元来違うものであり、そして当事者を主体としたスピリチュアルワークを積み上げていくには、「地域」こそふさわしい。一人の人間として裸になって向き合わなければならない。地図で区切られた「地域」ではなくて、場所、立場は違っても、同じ問題意識や境遇で集まってくる「コミュニティ」の再編が大切である（例えばがんコミュニティ）。また、死に対する自覚がないまま、何でも病院にお任せする前に、まず自らの死生観を学ぶことから始めなくてはならない、「今」を考えて生きることが何よりも大切であると言われた。&lt;br /&gt;　秋田住職が言われた、「痛みは、悼みとも通じる。悼んでくれる誰かと出会う、悼み、悼まれる関係を整えることが必要」というのが身に沁みた。コミュニティの再構築が本当に重要だと思った。一年に一回でいいから、まず身近な家族から、こういった死生観を話し合うことから始めてみてはどうだろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　最初にも書いたが、府立病院が「死」という課題に取り組み、シンポジウムを開催されたのは画期的な進歩だと思う。我々市民も一緒になって、もっと「生と死」、「死生観」について考える必要性を感じた。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TPEgrbCYdUI/AAAAAAAAAJU/53EQNinueQc/s1600/%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A6%25E3%2583%25A0%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 266px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TPEgrbCYdUI/AAAAAAAAAJU/53EQNinueQc/s400/%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A6%25E3%2583%25A0%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5544248546634003778" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-5174468216862094099?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/5174468216862094099/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post_28.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5174468216862094099'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5174468216862094099'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post_28.html' title='シンポジウム「生と死を、今考える」を聴講して'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TPEgrbCYdUI/AAAAAAAAAJU/53EQNinueQc/s72-c/%25E3%2582%25B7%25E3%2583%25B3%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B8%25E3%2582%25A6%25E3%2583%25A0%25E5%2586%2599%25E7%259C%259F.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8348552708229252108</id><published>2010-11-23T20:31:00.002+09:00</published><updated>2010-11-23T20:36:18.198+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>死刑と市民と死生観</title><content type='html'>■市民が選択した極刑&lt;br /&gt;　市民がかかわる裁判員裁判で、初めて死刑が選ばれました。&lt;br /&gt;　11月16日、横浜地裁は、麻雀店経営者ら2名の殺害事件の被告に対し、その計画性、残虐性から死刑判決を言い渡しました。市民が自ら命の裁きを下したことになります。&lt;br /&gt;  今回の裁判では、事実関係の争いはありませんでした。被告は裁判当初は同情や共感を拒み、自ら死刑に追い込むような言動が目立ちました。それが審理を経るうちに「心情が変わっていくのが、よくわかった」（裁判員の男性）といいます。「被告に人間性は残っている。わずかでも死刑をためらう気持ちがあれば、死刑にしてはならない」（弁護人弁論）。そして、市民が加わって3日間の評議を経た結果の判決は、被告の人間性を問いながらも、極刑の選択をしました。&lt;br /&gt;  これまでは「お上にお任せ」の裁判でしたが、去年、裁判員裁判制度が始まって以来、急速に市民の関心は高まっています。量刑の如何にかかわらず、判決という究極の判断から誰もが逃れられなくなったからです。人権の立場から「死刑反対」というのは簡単だが、自分が裁く側となった時、その主張を貫くことが可能なのか、国民全員に重い課題が突き付けられています。&lt;br /&gt; &lt;br /&gt;■他者の死と向き合う&lt;br /&gt;　当初、裁判員制度立案の経緯では、裁判員のストレスなどを考慮して、刑の軽い事件から対象とすべき、という声があったといいます。しかし、それでは本当の司法の参加にならない。人の生死がかかる重大な犯罪にこそ、市民の良識を反映させる必要があるとされました。「裁判員が実際に判断することで、死刑が刑罰として適切なのか、今でも日本に必要なのかを社会全体で考えることにもつながる。制度を維持するなら、私たち1人1人が責任をもって向き合う必要がある」（土井真一京大教授）。&lt;br /&gt;　市民社会は、それまでの「お任せ民主主義」を批判して生まれました。社会における重大な決定を、お上に任せるのではなく、自分たちに主体を取り戻そうという運動の結果でもありました。裁判員制度の誕生にも、その精神は活かされているはずで、「死刑判決だけは別」とはいかないのです。&lt;br /&gt;  今回の判決の結果は、尊重しなくてはなりません。今後、死刑を含む司法参加は進んでいくことでしょう。同時に、「司法的殺人」として死刑に反対する声についても熟慮を重ねなくてはなりません。死刑に市民が皆、向き合わなくてはならないのです。&lt;br /&gt;　私は、もう1つ、今回の死刑判決が日本人の死生観にも大きな影響を及ぼす、と感じています。人間は一般に自己を中心に、家族や同僚、知人といった、親しい2人称の死までしか体験することはありませんでした。それが生死のかかる裁判では、自分が他者の死に意識的に関与し、責任を負い、公正な判断をしなくてはなりません。「最期まで自分らしく」というようなフレーズが委縮してしまうほど、「他者の死」は冷徹なほど自己の死生観を相対化していきます。&lt;br /&gt;　判決言い渡し後、裁判員の一人は記者会見でこう発言しています。&lt;br /&gt;　「日本がいまどんな状況にあるかを考えると、一般国民が裁判に参加する意味はあると思う」（趣旨）。&lt;br /&gt;　犯罪、裁き、償い…そして、人間性とは何か。市民社会における死生観とは、個人の生死のみならず、そういう重く深い命題を引き受けていかざるを得ない、と思います。（秋田光彦）&lt;br /&gt; &lt;br /&gt;＊本稿は、11月16日、17日の各新聞報道を参考にしました。&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8348552708229252108?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8348552708229252108/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post_23.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8348552708229252108'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8348552708229252108'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post_23.html' title='死刑と市民と死生観'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-101666445293733057</id><published>2010-11-16T20:30:00.002+09:00</published><updated>2010-11-16T20:33:19.414+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>無縁社会に、お寺にできること。</title><content type='html'>■家族の変化と不安&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　社会の無縁化が進んでいます。人間関係や個人と地域とのつながりが急速に希薄になっており、葬送の分野でも、意識の変化は顕著です。&lt;br /&gt;　読売新聞の本年の世論調査によれば、「誰と一緒に墓に入りたいか」という質問に対し、「配偶者」が最多の67％、「先祖」の27％を大きく上回ったといいます。94年調査の同じ質問が「配偶者64％・先祖33％」だっただけに、血縁意識の変化を読み取ることができます。&lt;br /&gt;　自分の葬式を行う場合は、「身内と親しい人だけ」「家族だけ」を合わせると60％の人が内輪で行う、と回答、そもそも葬式とは「家」の世代交代や後継者を世間に知らせる意味がありましたが、こうした役割も低下してきているといえるのでしょうか。家族の絆やまとまりが、「弱くなってきている」と感じる人も、80％を超えています。&lt;br /&gt;　むろん、無縁化には社会的な原因があります。90年には親や祖父母との同居は61％で、単身世帯や、夫婦のみ世帯は39％でしたが、今や後者は50％を超えている。同時に、一人暮らしになり面倒を見てくれる人がいなくなる不安を、「感じている」人は52％と半数を超え、高齢者ほどその不安の数値が上がっていきます。無縁化は、単純に「人の心が荒んだ」だけでなく、家族や世帯の形態の変化という大きな要因が横たわっています。&lt;br /&gt;　「消えた高齢者」が多発する昨今、もはや家族のことは身内で、とはいかなくなりつつあります。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■月詣りで定期訪問&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　ひとり住まいの高齢者にとって、大きな不安は孤独です。&lt;br /&gt;　地域による助けあい、といっても、地縁そのものも弱まっており、昔ながらの近所づきあいだけに任せられるわけではありません。役所でも、見守りのためのさまざまな取り組みを実践しているようです。&lt;br /&gt;　関西のお寺には、月詣りの習慣があります（首都圏には、ありません）。毎月のお命日に僧侶がご自宅を訪問して、ご先祖さまをご回向申し上げ、短い時間ながら、供養を通して、先祖とのつながりを感じることができるでしょう。また、当山では院代が担当していますが、親しい者が定期的に訪問させていただくことが、何らかの不安の解消につながることがあるかもしれません。恐らくは大阪の浄土宗寺院だけで、合算すれば月詣りで何万という世帯に伺っているはずです。知恵を出しあえば、無縁社会に対する抑制的な役割が見いだせるのでは、と思います。&lt;br /&gt;　家族のことは家族で、という大前提が壊れつつある現代、安易に外部のサービスに頼ったり、役所任せは慎むべきですが、もう一度支えあう共同体として地域や人づきあいの役割を見直す時が来ているのかもしれません。&lt;br /&gt;　日本仏教の先祖供養や年中行事が、失われつつある絆を再生していく拠り所となるのか、あるいはそれに代わる新たな共同体の揺籃となるのか、いずれにせよ、その役割は小さくないと思います。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-101666445293733057?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/101666445293733057/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post_16.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/101666445293733057'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/101666445293733057'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post_16.html' title='無縁社会に、お寺にできること。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7974342857917625</id><published>2010-11-09T20:51:00.002+09:00</published><updated>2010-11-09T20:58:18.909+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>「葬式は、要らない」の島田裕巳さんと対談して考えたこと。</title><content type='html'>■東京の情報に惑わされない&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　去る9月20日、「葬式は、要らない」の著者、島田裕巳さんと対談をしました。應典院は満杯の盛況、「葬式は、要らない」と主張する宗教学者に、「葬式をしない寺」の住職が挑む、という格好で、当初は緊張がありましたが、なかなか中身のある話し合いができたと思っています。以下に私が申し上げたことを、３点にまとめておきます。&lt;br /&gt;　まず、島田さんの本の論拠は、首都圏型に偏っていること。関西には月詣りの習慣があり、五重相伝で生前戒名が授与されるなど、寺と檀家の信頼関係が厚い。首都圏はそういった前提がなく、葬式になって初めて僧侶に会うことも少なくありません。そもそも流動人口が多く、寺とのつきあいがない「浮動層」が全世帯の半分近いといいます。&lt;br /&gt;　メディアの責任も大きく、東京のローカル情報をさも全国ニュースのように報道し、それを鵜呑みにしている地方、という構図があります。地方にはその地方固有の伝統や習わしがあるはずなのに、情報の中央集権化に惑わされている現実は残念なことです。&lt;br /&gt;　２点目は、現実の葬式仏教が、儀式主義に終わっていることです。そもそも葬式仏教の成立は、地域共同体の中心として、「寺のある暮らし」が前提となっていました。死んでから始まる関係ではなく、それに至る長い時間を共有して、ゆっくりと形成していく、寺と檀家の共通理解・共通認識がありました。その時間感覚は、現代のような効率や合理性を優先する考え方とは相いれないものかもしれません。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■ 生涯全体にかかわる仏教&lt;br /&gt; 　現実の仏教は、「葬式は」「戒名は」とテーマごとに別々に説いているのではない。生涯時間をかけながら、じわじわと身体に馴染ませていくものであって、需給関係に立っているわけではありません。島田さんの本は消費者的立場で述べられており、逆にいえば、それほど現実の仏教から生活感覚が薄れてきていると思います。&lt;br /&gt;　このブログでも紹介してきた、大蓮寺の生前個人墓「自然」がよい例ですが、これまでまったくつきあいのなかった方々が、お墓を縁にして入信され、そして「寺のある暮らし」を始めていかれます。寺を中心として、互いに助けあい、拝みあう関係をつくりあげていく。本来、檀家さんも同じではないでしょうか。&lt;br /&gt;　３点目が、では、葬式仏教はどう再生されていけばいいのか。これには統一した回答があるわけではないのですが、私はやはり生涯全体に仏教がかかわる以外ないと考えています。人生の長い時間の道のりのあちこちに、寺がある。私はいまお寺直営の幼稚園の園長を務めていますが、そこで子どもたちやその親を、應典院で若者たちを、そして大蓮寺で、と世代を選ばないかかわりを重ねている真意がそこにあります。そういう全体像の中で、人々は葬式仏教という「形式知」に、信頼や安心を寄せてくれるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　島田さんからは「しかし、大阪がいつ東京型にならないとも限らない」と警告がありましたが、そうならないためにも、私たちは関西の、大阪の伝統をしっかり保っていくべきだと思います。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; &lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TNk3PTyOKUI/AAAAAAAAAJM/YBI1G6CE8VY/s1600/%25E5%25B3%25B6%25E7%2594%25B0%25E3%2581%2595%25E3%2582%2593.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 267px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TNk3PTyOKUI/AAAAAAAAAJM/YBI1G6CE8VY/s400/%25E5%25B3%25B6%25E7%2594%25B0%25E3%2581%2595%25E3%2582%2593.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5537517952977217858" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7974342857917625?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7974342857917625/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7974342857917625'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7974342857917625'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/11/blog-post.html' title='「葬式は、要らない」の島田裕巳さんと対談して考えたこと。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TNk3PTyOKUI/AAAAAAAAAJM/YBI1G6CE8VY/s72-c/%25E5%25B3%25B6%25E7%2594%25B0%25E3%2581%2595%25E3%2582%2593.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3018888829249894493</id><published>2010-08-08T09:19:00.003+09:00</published><updated>2010-08-08T09:23:53.604+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー2010 報告'/><title type='text'>自死遺族と仏教～自殺問題に取り組む僧侶たち～</title><content type='html'>　7月25日、大蓮寺にて【夏のエンディングセミナー2010】第3回「自死遺族と仏教～自殺問題に取組む僧侶たち～」で、自殺対策に取り組む僧侶の会 代表・浄土真宗本願寺派安楽寺 住職の藤澤克己さんの講演を聞いた。&lt;br /&gt;　藤澤さんは2007年5月に「自殺対策に取り組む僧侶の会」を立ち上げ、自死に関する悩みを手紙で受け付ける「自死の問い・お坊さんとの往復書簡」や、自死遺族のための追悼法要「いのちの日　いのちの時間」などを開催している。&lt;br /&gt;　冒頭に藤澤さんから自死（自殺）問題とは？という問いかけがあった。「自殺対策」って自死者が減れば良いのか？、自死（自殺）は身勝手な死か？、自死（自殺）することは悪いことか？、宗教者はこの問題に関わるべきか？これらについて、どのように考えるかを心に留めながら講演を聞いてほしいと言われた。&lt;br /&gt;　「自死」と「自殺」という言葉では、出来るだけ「自死」という言葉を使いたい。「殺」の字は「悪いもの」というニュアンスを含んでいて、自死遺族の方の心に突き刺さり、苦しめる。&lt;br /&gt;　自死念慮者と話をすると分かるが、死にたくて自死する人はいない。「死にたい」とは言うけれど、本当は生きていたい、でも生きていくことが出来ないほど辛い、逃げたい、だから死ぬしかないというに思っている。死ぬしか選べないほど苦しいのだと。&lt;br /&gt;　一方で自死遺族の方は、寂しさ以外に自責の念や怒り、疑問などの怯えがある。どうして救えなかったのかなど自分を責めてしまう。また社会の偏見があって、安心して悲しめない、語りたいのに語れないという状況に追い込まれていく。自死遺族はただでさえ悲しみがあるのに周りから、どうして気づかなかったのかと責められるのである。そして悲しみ、苦しさにも様々なパターンがあり、関わる際に万能な言葉などない、それぞれの立場によって違うので、一人ひとりと丁寧に関わっていかしかない、と藤澤さんは言う。以下に印象に残った言葉を記録しておきたい。　自殺対策を進めていくのに政府はスローガンとして、自殺は追い込まれた末の死であり、自殺は防ぐことが出来る、自殺を考える人はサインを発している、と発言しているが、これらの言葉が余計に遺族を苦しませている。&lt;br /&gt;　世間では自死した人に対して「死ぬ気になれば何でも出来たのに」「いのちを粗末にした」などと言う。でも亡くなった人の気持ちを100％分かる人なんていない。&lt;br /&gt;　自死遺族は世間の色々な言葉に傷つき、様々な態度に嫌な思いをしている。遺族に対し「しっかりね」「がんばってね」と不適切な言葉発し、また安易な励ましや、あなたの気持ちは良く分かると言ったりして、余計に傷つけてしまっている。色々と悩んでいるときにどうしてもらいたいか。それには支え合う、お互いさまと声を掛け合う、何か困っていることはありませんか、何か力になれることはありませんか声を掛けてもらいたいと思っているのではないだろうか。&lt;br /&gt;　自死遺族支援というのは、何かしてあげることではなくて、「見守り」と「伴走」であると言える。&lt;br /&gt;　そのままの気持ちに寄り添い、ペースに合わせて一緒に進むのである。その時に留意することは、上から目線は禁物で、引っ張らず、追い立てずである。何故かと言えば、「人にはだれでも回復力」を持っているのである。全ての人に回復力があると信じて、「見守り」「伴走」する関わり方が自死遺族支援として大切なことと思う。&lt;br /&gt;　「自死対策で目指すもの」として、自死者は決して特別な人ではない、ほっとけない気持ちで悼むことが大切である。自死念慮者、遺族に対してはお互いに認め合い、支え合うことが大切である。誰にとっても生き心地の良い社会にしなければならない。&lt;br /&gt;　冒頭の問いにあったように、この問題は、ただ自死者数が減ればいいのではない。生き生きと暮らすようになり、その結果、自死する人の数が減ってほしい。そして遺族が認め合い安心して悲しめるような社会でなければならない。安心して生きることが出来る社会づくりを目指して行きたいと言われた。そして、困っているときこそ、遠慮なく人の世話になって良いのである、そして回復すれば今度は他の人を助ければ良い。お互いさま、支え合うということである。安心して悩むことが出来る社会にしたいと最後に強く言われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; 　藤澤さんのお話しは実践に基づいたとても説得力があるところが多かった。私も昔、深く悩み自死がよぎったことがあった。というより自死しか解決法がないのではないかと考えたことがある。自分さえいなくなれば、全て上手くいくのではないかとも思ったが、今思えば身勝手な考えである。しかしそんな時に冷静には考えられない。幸いにもその時の私には、支えてくれる人がいたのである。&lt;br /&gt;　藤澤さんが言われたように、「お互いさま」と支え合う、安心して悩むことが出来る社会になれば良いなあと改めて強く思った。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TF347zZ7U2I/AAAAAAAAAI8/Rgn0hv0VJss/s1600/%E8%97%A4%E6%BE%A4%E5%85%8B%E5%B7%B1%E3%81%95%E3%82%93.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 265px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TF347zZ7U2I/AAAAAAAAAI8/Rgn0hv0VJss/s400/%E8%97%A4%E6%BE%A4%E5%85%8B%E5%B7%B1%E3%81%95%E3%82%93.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5502828026011538274" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3018888829249894493?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3018888829249894493/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/08/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3018888829249894493'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3018888829249894493'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/08/blog-post.html' title='自死遺族と仏教～自殺問題に取り組む僧侶たち～'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TF347zZ7U2I/AAAAAAAAAI8/Rgn0hv0VJss/s72-c/%E8%97%A4%E6%BE%A4%E5%85%8B%E5%B7%B1%E3%81%95%E3%82%93.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2480873664609094312</id><published>2010-07-30T20:23:00.003+09:00</published><updated>2010-07-30T20:33:36.258+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー2010 報告'/><title type='text'>遺族サポートとお葬式～グリーフでつながる～</title><content type='html'>　 7月18日、大蓮寺にて夏のエンディングセミナーとして「遺族サポートとお葬式～グリーフでつながる～」を聴いた。講師の㈱ジーエスアイ代表　橋爪謙一郎さんは、グリーフサポートに関して、深い知識とアメリカでの実務経験を持つ、日本における第一人者である。新著に『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』（小学館新書）がある。&lt;br /&gt;　最初に「グリーフ」の定義について言われた。&lt;br /&gt;　例えば、男であるから悲しみを我慢しなければいけないなど、自分が持っている先入観で自分の心の中の感情を押さえつけたり、周囲の人が持っている勝手な「暗黙のルール」や、あるいは地域の習慣や社会全体の「常識」「通念」に押さえられて、気持ちを外に出せなかったりする、つまり自分の心の中ではいろいろな感情、行動が浮かびあがってきているが、それを周りの人に受け入れてもらえないのが「グリーフ」の状況だと。&lt;br /&gt;　その時に、周りの人間にできるのが、「グリーフサポート」ではないか。行ったり来たりする当事者の感情を、自分らしく表現できるように寄り添って支えてあげることがグリーフの中で必要な支援だという。&lt;br /&gt;　遺族や死別体験者が必要としていることは一人ひとり違うが、日本人は自分の気持ちや考え、思いを共有することに慣れていない。人と違うことを怖れるので、余計に自分の中で感情や思いを押さえ込む人が多い。&lt;br /&gt;　そこで、橋爪さんは、日本の葬儀を「再評価」を試みた。&lt;br /&gt;　本来、日本の葬式とは、遠慮なく悲しみなどの感情表現できる数少ない場であった。故人を知る人が集まることも大切だ。家族の知らない故人の一面を教えてもらうことによって、遺族にとって気持ちを整理できる場になる。現状の葬儀はどうか。&lt;br /&gt;　また今では法要も省略される傾向にある。いろいろな法要が連続して葬儀のプロセスを形成してきたが、現在の葬儀は「点」になっている。自分の気持ちを整理する場として、どうつきあえばいいかわからい。面倒くさいものとして、省略しようという心境もある。&lt;br /&gt;　葬儀が少しずつ自分の気持ちを整理する場であると気づくと、考え方ももっと変わってくるのではないか。供養の仕組みをもっと考えるべきである。「点」でなくて「プロセス」として葬式や法要を捉えなおすことによって、辛い体験を乗り越えていく。改めて「過程」をどうやって作っていくのかを再考しなければならない。&lt;br /&gt;　グリーフを支えるとは、相手に「寄り添うこと」である。遺族のあるがままをどのようにして受け止められるのか、また寄り添っている相手に自分が「味方」であると気づいてもらうことが重要である。側にいて、いつでも必要な時に手を差し伸べられるようにする。&lt;br /&gt;　「グリーフにおける支援」とは心理的支援だから、ある意味、葬儀社が行う、葬式の打合せ自体がカウンセリングであるとも言える。遺族が大切にしていることをどれだけ聞けるか、どれだけ心の中のことを出してもらい、整理することができるか、それができれば、必ずよい葬式になる。今の葬式は、準備の時間が少なすぎるのでないか。そしてそこが葬式に対する不全感になっているのではないか。また、情報提供も重要だ。どこにいけば葬式関連の情報が手に入るのか、すぐに分かるシステム作りが今後の課題だ。&lt;br /&gt;　橋爪さんが一番強調されたのは、「大切な人を喪った人が、自分が何をしてほしいか声を上げること」。残念ながら声が聞こえてこないと、誰も手を差し伸べられない。またその時に、周りの人も自分たちができることがあることを知ってほしい。一つでも変わるとその人は元気になれる。そういう簡単なところから始めてほしいと言われたのが、印象に残った。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　橋爪さんのお話しはとても共感するところが多かった。でもやはり私は「グリーフ」はとても難しいことと感じてしまう。ある意味、グリーフというのは癒せないものであるのではないかとすら思う。私自身、心理学の勉強をしていたが、今は心理学からのアプローチの限界を感じている。&lt;br /&gt;　私にとっても、これからいろいろな角度でのグリーフが訪れると思う。私は簡単に乗り切れるほど強くない。でもどうやってグリーフと共存して生きていけるかを模索していきたい。その際に大事なポイントになるものを、今回のセミナーで学んだような気がする。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TFK3LJ0pKsI/AAAAAAAAAI0/pJs8QbEUrUY/s1600/%E6%A9%8B%E7%88%AA%E8%AC%99%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 265px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TFK3LJ0pKsI/AAAAAAAAAI0/pJs8QbEUrUY/s400/%E6%A9%8B%E7%88%AA%E8%AC%99%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5499659497215961794" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2480873664609094312?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2480873664609094312/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/07/blog-post_30.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2480873664609094312'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2480873664609094312'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/07/blog-post_30.html' title='遺族サポートとお葬式～グリーフでつながる～'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TFK3LJ0pKsI/AAAAAAAAAI0/pJs8QbEUrUY/s72-c/%E6%A9%8B%E7%88%AA%E8%AC%99%E4%B8%80%E9%83%8E%E3%81%95%E3%82%93.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-5369891263562441284</id><published>2010-07-24T11:45:00.003+09:00</published><updated>2010-07-24T11:53:07.060+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー2010 報告'/><title type='text'>遺族と＜墓友＞たち～「人生の最期」にこだわる仲間たち～</title><content type='html'>7月10日、應典院にて寺子屋トーク「遺族と＜墓友＞たち～人生の最期にこだわる仲間たち～」で、エンディングセンター代表　井上治代さんの講演を聞いた。井上さんは、今や死と葬送をめぐる環境は“選択する時代”に入っており、核家族の晩年の姿は「夫婦だけ」、最晩年は「独居」となるからこそ、個と個がどうつながり、助け合うか、家族をも含めた他者との「ゆるやかな共同性」「結縁」Support Networkを模索し、実現していきたいと活動されている。&lt;br /&gt;冒頭、大蓮寺の創設した「第1回自然賞」の授賞式があり、受賞団体として、桜葬などに取組む「エンディングセンター」が選ばれ、贈呈式が行われた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最初に井上さんは家族が遺族になった時、①死の受容、②悲嘆の回復（グリーフワーク）③高齢者が「一人で生きる」ということ、ということが課題として掲げられるが、その中で一番大切なものは、核家族が進む中、③の高齢者が「一人でどう生きていくか」が大問題であり、またそれと対になって「一人でどう死んでいくか」が課題であると言われた。現在、子どものいない高齢者世帯が増加しており、葬式でも喪主も確保できない人が増えているが、１９９０年代からは跡継ぎを必要としないお墓もできてきた。しかし、それは決して子どものいない夫婦ばかりでなく、むしろ子ども（娘、息子）がいる家に多く、跡継ぎがいる家族が、跡継ぎを必要としないお墓を求めだした傾向が強い。つまり現在において、血縁による継承は制度疲労を来しているのである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;１９９０年代からのお墓の変化として、①跡継ぎ性からの脱「継承」、継承者を必要としない集合墓など、②散骨、樹木葬などの自然志向、③個人化が挙げられる。中でも③個人化、つまり個人が選ぶ死後のあり方が進み、家族機能の外部化、社会化という時代になった。他人に託す介護保険制度がその象徴である。そこでその死後の社会化（喪主、死者祭祀の家族外部化）をサポートするのが、エンディングセンターの役割だと思っていると言われた。&lt;br /&gt;葬送の中の「家」システムが後退し、「集団から個人へ」と価値意識が転換していく中、エンディングセンターでは「桜葬」墓地を作った。ここではお墓というハードだけでなく、そこに集った人達や会員でお墓を守ったり、生前から交流したりするという「墓友」グループを作っている。&lt;br /&gt;今は家族の永遠性を求めることはむずかしい。桜などの自然という永遠性に囲まれて、「墓友」みんなで眠るというイメージである。&lt;br /&gt;今では家族用にも「桜葬」墓地を設けている。子どもたちが入るかどうか分からないが、将来一緒に入りたいと思ったときに入れるように、可能性を保持できるところが人気となっている。子どもに墓の管理を負わすことなく、しかし一緒に入りたければ入ることが出来る、このあたりに現代の核家族の特徴があらわれていると言える。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;最近は「就活」ならぬ「終活」という「死」を自分でデザインする時代に入ってきた。元気なうちに終末、むしろ死んだ後のことを考える時代に来ている。生き方にこだわる人が死に方にもこだわっている。墓を核としたネットワークはすごい。実際には家族と親族は永遠ではない。「人生の最期」にこだわる仲間たち、つまり血縁だけでない新たなサポートネットワークの時代がやってきたのではないか。家族の行方を、今後も墓を焦点に考えていきたい。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;人生の最期、お墓の問題については、私にとっても悩ましい課題だ。桜葬に関しては、私自身まだまだ考え方の部分に踏み切れないところがあるが、関心を示している人が多いことも確かである。現代では「死」はあくまでも個人のものとなり、共同体のものでなくなったのだろうか。その家族の移ろいを認めざるを得ないが、私自身、一抹の空しさは感じる。&lt;br /&gt;今回は私自身が、親、子どもを視野に入れつつ、自分の最期、死んだ後について考えるよい機会になった。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TEpVHQONypI/AAAAAAAAAIs/i_dAT3lJvRg/s1600/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B2%BB%E4%BB%A3%E3%81%95%E3%82%93.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 265px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TEpVHQONypI/AAAAAAAAAIs/i_dAT3lJvRg/s400/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B2%BB%E4%BB%A3%E3%81%95%E3%82%93.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5497299878261148306" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-5369891263562441284?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/5369891263562441284/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/07/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5369891263562441284'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5369891263562441284'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/07/blog-post.html' title='遺族と＜墓友＞たち～「人生の最期」にこだわる仲間たち～'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/TEpVHQONypI/AAAAAAAAAIs/i_dAT3lJvRg/s72-c/%E4%BA%95%E4%B8%8A%E6%B2%BB%E4%BB%A3%E3%81%95%E3%82%93.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4807757427748966268</id><published>2010-07-05T10:22:00.006+09:00</published><updated>2010-07-06T08:24:22.617+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='セミナー概要'/><title type='text'>「遺族不在」の時代とこれからの葬送　　　　　2010年、エンディングセミナーの開催にあたって思うこと</title><content type='html'>■二人称の死と家族葬&lt;br /&gt;　「死の人称論」を説いたのはジャンケレヴィッチだが、日本では作家・柳田邦男が著作「犠牲（サクリファイス）」で述べて、広く一般的になった。一人称は亡くなる本人の視点、二人称は身近な家族や友人の視点、そして三人称がそれ以外の第三者の視点、といわれ、柳田の本は、「二人称の死」の重要性を訴えた。つまり、遺族としての視点を掘り起こした。&lt;br /&gt;　葬式はいったい誰のものか。その問いにいろいろな答え方がある。宗教的に言えば、死者を来世へ送ることだが、社会的には死の事実を示して、死者が世帯主である場合は、その承継を地域に対し表明することでもあった。だから、一昔前までの葬儀では、遺族は町内や職場のいろいろな決まりごとを生真面目に順守してきた。遺族の視点（二人称）というより、社会の視点（三人称）が優先されてきたのだ。&lt;br /&gt;　最近になって、二人称の死、遺族の視点が強調されてきたのは、葬式の形態の変化とも無関係ではない、と思う。家族葬の普及である。&lt;br /&gt;　ここ20年ほどの間、伝統とされてきた葬送がリストラされて、いろいろな葬法が登場してきたが、中でも家族葬はすっかりスタンダードになった。外から会葬者を招かない、身内だけで親密な別れを告げるコンパクトな葬式は、死の視点から考えれば、従来になく死者と遺族の距離を近づけた。深い人間関係を結んできた親密感を、切り裂かれるような喪失感、悼み、悲嘆が隠しようもなく露わになる。私の印象だが、社会的な儀礼性が後退した分、家族葬はグリーフ（死別の悲嘆）の感情を浮き彫りにしたと言えるのではないか。&lt;br /&gt;　最近、このグリーフという言葉の浸透が著しい。グリーフサポートとかグリーフワークという考え方は遺族を中心としているが、日本の葬式もまた遺族という二人称の視点からその意味を問い直されようとしている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■遺族の不在、という問題&lt;br /&gt;　年間114万人が亡くなる現在の多死社会は、その意味では多くのグリーフを背負う時代でもある。たいせつな人の死をどう受け入れ、どう送るか－－－それは日本人が独自の歴史と文化の中で育んできた遺族の精神史とも重なるが、ここにも変化の兆しが見て取れる。&lt;br /&gt;　ＮＨＫが1月に「無縁社会」を報道して話題となった。日本には、身元不明の、遺体引き取りを拒否される人が１年間に3万人以上いるという事実。単身世帯の急増は、将来の無縁死や孤独死の増を示唆しているのかもしれないし、別の言い方をすれば「遺族の不在」という深刻な事態が迫ってきている。俗世のつながりが分断すれば、死者と遺族の関係も歪が生じる。そもそも少子化が加速して、死後の継承者が縮小しているので、「遺族なき供養」という問題は、どの寺院でも逼迫した課題であるはずだ。永代供養墓の普及はその証拠だし、究極の選択は、遺族がいても、葬式をしない「直葬」だろう。首都圏では、葬儀全体の3割を占めるという。多死社会において、いったい供養の担い手とは誰なのか。&lt;br /&gt;　グリーフという遺族の内面にかかわる問題が生起する一方で、「遺族の不在」という社会的な現象が立ちはだかる。そもそもグリーフの主体者とは誰なのか。遺族なき時代が到来する中、死別の悲しみはどう支えられ、死者をどう悼んでいくのか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;■グリーフサポートとしての葬送&lt;br /&gt;　墓、葬式など葬送儀礼、あるいは僧侶という存在は、長い歴史を通して、死別の悲しみを支える作法を伝えてきた。かつての大家族、長男世襲の時代ではそれは至極当然の生活文化であったから、とりたててグリーフという問題が取り上げられたこともなかった。しかし、家族が多様化して、遺族が急速に変容する今、葬式仏教も制度疲労を来し、逆にその間隙を縫ってグリーフの観点が浮上してきた。&lt;br /&gt;　確かにこれまで通りの葬式仏教は後退するだろう。しかし、ある意味でグリーフを核とした新たな葬式の再構築が始まる、これは転機なのかもしれない。「一人では弱い存在である人間が死別と向き合ってとき、誰かに支えてもらうことで生きるために必要な力を得る時間や場所として葬儀がある」（橋爪謙一郎）ならば、グリーフサポートとしての葬送の役割を、いま真剣に考えるべき時が来ているのではないか。それは同時に、儀礼の執行役であった僧侶の役割をも問い直すものとなるだろう。&lt;br /&gt;　今回のエンディングセミナーでは、3人のゲストの活動を通して、グリーフサポートとしての葬送について考えてみたい。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;大蓮寺・應典院　夏のエンディングセミナー2010&lt;br /&gt;「遺族」をどう支えるか～グリーフサポートとしての葬送～&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第１回　7/10(土)14:00～&lt;br /&gt;應典院寺町倶楽部「寺子屋トーク第58回」&lt;br /&gt;遺族と&lt;墓友&gt;たち～「人生の最期」にこだわる仲間たち～&lt;br /&gt;会場：應典院　＜閉会16:30＞&lt;br /&gt;井上 治代さん（NPO法人エンディングセンター代表・東洋大学教授）&lt;br /&gt;対話：秋田光彦　司会：出口久美さん（NPO法人遺族支え愛ネット）&lt;br /&gt;[オンライン予約]&lt;br /&gt;&lt;a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689"&gt;http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;参加費 ：一般1,500円・應典院寺町倶楽部会員・学生1,200円&lt;br /&gt;＊なお、同日、大蓮寺のエンディング奨励事業「自然賞」授賞式を併催します。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第2回　7/18(日)14:00～&lt;br /&gt;遺族サポートとお葬式～グリーフでつながる～&lt;br /&gt;会場：大蓮寺　＜閉会16:00＞&lt;br /&gt;橋爪 謙一郎さん（株式会社ジーエスアイ代表取締役）&lt;br /&gt;対話：秋田光彦&lt;br /&gt;[オンライン予約]&lt;br /&gt;&lt;a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690"&gt;http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;参加費 ：一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;第3回　7/25(日)14:00～&lt;br /&gt;自殺遺族と仏教～自殺問題に取り組む僧侶たち～&lt;br /&gt;会場：大蓮寺　＜閉会16:00＞&lt;br /&gt;藤澤 克己さん（自殺対策に取り組む僧侶の会代表・浄土真宗本願寺派安楽寺副住職）&lt;br /&gt;対話：秋田光彦&lt;br /&gt;[オンライン予約]&lt;br /&gt;&lt;a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691"&gt;http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;参加費 ：一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円&lt;br /&gt;主催：大蓮寺・エンディングを考える市民の会、應典院寺町倶楽部&lt;br /&gt;共催：浄土宗大蓮寺、應典院&lt;br /&gt;助成：公益財団法人JR西日本あんしん社会財団&lt;br /&gt;協力：NPO法人遺族支え愛ネット、Live on、NPO法人エンディングセンター&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜各回ともインターネットで直接申込が可能です＞&lt;br /&gt;10日：&lt;a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689"&gt;http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;18日：&lt;a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690"&gt;http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;25日：&lt;a href="http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691"&gt;http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜事前の準備状況は大蓮寺のブログで紹介！＞&lt;br /&gt;&lt;a href="http://mitoribito.blogspot.com/"&gt;http://mitoribito.blogspot.com&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;問合せ　應典院寺町倶楽部(おうてんいんてらまちくらぶ)&lt;br /&gt;543-0076 大阪市天王寺区下寺町1-1-27　TEL 06-6771-7641　FAX 06-6770-3147&lt;br /&gt;電子メール　&lt;a href="mailto:info@outenin.com"&gt;info@outenin.com&lt;/a&gt;　ホームページ　&lt;a 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title='「遺族不在」の時代とこれからの葬送　　　　　2010年、エンディングセミナーの開催にあたって思うこと'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6130113645912651696</id><published>2010-06-14T14:16:00.002+09:00</published><updated>2010-06-14T14:22:33.253+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>いただきます、という花束。</title><content type='html'>　宮崎県の口蹄疫の災禍が、一向に収まる気配がない。もちろん、拡大は食いとめなくてはならないが、そのために数万頭以上の家畜が殺処分されると知ると、慄然とする。すでに遺骸を埋める場所さえないと聞く。それ以上に、畜産農家の悲痛は察して余りある。手塩をかけて、子ども同然に育て上げた牛豚を、「感染防止」のため次々と殺処分される。あまりに痛ましい。農家の中には、遺骸に花を供えてくれ、と涙ながら係員に託する人もいるという。&lt;br /&gt;　忘れてはならないことがある。もとよりこの牛や豚は、われわれ人間の「食用」として肥育されてきた、という事実。そして、私たち人間は多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいかない。&lt;br /&gt;　消費優先の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかない。牛も豚もみないのちはあるが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。殺された牛豚の場面をテレビで眺めながら、何段重ねの巨大なバーガーを食らう我々がいる。&lt;br /&gt;　私の幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、「食前のことば」を唱える。&lt;br /&gt;　「われいまこの清き食をいただきます。&lt;br /&gt;　　与えられた天地の恵みを感謝します。&lt;br /&gt;　　いただきます」&lt;br /&gt;　食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉だが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、栄養だ調理だという前に、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないか。&lt;br /&gt;　仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊んできた。にもかかわらず、人間は他者のいのちの上に成り立つしかない。わが身を悲しむと同時に、それを転じてすべてのいのちへの感謝と慈しみが大切であると教えてきた。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっている。そのことを忘れてはならない。&lt;br /&gt;　「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのである。（蓮池潤三）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6130113645912651696?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6130113645912651696/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/06/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6130113645912651696'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6130113645912651696'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/06/blog-post.html' title='いただきます、という花束。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1199062742670403189</id><published>2010-05-30T19:45:00.006+09:00</published><updated>2010-06-01T22:33:33.677+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>『宗教的ケアとスピリチュアルケア』～ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」を聴講して</title><content type='html'>　去る5月24日、ＮＰＯ法人ビハーラ21が開催した「第2回ビハーラ実践研究会」に参加した。&lt;br /&gt;この研究会は、3月より隔月で開催されており、今回が2回目である。&lt;br /&gt;第1回目については、下記のブログを参照頂きたい。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html"&gt;http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　今回はビハーラ21の理事であり、曹洞宗崇禅寺副住職　西岡秀爾さんが「ビハーラ活動再考－宗教的ケアとスピリチュアルケア－」で話題を提供された。&lt;br /&gt;　僧侶、ヘルパーさんや一般の方など前回以上の30名近く方が集まられ、西岡さんの講演の後も予定時間を越える白熱したディスカッションになった。&lt;br /&gt;　西岡さんからのお話で、ビハーラ活動は、「仏教を基盤とした」「仏教を機縁とした」゛いのち゛の尊さに気づき、支え合う精神に基づく活動と言えるが、それではビハーラ活動は宗教的ケアなのか？スピリチュアルケアなのか？という問いがあった。&lt;br /&gt;　宗教的ケアとはケアを提供する側とされる側で互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提であり、ケアを提供する側が主導権を持つという。つまり僧侶、牧師などがいなければケアは不成立であり、援助者も僧侶、牧師などに限られることになる。本来スピリチュアルケアはケアを提供する側（援助者）がケアを受ける側（相談者）の世界観に合わせ、主導権は相談者にあって、援助者は相談者の行きたいほうに寄り添うのであるが、それ故援助者はカウンセラー、医師、ボランティアなど多岐にわたる。&lt;br /&gt;　またケア援助者が提供するものとして、宗教的ケアは「答え」「気づき」を与えるが、スピリチュアルケアは答えを提供するのではなく「気づきの場」を与えるものだ。&lt;br /&gt;　さらに宗教的ケアでは、相談者は援助者である宗教者を基軸とする「世界」に入り込むことになるが、スピリチュアルケアでは、その相談者の「世界」に入り込むので、信仰の種類や有無を問わないで、どのような相手にも対応できるともいえる。つまり、宗教者を基軸とする「世界」と相談者の「世界」と入り込み世界が違うのである。&lt;br /&gt;　そこでビハーラ21の活動は、「ビハーラを掲げる集まり（仏教を機縁とした集まり）としては、活動の場に応じ、宗教的ケア（超宗派の活動）とスピリチュアルケアを上手く使い分けることが必要不可欠」と考える。　　&lt;br /&gt;　末期を迎えている方から「死んだら天国に行けますか？」と聞かれたらどう対応するのか。釈尊の立場では「有るとも無いとも言えない」ということになるが、宗教的ケアでは援助者の信仰・信念において答えを提供する。つまり「極楽浄土がありますよ」ということになる一方、スピリチュアルケアでは、援助者は答えを提供しない。あくまでも相談者が折り合いをつける、という。&lt;br /&gt;　定義はそうかもしれない。しかし、もし私が末期の方に死後の世界をあるのかと尋ねられたら、何の根拠はなくとも「ある」「そこで愛する人たちと会えるよ」と答えると思う。乱暴な言い方だが、こんなとき「嘘も方便」ではないか。&lt;br /&gt;これからは宗教者の役割は、問題に対し答えを出すことよりも、「問い」を「問題」まで構成し直すことができるかどうかが求められることになるであろう。&lt;br /&gt;　最後に西岡さんが、ビハーラを掲げる集まりは、あくまでも仏教が機縁となっているだけで、仏教を前面に押し出すものではない。援助者側の拠り所として仏教が支えとなっているのは事実だが、それを相談者に押し付けてはならない。さらに仏教を手段として利用するのは間違っている。ケアのために、看護のために、福祉のために、癒しのために仏教を使うのではなく、有縁の援助者側のバックボーン(生き方・支え)として仏教があるのではないか、と言って締めくくられた。&lt;br /&gt;　今回の話題はなかなか解答の出るものではないので、引き続き話し合えて行ければ思う。「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、このビハーラ実践研究会で議論を一つ一つじっくりと交わし、ぜひ一緒に歩んでみたいと改めて思った。&lt;br /&gt;　この研究会は大河内さん、西岡さんの持っておられる居住まいが、すごく良い「場」を作っておられる。今後もとても楽しみな研究会である。&lt;br /&gt;　次回のビハーラ実践研究会は7月26日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。通常、1時間半であるが、今回のように白熱したディスカッションから、今後は2時間の枠に広げるかもしれないと大河内さんが仰った。私も大賛成である。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1199062742670403189?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1199062742670403189/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/05/21.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1199062742670403189'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1199062742670403189'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/05/21.html' title='『宗教的ケアとスピリチュアルケア』～ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」を聴講して'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2999613611535820522</id><published>2010-05-15T11:13:00.002+09:00</published><updated>2010-05-15T11:19:08.588+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='山口洋典主幹の視線'/><title type='text'>いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて（５）坊さんも、大志を抱く</title><content type='html'>　「ボーズ・ビー・アンビシャス」。どこかで聞いたことがありそうな言葉だが、誤植ではない。そう、これは「青年よ、大志を抱け」をもじり、「お坊さんよ、大志を抱け」とされたスローガンなのだ。使い始めたのは、東京・港区にある青松寺。伝統ある曹洞宗のお寺で、宗門以外の講師を招いて始めた「仏教ルネッサンス塾」の上田紀行塾長（東京工業大学大学院准教授）のもと、僧侶たちが自らの問題を語り合う場がボーズ・ビー・アンビシャスである。&lt;br /&gt;　去る3月9日、大阪市下寺町の應典院にて、ボーズ・ビー・アンビシャス、通称ＢＢＡの関西での第1回が開催された。きっかけは、既に7年13回にわたり開催されてきた東京での会に、関西方面から何度も参加してきた僧侶がいたことだった。そして、昨年7月20日に準備会が発足し、16人の仲間たちとともに、実現に向けて取り組んできた。結果として、63人の僧侶らによる激論の場が生まれた。ＢＢＡを知る人も、知らない人も、カミングアウトや自己宣言をする機会を得たように思う。&lt;br /&gt;　ただ、開催にあたって事務局を務めさせていただいた側としての率直な感想は、「集まり、語ることに満足をしていないか」ということである。言葉を選ばずに言えば、「いけてるお坊さん」を装ったところで、それぞれの寺院が抱えている問題は、いっこうに解決を導き出すことはできないのだ。もちろん、こうして集い、考える場が無意味だとは言っていない。要するに、集い、考えたものを、どのように自らの生き方、すなわち現場に重ねていくのかが、決定的に重要なのである。&lt;br /&gt;　宗教学者の島田裕巳さんの『葬式は、要らない』では、日本仏教を「墓参り教」と指摘する。今、行動する仏教者が受け止めるべきは、こうして家族が遺族になった後から、関係を維持・発展させてきたことではないかと思う。仏教者は、仏教ファンを増やすことや寺院経営のサポーターを増やすことだけに注力すべきではない。そう、檀信徒の方々と共に、今の時代を生き抜いていかねばならないのだ。&lt;br /&gt;　ちなみに、ＢＢＡ関西の議論は、はやりのツイッターで「中継」させていただいた。すると、会場で紡がれた言葉を、宗教者以外によってつぶやき直されることがあった。ここに、仏教の言葉は、今の時代にも響く可能性を持っているはずと会心した。だからこそ、仏教を説きながら、その言葉を届ける「あなた」に寄り添い、共に生きていく大志を抱きたい。（山口洋典）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2999613611535820522?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2999613611535820522/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/05/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2999613611535820522'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2999613611535820522'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/05/blog-post.html' title='いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて（５）坊さんも、大志を抱く'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2769060665359914926</id><published>2010-05-07T21:09:00.003+09:00</published><updated>2010-05-07T21:13:35.083+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='山口洋典主幹の視線'/><title type='text'>いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて（４）あなたの分まで生きる</title><content type='html'>　　この1月、應典院では「震災15年の手紙」を募った。先祖供養だけではなく、時代を生きる人々と呼吸するお寺を目指すゆえの挑戦であった。そもそも供養とは、誰かの死を想い起こすことである。そこで、ことばを専門に扱う2名の表現者と共に、あの日に思いを馳せることにした。&lt;br /&gt;　簡単に言えば、誰に宛ててもよいので、震災15年の今だからこそ、封書に思いをしたためて、お寺に送って下さい、という取り組みである。それを宛名がわからないようにお寺のロビーに展示した。しかもロビーはその間だけ人工芝が敷かれるなど、造園が専門のデザイナー、花村周寛さんの手によって公園のような空間に設えられていた。そこで、作家の岩淵拓郎さんの着想で、額に入れるなどした展示ではなく、公園に置き忘れたかのように演出された。また、期間中にはこうした工夫も、詩人の上田假奈代さんによる詩作と朗読のワークショップも開催した。&lt;br /&gt;　新聞各紙の報道や、浄土真宗本願寺派神戸教区など、地域や宗派を超えた関心を頂いて、40通程の手紙が寄せられた。近親者の死、また当時の記憶などが綴られた手紙は、展示の最終日に、幅広く募られた参加者によって供養された。その手順は、印象に残った手紙をトレーシングペーパーで書きなぞり、写し取った部分を朗読、さらにその朗読を聞いた他の参加者が耳についた言葉を辞書で引き、朗読を重ねた。その後、大蓮寺・應典院住職の読経の中で、原典と共に火にくべる「浄焚式」が執り行われた。途中、「燃やすのはもったいない」との声が出たが、「人間の亡骸も荼毘に付した後、遺骨を大切にするのですから」など、手紙を身体に見立てて、浄焚する意味を説かせて頂いた。永遠に有形のものなど何もない、という諸行無常そのままである。&lt;br /&gt;　生涯発達心理学者のやまだようこ先生によれば、「死者を葬る、忘れる」のではなく、死者と共に生きる決心をしたとき、「不在の他者と同行する物語」を紡ぎ、そこに生きる力を得ているという。まさに今回の取り組みは、名前も知らぬ他者の死を、手紙の文面から悼み、その内容を受け止めた人々が、「あなたの分まで」それぞれのいのちを生き抜くことを誓うというものであった。これも、お寺が継承してきた儀礼の文化を、表現者たちの創意工夫が異化させてくれたゆえんだろう。取り組みの全体像は「コモンズフェスタ」特別ブログで公開しているので、ご参照願いたい。（山口洋典）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2769060665359914926?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2769060665359914926/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/05/4.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2769060665359914926'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2769060665359914926'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/05/4.html' title='いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて（４）あなたの分まで生きる'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-59481861275681343</id><published>2010-04-28T21:51:00.003+09:00</published><updated>2010-04-28T22:02:17.757+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>世界一周自転車の旅から学んだ「感謝」のこころ</title><content type='html'>　先日、應典院で開催された「いのちと出会う会」で「世界一周自転車の旅から学んだ感謝の心」という題で、ミキハウス勤務の坂本達さんの話を聞いた。&lt;br /&gt;　坂本さんは4年3ヶ月もの長い間に43ヶ国を訪れ、のべ5万5000キロを走破した。&lt;br /&gt;何よりも驚くのは、有給休暇を取って、しかもボーナス、定期昇給つきだということ。&lt;br /&gt;普通なら無給の休職のはずだが、ミキハウスの社長が坂本さんの熱意にほだされた結果である。&lt;br /&gt;坂本さんがこの旅を通じて感じたのは、「人の支えがなければ何もできない」「小さいことに大きな感謝をする」ということである。&lt;br /&gt;　自転車で一日平均120キロ近くの走行をすれば、当然トラブルが付き物である。そして最大の危機にギニアで遭遇した。マラリアに赤痢を併発したのである。しかし不幸中の幸いは村で唯一の医師の家に泊めてもらったことであった。医師は坂本さんのために村にたった一つ残っていたワクチンを使ってくれた。また村長も、村人が週に一度だけ食べる、ごちそうの鶏肉を坂本さんのために譲ってくれた。　&lt;br /&gt;　またある村でイモムシを出された時は、かなり躊躇し手をつけないままでいると、村人たちの顔を表情がだんだんと曇って悲しい顔つきになってきた。しかし意を決して、目をつぶり飲み込んだ瞬間、村人たちは坂本さんを本当の仲間と思い、喜んでくれた。今まで村に来た欧米人は食べなかったそうである。&lt;br /&gt;　現地の人の協力なしに旅は出来ない。&lt;br /&gt;　帰国から数年後、恩返しで再度ギニアに薬を持って訪れたが、旅の時に助けてもらった医師が、「病気を防ぐのに一番必要なのは、きれいな水なんだ」、その一言で「井戸掘りプロジェクト」を思い立った。しかし村人たちは作ってもらえるのだと、つまりプレゼントしてもらえるものだと思い、傍観者になっていた。まだ垣根があったのだ。そこで坂本さんは見よう見真似でコーランを覚え、イスラム教徒の村人たちとの一体化した。坂本さんは「相手の大事にしているものを自分も尊重する。それが基本」と言う。&lt;br /&gt;　恩返しはさらにギニアにきちんとした診療所を作るという所まで進んでいった。&lt;br /&gt;　坂本さんに井戸を掘る技術があったわけではない。一番大切なのは、現地の人々がやる気になってもらう仕組み。何度も通い、コミュニケーションを深めて行くことが必要だと。&lt;br /&gt;　坂本さんが世界を回っている時に心がけたのは、挨拶をすることを大切に、そして感謝の気持ちを持つことである。&lt;br /&gt;　坂本さんの夢は再度、世界一周の旅をしたいと言われた。&lt;br /&gt;　すごい夢だと思う。&lt;br /&gt;　4年3ヶ月の有給休暇というのは普通の会社では有り得ないことである。だからどうしても私たちは夢をあきらめてしまう。しかし坂本さんは熱意と情熱で社長を、会社を動かしたのだ。そしてその感謝に気持ちを忘れずに、帰国後も日本全国の小学校を周って、経験を語り、「感謝」のこころとは何かを伝え続けている。&lt;br /&gt;　私は今回、初めて坂本さんのことを知ったが、自分が忘れていたもの、というより意識的にあきらめてしまっていたものを思い出した。&lt;br /&gt;　人間、やる気になれば何でも出来る。真の勇気を持つことを思い出せてもらった。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S9gxWmfi4rI/AAAAAAAAAIk/JDo82q861oU/s1600/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%81%94%E3%81%95%E3%82%93.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 300px; height: 300px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S9gxWmfi4rI/AAAAAAAAAIk/JDo82q861oU/s400/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%81%94%E3%81%95%E3%82%93.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5465172412173836978" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-59481861275681343?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/59481861275681343/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_28.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/59481861275681343'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/59481861275681343'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_28.html' title='世界一周自転車の旅から学んだ「感謝」のこころ'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S9gxWmfi4rI/AAAAAAAAAIk/JDo82q861oU/s72-c/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%81%94%E3%81%95%E3%82%93.jpg' height='72' 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&lt;救助にかかわったＨさんは、電車内から『お母さん、助けて』」という若い女性の声がしたため、バールを探して戻ったが、もう声は聞こえなかった。負傷者に肩を貸すなど救助を手伝い、作業着は血だらけに。その日から１週間、地獄のような情景が夢に現われた。今も朝夕、現場に向かって手を合わす。「もっと多くの人を救えたのでは、と自責の念にかられた」という&gt;（読売2010年4月8日）&lt;br /&gt; Ｈさんの「自責の念」の要因は、自ら招いたものではない。たまたまた現場にいた、そして見かねて救援を手伝った。それが、その後何年も拭いきれない「縛り」となってしまう。それぞれに領分があって、自分にできることには限界があるのだ。プロでも苛まれる惨状であったのなら、果たして自発的であったにせよ市民救助者を迎えるべきだったか、とも考えてしまう。&lt;br /&gt; Ｈさんは、「（その後は）冥福を祈ることが心の救いになった」という。個人では背負いきれないストレス感情を、神仏の領域に預けるということかもしれない。自分の限界点まで辿りついて、人間はようやく諦観の念を起こす。あとは仏の救済力に任せて、自分は手を引くのだ。&lt;br /&gt;　近代は、ずっと個人の可能性を推し進めてきた。「自分には限りない可能性がある」と刷りこんで、自己実現から自己責任まで、実体のない「自己像」を売りさばいた。けれど、やがて個人ではどうにもならない現実に行きあたる。自分の能力の限界を思い知る。それは近代から見れば「敗北」かもしれないが、私には、もうひとつの可能性としての「霊性の気づき」のようにも見える。自らの弱さ、無力さから立ち上がる、宗教的感覚の発見といってもいい。&lt;br /&gt;　国内外で自然災害や大事故が続く。死傷者何万人という数字が強調され、あちこちで募金活動が活発になる。それ自体はだいじなことだが、だから「してあげた」と傲慢になってはいけない。忘れてならないのは、自然の脅威を前に、私たちの無力さを自覚しながら、誰かのために真摯に「祈る」ということではないか。惨事ストレスのニュースを見て、そんなことを感じた。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3331727492616334868?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3331727492616334868/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_22.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3331727492616334868'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3331727492616334868'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_22.html' title='市民は祈る。市民救助者の惨事ストレス。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1116493451608496781</id><published>2010-04-16T20:35:00.002+09:00</published><updated>2010-04-16T20:41:24.832+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='山口洋典主幹の視線'/><title type='text'>いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて（３）慈しみ、悲しむということ。</title><content type='html'>　「あの日」から15年が経つ。そう、阪神・淡路大震災から15回目の1月17日がやってくる。当時、京都で学生生活を送っていた私は、当初、事の大きさが理解できなかった。しかし、もはや朝とは呼べない時間に、実家のある静岡県からの電話口で「やっとつながった」と安堵ことばを聞いた頃、甚大な被害が出たことを実感し、言いようのない感覚に浸っていったことを今でもよく想い起こす。&lt;br /&gt;　人は必ず死ぬが、突然の災害で大量の方が亡くなった空間に身を置くことは本当にいたたまれなかった。幼少の頃から「備えよ常に」と、東海地震への警鐘が鳴らされる中で育ってきたものの、「いざ、そのとき」に身体が覚えていないことは、とっさに動けないことも知った。大学の試験が落ち着いて以降、同級生らの呼びかけで、現地視察とボランティアの機会を得た。震災から1週間ほど経ち、まちは救急・救命の段階から、復旧に向けた動きが始まっていた。&lt;br /&gt;　実は、今の私の生き方には、震災ボランティアとして動いたときの経験が影響している。神戸大学国際文化学部の避難所で救援物資の整理をし、瓦礫の片付けなどを山手幹線から2号線のあたりで行い、芦屋市内の幼稚園・保育園を訪問して遊び場をつくった。こうして積極的に動いたのだが、若さゆえに「何でもできる」という万能感に陥り、さらに作業や雰囲気への慣れが重なることによって、気づかぬうちに、合理的で効率ばかりを優先させてしまっていたことに後々気づいた。パソコンが得意だからと暗い中手作業でつくられていた避難所の名簿を勝手に作り替えたり、避難所に届く救援物資のパンがもったいからと徐々に店が開き始めた街角にて無料で配るなど、支援する側の視点ばかりを優先させていたのだ。&lt;br /&gt;　大阪大学の渥美公秀先生は、ご自身も被災された「あの日」について、ある詩人のことばを引用し、「悲しみが果てることの悲しみ」を訴えている。ここに、大乗仏教の「慈悲」の教えを重ねれば、悲しむことに加えて、慈しむことも大切となる。震災から10年のとき、「お寺で働かないか」と声をかけて頂いたとき、私は、押しつけに近いボランティア活動で心地よさに浸ってしまった自らの愚かさと、未だに果てることのない悲しみに向き合うと共に、多くの気づきや学びをいただいた神戸のまちに慈しみの念を抱きたいと、仏道を歩むことに決めた。今年、「ことばくよう」という手紙の企画を展開し、15年目を迎えている。（山口洋典）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1116493451608496781?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1116493451608496781/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_16.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1116493451608496781'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1116493451608496781'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_16.html' title='いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて（３）慈しみ、悲しむということ。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' 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/&gt;　特に大乗仏教では、自利利他が理想とされている。自分のための努力と他人のための行動の双方が伴っていることが大切だとされているのだ。時に「情けは人の為ならず」という表現は誤解されているようだが、このことわざのとおりに、自らの情熱は自分だけに返ってくるものでも、他人にばかりに流れていくわけでもない。なぜなら、「わたし」と「あなた」とは、かけがえのないつながりを持っているため、と経典は教えてくれる。&lt;br /&gt;　仏典講座の主催者の立場だが、改めて関係性を大切にする大乗仏教の宗教性に触れると、昨今注目を集めているスピリチュアリティの概念とは大幅に異なる点に気づかされる。特に、関係性の重視とは自らが他者との間で我を見つめていくことを意味するのに対し、いわゆるスピリチュアリティのブームにおいては自らの世界に浸ることが重視されていないか、考えるようになった。宗教学者の島薗進先生による「スピリチュアリティの興隆」（岩波書店）では、健康や娯楽といった利己的な活動と、「わたし」と「あなた」の探求活動とのあいだには、大きな開きがあることが指摘されている。モノや情報があふれる現代社会を生きる上では、一面的な心地よさに浸るのでも一方的な感情移入を行うでもなく、他者との呼吸や間合いを積極的に調整する「利他心」を大切にしたい。（山口洋典）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7406290959145996501?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7406290959145996501/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_09.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7406290959145996501'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7406290959145996501'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post_09.html' title='いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて （２）情熱は他人のためだけならず'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8374434298819394537</id><published>2010-04-04T10:17:00.005+09:00</published><updated>2010-04-04T10:31:04.744+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>日本人の死生観に合った看取りを。～ビハーラ２１「ビハーラ実践研究会」</title><content type='html'>　去る3月29日、ＮＰＯ法人ビハーラ21が開催した「第1回ビハーラ実践研究会」に参加した。&lt;br /&gt;　この研究会は、今回より隔月で開催され、毎回、話題提供者より「ビハーラ」についての発表・報告があり、その後、参加者とのディスカッションをし、「ビハーラ」に対する理解、実践の普及につなげることを目的としている。&lt;br /&gt;　第１回目の話題提供者は大河内大博さん。大河内さんについてはこのブログの下記を参照頂きたい。&lt;br /&gt;　&lt;a href="http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html"&gt;http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　今回は初回ということで、大河内さんより、「ビハーラの展開と可能性」というテーマでビハーラの歴史、理念などのお話があった。&lt;br /&gt;　20名ほどの熱心な方が参加していた。僧侶の方が多く、またすでにビハーラの研修を受けた方や、看護師、ヘルパーなど様々な顔ぶれだった。&lt;br /&gt;　「ビハーラ」誕生の背景について話があった。欧米型ホスピスは1980年代に入り、日本でも相次いで設立されたが、当時から欧米直入の看取りの在り方ではなく、日本的な看取りが模索されていた。とくに日本古来の仏教を活かせないか、という視点はあったという。&lt;br /&gt;また僧侶自身からは、葬祭仏教を反省し、「いのち」をめぐる「生死」の問題を最重要課題のひとつとしている仏教本来の目的に立ち還るべきであるという声が上がっていった。つまり「生きた命」にかかわっていくことこそ重要でないかという気運があった。&lt;br /&gt;　「ビハーラ」の理念と基本姿勢として、①限りある生命の、その限りを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である　②利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある　③願われた生命の尊さに気づかされた人が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である（但し、利用者本人やそのご家族がいかなる信仰をもたれていても自由である）。そしてビハーラの活動は仏教の特定の一宗一派の教義に偏ったものではなく、超宗派の活動であり、布教・伝道ではないというのが基本姿勢である。&lt;br /&gt;　現状では「ビハーラ」は1986年の「仏教ホスピスの会」がスタートしてから25年かかって、やっと3つが設立されただけである。(うち一つは厚生労働省の認可がおりていない)&lt;br /&gt;やはり仏教者からも「ビハーラ」に対する偏見が大きかったのも確かなようである。&lt;br /&gt;　私は「ホスピス」という欧米モデルの死生観を日本向けに衣替えするだけでは充分ではなく、より日本人の死生観に合った「ビハーラ」の形が望ましいと思っている。やはり欧米人と日本人とは死生観が違う。今のホスピスは輸入型が大半のように思われる。&lt;br /&gt;　大河内さんは参加者に終末期に宗教者は必要ですか？と尋ねた。皆さん必要だと言われた。私もそう思う。但し「死んだらどうなるの？」というような終末期にある人にも、自分自身がぶれないで答えられることがとても重要だと思う。&lt;br /&gt;　この実践研究会は今後、隔月で開催され、次回は5月24日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。&lt;br /&gt;　「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、今後、回数を重ねる毎に、もっと深いディスカッションになっていくだろうという前向きな雰囲気を感じさせた。今後が楽しみな研究会であった。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8374434298819394537?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8374434298819394537/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8374434298819394537'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8374434298819394537'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html' title='日本人の死生観に合った看取りを。～ビハーラ２１「ビハーラ実践研究会」'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-656753369807994170</id><published>2010-03-31T16:10:00.005+09:00</published><updated>2010-04-09T20:33:15.723+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='山口洋典主幹の視線'/><title type='text'>いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて  （１）修羅の時代を生きる</title><content type='html'>今、仏教がブームだという。記憶に新しいのは、東京と九州で開催された興福寺の阿修羅像の展示に、合わせて１６５万人を超える人々が足を運んだことである。そのほか、座禅や写経に参加するために、お寺を訪れる人々も増えているという。&lt;br /&gt;　ただし、仏像好きの若い女性を「仏女（ぶつじょ）」と呼ぶなど、軽妙な言葉で報道やビジネスが進んでいることに対し、「信心を一過性の流行として取り扱うなんて」といった批判も聞こえてきそうだ。とはいえ、経済的な合理性が追求されるなかで、特に若者の生きづらさを仏教が支えているとすれば、仏教には現代でも不変の価値、現代にも普遍の意味があることが明らかにされたと言えるだろう。&lt;br /&gt;　突然、社会と仏教の関係を語り出した私は、大阪・天王寺にある應典院で僧侶をしている。この應典院というお寺は、浄土宗大蓮寺の塔頭寺院として３５０年の歴史を持つが、大阪大空襲の被害を受けた後、１９９７年に現在の形へと再建された。見かけは鉄とガラスとコンクリートでできた現代建築であるものの、寺子屋、駆け込み寺、また勧進興行など、かつて寺院が地域における教育、福祉、芸術文化の拠点であったことに着目し、多彩な場を生み出すことに注力している。要するに温故知新で、お寺の原点回帰を目指している。&lt;br /&gt;　文化人類学者の上田紀行先生の言葉を用いるなら、私は應典院による「仏教ルネッサンス」の中にいる。そんな私は、実はお寺の出ではなく、しかも出身は静岡県磐田市である。こんな私を應典院の主幹へと起用したのは、大蓮寺に生まれ、映画プロデューサーの経験を携えて應典院を再建した秋田光彦住職だ。そもそも主幹とは、お寺には聞きなじみのない役職なのだが、初代主幹を兼務した秋田住職は、「場の編集者」であり「拠点のプロデューサー」と定義する。&lt;br /&gt;　２００６年に２代目主幹に着任してから得度した、新米僧侶の私が教育面の当コラムを担うにあたって、奈良日日新聞の担当編集者さんとテーマの相談をしたところ、「いのちのエナジー」という看板が掲げられることになった。ここには、生きづらい時代をいかに生き抜くかの知恵を、仏教を手掛かりに見いだしたいという願いが込められている。同時に、副題にあるように、読者の方々にとっても書き手の私にとっても、この場が学びの場になれば、とも思っている。&lt;br /&gt;　それこそ、阿修羅像の名にも埋め込まれている「修羅場」が満ちた時代への向き合い方とつきあい方を紐（ひも）解く手掛かりとなれば幸甚である。（山口洋典）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-656753369807994170?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/656753369807994170/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/03/blog-post_31.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/656753369807994170'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/656753369807994170'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/03/blog-post_31.html' title='いのちのエナジー　現代の寺子屋を求めて  （１）修羅の時代を生きる'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6462913054964312137</id><published>2010-03-19T23:46:00.003+09:00</published><updated>2010-03-19T23:53:49.306+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ＢＯＯＫガイド'/><title type='text'>ＢＯＯＫガイド 「妻を看取る日～国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録」</title><content type='html'>　国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さんといえば、一般市民でも知る人が多いと思う。同書はその超専門家が夫人のがん闘病に文字通り悪戦苦闘する体験記であり、一年半にわたる闘病生活、自宅での看取り、夫人亡き後に押し寄せてきた激しい鬱状態から立ち直るまでの道のりを赤裸々に綴った本である。&lt;br /&gt;　垣添さんが定年を迎え、夫婦でのんびり過ごしていこうと思っていた矢先に、夫人にわずか六ミリの影が襲い、勤務していた病院に夫人が入院する。せめて年末年始だけは自宅で、と外泊を計画するが、ふたりきりの家族なので垣添さんが点滴や在宅酸素療法や排せつの介助を一手に引き受け、自宅へ帰る。自宅へ帰った途端に夫人が生き生きとする。だがよかったのは帰った日だけで、病状がどんどん進んで大晦日に自宅で永眠され、そしてその後の垣添さんがようやく立ち直りの兆しを見せるまでの3ヶ月間が詳細に書かれている。まさに独力のグリーフワークそのものである。&lt;br /&gt;　私はこの本を読んで、とても深い「愛」を感じた。なぜならば、本書での大切な点は夫妻のなりそめから発病して闘病、そして亡くなられた後に垣添さんが感じたご夫婦の交流にこそある。グリーフケアの参考書というより、夫人への熱い思いを込めた鎮魂の書である。&lt;br /&gt;　しかし何故、誰にも頼らず一人で看取ることができたのだろう。自宅に知らない人がいるのは落ち着かないと考えたからというが、専門家が在宅ケアに加わることに危惧を覚えた。ここは非常に重要なポイントだと思う。&lt;br /&gt;　また一方でいろいろな疑問も感じた。&lt;br /&gt;　自宅に知らない人がいるのはなんとなく落ち着かない、夫婦二人で静かに過ごしたいという夫人の願いを聞いたのだが、派遣看護師などの専門家に具体的にどういう不安を感じたのだろう。またどういう危惧を持っていたのか？　&lt;br /&gt;そのこと自体を否定しているのか、専門家の見識として問いたい。&lt;br /&gt;　巻末で、垣添さん自身、在宅看護というのは非常にハードルが高く、自分の場合は医療者だったので幸運であった、一般の人だと難しいと書いているが、しかし実際に支援体制を構築されて在宅看護をされている一般人も多くいる。在宅ホスピスケアが徐々に浸透していっているのも確かであり、そこに専心する訪問医や看護師の存在もある。それをどう考えるのだろう。&lt;br /&gt;　また夫人の死後のうつ状態ですが、睡眠薬は飲んでいると書いてあったが、どうしてカウンセリングなどの専門家と接しなかったのか、などいろいろと尋ねたい点はある。&lt;br /&gt;　しかし、国立がんセンター名誉総長という超専門家の医師がこれほど赤裸々に語った本には出会ったことがない。ぜひ今後も在宅の社会的な支援体制の構築をお願いしたい。&lt;br /&gt;　大切な人を亡くして苦しんでいる人に、読んでほしいと思う。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S6OPyKV3jnI/AAAAAAAAAIc/NFimbOizIak/s1600-h/%E5%A6%BB%E3%82%92%E7%9C%8B%E5%8F%96%E3%82%8B%E6%97%A5.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 89px; height: 135px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S6OPyKV3jnI/AAAAAAAAAIc/NFimbOizIak/s400/%E5%A6%BB%E3%82%92%E7%9C%8B%E5%8F%96%E3%82%8B%E6%97%A5.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5450358065980739186" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6462913054964312137?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6462913054964312137/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/03/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6462913054964312137'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6462913054964312137'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/03/blog-post.html' title='ＢＯＯＫガイド 「妻を看取る日～国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録」'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S6OPyKV3jnI/AAAAAAAAAIc/NFimbOizIak/s72-c/%E5%A6%BB%E3%82%92%E7%9C%8B%E5%8F%96%E3%82%8B%E6%97%A5.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-61618596793536580</id><published>2010-02-03T15:42:00.002+09:00</published><updated>2010-02-03T15:48:27.229+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>日本人は葬式でなぜ泣かないのか</title><content type='html'>○人前で泣かないのは美徳？&lt;br /&gt;　昨年11月14日に韓国の釜山の室内射撃場で陰惨な火災事故が起きて、大勢の日本人観光客が犠牲となりました。韓国ではこのニュースは大々的に論じられましたが、事故翌日に韓国に来た日本人遺族の、つつましやかな哀悼の姿に多く注目が集まりました。&lt;br /&gt;　「日本人遺族は感情を抑え、悲しみを心中に押しとどめた」（東亜日報）&lt;br /&gt;　「（遺族は）言葉を慎んだし、号泣することもなかった」（文化日報）&lt;br /&gt;　肉親の葬儀となれば、まさに天を仰ぎ、地に伏す「慟哭」の韓国人ですから、日本人が泣き叫ぶこともせず、静かな気配を残したことに感心するのもわかるような気がしますが、その理由について朝鮮日報のコラム子は、&lt;br /&gt;「日本人には自分の悲しみで他人に気遣いさせることを迷惑と考え、悲しみを外に出さないことを美徳とする態度が背景にあるから」&lt;br /&gt;　と書いています。さらに、コラム子は日韓の葬祭文化の違いにも言及して、&lt;br /&gt;「日本人の美徳とは日本の葬儀を見てもわかるように、他人の見ている前で感情をあらわにすることをはばかる」&lt;br /&gt;　と述べています。&lt;br /&gt;　むろん国や民族によって、感情の表出もさまざまです。韓国のデモのパワーなど見ればその違いは一目瞭然ですが、韓国人の行動力の根底には、政治意識というより自分たちの感情に正直に行動する気質がうかがえます。逆に日本人には、デモなどしても仕方ない、状況は変えられないという「長いものに巻かれろ」式の諦観があります。これも、大勢の影響を受け入れやすい、日本人の気質といえるでしょう。&lt;br /&gt;  &lt;br /&gt;○葬儀はもはや私事&lt;br /&gt;　その彼我の違いは十分理解しつつ、果たして葬儀で泣かないことが日本人の美徳なのか、私は逆に日本人の「悲嘆の感情」の急速な退行を思わないではいられませんでした。&lt;br /&gt;　最近の一般的な葬儀においても、遺族はほとんど泣くことをしません。今は家族葬など身内だけの葬儀が主流ですから、何事も合理的に効率よく運ばれていきます。けっして火災事故の日本人遺族を同列に論じるつもりはないのですが、「泣かない日本人」というのはかのコラム子が言うような美徳というより、私たちが悲しみの作法を忘れかけている、その現われではないかとも思います。&lt;br /&gt;　最近、直葬の問題がよく取り沙汰されています。葬儀を執り行わず、死後24時間を経て火葬に直行する葬法ですが、首都圏ではすでに葬儀全体の15％を超えたともいわれます。バブル崩壊以降、家族葬志向も著しく、今や日本の葬儀は際限のないミニマム化が続いています。葬儀はもはや私事なのです。&lt;br /&gt;　私事ですから、死という事実を公にしません。無意識に抑制しようとします。その根底には、死別した悲しみを最小限度に押しとどめる、悪い言い方をすれば、死を封印するような感性がにじみ出ているのではないでしょうか。。&lt;br /&gt;　そもそも葬儀の本義とは、愛する人を喪った悲嘆を十分に表出する公認の場であったはずです。死別の悲しみを、家族や親族、友人や地域社会に対し、公的に表明していく共通の体験として、葬儀は社会に開かれてきました。家族だけでなく、会葬者もまた死者を悼み、また遺族の悲痛に寄り添うことで、共同体として死を受け入れていきます。葬儀とは一過性のイベントではなく、遺族や地域に対し、死を公のものとし、厳然とした事実を差し出す、たいせつな「喪の体験」なのです。&lt;br /&gt;  &lt;br /&gt;○グリーフワークとしての葬儀&lt;br /&gt;　直葬には、そんな悲嘆に対する深い共感が見当たりません。というより、他者の死に対し無関心、不感症であり、遺体の処理だけが際立っているように見えます。家族葬もすべてとは言いませんが、私事の中に閉ざされ、遺族自身が死と十分に向き合えていない危惧があります。それは韓国メディアが礼賛するような日本人の美徳だとは、けっして言いきれないでしょう。&lt;br /&gt;　死別した悲しみと向き合うための働きかけを、グリーフワークといいます。その出発点は、遺族が死という事実を認識し、それを十分に悲しみ切ることから始まります。時を重ねて新たに死者と遺族との関係を結びなおす「再生」までの道のりともいえます。また葬儀以降、中陰、一周忌、三回忌と続く、長大な供養の時間も、徐々に喪失から再生へと「成長」していくグリーフワークのプロセスではなかったかと思います。&lt;br /&gt;　「葬儀で泣かない日本人」からは、死の実像に目をそらしたまま、精神的に成長しようとしない、私たちの地顔が透けて見えます。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-61618596793536580?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/61618596793536580/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/02/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/61618596793536580'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/61618596793536580'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/02/blog-post.html' title='日本人は葬式でなぜ泣かないのか'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7839751689953113527</id><published>2010-01-17T00:20:00.003+09:00</published><updated>2010-01-17T00:27:07.711+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>震災15年、災害と葬送を考える</title><content type='html'>　　「あの日」から15年が経ちました。地域とは何か、いのちとは何か、私とは誰か。その後、應典院再建の転換点ともなった阪神淡路大震災について、連日多くの報道が届けられています。　&lt;br /&gt;　　被災当時、私が所属していた仏教ＮＧＯが真っ先に着手したのは、葬送への取り組みでした。多くの遺体が、火葬も葬儀もできないまま、むごい状況にありました。当時かろうじて稼働していた神戸市北区の鵯越（ひよどりごえ）の斎場で、私たち僧侶は葬儀のボランティアにあたっていました。&lt;br /&gt;　被災後、犠牲となった遺体をどう葬るのか。それまで日本が直面したことのないもうひとつの葬送問題について、1月13日付の読売新聞は、こう報じています。。　家族の遺体を安置所に置かれたまま、耐えきれず、「数日後、ある遺族から『もう見ておれない。空き地でいいから（遺体を）焼いてほしい』と懇願された。『早く火葬を』と死の災対本部に伝えたが、すぐに解決できる問題ではなかった。灘区で約700人、東灘区で約1000人などと、わかっているだけで（安置された遺体は）3300人以上だった。当時、神戸市で使える火葬場は３箇所。１日計150人しか火葬できない」　&lt;br /&gt;　　厚生省の役人から「野火にしては」という打診に対し、「死者への尊厳と遺族感情を優先したい。『お別れ』は大切な節目だから」と断った神戸市役所衛生局長の言葉も紹介されています。　&lt;br /&gt;　　死が予知可能であれば、心の準備はできたのでしょうか。いや、むしろ「日本人にとっては死を予測し、準備をしておくことなどタブー」であったと思います。だから、どこにも憤りをぶつけられない被災死に対し、死者をどのように送り、葬るのかという難しい問題が横たわっています。　&lt;br /&gt;　　安置所の確保、棺やドライアイスの用意や火葬、搬送の手配など、適切な死後実務は、そのまま遺族を支えるグリーフケアに直結していると容易に想像できます。しかし、遺体は火葬処理をしたから、死者になるのではない。死者はここではない、どこかに赴くのであって、そこに宗教儀礼としての葬儀の必然性が生まれてきます。　&lt;br /&gt;　　葬儀はあくまで個人によって選択されるものです。信仰の有無や宗派の相違といった個別性の問題が浮き立ちます。檀家の一員であっても、自分の宗旨さえ知らない人も少なくない。その違いを克服しながら、緊急対応時にあって、どう葬儀をグリーフケアとして実効させるのか、議論が必要と感じます。ある意味、公共的な宗教の役割を実践から見出すといってもいいでしょう。　&lt;br /&gt;　　映画「おくりびと」が大ヒットする一方で、葬儀をしない「直葬」が増えています。日本人の死生観がアンバランスに宙を漂ういま、災害と葬送を考える意味は小さくないと思います。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S1HaYh7lKRI/AAAAAAAAAIU/0wnzu0jn_xI/s1600-h/image.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 170px; height: 113px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S1HaYh7lKRI/AAAAAAAAAIU/0wnzu0jn_xI/s400/image.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5427359140918143250" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7839751689953113527?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7839751689953113527/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/01/15.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7839751689953113527'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7839751689953113527'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/01/15.html' title='震災15年、災害と葬送を考える'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S1HaYh7lKRI/AAAAAAAAAIU/0wnzu0jn_xI/s72-c/image.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-424188591624647283</id><published>2010-01-04T10:44:00.005+09:00</published><updated>2010-01-04T11:05:37.306+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エンディング・インタビュー'/><title type='text'>（５）再聖化する個人、市民とともに</title><content type='html'>&lt;span style="color:#ffcc00;"&gt;&lt;em&gt;&lt;span style="font-size:85%;color:#cc9933;"&gt;葬送文化の専門誌「ＳＯＧＩ」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。５回に分けて連載します。&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;　　07年に應典院で講演をしていただいた東京大学大学院の島薗進さんは、この個人の宗教化の問題を「再聖化」という言葉を使って論じています。社会制度の原理によって成り立ってきた医療や福祉、教育などが宗教的な要素を取り込むようになって、「再聖化」していく。先に挙げたスピリチュアルケアやグリーフケア、またいのちの教育、死の準備教育などがそれです。私はこの「再聖化」がひたすら個人に内面化していくのではなく、外の社会と交渉することによって、開かれ、鍛えられていくことにも期待をしています。最近では、仏教各教団でも、ビハーラや自殺防止に教団を挙げて取り組もうとする動きが見られますが、これもまた、社会と接続することで、既存の布教主義とは異なる、公共宗教へのアプローチといえるのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　應典院の活動を通して、私は多くの「再聖化」する市民と出会ってきました。彼ら彼女らは、既存の宗教にすがるのでもなく、社会制度にも頼らず、自立した個人として仲間とネットワークをつなぎ、対話や協働を繰り返して、身近な社会や地域変革に取り組んでいます。医療や教育のみならず、環境問題や食品問題も人間のいのちに直結しており、そこには医師や教師といった高度なレベルの専門家も参加しています。私はしばしばそういう場において、教化本位ではなく、ひとりの市民として仏教を語ってきました。一方的な布教を目的としたメッセージではなく、個々人に対し生きる実践ための知として仏教を語ってきたと自覚しています。どこまで伝わっているのかはわかりませんが、選ぶのは個人です。私ができることは、個が自己を見つめ直そうとするその根拠として、仏教をいかに提示するか、です。そのためには、これまでの仏教とは違う言葉、表現をもっと開発していかなくてはならない、とも思います。&lt;br /&gt;　私のような立場から、伝統仏教と再聖化する個人の関係を論じることは、非常に緊張感を伴います。ただ檀信徒教化の場面以外の生々しい臨床に立ち臨んだ時、先にも述べましたが、仏教にも組織から個へと大きな質的転換の波が迫ってきていると強く感じています。また寺や僧侶がその転換にどう呼応していくのか、接続するのか、あるいは断絶するのか。何事も教団に倣えではなく、一人ひとりの仏教者の覚悟と行動が切実に求められています。そのことを、大学の研究室からの提言ではなく、生きた臨床の現場どうしの試行錯誤も含めた対話を通して、状況は少しずつ変わっていくのではないかと思っています。&lt;br /&gt;　最後に、最近、應典院で講演を行った国際日本文化研究センター教授の末木文美士さんの著書から、私たち臨床にいる僧侶への問いかけとして以下を引用させていただきたいと思います。&lt;br /&gt;　「仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しか　　&lt;br /&gt;し、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。それでもどうしても自分が主張せずにはいられないこと、実践せずにはいられないこと－－－そこから出発する他ない」（「現代と仏教」佼成出版社）。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S0FJWZBbkBI/AAAAAAAAAIM/F4P5HGg5BkQ/s1600-h/IMG_6883.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5422696075353624594" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 400px; CURSOR: hand; HEIGHT: 267px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S0FJWZBbkBI/AAAAAAAAAIM/F4P5HGg5BkQ/s400/IMG_6883.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-424188591624647283?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/424188591624647283/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/01/blog-post_04.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/424188591624647283'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/424188591624647283'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/01/blog-post_04.html' title='（５）再聖化する個人、市民とともに'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/S0FJWZBbkBI/AAAAAAAAAIM/F4P5HGg5BkQ/s72-c/IMG_6883.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-9089235585720808406</id><published>2010-01-01T20:57:00.003+09:00</published><updated>2010-01-01T21:11:56.931+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エンディング・インタビュー'/><title type='text'>（４）若者とスピリチュアリティ</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:85%;"&gt;&lt;span style="color:#cc9933;"&gt;&lt;em&gt;葬送文化の専門誌「ＳＯＧＩ」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。５回に分けて連載します。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/span&gt;　死生観の個人化という変化にいま一番近接しているのが「スピリチュアリティ」だと思います。今やちょっと流行語になっていて、ＳＯＧＩの前号にも碑文谷創さんが書いていましたが、あまりに多義的、多層的で私もよくわかりません。言葉の咀嚼力が大きく、何でも呑みこんでしまうような胃袋を持っているから、わからない余白の分、解釈の自由度があるのでしょうか、フレキシブルな言葉であることには違いないが、やや振り回されている感も否めません。&lt;br /&gt;　7月に高知で日本在宅ホスピスケア研究会の全国大会があって参加してきたのですが、やはり大きなテーマのひとつがスピリチュアルケアでした。宗教的ケアを論じたシンポジウムでは、京都大学のカール・ベッカーさんが日本の仏教による伝統的な死生観を語る一方で、同じ舞台に幸福の科学や前世療法の信奉者（いずれも臨床医）が登壇し、非常に違和感を覚えました。何がスピリチュアリティと宗教の境界なのか、スピリチュアリティとは宗教の代替なのか、臨床の現場も混乱しているという印象でした。&lt;br /&gt;　むしろ、それを現場で予感するのは、應典院（大蓮寺の塔頭寺院）で起きている、若者たちのユニークな取り組みについてです。スピリチュアリティという言葉は使いませんが、死を見据えていかに生きるかというようなワークショップの数々が連続して起きています。宗教体験も乏しい、20代の若者に死生が語れるのか、と鼻白むかもしれませんが、私はむしろそこに新たな死生観への模索が始まっていると受け止めています。&lt;br /&gt;　若者たちにはそもそも従来型の死生観がありません。拘泥するものがないから、自由に死生観をデザインすることができるように思います。いまはワークショップやカウンセリングの手法が発達しており、これまで一方的に「教わる」対象であったものから、自分たちで編み出すことができます。言い換えれば「救済される客体」から「自ら変容していこうとする主体」へと自覚的な変化が起き始めているように感じます。&lt;br /&gt;　應典院で実施している、二つの事例を挙げます。&lt;br /&gt;　ひとつは、自死者の遺児たちが主宰する「グリーフタイム」。母親を亡くした20代のふたりの若者、臨床心理士の宮原俊也さんと大学生の尾角光美さんが9月から始めました。グリーフケアというと、私は遺族支援を連想しますが、ここでは死別のみならずここでは「大切なものを失われた方」すべてが対象です。ペットの死、健康な体を失う、両親の離婚、引っ越しや転校による人間関係や環境の変化、失業により役割や自信がなくなる…すべてがその人にとってグリーフであり、その時自分の気持ちをいかに大切にすることができるか、が重要と考えます。集まってくる人たち（全部女性でしたが）がみな原因のはっきりしたグリーフを抱えているとも限りません。本を読んだり、お茶を飲んだり、銘々に好きな時間を過ごします。全体の交流やカウンセリングはしない。助言もせずに、ただ体験者どうしが静かな時間を共有していきます。&lt;br /&gt;　若年層は周囲に死別などの体験者が少なくグリーフケアから取り残されることが多いといいます。ここでは原因究明や問題解決が目的ではなく、悲嘆を抱えた若者たちが誰にも介入されず、それぞれが自分の内面と向き合う「場」を提供しているように思えます。何らかの悩みや問題を抱えている人が当事者どうしで集まり、交流を通して相互に支えあうためのネットワークをセルフヘルプグループと言いますが、こういうのも「スピリチュアルな人間関係」であり、これに救われる若者たちもいます。&lt;br /&gt;　もうひとつは、ＮＰＯ法人のシティズンシップ共育企画の川中大輔さんたちと3年前から共催している「生と死の共育ワークショップ」です。07年に「自死」、08年は「葬式」、09年は「老い」（予定）をテーマにそれぞれ大蓮寺に泊まり込んでの合宿形式で行われました。08年、「自分のお葬式はどうあげられたいか？」」のネットの広報文を一部少し紹介します。&lt;br /&gt;　「『お葬式』」という生者と死者が共に過ごす、場の持つ意味を探りながら、自分が死ぬ時、どのように記憶され、見送られていきたいのか、その『ありたい死』」を考えた時に、私はいま何をすべきかという問いが深みをもっておとずれるのではないかと考えています。&lt;br /&gt;　『よく死ぬことはよく生きることだ』」という言葉があります。自分や他者の「死」と向き合いながら、これからの自分の『生きかた』」をゆっくりと考える時間を共にしませんか？ 」&lt;br /&gt;　これを書いた主催の川中さんは29歳。彼は、さまざまなテーマを参加学習の手法で伝えるファシリテーターとして将来を嘱望されてる人材ですが、最大の関心のひとつが「生死」といいます。&lt;br /&gt;　一日目こそ、寺の住職として私が仏式の葬儀の基本を講義しましたが、そのあとは翌日いっぱいまで参加者どうしが生と死を巡って語りたいことを存分に語り合う場となりました。自他の死の葬送、自らの死にざま・生きざま、あるいは死後のイメージなど、様々な話題が広がりました。全国から集まってきた20人ほどの若者が、お寺でひたすら死生について語り合う、というのは寺の住職にとっては感動的な場ですらありました。しかし、ここでは仏教はあくまで参照点でしかなく、重要なことはそれぞれの個にとっての死生観の創造なのです。「答えを求めるのではなく、問いを温める場所」（川中さん）として、こういうワークショップが生まれ始めていることを私は、これまでの伝統的な死生観とは異なる、スピリチュアリティの萌芽ではないかとらえています。&lt;br /&gt;　ここは非常にデリケートな問題も孕んでいるのですが、私はこのスピリチュアリティの動きと伝統的な仏教が対立的な関係にあるとは思いません。彼ら彼女ら應典院というお寺に場を求め、住職である私に「法話」を要請してきました。入信・折伏といった直接的な宗教体験を求めるのではなく、一定の距離を担保しつつ、重要な参照点としてアクセスしようとしています。&lt;br /&gt;　先に「伝統的な儀礼や教義は一旦退行した」と述べましたが、それは権威的であり、教条主義的なものの退行であって、若者たちもまた先人たちの知の蓄積に学ぼうとしていることを強く感じます。問題はそういう若者たちの立ち位置を尊重できない、いまの仏教の定形化された話法であり、硬直したコミュニケーションスタイルにあるのではないでしょうか。一方的な教化圧力が浮き立つだけで、若者との対話や共感がない。そうなれば、当然僧侶の役割もアジテーターからメデュエーター（仲介者）へと転換していくと思います。語ること以上に、聴く姿勢が求められます。そのうえで、両者は今後寄り添いながら、緩やかな連携を深めていくのではないでしょうか。&lt;br /&gt;　川中さんの団体名にもある「シティズンシップ」とは、個人の市民性、市民的行動と訳され、市民社会とはそういった主体的な個人参加型の社会をいいます。個人というものが欲望だけを肥大させるのではなく、説明や合意をどう図りながら、ゆるやかな共同性を獲得していくのか、これは個人の時代における社会観形成の上で、極めて重要な意味を持つと思います。いま注目される「公共宗教」とは、東京基督教大学の稲垣久和さんの定義によれば、「私と公の間に市民的・公共的領域が多様に存在し、宗教はそこで（国家的統制を受けず）本来の役割を果たすことが期待」され、「そのような市民社会形成のエートスを与える宗教」（稲垣久和・金泰昌編「公共哲学16　宗教から考える公共性」東京大学出版会）を言うといいます。もし、そうであれば、まさに仏教もまたつぎのステージを模索しはじめる時を迎えているのではないでしょうか。まだまだ今後の動きを見つめていかなくてはなりませんが、その考察は今後も深めていきたいと思っています。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sz3lf3UJfeI/AAAAAAAAAH8/V3lPCafYokU/s1600-h/IMG_1615.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 400px; height: 300px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sz3lf3UJfeI/AAAAAAAAAH8/V3lPCafYokU/s400/IMG_1615.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5421741862011108834" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-9089235585720808406?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/9089235585720808406/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2010/01/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' 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width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4882344644663791135</id><published>2009-12-29T18:04:00.010+09:00</published><updated>2009-12-29T18:23:54.549+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エンディング・インタビュー'/><title type='text'>（３）死生観を語りあうブログ</title><content type='html'>&lt;span style="color:#ffcc00;"&gt;&lt;em&gt;&lt;span style="font-size:85%;color:#cc9933;"&gt;葬送文化の専門誌「ＳＯＧＩ」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。５回に分けて連載します。&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;　今回のエンディングセミナーでは、もうひとつ「みとりびとは、ゆく」というブログを同時スタートしました。セミナーの模様の紹介や私や仲間の雑感などを交えていますが、それを機会として個々人の死生観を自由に語り合う場として設けました。布教ブログでもなければ、仏事のＦＡＱでもない。僧侶も一緒になって、現代の死生について考えようというのがねらいです。　&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　多死社会において、否応なしに家庭が死の臨床となるなら、いっそう日常における死生観の成熟が急務と思います。しかし、宗教なき現代では誰もが共有できる死生観がありません。中高年の自殺問題やいじめ、衝動殺人など、すべてといいませんが、日本人の死生観が基軸を欠いたまま不安に喘いでる現状を象徴しています。これを千葉大学の広井良典さんは、死ということの意味がよく見えないと同時に、生それ自体の意味もよく見えない「死生観の空洞化」（『死生学Ⅰ』東京大学出版会）と指摘していますが、私も同感です。　&lt;br /&gt;　それに対し、「今こそ仏教に死生を学べ」と布教師たちは声高に言うかもしれません。それはそれでおっしゃる通りなのですが、個人がむき出しになった現代、昔ながらの流儀や因習に従うとも思えません。地域共同体が壊れ、葬儀も個人嗜好で多様化したように、個人の感性や価値観は、好むと好まざるとかかわらず、過去から続いてきた規範を踏み越えていきます。作家の柳田邦男さんは、現代は「自分の死を創る時代」と言いましたが、まさにこれからの死生観はかつてあったものを伝承されるというより、自分たちで参加しながらデザインしていくものとして相対化されていくのでしょう。&lt;br /&gt;　これまで伝統仏教の結束の基盤となったきたものは、血縁であり地縁でした。それが壊れて急速に個人化が進み、信仰もまた家単位から個人の宗教の時代に大きく転換していこうとしています。教義が授けられ、絶対存在によって救われるという受動態ではなく、自己の気づきや変容を重視していくのが、個人の宗教の顕著な傾向です。そこを檀信徒教化というフォーカス（つまり家の宗教の視線）で見ていては、永遠にかみ合いません。このままでは、仏教は宗派とか教団という囲いを取り払うと忽ち存立不能に陥ってしまわないか、という不安をおぼえています。&lt;br /&gt;　このブログ「みとりびとは、ゆく」は檀信徒対象ではありません。無宗教の人も意識しています。そこでは、仏教は絶対的回答なのではなく、壮大な問いとして提出されるものです。「浄土宗では…と考えます」ではなく、読者に対し「あなたはどう考えるのか」という問いかけであり、「ともに考え、ともに悩もう」というのが基本スタンスです。模範解答であればホームページで十分ですが、現代の死生観には対話型のブログがどうしても必要だったのです。&lt;br /&gt;　八月から九月にかけてブログには、エンディングセミナーのレポート以外には、こんなタイトルが並んでいます。&lt;br /&gt;○少子化時代の「供養」をどう考えるか。お盆に想うこと。&lt;br /&gt;○書評：日本人と『死の準備』～これからをより良く生きるために&lt;br /&gt;○日常生活の中の死　～死の瞬間まで人生の主人公であるために～ 奈良県ホスピス勉強会報告&lt;br /&gt;○シンポジウム聴講：「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」帯津良一さん&lt;br /&gt;○布施は宗教サービスの代価ではない。派遣僧侶という問題&lt;br /&gt;　書き手は私以外にも僧侶や市民数名と分担しているので、一貫性は乏しいかもしれませんが、仏教を共通軸としながら話題は拡張していっていくことが汲み取っていただけると思います。別の月には「臓器移植改正法」「衝動殺人」なども取り上げましたが、意識的に社会問題について仏教の死生観から問い直すことをやっているつもりです。仏教を「私事」に閉じ込めず、いかに公共的なものとつなげていくのかという試みです。ここでは仏教は答えとしてでなく、重要な参照点として共有されています。&lt;br /&gt;　まだ始まって間もないので、コメントが続々というわけにはいきませんが、議論できる場をつくる、という意味では、少しずつ関心が広がっています。ネット上でどういう出会いや対話が起きるのか、楽しみでもあります。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SznJF66UfZI/AAAAAAAAAH0/tHC2z2Av07E/s1600-h/%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8.png"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5420584730067500434" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 400px; CURSOR: hand; HEIGHT: 366px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SznJF66UfZI/AAAAAAAAAH0/tHC2z2Av07E/s400/%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8.png" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-4882344644663791135?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/4882344644663791135/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_29.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4882344644663791135'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4882344644663791135'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_29.html' title='（３）死生観を語りあうブログ'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SznJF66UfZI/AAAAAAAAAH0/tHC2z2Av07E/s72-c/%E3%81%BF%E3%81%A8%E3%82%8A%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%88%E3%83%83%E3%83%97%E3%83%9A%E3%83%BC%E3%82%B8.png' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-842678288348122493</id><published>2009-12-27T09:50:00.006+09:00</published><updated>2009-12-27T10:04:28.045+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エンディング・インタビュー'/><title type='text'>（２）死の臨床と物語</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:85%;color:#cc9933;"&gt;&lt;em&gt;葬送文化の専門誌「ＳＯＧＩ」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。５回に分けて連載します。&lt;br /&gt;&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;3人のゲストは、葬儀社最大手の大阪・公益社執行役員の廣江輝夫さん、開業医でいまい内科クリニック院長の今井信行さん、アットホームホスピス代表の吉田利康さんですが、共通しているのは立場を違うが、死の臨床に立ち会う専門家であるということです。しかも、その専門性が現代の死と切り結ぶうちに意味の異化作用を起してる点がたいへん興味深いものでした。&lt;br /&gt;葬儀社の廣江さんは、早くから遺族支援「ひだまりの会」を設置して、グリーフケアの普及に取り組んでいますが、これは「葬儀」を扱う葬儀社が「葬儀後」を扱い始めた点で異化されています。 今井さんも、在宅ホスピス医として大勢の方を看取ってこられましたが、「延命ではなく、いかに死を受容するか」という文脈自体、近代の治療医学とは違う地点に立たざるを得ません。&lt;br /&gt;このように現代の死の臨床では「脱専門」という大きな転換期を迎えていると思います。一方で同じ現場にいながら、僧侶は無関与のままほとんど反応を示さないでいます。臨床家としての自覚がないのでしょうけど、ある意味、ものすごくもったいないことだと思います。 今回のセミナーでも「葬儀社対僧侶」「医師対僧侶」という異なる専門性をすり合わせながら初めて見えてくるものがあります。僧侶とは、本来そういう異化を引き起こす他者性をゆたかなに内蔵しているはずですが、残念ながらそれが発揮されることは皆無に等しかったのです。私は「僧侶性の限界」と言っているのですが、それぞれの宗派に依って立つことが僧侶のアイデンティティであると同時に、皮肉なことにそれがバリアとなって、外との対話や交流の機会を阻んでいるように思います。日本の僧侶は社会性云々という前に、絶望的なほど他の専門家と向き合う接点が少なすぎます。　&lt;br /&gt;3人との対話では、臓器移植法の改正やスピリチュアルケアについても議論があったのですが、私がいちばん印象に残ったのは、長年在宅医療にかかわる今井ドクターが「在宅死って、一篇の詩のようなものなのかもしれない」とつぶやいたことでした。物語とかナラティブ（編集部注釈・narrative＝話術、語り口、叙述すること）とか言われるところと重なるのですが、これはいまの仏教に大きく欠落しているところと感じました。&lt;br /&gt;愛妻を自宅で看取られた吉田さんも、元々文才の豊かな方だったこともありますが、その死別の悲嘆を外に表現することで受容していかれました。最初にある医療財団から助成を受けてつくった在宅ホスピスの啓発用ブックレット「あなたの家にかえろう」が十万部無償配布されて話題になって、今年は絵本「いびらのすむ家」を刊行されました。これは、吉田さんの死別体験を原案とした絵本です。愛妻の発病から入院、闘病、余命告知、在宅看護、そして最期の看取りまでが家族たちの魂の物語として描かれています。これは医療の専門家には絶対書けないものであって、患者やその家族といった当事者たちが「物語」という方法を手にして、死の臨床に立ち上がってきたことを強く実感しています。　&lt;br /&gt;　 吉田さんは今、生活の座から生老病死を見つめ直し、市民目線で介護・看取り・交流・助け合いを実践していく場「アット・ホームホスピス」を立ち上げ、活動しています。非常に横断的なネットワークで、従来の専門職のタコ壺的状況に切り込もうとしています。ここから市民によるもうひとつの専門性が生まれるかもしれません。現代の仏教がそういった動きとどう連携できるのか、あるいはできないのか、関心は尽きません。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Szaw-dgA3uI/AAAAAAAAAHk/20Yb3rphnZc/s1600-h/20090801%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5419713788704251618" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 400px; CURSOR: hand; HEIGHT: 267px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Szaw-dgA3uI/AAAAAAAAAHk/20Yb3rphnZc/s400/20090801%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-842678288348122493?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/842678288348122493/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_27.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/842678288348122493'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/842678288348122493'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_27.html' title='（２）死の臨床と物語'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Szaw-dgA3uI/AAAAAAAAAHk/20Yb3rphnZc/s72-c/20090801%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%82%BB%E3%83%9F%E3%83%8A%E3%83%BC.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3582558989152119819</id><published>2009-12-24T20:05:00.007+09:00</published><updated>2009-12-25T20:11:11.938+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='エンディング・インタビュー'/><title type='text'>（１）生前個人墓とエンディングセミナー</title><content type='html'>&lt;em&gt;&lt;span style="font-size:85%;color:#cc9933;"&gt;葬送文化の専門誌「ＳＯＧＩ」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。５回に分けて連載します。&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;/em&gt;　2003年からほぼ毎年、夏に市民向け講座エンディングセミナーを開催しています。同様に大蓮寺墓域に生前個人墓「自然」を建立したことが契機となって、エンディングにかかわる6つのＮＰＯと緩やかなネットワーク団体「大蓮寺エンディングを考える市民の会」を運営してきました。セミナーもＮＰＯと共催でやってきましたが、医療相談、住宅、遺産・相続、生きがい等々、エンディングセミナーは生前にシフトするほど扱う領域も拡大していきます。&lt;br /&gt;　なぜお寺とＮＰＯの協働なのか、というと、大切な生死の問題を当事者である自分たちどうしで知恵を出し合い、支え合うネットワークをつくりたかったからです。現実は病院任せ、葬儀社任せ、と専門家に丸投げされているのが実態であって、それを当事者の権利として回復するためには市民が相談できたり、学習できたりするためのサポートセンターの機能が必要だと考えたからです。「おひとりさまの老後」はやがて個人の力で支え切れなくなりますから、立場の違う人たちどうし連帯して支え合うネットワークづくりが重要となります。ＮＰＯがそのパートナーとしてふさわしいと考えました。&lt;br /&gt;　いまのお寺自体には何の対応能力もないですが、やはりよろず相談所の名残はあって、いろんな相談事が集まってきます。解決はできないが、紹介ならできるかもしれないと、お寺が中間機関として専門性のあるＮＰＯと連携するようになりました。例えば医療関係なら大阪のＮＰＯ法人ささえあい医療人権センターＣＯＭＬ（コムル）、葬送であれば東京のＮＰＯ法人エンディングセンターなど相談内容に応じて仲介をするわけです。いのちに関係する相談の取り次ぎ役みたいなものです。このサービスは、ネット上でも展開しています。&lt;br /&gt;　もうひとつ当初から考えていたのは、お寺自体の問題です。お寺をめぐるお金は、誤解も含めしばしば不透明性を指摘されてきました。お寺に寄せられるお金は本質は浄財ですから、本来は公益性のあるものに還元されなくてはならない。「自然」というお墓は檀家が対象ではないので、考えやすかったのですが、ご志納いただいたお金から一部をエンディングのＮＰＯに毎年寄付することを想定していました。ＮＰＯの世界にはファンドマネジメントといって自治体や企業から寄付を開発する手法はよくありますが、宗教法人のお金がＮＰＯ法人の事業費として提供されるケースは恐らく初めてだと思います。「自然」を建立する費用がようやく減価償却できたので、来年度からスタートさせる予定です。&lt;br /&gt;　ここ数年エンディングセミナーは、私の個人的関心もあって、看取りの問題を扱うことが多くなっていました。今回のセミナーもＮＰＯと共催ではなく、ちょうど映画「おくりびと」がブームでエンディングに関心が高まっていたので、それをもじって「みとりびと」として、看取りにかかわる3人のゲストを招いて、私との対話方式で開催しました。セミナーの企画書に、私はつぎのように趣旨を述べました。&lt;br /&gt;『映画「おくりびと」の大ヒットは、日本人にとっての死と家族の関係について改めて想い起こさせました。しかし、映画とは違い、実際の死の風景、とりわけ末期から死、死後のプロセスは、家族には知らされず、実際に体験した場合、心身ともに大きな重圧がかかります。年間110万以上の人が亡くなる多死社会の日本において、家庭は看取りとは無関係な場所ではなく、もはや死の臨床といってよいはずですが、そのための環境や人材、作法など、その基盤はけっして充分なものとはいえません。遺族会、在宅ホスピス、そして家族による看取り…死と家族をめぐる3つの物語に学びながら、いのちを支えることの意味をともに考えます』（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SzNNITFU3_I/AAAAAAAAAHc/4ifN5GNWcFk/s1600-h/IMG_0796.JPG"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5418759581613744114" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 400px; CURSOR: hand; HEIGHT: 267px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SzNNITFU3_I/AAAAAAAAAHc/4ifN5GNWcFk/s400/IMG_0796.JPG" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3582558989152119819?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3582558989152119819/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_24.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3582558989152119819'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3582558989152119819'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_24.html' title='（１）生前個人墓とエンディングセミナー'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SzNNITFU3_I/AAAAAAAAAHc/4ifN5GNWcFk/s72-c/IMG_0796.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3338403397024852811</id><published>2009-12-19T00:06:00.007+09:00</published><updated>2009-12-19T00:13:58.809+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='講演会・イベント案内'/><title type='text'>《講演会案内》 「救えるいのちを救う」～山本孝史さんの遺志をつなごう～</title><content type='html'>　年間自殺者数が11年連続で3万人を突破する中、「自殺者の出ない社会に向けて行動を」と、肉親と死別した人への支援などに取り組む任意団体「Live on（リブオン）」（代表　尾角光美さん）が主催する講演会が開催されます。&lt;br /&gt;　尾角さん達は、9月に全国の自死遺児を集めた交流会　YES for lifeを東京で開催しました。その時に参加者と「精神的に不安定になりがちな遺児を支える活動をしたい」「自分たちも自殺を減らすために何かしたい」「この社会を生きやすくしたい」という思いを共有したことから、今回の講演会の場が生まれました。&lt;br /&gt;　尾角さんは「自殺は様々な社会的要因で起きている。自殺について共に考え、行動していくきっかけにしてもらいたい」と語ります。&lt;br /&gt;　自殺者が過去最高となりかねないほどの高い水準で推移している今年の最後に「救えるいのちを救う」ためにいのちをかけた山本孝史さん（民主党・衆参両院議員）の遺志をみんなでつなぎ、自死遺族だけではなく、社会全体で、その思いを共有し、行動につなげていける場にしたいという思いです。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;□□□□□□□□□□□□□□□□　概要　□□□□□□□□□□□□□□□□□□□&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;日時：12月22日（火）19時～21時（18時半 受付開始）&lt;br /&gt;場所：ドーンセンター5階　特別会議室（大阪市中央区）&lt;br /&gt;内容：山本ゆきさん講演&lt;br /&gt;　　　　「いのちに生きて」～「自殺対策基本法」に込められ&lt;br /&gt;          た山本孝史の思い～&lt;br /&gt;　　　自死遺族の体験談、社会に向けたメッセージ　など&lt;br /&gt;参加者：一般市民&lt;br /&gt;参加費：無料&lt;br /&gt;定員：90名&lt;br /&gt;申し込み：&lt;a href="mailto:m.liveon@gmail.com"&gt;m.liveon@gmail.com&lt;/a&gt;　までご連絡下さい。（定員に空きがあれば当日参加も可能）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3338403397024852811?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3338403397024852811/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_19.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3338403397024852811'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3338403397024852811'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_19.html' title='《講演会案内》 「救えるいのちを救う」～山本孝史さんの遺志をつなごう～'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2442804502641793709</id><published>2009-12-08T12:20:00.002+09:00</published><updated>2009-12-08T12:25:01.170+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>「グリーフケア、その理解　～大切な人を亡くした悲しみ～」</title><content type='html'>　去る11月29日、奈良県ホスピス勉強会の定例勉強会に参加した。グリーフカウンセラーとして活躍されている京都産業大学　学生相談室主任カウンセラーの米虫圭子さんから「グリーフケア、その理解」という題で講演を聞いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　米虫さんはアメリカの大学を卒業し、アメリカのホスピスや遺族ケアに関わり、8年前に帰国したが、まだ当時の日本では「グリーフケア」という言葉はインターネットで検索してもほとんど載っていなく、職業としても確立していなかったという。&lt;br /&gt;　「グリーフ」というのは「喪失の悲嘆」と訳されているが、喪失体験とは必ずしも死別だけを指すものではない。病気・離婚・失業・転勤・引っ越しなどもグリーフを伴う喪失体験である。失ったものがその人にとって、代わりのもので埋められるのであれば、その悲しさは日々の生活の中でなんとかやり過ごすことができるが、死別というような大きな喪失の場合、グリーフは深く長く続く。グリーフは一瞬の出来事や感じ方ではなくて、死別を体験した人が辿る心や体の変化全てを含む長期にわたるプロセスである。&lt;br /&gt;  また人によって悲嘆の内容が違い、回復までの決まった道筋はない。&lt;br /&gt;　喪失体験後に起こりえる変化として多くの人に共通して見られるのは、不眠や食欲減退などの身体的な変化、外出をしたくなくなったり、人と会うのを避けたり、以前好きだった事も楽しめなくなったりする日常生活上の変化等である。感情的な変化は人によって様々で、悲しみだけでなく罪悪感を強く持ったり怒りでグリーフを表したりすることもある。一方、同じ家族の中でもグリーフの著し方はそれぞれ違い、そのため親族や夫婦間の関係が悪くなってしまうことも非常によく聞かれる。「グリーフケア」は、このようにさまざまな変化を体験している遺族の心の回復がよりスムーズに起こる助けとなるケアのことである。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　悲嘆からの回復作業として、①喪失を現実のものとして受け入れる　②悲嘆の痛みを感じる　③亡くなった人がいない生活に慣れる　④死を情緒的に再配置し、これからの生活を歩んでいく、以上の4つの課題がある。人は元来回復する能力を持っている。つまり、亡くなった人が担当していた役割を残った人が再度役割分担し、その事によって徐々に悲しみを和らげて行く、また亡くなった人の居場所を確立することによって、いつもそこから見守ってくれていると感じることである。&lt;br /&gt;　私自身、グリーフケアは、とても難しいものと感じている。愛する人を亡くした人にどのように接したらいいのか正直、分からない。ただ米虫さん話を聞いて、相手に耳を傾け、思いやりを持って見守り、そして生活面の困難にも留意することが大切だと教えられた。死別後に辛かったこととして、「思いやりのない言葉をかけられた」というのはアンケートの上位にある。言葉をかけた本人にはそのつもりはなかったのだと思うが、だから余計に難しい。&lt;br /&gt;　今後、Formal care：サポートグループや追悼会、個別カウンセリング、Informal care：家族や友人知人、医療関係者などによる慰めや傾聴、という両輪が必要である。また突然死ではなく、施設、在宅ホスピスなどに見られるように、死のプロセスが大切となるだろう。&lt;br /&gt;　今回、お話を聞いて、グリーフケアへの寄り添い方について理解することができたが、実際には自分自身を振り返っても、悲嘆は一人ひとり違い、とても難しい領域であると感じた。あまり他人にふれられたくないとさえ思う。&lt;br /&gt;　実際、素朴に思うのは、グリーフはやはり人間関係からくるもので、生前からきちんと相手と向き合って、共感理解できる関係性を持てるように努めることが必要であり、これにどう対処するかで、私たち自身の生き方が問われていると思う。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;＜参考＞&lt;br /&gt;下記の日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団のURLで「これからのとき　大切な人をなくしたあなたに」という冊子がダウンロードできる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.hospat.org/korekara.html"&gt;http://www.hospat.org/korekara.html&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2442804502641793709?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2442804502641793709/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_08.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2442804502641793709'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2442804502641793709'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post_08.html' title='「グリーフケア、その理解　～大切な人を亡くした悲しみ～」'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8721679842819192266</id><published>2009-12-03T09:22:00.003+09:00</published><updated>2009-12-03T09:30:15.454+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>「葬送と仏教～死生観の視座をもとめて～」の講演をお聞きしました。</title><content type='html'>　去る11月21日、大阪YWCAにてエンディング講座「葬送と宗教～死生観の視座をもとめて～」のパネルディスカッションに参加した。時間も限られており、議論も十分掘り下げるには到らなかったが、意欲的な企画に敬意を表したい。&lt;br /&gt;　当日はコーディネーター役にジャーナリストの北村敏泰さん、パネリストに大蓮寺住職・秋田光彦さん、公益社執行役員・廣江輝夫さん、宗教思想史家　笠原芳光さん、イースター式典社社長・小林望さんの4名の方からお話を聞いた。参加者は50名を数えた。&lt;br /&gt;　冒頭、北村さんから現在増え続けている「直葬」の話題が提供された後、「葬送の現況と今後の展望」というテーマについてパネリストがそれぞれの立場から語った。以後はその発言要旨である。&lt;br /&gt;１&lt;br /&gt;　廣江さんの話で印象的だったのは、現在の葬儀は「参加する儀式」という指摘だ。昔はご近所さんが中心になって葬儀を担当していたのが、今は主導権を葬儀社が握り、喪主も単なる参加者の一人になっている。高齢者も葬儀文化を伝えようとしない。葬儀社中心の葬儀になっていくのは、それでいいのか。また、葬儀を合理化し、単純化する傾向が著しい。本来、葬儀は人間関係の再構築の場であるべきだが、その意味も損なわれている。&lt;br /&gt;　葬儀の様式にはそれを行う人たちの死生観、宗教観が深く埋め込まれいる。葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理していくか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。&lt;br /&gt;　小林さんも「葬儀の大切さ」を話され、葬儀はお世話になった方へのお礼の場であると言われた。&lt;br /&gt;　一方、笠原さんは、仏陀もイエスも共に葬儀は必要ない、生きている者を大切にしなさい、葬儀よりも生者のほうが大切であると説かれていると言われたが、正直なところ、この部分の解釈は今の私には難解であると感じた。&lt;br /&gt;２&lt;br /&gt;　秋田さんは、葬送は長い人生の死生観を生きるための人生儀礼である、と述べた。また「仏陀の弟子アーナンダの裏切り」を例に挙げ、葬式仏教は仏陀の死から始まった。仏陀の「遺体を焼いて、そのあとで骨を拾ったり供養の対象にしたりする必要はない」という遺言に対して、供養の気持ちを押しとどめることができなかったアーナンダは背いてしまった。&lt;br /&gt;　現在、仏教を批判して、葬式仏教と嘲笑をあびせる人々の声は絶えない。しかし現実は日本の仏教がかくも長く生きながらえてきたのは、アーナンダ以来その死の儀礼を執行しつづけてきたからではないか。&lt;br /&gt;日本の葬送文化の基軸は、仏として再生するという浄土往生思想にある。日本人の浄土観では、浄土は遠い所にあるのではなく、常に生活の延長線上の身近にある。&lt;br /&gt;　現在、「地縁型寺院の崩壊」があり、都市社会において、死はどんどん「個人化」（一人称化）して、閉ざされている。現在の葬送は文化というより市場サービスであり、宗教観、共同的死生観が衰退し、二人称としての視点が後退している。&lt;br /&gt;　死の「個人化」と「脱宗教性」により、死の共同性が喪われている。&lt;br /&gt;３&lt;br /&gt;　大蓮寺では、7年前から生前個人葬「自然」を設けた。生前に個人の資格で参加する「共同墓」において、血縁でなく「結縁」で結ばれた人、同じ仲間どうしが支えあう関係づくりをしている。それば言わば、死に向かうトレーニングにもなっている。&lt;br /&gt;　死は究極の公共問題であり、「死」を閉じた私事から地域の絆として開く試みを通して、新しいタイプの「葬式仏教」のデザインが必要となってくる。&lt;br /&gt;死生観とは「生」を考えることであり、また死生観は知識や情報ではない。人間は喪失に直面した時、共感、共苦を感じる。&lt;br /&gt;　命に対する社会の動きにもっと関心をもってほしい、一人称の死だけに関心が偏っている、それを教えるのは寺院の役目でもあるはずだ。&lt;br /&gt;４&lt;br /&gt;　最近は、私の周りでも、葬送の簡略化が目立ち、また会葬者の都合を優先しすぎた余り、逆の意味での儀式の簡略化加速したと思っている。今回、お話しを聞き、改めて葬送と仏教の関係の大切さについて考えさせられた。またそれだけに、葬送に宗教者がどうかかわっているのか、また宗教とのかかわりはどうなのかがますます興味が湧き、期待する。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私自身、宗教、お寺の大いなる可能性と、いざという時に宗教者が支えになれることを信じている人間である。また途切れないように、そういう気持ちを子供たちに伝えていきたいと感じた。(浦嶋偉晃)&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8721679842819192266?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8721679842819192266/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8721679842819192266'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8721679842819192266'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/12/blog-post.html' title='「葬送と仏教～死生観の視座をもとめて～」の講演をお聞きしました。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6829933796187626575</id><published>2009-11-21T22:34:00.002+09:00</published><updated>2009-11-21T22:36:54.424+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>なぜ日本人は「慟哭」しないのか～悲しみを外に出さない美徳について。　</title><content type='html'>　韓国人の激情ぶりは有名だ。家族や身内が犠牲になった時の悲しみようは、まさに天を仰ぎ、地に伏して「慟哭」そのものである。情にもろいのは日本人も同じだが、感情に正直でその激高を抑えようともしない。&lt;br /&gt; 　　産経新聞の海外特派員のレポートに「静かな日本人」という小さなコラムがあった。先日、釜山の射撃場で犠牲になった日本人旅行者の遺族たちのふるまいを評しての言葉だ。肉親を失った悲しみにもかかわらず、韓国人のように泣き叫ばず、実に静かな気配を残した日本人に感心しているという。&lt;br /&gt; 　「その背景として日本人の＜人に迷惑をかけない＞という教育や＜悲しみを外に出さないことが美徳＞とする価値観などを（韓国メディアは）指摘している。ある記者は『現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然とした姿と節約された言動はわれわれの記憶に残るだろう』と書いている」（産経新聞091121）&lt;br /&gt; 　私は少々複雑な気分に陥った。確かに日本人の美徳のひとつといえるかもしれないが、それは逆に「状況を受け入れやすい」日本人の気質とも通じる。政治でも経済でも、目の前の状況が大勢であればさしたる批判も葛藤もなく、黙って受け入れるのも日本人的感性なのかもしれない。今夏の臓器移植法改正の問題でも感じたが、生命倫理という実存の危機に直面しながら、われわれは何と流されやすいのか。&lt;br /&gt;　葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が３割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。（蓮池潤三）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6829933796187626575?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6829933796187626575/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/11/blog-post_21.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6829933796187626575'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6829933796187626575'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/11/blog-post_21.html' title='なぜ日本人は「慟哭」しないのか～悲しみを外に出さない美徳について。　'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8229094689644611103</id><published>2009-11-11T20:32:00.002+09:00</published><updated>2009-11-11T20:35:59.109+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>仏教都市の変遷～大阪・上町台地の魅力</title><content type='html'>　大阪・上町台地は伽藍の街である。その歴史は古代、仏法伝来の地・四天王寺に始まり、中世には浄土教の聖地として、また近世には石山本願寺を中心に発達した自治都市大阪の表舞台として名高い。江戸時代には町民文化の開花に伴い、都心の寺町文化が発展するなど、近代までの上町台地の歴史はそのまま仏教都市・大阪の変遷を写し取っている。&lt;br /&gt;　今日もなお上町台地は現役の一大寺町ゾーンである。都市の光景は著しく変貌し、あたりにはタワーマンションが林立しているが、寺町だけは時間が止まったように三五〇年以上前の豪壮な姿を今に留めている。しかも寺々には隣接して、商店街や市場、学校や病院があり、人々の暮らしのただ中に祈りがある。京都や奈良のような巨大な観光寺院はないが、何よりも都心に息づく歴史の触感が、上町台地最大の魅力だ。&lt;br /&gt;　私の寺にはしばしば海外からのゲストが来訪するが、彼らはお笑いや食い倒れ以上に、この街中に溶け込んだ歴史の存在感に大きな関心を表す。歴史はただ事実を探ることだけでなく、今という地点から読み返されてこそ意味を持つが、外国人には、教科書に記述された正史より、日常の中で育まれてきた歴史の物語の方が魅力的に映るのだろう。歴史は生き物であって、それを古臭い博物館の中に閉じ込めてはならない。&lt;br /&gt;　私の寺のある天王寺区下寺町は南北に一．四キロ伽藍が並ぶ市内随一の寺町だが、ここでは物語を上書きする実践に取り組んでいる。界隈では一心寺がお堂に寺町インフォメーションセンターを付設、また一心寺シアター倶楽や應典院など芝居や落語を楽しめるお寺もあって活況を呈している。毎年、桜の季節には寺町を挙げて人形芝居のフェスティバルが開催され、昨年秋には「防災てらまちウォーク」という防災にちなんだユニークなまち歩きも実施された。仰ぎ見る歴史ではなく、自身の足で歴史に参加していく試みだ。&lt;br /&gt;　近年上町台地では観光資源の開発に熱心だが、本当に必要なものは土産物やグルメではない。歴史の現在にふれながら、まずそこに生きる人々が地域に対する誇りや愛着を取り戻すこと。また無数の生老病死を繰り返してきた先人たちの知恵や作法に学ぶことではないか。内に暮らす人に「死ぬまでここで暮らしたい」と思わせる都市は、自ずと外の人も引きつける。&lt;br /&gt;　上町台地は、歴史を現代の中で再生させていく最後の「聖地」なのである。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SvqhaVUso0I/AAAAAAAAAHE/Y7WKuQS-8dU/s1600-h/outenin1.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 285px; height: 400px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SvqhaVUso0I/AAAAAAAAAHE/Y7WKuQS-8dU/s400/outenin1.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5402808176756958018" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;（本稿は11月10日産経新聞夕刊に掲載されたものを転載しました）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8229094689644611103?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8229094689644611103/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/11/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8229094689644611103'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8229094689644611103'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/11/blog-post.html' title='仏教都市の変遷～大阪・上町台地の魅力'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SvqhaVUso0I/AAAAAAAAAHE/Y7WKuQS-8dU/s72-c/outenin1.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-948075312184021413</id><published>2009-10-29T20:43:00.008+09:00</published><updated>2009-11-03T00:08:25.825+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>個の時代。フリースタイルな僧侶たち</title><content type='html'>8月に京都で「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」が創刊された。A4版、8頁、カラーグラビア印刷でお金がかかっているが、そもそも何で僧侶がフリーマガジンなんだろう。&lt;br /&gt;　編集の仕掛け人である池口さんに会った。昭和55年生まれ、尼崎の浄土宗のお寺に生まれ、京都大学から同大学院に進み、いま総本山知恩院の職員として働いている。若いがれっきとしたプロの僧侶だ。フリーマガジンのその他の書き手は、彼の大学院での仲間の僧侶たち。宗派は異なる。その意気に応じたライターやカメラマンが参加した僧俗混成部隊だ。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SumBLupB8hI/AAAAAAAAAGs/LRapEO3Ya5g/s1600-h/top.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397987666878919186" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 320px; CURSOR: hand; HEIGHT: 96px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SumBLupB8hI/AAAAAAAAAGs/LRapEO3Ya5g/s320/top.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　マガジンはそのままインターネット上でも読むことができるが、その中に池口さん自身が発刊の趣旨にこう書いている。&lt;br /&gt;　「インターネットで僧侶一人一人の情報が交換され、それぞれの個性が評価される時代は遠くない。すでにその息吹は見受けられる。その時は、人々は「自分の価値観に合う僧侶」を選ぶだろう。それならば、手垢のついた表現を駆使するよりも、「フリースタイル」で自分の個性をアピールするほうが、時代のニーズに合っていると思うのだ」&lt;br /&gt;　この文章の前後には、池口さんの僧侶としての時代認識や仏教への可能性など熱く述べられているのだが、とりわけ私が共感したのは、若い優秀な僧侶はすでに「僧侶個人」が「選択される」ことを認識している点だ。ここではフリースタイルとは、市民と僧侶個人のフリーアクセス、フリーコンタクトということであって、最初から宗派、教団という囲いの外に自分の地点を持っている。最初から相手は檀信徒ではなく、「個」としての市民を向いている。&lt;br /&gt;　これまで僧侶は、外の社会とのアクセスを教団組織を介して行ってきた。教団はそこに所属する僧侶にとってだいじな出世機関であり、いい意味で僧侶（人材）の能力を吸い上げるヒエラルキーでもあった。そのため宗内には星の数ほど団体や役職が設けられ、若い僧侶を囲い込んできた。&lt;br /&gt;　が、同時に徹底したムラ社会である教団では、際立った個人の能力は嫌われる。布教、でも子ども会でも、昔ながらの教化には鉄壁の上意下達のシステムがあって、若い才能など発揮しようもない。そもそも若い人材を活かそうという発想が教団にはない。幹部職は大抵が70代以上なのだから無理もないのだが。&lt;br /&gt;　「個」が隆起する時代にあって、組織にしがみついている場合ではないのだ。寺は一つ一つが独立した拠点であって、教団組織の下部にぶらさがっているわけではない。自分で考え、自分で判断する。同じ宗門人だからといって、何でも教団に横並びでいいのか。でなければ、日本に寺が７万５千もある説明がつかないではないか。&lt;br /&gt;　ひとりの僧侶としての生涯において、青年僧の時代は貴重だ。無垢なまま社会と向き合い、自他の関係に身を投じてみる。外とフリーアクセスすれば、教団の言葉が閉じた世界でしか通用しないことがわかるだろう。自分たちが何を期待されていて、何がズレているか、よくわかるだろう。次代の仏教者の基本は、教化でも折伏でもなく、協働と対話であることが骨にしみてわかるだろう。&lt;br /&gt;　よるべきなき「個」の時代である。「個」が確立されないまま「自己決定」「自己責任」と追いたくられ、現代の「個」は孤立して喘いでいる。仏教は集団や組織の原理でなく、いま目の前の「個」を救う教えでなくてはならない。たくましい「個」をつなぎ、もうひとつの共同体を形成する力といおうか。これまでの仏教とは異なる、語り口やスタイルが必要とされている。&lt;br /&gt;　ちなみに池口さんのフリーマガジンは、京都市内の大手書店にも置いてある。聞けば、書店とは一軒一軒足を運んで直接交渉したとか。「どうせ仏教なんて…」などとやりもしないで、嘆くなかれ。青年僧の情熱に、きっと社会は答えてくれている。（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SumAO6gNmTI/AAAAAAAAAGk/IZeWAuWewfQ/s1600-h/ãƒ•ãƒªãƒ¼ã‚¹ã‚¿ã‚¤ãƒ«.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5397986622091139378" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 80px; CURSOR: hand; HEIGHT: 116px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SumAO6gNmTI/AAAAAAAAAGk/IZeWAuWewfQ/s320/%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%AB.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;＊ネットでフリスタを読むこともできます。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://www.freemonk.net/"&gt;http://www.freemonk.net/&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-948075312184021413?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/948075312184021413/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_29.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/948075312184021413'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/948075312184021413'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_29.html' title='個の時代。フリースタイルな僧侶たち'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SumBLupB8hI/AAAAAAAAAGs/LRapEO3Ya5g/s72-c/top.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8048851010055403928</id><published>2009-10-19T08:28:00.003+09:00</published><updated>2009-10-19T12:24:20.727+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>グリーフケア「ひだまりの会」月例会</title><content type='html'>　去る9月20日、「應典院　夏のエンディングセミナー」でも講演いただいた、公益社の廣江輝夫さんが中心に活動しているグリーフケア「ひだまりの会」の月例会の見学をした。&lt;br /&gt;　「ひだまりの会」の活動については、ブログの「公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー」を参照してほしいが、見学をして最初にすごいと思ったのは、ひだまりの会事務局長の出口さんが、来場された人たちに気さくに声をかけ、また手を握ったりして会話をし、緊張している会員の方に対して和やかな雰囲気づくりをしておられたことだった。初参加の人は非常な不安を持っているだろうが、その緊張をやわらかにほぐされているのを見て、出口さんの細やかな心配りを感じた。何よりも笑顔が素敵だった。&lt;br /&gt;　午前中の第1部は、初めて参加される方や、悲嘆の強い方が中心で20名の方が来られていた。男女比率も同じくらいで、年齢層は会社を定年した方から若い方まで様々だった。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Stvbbc_L7OI/AAAAAAAAAGc/rb8Ra9YdgPI/s1600-h/hidamari_img01.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 216px; height: 162px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Stvbbc_L7OI/AAAAAAAAAGc/rb8Ra9YdgPI/s320/hidamari_img01.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5394146243390467298" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　最初は岡本双美子さんが、「大切な人を亡くすという体験」という題で講演され、その後、「分かち合い」と呼ばれる小グループに分かれ、体験談を話し合う場に移った。私は龍谷大学の教員の黒川雅代子さんがファシリテーターをされているグループの見学をした。4名の会員の方が体験を話された。涙をずっと流さている方や、まだ大切な方の死を受容できない人など、まだまだ悲嘆の強い状態であった。もし私に何か発言をしろと言われても、とてもとても私などが意見できるようなものではなかった。&lt;br /&gt;　黒川さんは、「大切な人を亡くした悲しみとどう向き合えるか？」その「答え」は、その人の中にしかないのかもしれない。しかし、その「答え」は、そう簡単に導き出せるものではない。そのために、時間や、そばで寄り添い傾聴し共感してくれる人が必要なのかもしれない。その「答え」を導き出すための過程の中で、同じ体験者同士の分かち合いは大きな役割を果たすのではないだろうかと言われた。&lt;br /&gt;　その言葉通り、分かち合いが終了する頃には、皆さんの表情が柔らかになっていく印象を得た。もちろん一回ですっきりするわけではない。何回も同じ場を繰り返し、少しずつ悲嘆を和らげていくことが必要である。また実際、アンケートでも皆さん、また参加したいと書かれていた。&lt;br /&gt;　「ひだまりの会」は傷口のなめあいでもなく、また他の人との悲しみの比較をするわけでもない。お互いの経験を話し合い、次のステップ、残された人生を生きる活力、エネルギーを養う場である。&lt;br /&gt;　午後からの2部は、ある程度、立ち直られた方が90名ほど集まられた。ここでも驚いたのだが、受付も進行も会員の方が担当されており、表情も明るく、月一回の同窓会のような感じがした。これが「ひだまりの会」が目指している、ライフサポート、つまりマイナスからゼロではなく、ゼロからプラスに転換するという実践がうかがえた。&lt;br /&gt;　音楽グループの方が合唱し、会員の皆さんの一緒に口ずさむ、そんな明るい風景が見られた。とにかく明るい、言い方は悪いが、うるさいほど会話が弾んでいるのを見て、「ひだまりの会」が果たしてきた役割の大きさを感じた。&lt;br /&gt;　私は、1部でお会いした悲嘆の強い方々が、この会に参加してきっと変わっていくだろうと強い確信を持った。また変わっていく姿を見たいとも思った。&lt;br /&gt;　人によって悲しみの度合いも違い、悲嘆の大きさ、立ち直りの時期も違う。しかし廣江さん、出口さんを始め、「ひだまりの会」のスタッフの方々の会員さんとの接し方を見て、本当に何か安らぎを得た一日であった。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8048851010055403928?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8048851010055403928/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8048851010055403928'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8048851010055403928'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html' title='グリーフケア「ひだまりの会」月例会'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Stvbbc_L7OI/AAAAAAAAAGc/rb8Ra9YdgPI/s72-c/hidamari_img01.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4981583251161544553</id><published>2009-10-15T12:37:00.006+09:00</published><updated>2009-10-15T12:44:45.434+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>阿修羅像、奈良に帰る。失われた中心への回復。</title><content type='html'>　東京、九州を巡回していた国宝・阿修羅像が奈良の興福寺に帰り、17日から本家での展示が始まる。両方で165万という記録的な観覧者を迎えた阿修羅像は、最近の仏像ブームも牽引した。いったい何が人々を魅了したのか、14日の朝日新聞で記事が載っていた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/StaZln8xCvI/AAAAAAAAAGU/NkK12lMtqV0/s1600-h/images.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 119px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/StaZln8xCvI/AAAAAAAAAGU/NkK12lMtqV0/s320/images.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5392666475480812274" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　納得したのは、「芸術新潮」の編集長が言っていた「阿修羅はキャラ立ちしている」というコメント。この像の造形的なキャラクターは世界に冠たるものと私も思う。興福寺の多川俊映さんも「心をくすぐる、何か懐かしい面相」が人々をひきつけたといい、「戦いに疲れて釈迦の教えを聞き、安らぎに到達した阿修羅に、自分も安らぎたいという思いを無意識のうちに感じるのでしょう」。&lt;br /&gt;　同感だが、それはいつの時代にも不変のもの。阿修羅の美学的価値は絶対的だが、それを評価せしめているのはそれぞれの時代の感覚だ。仏像ガールというようなキャラ（最近仏教教団の講演会などで引っ張りだのお姉さん）が登場するのも時代の要請なのだろう。&lt;br /&gt;　不景気、失業、自死、そして衝動殺人…世情は殺伐として、一向に明るい兆しは見られない。デジタル万能化が進み、会社も学校もすべてが異様なスピードで「決済」されていく中で、人々は自分の中に大きな欠落感を感じているのではないか。皆が荒々しい変化の風を、背中に受けながらじっと耐えている。東京展では長い行列で、入場まで６時間静かに待った人もいたという。&lt;br /&gt;　現代は変化することは成長と等価である。変化こそ絶対善の今にあって、仏像のように不変の存在はそれだけで希少であり、そこに揺るぎない規範のようなものを求めたのだと思う。失われた中心に回復していくような感覚。それは「癒し」という感覚と少し違って、再生への希望の色を留めている（私はその希望を、阿修羅の姿形に感じる）。&lt;br /&gt;　17日から始まる興福寺展では、「お堂でみる阿修羅」と副題がついている。お寺だけど「みる」であって「拝む」ではないのはちょっと複雑だが、堂内照明（展示的には照明効果が大きい）もあるそうだから、行ってみたら。（蓮池潤三）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-4981583251161544553?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/4981583251161544553/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_15.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4981583251161544553'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4981583251161544553'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_15.html' title='阿修羅像、奈良に帰る。失われた中心への回復。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/StaZln8xCvI/AAAAAAAAAGU/NkK12lMtqV0/s72-c/images.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8767056641135703784</id><published>2009-10-08T09:54:00.002+09:00</published><updated>2009-10-08T09:56:42.370+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>見えない死を、見えるカタチにする。</title><content type='html'>　死ぬと、私という存在が消滅するのではないか…そのような死後の行方の不確かさについて、人は恐怖心を抱きます。身近な人を喪った時も、「いまどこにいるのだろう」「本当に安らかに逝ったのだろうか」と不安をおぼえる遺族は少なくありません。&lt;br /&gt;  日本の仏教は、お釈迦さまが説かれた直説的な教えとは別に「いかに死すべきか」を説き、日本人固有の死生観をつくってきました。中でも浄土教は「極楽浄土に行って仏として生まれ変わる」と死後の世界を保証しました。つまり、生と死を連続した「いのち」としてとらえたのです。&lt;br /&gt;  昔、お寺は、病院や薬局の機能も兼ね備えた医療福祉センターとして成り立っていました。ご本尊のあるお堂はホスピスです。看取りも僧侶たちの役割であって、「病気をいかに治すか」よりも「安楽に往生させるか（看取ることができるか）」を追求していました。今風にいえば、スピリチュアルな痛みを緩和させていたわけですが、同じ信仰に支えられた者どうし、死へのソフトランディングを可能にしたのだと思います。&lt;br /&gt;　いま看取りの作法や文化がなくなりつつあります。臨終は家族から病院へ、葬儀も自宅から葬斎場へとアウトソーシングされていく。かつて家族が、共同体が喪の作業として協同してきたものが、外部サービへとス委託されることで、死が見えにくくなっています。いかに老い、いかに死ぬかは、年齢を重ねれば自ずと理解できるわけではない。後事は子どもにすべて任せるといえる人も今や少数派です。&lt;br /&gt;　少子高齢化の時代といえど、人間は誰の世話にもならず死ぬことはできません。血縁に頼る看取りが実現しにくくなっている今、死を孤立させずに、互いサポートする仕組みと関係が必要となっています。自分の死を、生前に準備する。固有の死を支えあうもうひとつの家族が必要になります。&lt;br /&gt;　それは、見えなくなった死を、見えるカタチにする（デザイン）ということと同義です。エンディングデザインの思想がそこから生まれます。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-8767056641135703784?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/8767056641135703784/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8767056641135703784'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/8767056641135703784'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post.html' title='見えない死を、見えるカタチにする。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-5383140383675313094</id><published>2009-09-27T20:21:00.005+09:00</published><updated>2009-09-27T20:28:12.400+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」五木寛之さん</title><content type='html'>　日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「今を生きる力」で作家の五木寛之さんから「いまを生きる力」の講演を聞いた。五木さんは、『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞受賞。『青春の門』で吉川英治文学賞。第１エッセイ集『風に吹かれて』は現在総部数460万 部に達するロングセラーとなっている。ニューヨークで発売された、英文版『TARIKI』は大きな反響を呼び、2001年度「BOOK OF THE YEAR」 （スピリチュアル部門）に選ばれた。また2002年度第50回菊池寛賞を受賞。2004 年には第38回仏教伝道文化賞を受賞。1981年より休筆、京都の龍谷大学において仏教史を学ぶ。著書多数。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sr9LVMVGx7I/AAAAAAAAAGE/YeQrFsFaSGs/s1600-h/ituki2009.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 183px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sr9LVMVGx7I/AAAAAAAAAGE/YeQrFsFaSGs/s320/ituki2009.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5386106506817488818" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　人生にはいろいろな場面がある。安定期があり、変動期があり、そして今はどういう時代かを見定めることが大事である。登山に例えると、「いま」は頂上からふもとへ降りていく、つまり下山の道にさしかかっているのではないか。登山という行為は、頂上に着いた時に終わるではない。ひと休みしたのち、今度は安全に優雅にふもとまで下山しなければならない。下山は、決して登山のオマケではなく、むしろ山頂にいたる過程よりも、さらに大事な意味を持つ行為である。山を登っていく過程だけが大事なのではない、登山と下山を含めて登山は完成されるのである。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　現代は「『躁』から『鬱』に大きく転換する時代」である。笑うことは大事だが、悲しむことも決してマイナスではない。プラス思考も大事だが、マイナス思考も大事である。「鬱」と言う字は草木の繁る様を表している字であり、生命力とエネルギーにあふれている状態をいう。そしてまた、この鬱勃たる生命力に蓋をされて夢も計画もうまく行かない状態であり、エネルギーの出場所のない状態で澱んでいると言う意味である。だから本来的に無気力で萎えている人は「鬱」にはならない。&lt;br /&gt;　また昔は『心が萎える』と表現したが、萎えるのは良くないことか。鬱は暗く、嫌なイメージでとらえられているが、悪いことなのか。また同様に「慈悲」という言葉の「悲」について、これまではマイナス思考なイメージが大きかった。明るく、元気であることが未来を展望したが、悩み深く考えることも次代を構想する大事な営みである。人間は絶望から立ち上がらなければ、喜ぶことはない。だから「鬱」には生命力があり、エネルギーのもとである。そして「泣く」ことが大事で、それは文化である。現代の日本人は何故泣かなくなったのか、それは良いことではない。泣くべき時に泣くことができる事が大切である。欝は病ではなく、エネルギーである。　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　金沢兼六園の「雪吊り」というのは、冬に積雪の重みで木が折れないようにする雪国の知恵である。雪吊りが必要な木は、固くて曲がらない、雪の重みですぐに折れてしまう木だが、逆にしなる木は、いつかその重みをすべり落としてはじき返し、元に戻ることが出来るからその必要はない。しなることによって、曲がることによって、また屈することによって、重い荷物をするっとすべり落として、また元の状態にもどれる。それを繰り返していれば、心折れずに生きていける。今は「鬱」の時代がまだ続くと思われるが、泣いてもよい、萎えてもよい、そうしてこの世の中を生きようと結ばれた。&lt;br /&gt;　&lt;br /&gt;　今回、五木さんのお話を聞いて、圧倒された。どの言葉も大事な話で、このブログを簡単にまとめることなど出来ない。でも私は本当に心が楽になった。マイナス思考、そして「鬱」もいいじゃないか。それもこれからの生きていくためのエネルギーになる。実際に私の鬱病の友人は治療の一つとして、五木さんの本を読むことを医師から薦められたそうだ。　　　　　　　　　　　　　　　&lt;br /&gt;　最後に五木さんはこのような時代を生き抜くには、悲しい時に悲しみ、深く「ため息」をつくことによって、そこから生きる力を得ていくことが大事ではないかと問いかけた。そうなのか、と共感した。私も「ため息」を大きくつきながら、そして前に進んで行きたい。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-5383140383675313094?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/5383140383675313094/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_27.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5383140383675313094'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5383140383675313094'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_27.html' title='シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」五木寛之さん'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sr9LVMVGx7I/AAAAAAAAAGE/YeQrFsFaSGs/s72-c/ituki2009.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2630915812744602854</id><published>2009-09-22T20:57:00.004+09:00</published><updated>2009-09-22T21:13:26.049+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>日常生活の中の死　～死の瞬間まで人生の主人公であるために～</title><content type='html'>　去る9月12日、奈良県ホスピス勉強会の定例勉強会に参加した。奈良県田原本町で在宅医療（在宅療養支援診療所）に取り組んでいる坂根医院　坂根俊輔院長から「日常生活の中の死」という題で講演を聞いた。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sri9bcpDpAI/AAAAAAAAAF8/aPkxGk-jj8Q/s1600-h/104_04711.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 213px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sri9bcpDpAI/AAAAAAAAAF8/aPkxGk-jj8Q/s320/104_04711.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5384261633763943426" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　医大に入ったのは26歳で30過ぎて医者になり、「自分ならそうして欲しいと思う医療の実現」が、生涯のテーマである。&lt;br /&gt;　医療側から見て、在宅医療はバラ色かと言われると、正直医師一人で外来診療を続けながら在宅療養支援診療所を運営するのは無理があり、地域の在宅療養支援診療所間で相互扶助もなかなか難しく、在宅医は相当疲弊している。でも自分はとにかく在宅が好きだから続けている。&lt;br /&gt;　在宅医療は、自宅で死ぬことの援助ではなく、最期まで自宅で生きることへの援助であり、患者さん、ご家族を含めた皆で作り上げていく面が強く、患者さん本人、ご家族がしっかりした意見を持ち表明することが肝要である。また日常生活が人生そのものであり、在宅医療の整備こそが、日常の中の死（最期まで自分自身であり続ける死）を可能にする。&lt;br /&gt;　大事なこととして、自宅で最期を迎えたいという思いを通すには、まず自分の死をイメージし、自分の横で世話をしてくれる人は誰か、そしていざという時、面倒を見てくれる人の「愛情」を獲得しておくことが必要である。可能なら在宅医療に理解のある自分より長生きしそうな医者をかかりつけにし、普段から希望を述べておく。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私もこのことはとても大事なことと思う。やはり日頃からの家族の中で死について語り合うという機会を持つこと、そしてかかりつけ医を持つことが大変大切だと感じる。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　自分自身（坂根）も最期まで慣れ親しんだ自宅で家族と共に生きたい。その実現には患者さんも介護者の方も、苦痛なく不安なく在宅で過ごせる社会的体制作りが必要で、そして体制の容器を満たすのは家族愛、隣人愛に他ならない。自分は在宅患者さんに自分の将来を投影している。患者さんはタイムマシンで見える自分の将来像だと感じている。自分自身、主体性を持ったまま死を迎えたい、ワガママに死んでいきたい。そして何よりも、患者さんはもっとワガママになるべきだと思う。&lt;br /&gt;　結局、最期に何処で心臓が止まるかは、大きな問題ではなく、大切なのは、生活をどこまで続ける事ができるかだと思う。末期患者在宅生活の一助となれるよう、今後とも尽力したいと思っている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私たち市民にとって、医療者が熱く語っているのを聞き、安心すると共に、私たちも市民の立場から、在宅医療をしている医療者の方々に対して、どうすれば支える力になれるかを考えないといけないと感じた。市民のパワーが何よりも大切である。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sri9CuPej1I/AAAAAAAAAF0/UQXe1DnJ3Tg/s1600-h/photo5.gif"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sri9CuPej1I/AAAAAAAAAF0/UQXe1DnJ3Tg/s320/photo5.gif" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5384261208991764306" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2630915812744602854?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2630915812744602854/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_22.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2630915812744602854'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2630915812744602854'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_22.html' title='日常生活の中の死　～死の瞬間まで人生の主人公であるために～'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sri9bcpDpAI/AAAAAAAAAF8/aPkxGk-jj8Q/s72-c/104_04711.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1881036853741565660</id><published>2009-09-20T20:24:00.003+09:00</published><updated>2009-09-20T20:33:14.411+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」上田紀行さん</title><content type='html'>　　日本ホリスティック医学協会のシンポジウムで、文化人類学者の上田紀行さんから「生きる意味とホリスティック医学」の講演を聞いた。上田さんは東京工業大学大学院准教授で仏教にも造詣の深い文化人類学者。スリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、その後「癒し」の観点を最も早くから提示し、現代社会の諸問題にも積極的に提言を行う。近年は日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長をつとめ、宗派を超えた若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SrYRYEi0UXI/AAAAAAAAAFs/FxXO94qeJqU/s1600-h/ueda2009.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 183px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SrYRYEi0UXI/AAAAAAAAAFs/FxXO94qeJqU/s320/ueda2009.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5383509509802316146" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　　いま私たちの社会を覆う問題の本質とはなんだろうか。&lt;br /&gt;　　それは「生きる意味」が見えないということだ。自分が生きていることの意味が分からない。生きることの豊かさ、何が幸せなのかが分からない。その「崩壊」が目に見える形で現れているのが若者の危機である。若者だから「夢」があるというイメージは過去のものになり、いつも疲れている、何故生きているのかがわからない若者が標準となりつつある。一方いつも人の評価を気にして、そして仲間内で決して目立たないように努める。「自分の本音は絶対出してはいけない」という若者が多い。&lt;br /&gt;　　しかしそれは大人にも通じる。小さいときから他人から見て「いい子」「いい友達」「いい夫、妻」「いい父、母」と結局、「いい子」をずっと演じ続けている。そして会社においても会社方針、そして社員の輪を崩さないように生きている。自分の個性を殺し、会社の方針に従ってきて、そしてその結果が、いつの間にか、いつでも「交換可能」な社員になっている。10年前に「若者の危機」として現れていたものが、全世代に拡大し、「生きることの空しさ」が広がっている。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　私自身も一会社員として、同感である。今の会社で個性を出し、目立つと必ず潰される。会社のルールに従えと言われる。しかしその一方で経営層は今の社員は個性がないとこき下ろす。結局、どの道を言っていいのか分からなくなり、ジッとしているのが賢明だと思ってしまう。とても辛い世の中の構造と感じてしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　古くから欧米人から日本の文化は「恥の文化」の典型だと指摘されてきた。他者の目」による「恥」の認識が優越しているのが「恥」の文化である。逆に現在は「人の目」が気にならなくなれば何でもやってしまうのが、現在の日本人の姿なのではないか。そしてそこには決定的に欠けているものは、自分自身に対する「自尊感情」である。それではどうすれば良いのか。それは自己信頼の回復だが、それはどうすれば可能だろうか。それには感受性を持つことである。子供や若者に対して、様々な躓きや苦悩に対してもそれを「内的成長」というスタンスで見る努力が必要である。そうすることによって「生きる意味」を探求することになるであろう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　私は思うのだが、今は世代関係なく「生きる意味」を失っている人が多い。とくに会社内では強く感じる。でも自分がかけがえのない自分だということを認識してほしいと思う。自分は一人しかいない。でも、かと言って他人と違うという所を必死に探すことではないと思う。他人と同じ結果でもいい、それが自分自身なのであるという意識が必要なのではないかと思う。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1881036853741565660?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1881036853741565660/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_20.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1881036853741565660'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1881036853741565660'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_20.html' title='シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」上田紀行さん'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SrYRYEi0UXI/AAAAAAAAAFs/FxXO94qeJqU/s72-c/ueda2009.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6813420386478872346</id><published>2009-09-15T12:24:00.000+09:00</published><updated>2009-09-15T12:26:48.282+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」帯津良一さん</title><content type='html'>　 日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「今を生きる力」で、当協会の会長である帯津良一さんから「生きることと死ぬこと～青雲の志について」のご講演をお聞きした。帯津さんは、1982年帯津三敬病院を設立、現在は同病院名誉院長。西洋医学だけでなく、中国医学、ホメオパシー、 代替医療など様々な療法を駆使してがん診療に立ち向かい、人間を丸ごととらえるホリスティック医学の確立を目指している。2004 年には東京・池袋に帯津三敬塾クリニックを開設している。著書多数。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt; &lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SqudYj_HUmI/AAAAAAAAAFk/KWlf-3DvLOg/s1600-h/obitu2009.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 183px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SqudYj_HUmI/AAAAAAAAAFk/KWlf-3DvLOg/s320/obitu2009.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5380567225126572642" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;    「ホリスティック医学」とは、一言で言うと、「人間をまるごと全体的に見る医学」を言う。ホリスティック医学は生きること全て、人生を貫いて関わり、命の場を対象にした場の医学である。「縁」と「場」のエネルギーが高くないとホリスティックにならない。ホリスティック医学は体の中の場が外界の場の一部であるという前提を一番強くもっている。&lt;br /&gt;  場の医学では命の場を体内にみるだけではなく、おかれた場にも注目しなければならない。そしておかれた場を高めるために苦心する。実際に患者さんをみると、家族の場や職場は外界の場のエネルギーが高い人、病院では良い医師、スピリットの高い医師にぶっかった人がよくなっている。またそういう医師がそろっている病院は非常にエネルギーが高く、そこでは人が回復する力が高い。だから医療現場では命の場を高め続けて、外界の場も高め続けるという志をもった人が必要である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  私自身、ホリスティック医学の自然治癒力を癒しの原点に置くという定義に興味を持った。とても大切な事だと思うが、実際にはこのエネルギーを高めるには、またそういう人と出会うにはどうすれば良いのかと正直迷ってしまう。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;   一方、体の故障の修理である医学から出られないと「治った」か「治らない」という二極化になってしまう。命はエネルギーレベルを上げながら前進している。そのなかで起こってきたトラブルが病である。トラブル対処も命の流れを進めながらやっていく。&lt;br /&gt;そこをしっかりみていかなくてはならない。あまりに「治った」「治らない」だけにこだわると分からなくなる。それではホリスティックにはならない。&lt;br /&gt;　病の経過も治り方も生きていくことと同じように少しずつ高めていくこと。命はエネルギーだから修理とは違う。&lt;br /&gt;私（帯津）の死生観は「青雲の志」であり、これを果たしていくためには、虚空の大いなる命の場に身を任せながら、内なる生命のエネルギーを高め続けなければならない。つまり他力と自力の統合の中に青雲の志が在る。他力と自力の統合とは生と死の統合に他ならない。生と死の統合こそホリスティック医学の究極である。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;   私にはホリスティック医学がいう「人間をまるごと見る医学」という定義ががもう一つはっきり把握できませんでしたが、イメージはつかめました。ホリスティック医学はまだまだ奥が深く、期待できる部分が多いと感じました。また注目されている代替療法についても、ホリスティック医学の中でどのような関係性を持っているのか、今後に対する興味がますます広がりました。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6813420386478872346?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6813420386478872346/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_15.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6813420386478872346'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6813420386478872346'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_15.html' title='シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」帯津良一さん'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SqudYj_HUmI/AAAAAAAAAFk/KWlf-3DvLOg/s72-c/obitu2009.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-5460184925165373590</id><published>2009-09-11T20:36:00.002+09:00</published><updated>2009-09-11T20:40:08.133+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>休眠宗教法人が不正行為の温床に。</title><content type='html'>　　ＮＨＫの朝のテレビで「休眠宗教法人が不正行為の温床となっている」というニュースがあった。暴力団によるお寺のっとり事件が報道されていた。&lt;br /&gt;　　文化庁によると現在休眠中の宗教法人、神社仏閣は全国に4500もあり、立地がよく資産の多いお寺はターゲットになりやすいという。暴力団はまず有名寺院の肩書を騙り、お寺の経営難を救済すると新しい事業を持ちかけてくる。最初は親切に尽くしてくれるので、お寺側が信用すると、手のひらを返して墓地の名義を勝手に書き換えたり、最悪の場合登記も偽造して、のっとられたケースもあるらしい。休眠中のお寺にも新しい事業で再建したい焦りがあって、まんまと口車にのせられたという。&lt;br /&gt;　　いかにもガードが甘い。といってしまえばそれまでだが、地方の一寺院に危機管理に万全を凝らせというのもさびしい。文化庁では、休眠の宗教法人を解散させて対応するというが、実態はどこまで明らかにできるのだろう。&lt;br /&gt;　　休眠寺院は即廃寺では早晩仏教教団は衰退する。何とか別の形で寺を再建して、経営維持することはできないか。寺の事業といえば、墓地や納骨堂の分譲が代表的だが、いわば不動産事業であり、莫大な資金も要する。そこに暴力団もうまみを感じるのだろう。たとえば社会福祉法人と共同して、福祉介護施設をつくるとか、デイサービスのような公益性の高い拠点でもいい。いまはNPO法人という手法もある。地域住民に喜ばれ、公金投入の仕組みをつくることで、経営の透明性を高める。そういう新しい発想が生まれないだろうか。&lt;br /&gt;寺が休眠化するのは、後継者難という事情も大きいと聞く。社会貢献型のお寺の事業であれば、そこにやりがいを感じる、有為な若者が「発心」に目覚めることもあるだろう。教団レベルの幅広い議論が必要だ。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-5460184925165373590?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/5460184925165373590/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_11.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5460184925165373590'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5460184925165373590'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_11.html' title='休眠宗教法人が不正行為の温床に。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7873838175919162881</id><published>2009-09-09T09:03:00.010+09:00</published><updated>2009-09-09T19:56:31.680+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」大下大圓さん</title><content type='html'>　　去る9月6日、日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「今を生きる力」に参加しました。大下大圓さん、帯津良一さん、上田紀行さん、五木寛之さんという豪華な方々が講演されましたので、会場は満杯の盛況ぶりでした。4人の方々のそれぞれのお話を、講演順に従ってご報告していきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　　最初の講演は飛騨千光寺住職の大下大圓さんから「仏教とスピリチュアルケア～縁生から覚醒へ」のご講演をお聞きした。大下さんは、和歌山県の高野山 で修行し、スリランカ国へ留学、スリランカ僧として得度研修され、飛騨で約25年前より「いのち、生と 死」の学習会として「ビハ－ラ飛騨」を主宰、その一方で患者さんのベッドサイドなど医療の現場や青少年育成、まちづくりでのボランティア活動も続ける。また千光寺で「人間性回復や心のケア」に関する様々な瞑想 研修を手がけ、医療、福祉、教育における「スピリチュアルケア」や「ケアする人のケア」を探究している。 &lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SqbyVb1LedI/AAAAAAAAAFc/CBYgzkyjBiE/s1600-h/oosita2009.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 150px; height: 183px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SqbyVb1LedI/AAAAAAAAAFc/CBYgzkyjBiE/s320/oosita2009.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5379253255002618322" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　まず大下さんの僧侶としての立場から、スピリチュアルケアについてのお話があった。&lt;br /&gt;　今、日本の精神文化としてのスピリチュアリティの研究やスピリチュアルケアのあり方が問われている。日本人の精神的な背景を考えるなら、儒教や道教、とりわけ日本人の生き方に多大な影響を与えた仏教の思考や叡智が生かされることが重要である。その中心となるのが「縁」の思想であり、「縁生」とは「縁起によって生じたもの」の意である。&lt;br /&gt;　　スピリチュアルケアとは「スピリチュアルペインを心の内に持ち、あるいは訴えようとするケアの対象者に対して、ケアを提供する側(援助者、スピリチュアルケアワーカー、セラピストなど)が共にその実態を『三つの縁生＝自縁、他縁、法縁』から明らかにして、苦悩からの開放、解脱に至る営み」であると言える。臨床場面で「縁生」を考えるならば、まず人間存在として援助される存在や、援助する存在そのものが縁生と言える。医師や看護師がどんな患者さんやご家族と出会うかということは、深い「ご縁」以外のなにものでもないことである。&lt;br /&gt;　　大下さんは住職という立場でありつつ、病院で医師や看護師とチームを成して患者さんやご家族に寄り添う活動を通して、ベッドサイドで何が見えるか、治療期の心のケアについて深く携わっている。私自身、ここに深い興味を惹かれる。仏教におけるスピリチュアルケアとは、患者さんのベッドサイドでどのような役目をし、患者さんの心にどう寄り添っていけるのかについて、できれば具体的なことをもう少しお聞きしたかったと思う。&lt;br /&gt;　　大下さんは最後に、仏教におけるスピリチュアルケアとは、その人自身が自らの人生を統合することを援助する、つまり人生の苦悩への解決のプログラムを発見させられることをサポートすることだと言われた。&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;　　正直、今回、勉強不足の私にとっては難しい話だったが、自分らしくどう生きたいのか、またどう死にたいのか日頃から考えていくことが大切であると感じた。毎日生きている中で、いろいろな楽しみ、苦しみがあるが、本当に「心」が喜ぶこと、「魂」が喜ぶことをしているかを常に自問自答しながら生きたいと思った。「&lt;念&gt;とは今の心と書くが、ありのままの今という時間において、自他のことを直感的に洞察することが仏教的なスピリチュアルケアの態度」と言った大下さんの言葉が印象的にだった。&lt;br /&gt;　　やはり思ってた通り、仏教とスピリチュアルケアはとても奥が深い領域であった。とても興味深く内容で、今後も勉強を続けたいと思う。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7873838175919162881?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7873838175919162881/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_09.html#comment-form' title='2 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7873838175919162881'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7873838175919162881'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post_09.html' title='シンポジウム「今を生きる力～激動の時代をホリスティックに生きる～」大下大圓さん'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SqbyVb1LedI/AAAAAAAAAFc/CBYgzkyjBiE/s72-c/oosita2009.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>2</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1816138268398144485</id><published>2009-09-06T08:06:00.002+09:00</published><updated>2009-09-06T08:10:23.965+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>布施は宗教サービスの代価ではない。派遣僧侶という問題。</title><content type='html'>　　お盆最中にＮＨＫの「おはよう日本」で「お盆ビジネス」（！）の特集があって、驚いた。極めつけは「僧侶派遣会社」からの実況中継。会社の会議室で、スーツ姿の社長を剃髪した僧侶たちが取り囲む場面。銘々に手帳を持ち、「派遣」のスケジュールを確認していた。僧侶たちは地方寺院の住職らしく、「檀家が数十軒で、成り立たない」から「出稼ぎ」に来たとインタビューに答える。あまりのあからさまぶりに、見ているこちらが赤面するほどだった。「僧侶プロダクション」にあって、まったく自省する影もない。&lt;br /&gt; 　首都圏では檀那寺を持たない人が圧倒的に多い。そこに葬儀ができると市場が生まれて、業者が僧侶を斡旋する。お布施は「派遣サービス料」で、リベートは４割とも５割ともいわれる。「迅速丁寧」「院号も安い」「面倒なお寺とのつきあいもなし」等々、ここでは僧侶は「便利屋」と同格の扱いである。&lt;br /&gt; 　日本にお寺は８万もあるが、じつはお寺だけで経営が成り立つ寺院は首都圏・大都市部の３割程度といわれている。反対に地方寺院は過疎の極みにあり、葬儀がひとつあると１軒檀家が減るといわれる。当然住職専業ではやっていけないから教員や公務員を兼職する僧侶が多い。首都圏に「出稼ぎ」せざるを得ない、地方寺院の疲弊こそ問題なのだ（しかし、宗派や仏教会がこぞってこの問題に取り組もうという動きも聞かない）。&lt;br /&gt;　布施はあくまで布施であって、サービスの代価ではない。在家信者にとって仏道の実践行のひとつとして、本尊に施し供えるものでなくてはならない。それが「建前」であったとしても、その前提が崩れると、仏教の布施はすべてお金で買う消費行為になってしまう。だから不要であれば、買わなければいいのだ。例の直葬もその延長線上にある。&lt;br /&gt;　映画「おくりびと」では、日本人の死者に対する敬意や親密感が描かれ、多くの感動を呼んだ。死者を懇ろに葬り、供養するという営みは、逝く者と残された者が交わす、人間のもっとも崇高なコミュニケーションであるはずだ。そこに位置付けられてこそ、葬式仏教の本当の存在感があるはずなのに、それがビジネスの具と化していくのは、碑文谷創さんではないが、「死者への冒涜」に等しい。&lt;br /&gt;　しかし、テレビの派遣僧侶たちには悪びれる様子もなく、あっけらかんとしていた。すでに実態は不信用を超えて、自明のものになっているのかもしれない。宗教サービスは織り込み済みであって、目くじらたてるほどのこともない。そんな無自覚ぶりが恐ろしい。&lt;br /&gt;（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1816138268398144485?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1816138268398144485/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1816138268398144485'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1816138268398144485'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/09/blog-post.html' title='布施は宗教サービスの代価ではない。派遣僧侶という問題。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3062355304999488692</id><published>2009-08-30T11:50:00.004+09:00</published><updated>2009-08-30T15:34:56.414+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>末木文美士先生、「死者」の視点から世界を見直す。</title><content type='html'>　　来る9月13日、應典院で寺子屋トーク「仏典から現代社会を問う」が開催されますが、前評判も高く、すでに100名近いお申し込みをいただいています。国際日本文化研究センター教授の末木文美士（すえき・ふみひこ）先生と、兵庫大学教授で浄土真宗本願寺派如来寺の住職釈徹宗先生の対論企画ですが、日本の仏教学を代表する碩学と新鋭の初顔合わせとなり、今から楽しみです。&lt;br /&gt;お盆最中の8月8日、朝日新聞に末木先生の某所での講演要旨が紹介されました（「お盆、仏典を読む」）。今回の催しに通じる内容ですので、一部を引用紹介します。&lt;br /&gt;　　&lt;br /&gt;　　&lt;span style="font-family:arial;"&gt;&lt;em&gt;末木さんは近代の合理主義は、見えないもの、聞こえないもの、理解できないものを排除しがちだった、と指摘した。死者の行方などはその最たるものだろう。&lt;br /&gt;　　確かに死んだ人がどこへ行ってしまうのかは、分からない。しかし「生きている人が、亡くなった人と何らかのかかわりを持とうとする気持ちは現在も残っている。どうかかかわるかを考えることは大切だ」と末木さんは述べた。」&lt;br /&gt;　その上で末木さんは、「仏教は死者と生きている人とのかかわりに着目することで、世界を見直す手掛かりになる」と強調した。そもそも仏教とは、ブッダの死後、残された人々が、彼の死を乗り越えようとするところから出発しているからだという。&lt;br /&gt;　死者と正面から向き合わねばならなくなった仏教が、時間をかけて書き残してきたものが様々な仏典だ。だから、死者とのかかわりを軸に、仏典を読みなおすことが重要だと末木さんは説く。&lt;/em&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;　これまでの仏典解読とは、近代主義との接点を捜し出す作業だったのが、近年むしろはそれとは異なる視座を見出そうとする傾向が大きいといいます。&lt;br /&gt;　&lt;em&gt;&lt;span style="font-family:arial;"&gt;「合理的な面だけではない世界を見直す手掛かりとして、仏教を見てみたい」&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;/em&gt;　近代合理主義を異化するような、反転の視点。そこから、現代の閉鎖感を突破するような新しい可能性を見いだせないかと思います。&lt;br /&gt;　9月13日、末木先生の直接の言葉にふれる絶好の機会です。ぜひご参加ください。&lt;br /&gt;（蓮池　潤三）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Spoc_Ptk91I/AAAAAAAAAE8/ql0h47DAViA/s1600-h/%E6%9C%AB%E6%9C%A8%E5%85%88%E7%94%9F2.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5375640978095142738" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 89px; CURSOR: hand; HEIGHT: 111px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Spoc_Ptk91I/AAAAAAAAAE8/ql0h47DAViA/s320/%E6%9C%AB%E6%9C%A8%E5%85%88%E7%94%9F2.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3062355304999488692?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3062355304999488692/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_30.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3062355304999488692'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3062355304999488692'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_30.html' title='末木文美士先生、「死者」の視点から世界を見直す。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Spoc_Ptk91I/AAAAAAAAAE8/ql0h47DAViA/s72-c/%E6%9C%AB%E6%9C%A8%E5%85%88%E7%94%9F2.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6588424687310259334</id><published>2009-08-23T07:56:00.010+09:00</published><updated>2009-08-23T08:32:10.701+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー報告'/><title type='text'>「‘みとりびと’は語る」アットホームホスピス代表　吉田利康さんのご講演をお聞きしました。</title><content type='html'>　　8月１日、夏のエンディングセミナー「’みとりびと’は語る」の第3回目のゲスト、アットホームホスピス代表の吉田利康さんの講演を聞きしました。吉田さんは、10年前に奥様を自宅で看取られた体験者です。&lt;br /&gt;　　お話は、奥様の「病名告知」から「おわかれ」まで、時間にそって、吉田さんの心の揺れ動きを率直に語ってくださいました。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SpB4yPXiI5I/AAAAAAAAAEs/6VUvrL2CYeg/s1600-h/IMG_1108.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SpB4yPXiI5I/AAAAAAAAAEs/6VUvrL2CYeg/s320/IMG_1108.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5372927159967032210" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　　1999年、奥様が急性骨髄性白血病と診断された頃、まだ介護保険はなく、また、今と違ってインターネットも普及途上にあって、容易に往診医も探せない時代でした。吉田さんもかかりつけ医に在宅療養支援を相談されましたが、がん末期と知ると往診を断られたそうです。&lt;br /&gt;　　吉田さん夫婦は、結婚した際に、どちらかがんになっても隠さないという約束をされていました。奥様は当時病院勤務の看護師をしておられ、ある程度の死の準備教育は積んでおられましたが、実際の「告知」を受けたショックは予想を超えた衝撃でした。頭の中は真っ白、膝はガクガクと震え、「告知」というのは医療者やマスコミが言うほど、簡単なものではないと実感したそうです。&lt;br /&gt;　奥様は、ご自分の病気の事を必要最小限の人だけ知らせてほしい、それ以外の人には伝えないでほしい、他人から口伝えで病名が伝わる、それだけで怖いと仰ったようです。&lt;br /&gt;　病院に見舞い、家に帰って家事をつとめる吉田さんの生活が始まります。奥様のいない家では、汚れたタオルを洗濯しているだけで泣けて仕方なかったといいます。そして、余命告知が本人に告げられました。そのショックも壮絶でしたが、それ以上にすごいのは、そこから自力で立ち上がってくる人間の強さでした。告知から一ヶ月が過ぎるころ、奥様は徐々にいつもらしさを取り戻し、それに安心したのか、逆に吉田さんは精神状態が悪くなっていく。ついに奥様の前で「おれはもうどうしていいかわからない」とべそをかく。それを支えたのは、なんと死と向き合っている奥様だったのです。吉田さんの目からうろこが落ちます。そして、妻を背負って歩こうとしていた傲慢さに気づき、妻がして欲しいことをすればそれでよいのだと思った時、気持ちが楽になったと話されました。&lt;br /&gt;　すると奥様が「私、家に帰ってもいいかな？」「もう他人に身体を触られるのはこりごりや」と遠慮がちに言われ、介護保険のない時代に在宅ケア、男の介護が始まりました。家には不思議な力がありました。今まで連携の悪かった父子でしたが、母親が帰ってくると見違えるように子どもたちのふるまいが変わりました。病院で眠れなかった奥様が、熟睡できるようになりました。なによりも家に帰った奥様は患者ではなく、妻に、又、母親に戻られた。&lt;br /&gt;　　在宅での生活は17日間でした。がんの末期は短距離競争です。枕元には氷枕と体温計と血圧計の三つだけでした。そして本人の意思により最期までモルヒネも使わず、お別れは家族だけでした。&lt;br /&gt;奥様の看取りから10年たって思うことは、家での看取りは自分自身を変えた、ということ。奥様のためと思っていたことは、じつは自分自身の生き方の転機となったと吉田さんは言います。&lt;br /&gt;　　吉田さんが今、在宅介護や看取りの講演・執筆活動をされているのは、「もし病気がよくなるんだったら、同じ病気の人の話し相手になりたい」という言葉が契機となっています。その思いを代わりに引き受けるのが、自分のささやかな供養だと思っていると仰っておられました。&lt;br /&gt;　　家で看取ると言っても、家族としてどうすれば看取れるのか分からないのが正直なところではないでしょうか。その結果、在宅医や訪問看護師に過度な委託をし、家族の役割も果たせないまま終わってしまいます。時には旅立ちの二日前ほどの時期になって、再入院をさせるなどが起こります。「妻（患者）がして欲しいことをすればそれでよい」とのことばは、看取りへの大きな示唆と受け止めましたし、それが介護をするものの基本姿勢ではないかと感じました。&lt;br /&gt;　いま、死は社会から封印されています。８割の人が病院で亡くなり、葬儀も６割が式場で執り行われる。死は生活から遠ざけられ、姿が見えないまま、福祉や介護といった制度論だけが先行しているように思います。在宅ホスピスの心とは、「死」を生活の場に取り戻し、それを見据えながら、今、生きることの意味を考えることなのです。&lt;br /&gt;　医療や介護、福祉の充実もたいせつですが、家に備わっている「日常」に潜む力を引き出すことが何よりも必要であり、それが結局、「ケア」の本質に触れることではないでしょうか。&lt;br /&gt;　吉田さんの絵本「いびらのすむ家」の「いびら」とは、「家に住む人たちを見守る神」のこと。人には見えない「いびら」の存在が私たちの「暮らし」を守っているのです。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SpB5EdjhAPI/AAAAAAAAAE0/SMMz-HhNVkQ/s1600-h/IMG_1117.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SpB5EdjhAPI/AAAAAAAAAE0/SMMz-HhNVkQ/s320/IMG_1117.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5372927473013031154" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6588424687310259334?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6588424687310259334/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_23.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6588424687310259334'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6588424687310259334'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_23.html' title='「‘みとりびと’は語る」アットホームホスピス代表　吉田利康さんのご講演をお聞きしました。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SpB4yPXiI5I/AAAAAAAAAEs/6VUvrL2CYeg/s72-c/IMG_1108.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-9126592523202845598</id><published>2009-08-20T19:59:00.012+09:00</published><updated>2009-08-21T20:09:49.343+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>死生観を取り戻す。お墓を起点とした、もうひとつの共同体づくり。</title><content type='html'>&lt;span style="font-size:85%;"&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size:85%;"&gt;&lt;/span&gt;&lt;span style="font-size:78%;"&gt;&lt;em&gt;&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;&lt;span style="font-size:78%;"&gt;&lt;em&gt;本稿は仏教タイムスから依頼されて寄稿したものです。9月上旬に掲載の予定。&lt;br /&gt;&lt;/em&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　映画「おくりびと」は、われわれ僧侶の間では「宗教抜き」の映画として話題となった。「葬儀」を扱って大ヒットしたこの映画には、宗教の教えはもちろん、住職も寺もていねいに取り除かれていて、まったく姿がない。制作側は、特定の宗教色に偏向することを警戒したのだろうが、また今さら日本人誰にも共通する死生観などすでにないことを承知していたのではないか。たいせつなものは個々人の思いであって、融通の利かない死生観に拘泥されるものであってはならない。そういう規範や因習より個人の自由な価値観が優先されるべき、という風潮は、最近のスピリチュアルブームにも通底するものがある。&lt;br /&gt;　もとより死生観は個人の面貌ほど多様であることに異論はない。「宗教なき死生観」も否定しない。しかし、死生観は人生の経験と学習の中で熟度を深めるものであって、ろくに思索も対話もないまま、「自分らしくありたい」と何でも好き勝手をすることと意味が違う。逆にそういう個人の小さな経験を積み重ねながら、全体のコンセンサスを規範として高めていく共同体のありかたに無関心であっていいのか。&lt;br /&gt;　2002年から、大蓮寺の墓域に生前個人墓「自然」という新しい考え方の墓を設けた。すでに申し込みをされた会員は80名を超えたが、大方はまだ元気な人たちで、年三回の合同供養のほかに、セミナーやバスツアー、懇親会等で互いの交流を深めてきた。生前に個人の資格でお墓を準備するということは（申し込みを受けた直後に個人の墓碑を建碑する）、死を見据えてこれからを生きるということであり、それを血縁を超えて会員どうしで支えあおうというのが、この墓のポリシーだ。最初は一人ひとりは他人でも、「自然」を出会いの場として、やがて互いを供養しあえるような、共同体的な関係づくりを目指している。&lt;br /&gt;　一般に年齢を重ねれば、自ずと死生観は深まるというが、どうもそれは疑わしい。「自然」申し込みに際し、これまで200人以上の中高年と面談してきたが、熟年世代であっても、痩せた死生観しか持ち合わせない人も少なくない。かつては地域共同体の中で継承されてきた生死にまつわる作法や知恵が途絶え、現代ではそれに代わってインターネットで収集したような情報や知識が幅を利かす。しかし、死生観とは検索エンジンで手軽に巡りあえるものではないだろう。&lt;br /&gt;「自然」の場合も、個人墓といいながら、その根幹を成しているのは会員どうしがともに向き合う生死の共同体験だ。入会当初は戸惑いがちだった会員たちも、お寺が織りなすさまざまな「場」から、死生観の基本を学びとっていく。毎年夏に行う会員セミナーでは、葬送の変化の様々を学習しているし、生前戒名授与の道場には、すでに会員の七割が結縁した。&lt;br /&gt;　日本全国に８万もの寺があるというが、私は、寺こそがそれぞれの地域における死生観形成の拠点でなくてはならないと思う。&lt;br /&gt;　役所も学校も親も教えてくれない「いのち」「生死」について、地域社会に問い続け、また学びの場を持続的に提供すること。葬儀や墓についての学習や相談は、その入り口として誰にも馴染みやすいものだろう。また、「いのち」の視点から積極的に社会問題にも関心を寄せていってほしい。このたび実施した大蓮寺のエンディングセミナーでも、グリーフケアや在宅ホスピス、脳死・臓器移植問題などを話題に取り上げたが、いずれも生死の問題を「私事」に閉じ込めずに、たえず公共的な視点で問い返して、開かれた関係をつくりあげていくことをねらいとしている。当事者のみならず、専門家や市民を巻き込み、多様な知恵と実践を出し合うことによって、地域全体の潜在力を高めていく。それはやがて、死生観についての共感や合意を育み、「いのち」を主体としたまちづくりへとつながっていくだろう。&lt;br /&gt;　「死生観なき現代」に向けて、生死の道を架橋するのは仏教の大きな使命である。それも、上から目線の布教伝道ではなく、地域の暮らしや人々の生き方と対話、協働を通して、仏教の実践的強度を高めていかなくてはならない。同時にそういう臨床的な態度から数々の仏典を読み込めば、それぞれが「生きる思想書」として新たな指標を与えてくれるにちがいない。大蓮寺の塔頭應典院では、この秋から現代人に向けたさまざまな仏典講座も開催する。&lt;br /&gt;その地平の行方に、日本人の死生観を支えてきたゆたかな土壌として、日本仏教の可能性が再び見出せる、と思う。&lt;br /&gt;（秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/So0vhfp18oI/AAAAAAAAAEk/V3if8BQrst0/s1600-h/20090819segaki.JPG"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5372002183002059394" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 320px; CURSOR: hand; HEIGHT: 240px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/So0vhfp18oI/AAAAAAAAAEk/V3if8BQrst0/s320/20090819segaki.JPG" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;span style="font-size:85%;"&gt;（大蓮寺の施餓鬼法要の一場面。家族が集って、先祖の御霊を祀る。日本のお盆の典型的な光景だ。8月19日撮影）&lt;/span&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-9126592523202845598?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/9126592523202845598/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_20.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9126592523202845598'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9126592523202845598'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_20.html' title='死生観を取り戻す。お墓を起点とした、もうひとつの共同体づくり。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/So0vhfp18oI/AAAAAAAAAEk/V3if8BQrst0/s72-c/20090819segaki.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-1556954046041075787</id><published>2009-08-14T09:27:00.003+09:00</published><updated>2009-08-14T09:32:33.870+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>少子化時代の「供養」をどう考えるか。お盆に想うこと。</title><content type='html'>お盆のこの時期、私たち僧侶は「棚経」といって連日檀家さん宅を回ってお経をあげていますが、伝統的な先祖供養の中で大きな変化を実感することがあります。&lt;br /&gt;　複数の檀家さんから同様の相談を受けました。&lt;br /&gt;　「妻の生家の仏壇（位牌）を、当家（婚家）で祀りたい」。&lt;br /&gt;　そうしなければ、妻の実家の先祖を供養することが守っていけない。供養の途絶です。今後、少子化が加速すると、これまで家族直系で継承されてきた供養の保証がますます難しくなってくることでしょう。私が死んだら、いったい誰が供養をしてくれるのか。そういう「供養の不安」は、いまや日本人の共通の危機感としてじわりと浸透しはじめています。&lt;br /&gt;　日本人の供養とは、絶えず「先祖」という血縁とセットで継承されてきました。相手の顔は知らずとも、代々の祖先を祀り、子々孫々に引き継いでいく。それが「家」を基軸とした、いのちのつながりを形作ってきました。ふだんそんなことに意識はなくても、お盆やお彼岸という国民的行事を通して、日本人の霊的な感性は自然と養われてきたともいえるでしょう。&lt;br /&gt;　ところが、少子化時代となって、ドラスチックな変化が起きます。家が縮んで、仏壇や墓の継承が困難となり、供養が途絶していく。それを恐れる心理からか、「（死後）迷惑をかけたくないから」散骨・自然葬を選ぶ人も少なくないと聞いたことがあります。また「供養の不安」という問題は、何でも自己決定すればいいと、安易な市場主義をはびこらせる要因ともなっています。&lt;br /&gt;　現実の供養システムが、家族を基軸としている限り、やがて機能不全を来すことは想像に難くありません。では、明日の供養をどう救済すればいいのか。私は血縁による供養が難しくなったいま、「結縁」による供養のシステムづくりを考えなくてはならないと思います。いわば血縁に頼らない、もうひとつの家族づくりです。供養のネットワークといってもいい。&lt;br /&gt;　その実践の取り組みとして、2002年から大蓮寺で始めた「生前個人墓・自然（じねん）」について、次回から述べていきたいと思います。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-1556954046041075787?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/1556954046041075787/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_14.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1556954046041075787'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/1556954046041075787'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_14.html' title='少子化時代の「供養」をどう考えるか。お盆に想うこと。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3843303143904003634</id><published>2009-08-12T14:46:00.006+09:00</published><updated>2009-08-12T15:00:26.064+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー報告'/><title type='text'>「‘みとりびと’は語る」いまい内科クリニック院長　今井信行さんのご講演をお聞きしました。</title><content type='html'>　7月25日、エンディングセミナー第2回目のゲスト、いまい内科クリニック院長　今井信行さんの講演をお聞きしました。聴講の内容を以下に報告します。&lt;br /&gt;　今井さんは冒頭、一つのケアの連続性の中に看取りがあり、在宅ホスピスが看取り自体を目的としているわけではないと言います。その上で、今井さんは看取りに関心があり、文章に必ず句読点があるように、一人の方の人生に関われて、ピリオドを打つお手伝いが出来ること、そして少しでも喜んで頂けるなら、これに勝るものはないと仰いました。&lt;br /&gt;　今井さんにはかつて病院の勤務医経験があります。病院は治療という目的を最優先する管理された空間ですが、その反面自宅というのは、人が生涯をかけてコツコツと作り上げてきた、かけがえのない、最も心地よい空間だといいます。だから、自ずから勤務医と在宅医はそれぞれの舞台が違うとも仰っておられました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZEAOcjYI/AAAAAAAAAEM/Zu-p4tJ-gMc/s1600-h/IMG_5596.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZEAOcjYI/AAAAAAAAAEM/Zu-p4tJ-gMc/s320/IMG_5596.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5368951631093992834" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　最期と対峙しながら、在宅では患者さんと家族のさまざまなかかわりがあります。講演では今井さんが在宅で関わってきた症例について、いくつかお話を頂きました。&lt;br /&gt;　60歳代の末期患者さんがいよいよ状態が悪化してきた時、その方の枕元に家族や知人が集まって、銘々に大きな声で声をかけ、一生懸命に励まされたそうです。だんだん呼吸が小さくなる一方で、周囲の励ましに応えるように生きながらえる患者さんを見て、生と死の境界上に生まれる家族どうしの濃密な関係を目の当たりにされたといいます。&lt;br /&gt;　在宅医療とは、いのちが際立つ臨床です。病院や施設にはない尊い存在感であり、生と死のリアリティであり、そこに今井さんは人間として深い共感を感じるといいます。&lt;br /&gt;　今井さんは、在宅ホスピスの主人公はあくまで「家族」であると言います。家族の方がいかに安心してわが家で療養をしてもらえるか、たとえれば家族でなければ演じることのできない「家族劇場」をいかに舞台裏から支えるかが、自分たち在宅医の役目であり、これからも黒子に徹したいと仰っておられました。別の言い方をすれば、在宅ホスピスとは、家族が家族であることの幸せを再確認する場なのです。&lt;br /&gt; 　今井さんは昨年から「有隣荘」という、在宅療養支援ハウスを新たに開設されました。これは、病院・施設と自宅との間にある、いわばまちの縁側のような新たな場です。少子化が進み、ひとり暮らしが増える地域において、互いを支え合う拠点として、育てていきたいと言います。管理中心の施設ではなく、中間的な拠り所になるようにしたいと仰られました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今回、今井さんのお話しをお聞きして、在宅ホスピスは患者さんとご家族がいのちに向き合う場。そしてあくまでも家族が中心だと分かりました。また自宅で残された日々を輝いて生きたいという患者さんの願いを、いかにしてサポートするかを含め、在宅ホスピスの今後の可能性について、じっくりと考えさせられた一日でした。 &lt;br /&gt;（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZjslmO4I/AAAAAAAAAEU/R4N_v0xwujY/s1600-h/IMG_5613.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZjslmO4I/AAAAAAAAAEU/R4N_v0xwujY/s320/IMG_5613.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5368952175578200962" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZ20SrtfI/AAAAAAAAAEc/5jPfGKIFDp0/s1600-h/IMG_5599.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZ20SrtfI/AAAAAAAAAEc/5jPfGKIFDp0/s320/IMG_5599.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5368952504063866354" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3843303143904003634?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3843303143904003634/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_12.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3843303143904003634'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3843303143904003634'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_12.html' title='「‘みとりびと’は語る」いまい内科クリニック院長　今井信行さんのご講演をお聞きしました。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SoJZEAOcjYI/AAAAAAAAAEM/Zu-p4tJ-gMc/s72-c/IMG_5596.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2247750322620148235</id><published>2009-08-09T00:14:00.005+09:00</published><updated>2009-08-09T00:25:10.091+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ＢＯＯＫガイド'/><title type='text'>日本人と『死の準備』～これからをより良く生きるために</title><content type='html'>　本書は２部構成となっていて、第１部が山折氏、第２部には浄土宗総本山知恩院発行機関誌『知恩』と佛教大学四条センターの共同企画、よく生きるための『死の準備』講座から６人の講演を採録、という構成になっています。第１部では、宗教学者である著者が、人生80年時代の死生観を説いています。&lt;br /&gt;　人生50年時代、「生と死を同等の比重で考える人生観」が、急激な高齢化の中で、人生80年時代となり、「老いと病いの領域が肥大化して死のテーマを遠く押しやり覆いかくしてしまった」と山折氏は言います。&lt;br /&gt;　「死」というものの実感が遠ざかるほどに、「生」に対する感覚も薄れていくのは、いろいろな学者が提言していることですが、近年の親殺し子殺し、無差別殺人などの多発、また臓器移植問題を通じて様々な問題定義をする著者ですが、根底には「死生観」の欠如を語っているように思います。&lt;br /&gt;　葬送の現場に立ち会う立場の実感としても、枕経から始まる一連の儀式が、単なるセレモニー化となっており、「死」を見えにくく、感じにくくしているという感を持ちます。我々の立場からそれを遺族はもとより、参列する方々にとって、「死」と向き合う大切な経験とするにはどうしたらよいのか、僧侶として考えるべき大きなテーマをいただいたように思います。&lt;br /&gt;　第２部の６人の方々の講演の採録も、それぞれの立場から「いかに生き、いかの死ぬのか」を語られています。&lt;br /&gt;　豊かさとひきかえに失った大切なものは何なのか、本を読み終え、地域の中で語り合っていきたいと思いました。&lt;br /&gt;（池野亮光）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sn2XtJGlnUI/AAAAAAAAAEE/kkfNq3UcpIk/s1600-h/414ln-tDpjL__SL500_.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 198px; height: 320px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sn2XtJGlnUI/AAAAAAAAAEE/kkfNq3UcpIk/s320/414ln-tDpjL__SL500_.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5367613132688956738" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2247750322620148235?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2247750322620148235/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_09.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2247750322620148235'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2247750322620148235'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post_09.html' title='日本人と『死の準備』～これからをより良く生きるために'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sn2XtJGlnUI/AAAAAAAAAEE/kkfNq3UcpIk/s72-c/414ln-tDpjL__SL500_.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7060360999072481896</id><published>2009-08-05T20:28:00.004+09:00</published><updated>2009-08-05T20:36:54.454+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='夏のエンディングセミナー報告'/><title type='text'>「‘みとりびと’は語る」公益社　執行役員　廣江さんのご講演をお聞きしました。</title><content type='html'>　このたびの夏のエンディングセミナーも無事３回の実施を終えました。このコーナーでは、各回の内容など報告していきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　7月18日、１回目のゲストは葬儀社最大手の公益社執行役員の廣江輝夫さんの講演をお聞きしました。会場は定員を超える方々がご来場いただき、エンディング関する関心の大きさがうかがえました。&lt;br /&gt;　葬儀社は死後の送別のセレモニーを業務とされているはずですが、廣江さんのお話は、死後の遺族の悲嘆をいかに癒すか、いかに支えるかといったグリーフケアやエンディングサポートが中心となりました。遺族会「ひだまりの会」の活動やエンディングワークとしての「生前葬」など、葬儀社としての新しい取り組みに新鮮な驚きを感じました。&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnluE2170fI/AAAAAAAAAD0/PvImec3kVjA/s1600-h/DSC_0401.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 212px;" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnluE2170fI/AAAAAAAAAD0/PvImec3kVjA/s320/DSC_0401.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5366441460708921842" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　少子高齢化社会、葬儀に対する意識も大きく変化しており、中でも「家族葬」に対する関心はきわめて増大しているといいます。「家族葬」の特徴は「故人をよく知る人だけが集まるので、多くの会葬者への対応が必要なく、故人とゆっくりお別れが出来る」、また「世間の目を気にせず、故人や遺族の考えを反映した個性的な葬儀が出来る」など、家族の絆を深めていく葬儀といえます。&lt;br /&gt;　本来葬儀とは遺族と故人とのコミュニケーションの場であるはず。さらにエンバーミング(遺体衛生保全)で時間にとらわれず、納得のいくお別れができるようになったといいます。病院や施設では死後、十分なお世話やコミュニケーションができにくいという反省点から、「コミュニケーションの場としての葬儀」のあり方が再構築されているといえます。&lt;br /&gt;　また「エンディングワークの考え方」という新しいキーワードも示されました。つまり自分の残された人生を考え、生前に人生の棚卸しをしようという事です。モノについての遺言だけではなくて、「ココロの遺言」(財産だけでなく、家族の絆を結び付ける)を考える時代になってきたと言えます。&lt;br /&gt;　さらにエンディングワークの一つとして、社会的に死を告知する、つまり葬儀の前に告別式を行う「生前葬」を取り上げ、生きている間に友人に挨拶し、人生のけじめをつけるという方もいらっしゃるといいます。その背景には、子どもに迷惑をかけたくない、元気なうちにお世話になった方々とお礼を伝えたいという気持ちがあるようです。&lt;br /&gt;　また、遺族会「ひだまりの会」のは、公益社で葬儀をあげられたご遺族を対象としており、その精神的自立を支える相談・援助活動を大きな目的としています。会員となっている方々のアンケート回答の紹介がありました。ひだまりの会参加動機は、「同じような体験をした人の話を聞きたかったから」が一番で約6割を占めています。また現在、参加している理由としては、「講演会を聞きたかったから」で、とくに「死生観・人生論に関する講演を希望する」人が多いといいます。また「同じような体験をした方の助けになりたいから」という理由も多くを占めました。&lt;br /&gt;ひだまりの会は個別の遺族ケアが目的ではありません。むしろ遺族サポートのための人材育成と組織づくりがねらいであり、遺族の方が「依存」ではなく「自立」してもらうことが目的です。そのための同じ死別体験者どうしの自助グループ的な性格といえます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今回、廣江さんのお話をお聞きして、本来「死後」を扱っておられる葬儀社が、実は「生前」をも扱っておられる、まさに「みとりびと」的な存在であると思いました。機会を改めて、次はぜひひだまりの会の見学などをさせていただき、ご報告させていただきます。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnluU3hYRxI/AAAAAAAAAD8/RYrU5KfQyWs/s1600-h/DSC_0390.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 212px;" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnluU3hYRxI/AAAAAAAAAD8/RYrU5KfQyWs/s320/DSC_0390.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5366441735769048850" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7060360999072481896?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7060360999072481896/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7060360999072481896'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7060360999072481896'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/08/blog-post.html' title='「‘みとりびと’は語る」公益社　執行役員　廣江さんのご講演をお聞きしました。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnluE2170fI/AAAAAAAAAD0/PvImec3kVjA/s72-c/DSC_0401.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6127115244909757345</id><published>2009-07-31T21:52:00.009+09:00</published><updated>2009-07-31T23:19:43.722+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>スピリチュアルケアと宗教的ケアの不幸な関係？</title><content type='html'>　先月、高知で開かれた日本在宅ホスピス・ケア研究会の全国大会に参加してきました。一昨年、飛騨で開催された大会では、「日本人の心性に適ったスピリチュアルケア（ＳＣ）」について前向きな議論があり、期待をしていましたが、今回はいささか失望しました。&lt;br /&gt;　スピリチュアルケア（ＳＣ）については、シンポジウム「死の恐怖に打ち勝つために」を聴講しました。カールベッカー先生（仏教）や高木慶子先生（キリスト教）と並んで、前世療法を奉ずる内科医や元幸福の科学幹部（！）であった病院理事（おふたりとも臨床医です）が登場しましたが、その見識に違和感を抱いたのは私だけでしょうか。在宅医療の議論の場に、宗教の実践家を招く意気は評価しますが、臨床医であれば宗教は何でも一緒くたなのでしょうか。失礼ながら企画者の節操を少々疑ってしまいました。&lt;br /&gt; ＳＣとは「霊的ケア」とか「魂のケア」と訳され、主には緩和ケアにおいて、末期患者のスピリチュアルペインを和らげるケアをいいます。キリスト教社会の欧米であれば、聖書を携えたチャプレンの登場かもしれませんが、無宗教な日本ではこれがよく理解されないまま、さきほどのような何でもありの様相を呈しています。そもそもＳＣが人間の実存的課題というより、切迫した医療的課題として扱われてきた経緯があるからか、宗教的ケアの何たるかをよく論じないまま、双方は完全に線引きされているように見えます。&lt;br /&gt;　もちろんスピリチュアリティと宗教に対する考え方は人それぞれです。宗教的ケアが何よりも万能とも思えません。しかし、臨床においてはスピリチュアリティと宗教はともに重要なのであって、両者は融合こそ必要であって、無視したり反目しあってはならないと思います。互いを包摂しあうような統合的な思考シフトがなぜ実現しないのでしょうか。&lt;br /&gt;　宗教は世の東西を問わず、「いかに死ぬか」という実存的命題を時間をかけて極めてきたものです。日本の浄土教などはその歴史的精緻ともいえるものですが、そういった日本人の伝来の叡智に学ぼうとせずに、欧米風の新説を取り入れたり、挙句に怪しげな宗教信奉者まで登場させるのは、宗教に対する不信あるいは警戒からなのでしょうか。&lt;br /&gt;　私はこの世界での仏教の復権を主張しているのではありません。浄土教と幸福の科学を一緒くたにするなと憤慨しているわけでもない。ただ少なくとも、日本人の死生観というからには歴史的な時間をかけて鍛錬されてきた思想的強度が不可欠であって、それがスピリチュアルな臨床を含めて生活文化の基層となるのでしょう。&lt;br /&gt;　医療では「死は終末」ですが、日本人の伝統的な死生観は「死は新しい旅立ち（往生）」と受け止めてきました。死んだらみなホトケであり、その生まれ変わりのシステムとして葬儀や年回法要、墓や仏壇が永く維持されてきたのだと思います。日本人は身近な死を通して、自らの死を写し取ってきたのだし、先祖という総体にいのちのつながりを感じ取ってきました。「葬式仏教」のレッテルの奥には、じつは営々と築かれた日本人のスピリチュアリティの可能性が秘められている。死生の哲学として、もう一度仏教に学ぶ時が来ていると思います（末木文美士さんの「仏典をよむ～死からはじまる仏教史」を読んでみてください）。&lt;br /&gt;　しかし、そうならないのは、仏教の側の責任も大きい。いまの僧侶の大方が、自家撞着を来たし、教団関係以外の人前でまともに対話できるとも思えない。業界だけで使いまわされてきた仏教の言葉は手垢にまみれ、干からびてしまっているともいえます。&lt;br /&gt;　ですから、これには布教とか折伏という一方的な支配原理ではなく、公共的な視点から仏教を見直し、市民の言語でこれを再構築していく、というダイナミックな上書き作業が必要なのだと思います。最近はどの教団でもビハーラ（仏教版ホスピス）が流行のようでそれは結構なことですが、またぞろ同宗の人間だけを対象に、教義の活用だけを優先しているようであれば、元の木阿弥です。同業者だけで自己完結させるのではなく、医療者も含め市民と対話や協働を重ね、ともに開発していくような姿勢が肝要だと思います。その試行も（このブログで紹介した（6月10日）ＮＰＯ法人ビハーラ21のように）、ゆっくりとですが、始まっています。&lt;br /&gt;　最後にもう一言。そもそもＳＣとは、末期患者さんのベッドサイドだけで成立するものではありません。地域の生活や暮らし全体の中で醸し出される、互いを思い、慈しみ、支えあう関係性こそ、日常のＳＣだと思います。その気づきや促しをどう試みるか。日本に８万あるお寺が、それぞれの地域におけるスピリチュアル教育の拠点となればいい。私たち大蓮寺や應典院の活動も、その同一線上にあります。           （秋田光彦）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnLqihjSd2I/AAAAAAAAADs/gRJT-s32iSk/s1600-h/sympo.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 320px; height: 214px;" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnLqihjSd2I/AAAAAAAAADs/gRJT-s32iSk/s320/sympo.jpg" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5364607984994514786" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6127115244909757345?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6127115244909757345/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_31.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6127115244909757345'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6127115244909757345'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_31.html' title='スピリチュアルケアと宗教的ケアの不幸な関係？'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SnLqihjSd2I/AAAAAAAAADs/gRJT-s32iSk/s72-c/sympo.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-3933569304293804011</id><published>2009-07-27T16:44:00.003+09:00</published><updated>2009-08-23T08:35:11.302+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='アットホームホスピス代表・吉田利康さんインタビュー'/><title type='text'>体験者が綴ったホームホスピスの入門書</title><content type='html'>　 日本のがん患者の80％以上が病院で最期を迎える現状がありますが、住み慣れた家で家族に看取られることは不可能なのでしょうか。奥様を在宅で看取った吉田さんが、体験者としてそのプロセスを伝えた本が、2007年12月に出版された「がんの在宅ホスピスケアガイド―ただいま　おかえりなさい」（日本評論社）です。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Smb4yCHPO7I/AAAAAAAAADU/491BhBlQVdQ/s1600-h/4535982848.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5361245944875531186" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 135px; CURSOR: hand; HEIGHT: 195px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Smb4yCHPO7I/AAAAAAAAADU/491BhBlQVdQ/s320/4535982848.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　世間ではまだ在宅ホスピスケアというと、かなり縁遠いと感じる方も多いと思いますが、今後、終末期を家で迎えようと考える患者の方は増えていくに違いありません。最期を家で迎えようとする患者と家族の視点から、ご自身の体験も踏まえて書かれた本書は、そうした状況にある人なら、悩みの多くの部分に答えてくれる本だと感じました。たくさんある闘病記や患者手記とは全く異なる面持ちを感じました。&lt;br /&gt;　　また、吉田さんは在宅医、看護師など医療関係の方々と一緒に「おかえりなさいプロジェクト」を結成され、「あなたの家にかえろう」という冊子を作られました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Smb5dUnd6CI/AAAAAAAAADk/PMnB8xk3Czk/s1600-h/i_1.gif"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5361246688576923682" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 238px; CURSOR: hand; HEIGHT: 169px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Smb5dUnd6CI/AAAAAAAAADk/PMnB8xk3Czk/s320/i_1.gif" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;　　この冊子はすでに24万部以上が発行され、全国でいろいろな方々の手に渡り、在宅ホスピスのガイドブック的な役割を果たしています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　 今回のエンディングセミナーでは、吉田さんの貴重な体験をベースに、本当に家族は「みとりびと」となれるのか、みなさんとご一緒に考えていきたいと思っています。（浦嶋偉晃）　　　　　　　　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-3933569304293804011?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/3933569304293804011/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_27.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3933569304293804011'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/3933569304293804011'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_27.html' title='体験者が綴ったホームホスピスの入門書'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Smb4yCHPO7I/AAAAAAAAADU/491BhBlQVdQ/s72-c/4535982848.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-5799149814282381807</id><published>2009-07-24T22:46:00.004+09:00</published><updated>2009-07-24T23:04:42.668+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>日本人の死に方が問われている。臓器移植法について</title><content type='html'>　これまで「資源」という言葉を比較的肯定的にとらえてきました。&lt;br /&gt;　まちづくりの現場では、眠っている資源をいかに活かすかという文脈で、地域の歴史や生活を語ってきました。が、今回の臓器移植法における議論は、「臓器は公共の医療資源？」という、とんでもない資源の濫用となっていると思います。&lt;br /&gt;　7月13日参院で可決なった今回の法改正で、今後死後の臓器提供については、本人の承諾がなくても、家族さえ承諾すれば摘出可能となりました。子どもの場合も、親が承諾すれば摘出できる。つまり、これまでの「臓器摘出は本人の生前の意思に限る」という箍（たが）が外れた分、すべての家族が「脳死者となった家族」の臓器の提供をするか、しないかの意思表示を求められる、ということになります。しかし、そもそも子どもの臓器は、親の意思で自由になるものなのでしょうか。&lt;br /&gt;　メディアは「日本人の死生観が変わる」と騒いでいますが、いったい死生観というような民俗的な観念が国の法律ごときに左右されてしまっていいのか。医療の暴走を抑制しようと長く議論されてきた生命倫理からの問い直しはどこへ行ってしまったのかとあまりのなし崩しに憤りをおぼえます。東大の島薗進さんは、欧米諸国の場合は「キリスト教の立場からの主張とそれに対抗する論理が拮抗する中で、生命倫理の基礎づけが行われてきた」と言います。つまり、前提となる大きな死生観があって、それと際限なく発展する科学技術との両者の調整や合意に長い時間をかけてきたのです。が、今回の法案成立は違う。最初から日本人全体が含意するような死生観などなかったのかと思えてしまいます。&lt;br /&gt;　心身一如の仏教的立場からいえば、死は身体と切り離して考えられません。日本人にとって死はたえず遺体や遺骨とともに認識されてきたのであって、それと共に死は諦観（真理）として受け入れられてきました。航空機事故で犠牲者の遺体や遺骨を収集するのは、日本人だけの特性です。「看取り」もまた身体まるごとの関係性との別れであって、肌は暖かく、血は流れ、ひげも伸びる「脳死者」を、「これは遺体だ」と認識できるのでしょうか。&lt;br /&gt;　おかしなことです。脳死者はむろん、遺体を見たこともない人たちが、死の定義を論じている。世間では年間の自殺者３万人といいながら、そのことが社会問題の第一に挙げられることはない。そして「誰でもよかった」殺人の続発…。社会全体から死のリアリティーが失われています。というより、そういう厄介な問題はなるべく見ないようにして、「世の中のためになるから」というわかりやすさに走り、生死の一大事を技術操作の具にしている、といえないでしょうか。&lt;br /&gt;　延命のみ優先して、死を追いやることは、やがて生命の限界を受け入れらない、痩せた死生観しかつくり得ません。死とどう向き合い、いまをどう生きるのか。今回の臓器移植法は、医療だけの問題ではなく、日本人全体の生き方と死に方が問われていると思います。　（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-5799149814282381807?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/5799149814282381807/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_24.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5799149814282381807'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5799149814282381807'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_24.html' title='日本人の死に方が問われている。臓器移植法について'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2717826679295706844</id><published>2009-07-23T21:57:00.000+09:00</published><updated>2009-07-23T21:58:36.974+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='アットホームホスピス代表・吉田利康さんインタビュー'/><title type='text'>市民みんなに看取りの力が備わっている</title><content type='html'>吉田さんから最初に「告知」を受けたときの衝撃を聞きました。医師から告知を受けた瞬間、頭の中は真っ白、膝はガクガクと震え…現在の不用意な「告知」について、改めて考えさせられました。「告知」というのは医師やマスコミが思うほど、簡単なものではありません。告知の前に信頼関係が必要ですが、容赦なく言い放たれる。その一方で「告知」を受けた患者さんや家族がその後、内的に成長していくという側面もあるというのも改めて感じました。&lt;br /&gt;吉田さんが奥様を在宅で介護された期間は１７日間。在宅ホスピスケアの驚きは、妻であり母である人が帰ると、家中が一気に明るくなり、家族にもそれぞれ役割が自然に出来て、いきいきしはじめ、それが家での看取りをやり遂げる原動力となるということです。それが家に帰るよさだと感じました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SmQoL-8eWbI/AAAAAAAAADM/89TUuQOqf4Q/s1600-h/C7CAFJQADQCA0XEQD9CAE6319ZCABDSFZQCAW5DG9BCASGIMDGCAT96ZOMCASJTNJLCAOW75FXCAQY8CK3CAYK3QL7CA7IGIPCCAMG0LG2CAR80I2RCAGD54A6CA4D5HORCARXSOIVCAODR75ACAHUEZAE.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5360453642818050482" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 121px; CURSOR: hand; HEIGHT: 112px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SmQoL-8eWbI/AAAAAAAAADM/89TUuQOqf4Q/s320/C7CAFJQADQCA0XEQD9CAE6319ZCABDSFZQCAW5DG9BCASGIMDGCAT96ZOMCASJTNJLCAOW75FXCAQY8CK3CAYK3QL7CA7IGIPCCAMG0LG2CAR80I2RCAGD54A6CA4D5HORCARXSOIVCAODR75ACAHUEZAE.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;当時、施設ホスピスはあっても、在宅ホスピスについて、そのような医師がいるのか分からない時代で、結局は家族だけで看取ることも少なくありませんでした。枕元にあるのは、血圧計と体温計と水枕のみ。モルヒネなどは一切お使いになられなかったとお聞きし、不思議に思いましたが、ご本人の思いにいろいろな形があるのでしょう。しかし、痛みに苦しむ奥様と、その奥様を看る吉田さんの辛さは、ここで容易に言葉にできるものではありません。。&lt;br /&gt;死を見つめて、生を見た。それは奥様からの贈り物だったかもしれないと吉田さんはいいます。家という環境だったから、贈り物に気がついた。病院でできることをそのまま家に持ち込んでも、家での看取りと言えないでしょうとも仰っておられました。&lt;br /&gt;もちろん、吉田さんは在宅ホスピスは選択肢の一つで、病院、施設型ホスピスという形も否定はされません。ただその人と環境に合った形を選択すればよいと言われてました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;「男の介護」と言うのは、まだむずかしいかもしれませんが、これからの日本社会が直面する大きな課題のひとつとなるでしょう。吉田さんは、それはけっして無理なことではなく、そのための環境づくり、学びや啓発が必要と仰います。医療関係者が奥様の看取りは「吉田さんだからできた」といわれたそうですが、「市民をなめないでほしい」と反発されたという吉田さんの言葉に共感を感じました。&lt;br /&gt;在宅介護は容易ではありませんが、私たち市民みんなにその力が備わっているのだと思いました。（浦嶋偉晃）　　&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2717826679295706844?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2717826679295706844/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_23.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2717826679295706844'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2717826679295706844'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_23.html' title='市民みんなに看取りの力が備わっている'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SmQoL-8eWbI/AAAAAAAAADM/89TUuQOqf4Q/s72-c/C7CAFJQADQCA0XEQD9CAE6319ZCABDSFZQCAW5DG9BCASGIMDGCAT96ZOMCASJTNJLCAOW75FXCAQY8CK3CAYK3QL7CA7IGIPCCAMG0LG2CAR80I2RCAGD54A6CA4D5HORCARXSOIVCAODR75ACAHUEZAE.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-7308482027539627369</id><published>2009-07-20T11:25:00.003+09:00</published><updated>2009-07-20T11:31:19.222+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='アットホームホスピス代表・吉田利康さんインタビュー'/><title type='text'>家庭の看取りの復権</title><content type='html'>　　エンディングセミナー「”みとりびと”は語る」（８月１日）の話題提供者・アットホームホスピス代表の吉田利康さんにお会いする機会がありました。&lt;br /&gt;  　　吉田さんは、1999年に看護師だった奥様を急性骨髄性白血病で、最期は在宅で看取られました。その時のご体験、そして今後の思いについてお話しをお聞きしました。&lt;br /&gt;　奥様の死後からインターネットでターミナルの方やそのご家族、そしてご遺族の方に心のケアをはじめられ、「もしもこの病気がよくなるのなら、同じ病気の人の話し相手になりたい」といっていた奥様のご遺志を継ぐ為、ルークトーク（白血病談話室）、ＣＴＭＬ（キャンサートーク・メイリングリスト）、メモリアルＭＬ（白血病遺族談話室）などで、「鉄郎」というハンドルでネットカウンセリングを行なわれました。&lt;br /&gt;　その後、在宅医療にかかわる開業医の方に出会い、ネット外での活動も開始され、日常の視点から、こころのケアを考える講演や執筆活動に取り組んでおられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SmPWjcl1ZeI/AAAAAAAAADE/KykTTSLFKOo/s1600-h/DSCF0014.JPG"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 240px; height: 320px;" src="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SmPWjcl1ZeI/AAAAAAAAADE/KykTTSLFKOo/s320/DSCF0014.JPG" border="0" alt=""id="BLOGGER_PHOTO_ID_5360363885959669218" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　吉田さんに在宅死についてお話を伺いました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　昭和54年を境に、病院で迎える最期は在宅死を追い越し、現在全体の80％以上、これは、世界でも他に類をみない現象といいます。その結果、30年ほど前には当たり前であった、家庭での介護や看取りが姿を消し、同様に家族を支援する診療所も徐々に姿を消していき、ごくわずかが残るだけとなっていきました。&lt;br /&gt;逆に、認知症など根治が難しい病気が増え、がんは二人にひとりがかかります。しかし、政府は入院日数短縮を打ち出し、急性期を過ぎた患者さんは嫌でも、転院か在宅療養を余儀なくされます。現実に急性期病院の平均入院日数は2週間に縮まっており、以前のように最期まで病院に留まるところは難しい。&lt;br /&gt;　今、急務なのは家庭介護や看取りの復権です。ここ30年ほど生も死もどっぷり医療に依存してきましたが、元来それらは市民生活の一部でした。吉田さんは、「アットホームホスピス」の場を通して、生活の座から生老病死を見つめなおし、市民の視線から介護・看取りと交流・助けあいを実践していこうと活動を続けておられます。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-7308482027539627369?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/7308482027539627369/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_20.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7308482027539627369'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/7308482027539627369'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_20.html' title='家庭の看取りの復権'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SmPWjcl1ZeI/AAAAAAAAADE/KykTTSLFKOo/s72-c/DSCF0014.JPG' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-2687791631617836090</id><published>2009-07-08T19:48:00.004+09:00</published><updated>2009-07-10T19:53:42.476+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='＜みとりびと＞な人々'/><title type='text'>末期患者さんを支える人々　傾聴ボランティア</title><content type='html'>　7月4日、尼崎で開催された「阪神ホームホスピスを考える会」に参加してきました。&lt;br /&gt;　ゲストとしてお話をお伺いしたのは、海外でのボランティア経験を活かし、現在はホスピスで傾聴ボランティアをされている薬剤師の石田有紀さんでした。&lt;br /&gt;　石田さんは1回、原則1時間で患者さんとお会いになられていますが、なぜ患者さんは、このような短い時間で、ご家族にも医療関係者にも言えない思いを、見ず知らずの「他人」に話されているのか？&lt;br /&gt;　やはり初対面でいきなり話がはずむような事はないそうです。また、患者さんの訴えがいつも本心とは限らず、口から出た一言をもう少し聞き込むと、背景に違う思いや願いのあることが多く、たいへんなご苦労もあるといいます。しかし家族や医療関係者にも言えないような事を、「これは誰にも言えないんだけど」ともらされることがあるそうです。&lt;br /&gt;　患者さんはすごく周りに気を使っていておられます。家族は一所懸命お見舞いに来てくれる、医師も看護師も熱心にケアしてくれる・・・そんな時に「自分はつらいんだ」とは言いにくいのです。「他人」だから言える話がある。だからといってそれが家族や医療関係者に伝わることもないし、何を言っても迷惑がかからない。自分の立場が悪くなることもない。そんな安心感のようなものがあるのではないでしょうか、と仰っておられました。関係性が深くないから、逆に本音が言えるのかもしれません。&lt;br /&gt;　傾聴の大原則に、「相手が発した言葉を使って、再び問い返す」とありますが、患者さんから「くどい！」と言われることもあり、また患者さんがお話の間を置いたときに、それが体調が辛いのか、考えている間なのかを常に気をつけられているといいます。実際に体験された方だからこその感覚かと思います。また患者さんの人生のお話を聞いていると目の前に映像がプレビューされて、自分とは全く違う生き方がリアルに迫ってくるそうです。どんなフィクションにも描けない、真の人生の物語ではないでしょうか。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SlR6d8DEmPI/AAAAAAAAAC8/OfqlELAm21E/s1600-h/%E9%98%AA%E7%A5%9E.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5356040511604168946" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 134px; CURSOR: hand; HEIGHT: 101px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SlR6d8DEmPI/AAAAAAAAAC8/OfqlELAm21E/s320/%E9%98%AA%E7%A5%9E.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　傾聴ボランティアとは、患者さんの心を癒し、孤独感や不安が軽減して安心感につながり、また相手の隠れた思いを聴くことで本当の援助が可能となります。&lt;br /&gt;　ここにも、末期患者さんの心に寄り添い、支える人がいました。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-2687791631617836090?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/2687791631617836090/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_08.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2687791631617836090'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/2687791631617836090'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_08.html' title='末期患者さんを支える人々　傾聴ボランティア'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SlR6d8DEmPI/AAAAAAAAAC8/OfqlELAm21E/s72-c/%E9%98%AA%E7%A5%9E.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-6594693396490959572</id><published>2009-07-06T22:44:00.007+09:00</published><updated>2009-07-07T20:00:06.011+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='ＢＯＯＫガイド'/><title type='text'>BOOKガイド　「寺よ、変われ」</title><content type='html'>　京都府城陽市の寺の住職です。このブログの主旨に賛同し、これから参加をさせていただきたいと思います。&lt;br /&gt;　最近、「寺よ、変われ」というタイトルの本が出版されました。著者の高橋卓志さんとは以前から面識があり、長野県の臨済宗・神宮寺の住職として、「お寺は地域に開かれたものであるべき」との信念のもとに、デイサービスやＮＰＯ活動などを行い、そのアイデアと熱意あふれた行動力には学ぶことばかりです。&lt;br /&gt;　この本は、「形骸化した葬儀と法事を続けるだけなのか？」、帯に書かれた言葉の通り、葬式仏教と揶揄される現状の仏教寺院、僧侶へ警鐘を鳴らす内容が展開されています。今までも仏教学者の方々が、伝統仏教、寺の現状を憂う内容ものはあまた出版されていますが、当事者である僧侶が書かれたものであるだけに、同じ立場にあるものとして、より深く受け止めるところがありました。&lt;br /&gt;　かくいう私の僧侶としての活動の大半は法事と葬儀。仏教のいう四苦「生」「老」「病」「死」の「死」、それも死にゆく場面でなく、死後に関わること、さまり葬式仏教にどっぷりとつかっているのが現状です。&lt;br /&gt;　「寺と僧侶は、死者だけを相手にするのでなく、現に生きて『苦』をかかえている人の支えや助けにならねばならない」というのが高橋師の行動の原点です。本書の中に「寺院改革ベスト５」というアンケート結果を紹介していますが、①お寺は今日の生き方を教えてほしい、②寺院を地域に開放しよう、③僧侶の所行（おこない）を正せ、④檀家制度は改革すべき、⑤葬儀・仏事のやり方に工夫を……。この結果、多くの僧侶は敏感に感じ取っているはずなのに、知らないふりをしていると感じるのは私だけでしょうか。かくいう私も、寺を改革するにはまだまだなのですが……。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　本書に語られる寺が変わる道筋は、幅広く読んでいただきたいものです。寺は本来そこに住まう住職（その家族）のものだけではなく、それを支える方々のものであるはずです。寺が変わるには、双方の協力なくしては難しいものでしょう。寺に、住職に対する期待を本書をヒントに菩提寺の住職に投げかけることで、寺が変わるきっかけとなるのかもしれません。（池野亮光）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SlIBaCaw8bI/AAAAAAAAACs/wUOhqHY3vxE/s1600-h/%E5%AF%BA%E3%82%88%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8C.jpg"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5355344453734298034" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 81px; CURSOR: hand; HEIGHT: 130px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SlIBaCaw8bI/AAAAAAAAACs/wUOhqHY3vxE/s320/%E5%AF%BA%E3%82%88%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8C.jpg" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-6594693396490959572?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/6594693396490959572/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/book.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6594693396490959572'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/6594693396490959572'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/book.html' title='BOOKガイド　「寺よ、変われ」'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SlIBaCaw8bI/AAAAAAAAACs/wUOhqHY3vxE/s72-c/%E5%AF%BA%E3%82%88%E5%A4%89%E3%82%8F%E3%82%8C.jpg' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-260046178128203686</id><published>2009-07-04T00:10:00.008+09:00</published><updated>2009-07-04T23:48:00.996+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='いまい内科クリニック院長・今井信行さんインタビュー'/><title type='text'>医療と介護のふたつの視点で地域を支える</title><content type='html'>在宅医療にかかわるようになってから、今井さんの気がかりは、がんなどの難病になると患者が自宅以外に出向いたり、面倒を見てくれる場所が他にまったくないという現実についてでした。&lt;br /&gt;　もっと地域ぐるみでひとりひとりと向き合える関係がつくれないだろうか。そこで平成20年10月、クリニックの近くに民家を購入し、「在宅療養支援ハウス　中州・有隣荘」と呼称して、デイサービスを開始されました。つい最近まで老夫婦がお使いになっていた二階建ての日本家屋です。施設とは違う、暮らしのぬくもり、生活の時間が自ずと伝わってきます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sk4gQF8hPMI/AAAAAAAAACc/-9o1wKM4KtU/s1600-h/untitled.bmp"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5354252467836107970" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 180px; CURSOR: hand; HEIGHT: 240px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sk4gQF8hPMI/AAAAAAAAACc/-9o1wKM4KtU/s320/untitled.bmp" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  「有隣」とは、論語の里仁篇の「徳不孤、必有隣」という言葉から転じて、デイサービスを始めるにあたり、“独居であっても年を重ねても、病気や障害を患っていても、あなたは孤独ではない。”というメッセージをこめて命名されたもの。日々に営みを綴ったブログも始まっています。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://yuurin-kunpfukai.blogspot.com/"&gt;http://yuurin-kunpfukai.blogspot.com/&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;  有隣荘は医療法人の経営ですので、医療的な配慮も充分可能であり、点滴、胃ろうなど医療処置の必要な方にも対応できます。患者さん本人にはデイサービスでの食事や入浴で寛いでいただきたいと思う一方で、看病を続ける家族の方にもレスパイトに利用して欲しいとのことです。そして、何よりも生きがいづくりをたいせつにしておられ、食事会をしたり、講演会を開催したり、また最近では花壇も作られ、トマトやズッキーニなどを植え、皆さんで成長を見守っているそうです。&lt;br /&gt;　今井さんは、住み慣れた町でいつまでも住み続けたいという願いを実現するために、これからも生まれ育った町で、医療と介護の両面の視点を持って来るべき高齢社会に備えたいと考えておられます。どんな街にでもある小さなクリニックかもしれませんが、ひとりの医療者の願いが、こんなふうに地域に広がっていくことに希望を感じました。&lt;br /&gt;  &lt;br /&gt;   セミナーの当日は、今井さんとご一緒に在宅ホスピスケアのこれからについて考えて行きたいと思います。（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-260046178128203686?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/260046178128203686/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_04.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/260046178128203686'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/260046178128203686'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post_04.html' title='医療と介護のふたつの視点で地域を支える'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://2.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sk4gQF8hPMI/AAAAAAAAACc/-9o1wKM4KtU/s72-c/untitled.bmp' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-9094071875703898955</id><published>2009-07-02T20:46:00.004+09:00</published><updated>2009-07-02T20:57:27.865+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='秋田光彦住職の問い'/><title type='text'>「枯淡の美学」は失われたか。　　　　　　　　　団塊世代の「老後」を考える。</title><content type='html'>&lt;span style="color:#000066;"&gt;&lt;strong&gt;■若い世代は 「負け組」 か&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;&lt;/span&gt;&lt;br /&gt;　いよいよ解散総選挙、日本の政局は混迷ぶりを極め、またまた日替わり人事の様相ですが、そのたびにいつも感心するのは、70歳を超えたであろう政治家のみなさんの飽くなきエネルギーです。権謀術数の渦巻く世界だからなのか国会中継で、腰が曲がった、しょぼくれた老人を見かけることはありません。&lt;br /&gt;　一方で日本の若者は分が悪い。ワーキンプアだ、格差世代だ、といつまでたっても社会のお荷物観は払拭できません。15歳から24歳の失業率は10％を超えて、非正規雇用の若者は500万人を下らないといわれています。年収200万円以下が１千万人もいると聞いて、改めて「新・貧困の時代」を迎えていることを感じました。&lt;br /&gt;　そもそも日本社会は、若い世代と高齢者の間に長く仕事のすみわけができていました。正規雇用は若者が担い、派遣や日勤は60歳以上が担うという暗黙の了解がありました。人口減少の時代に入り、この秩序が壊れ、 若者は仕事からあぶれ、大量の団塊高齢層が、「一生現役」を目指しています。乱暴な言い方をすれば、若い世代の安定が、社会の優先事項から見放されつつあるのです。&lt;br /&gt;　もちろん団塊世代には、これまでの戦後日本を支えてきた自負もあるでしょう。いまの若者（自分の息子たち）を見て、歯がゆく思うところも大きいでしょう。しかし、若い世代の幸福を支えることは次の社会全体の、また団塊世代のためでもあることを、日本の高齢層は忘れてはいけません。それは少子化時代における一種の「世代責任」でもあると思います。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;strong&gt;&lt;span style="color:#000066;"&gt;■理想の人生とは何か&lt;/span&gt;　&lt;br /&gt;&lt;/strong&gt;&lt;br /&gt;　古来、日本人には「枯淡の美学」というものがありました。だんだんと俗事から離れ、人格を極めていくような究極のライフスタイルです。 そこから、日本人特有の数々の「芸道」や、また「信心」も育まれたのではないでしょうか。いつまでも第一線にこだわらず、陽の当たる場所は若い世代に任せ、だんだんと自分のため、地域のために何ができるか、そういういい意味での「自分本位」に立ち返るべきだと思います。&lt;br /&gt;　もちろん、老後は悠々自適といかない現実は分かります。 隠遁生活を勧めているのでもありません。むしろ、ここらで人生を見直し、現役時代にはできなかった思索や探求、親睦や遊山などを目指していく生き方はどうでしょうか。夫婦や親子、友人や仲間といった、人間関係の原点に立ち返ることもたいせつでしょう。 そして、その延長線上に、本物の信仰との出会いがあるはずです。&lt;br /&gt;　應典院にしばしばＮＰＯ活動に励む高齢者たちが集まります。福祉や医療、あるいは生死の問題など自分たちの人生に直結した課題を、みなで語り合い、実践する人々です。そこには現役時代のような達成感はないかもしれませんが、会社や組織にはない、自己を起点としたつながりや思いの深まりが必ずあるはずです。&lt;br /&gt;　これからの日本人の生き方から、人生の理想や倫理がにじみ出るものであってほしい。それもまた、若い世代に贈る「世代責任」なのです。（秋田光彦）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-9094071875703898955?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/9094071875703898955/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9094071875703898955'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/9094071875703898955'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/07/blog-post.html' title='「枯淡の美学」は失われたか。　　　　　　　　　団塊世代の「老後」を考える。'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-5203395271076225153</id><published>2009-06-30T19:56:00.009+09:00</published><updated>2009-06-30T20:04:10.535+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='いまい内科クリニック院長・今井信行さんインタビュー'/><title type='text'>勤務医が家庭医になって見えてきたもの</title><content type='html'>今井さんは、開業当初より透析医療を充実させるために注力してきました。クリニックのスタッフが増えて体制が整ってくると、透析室の中で行う医療だけでなく、段々とそれぞれの患者さんの自宅での生活はどうなっているのだろうかということが気になって来られました。これは透析という医療が患者さんの生活に深く根ざしていることから、必然的に「生活の中での医療」という視点に関心が集中したとのことです。&lt;br /&gt;　また病院勤務の時代は患者さんを医療の面から捉えるのみだったという事でしたが、開業医として日々の患者さんの生活を間近に見ることで、次第に患者さんの生活全体を診る開業医の視点が育ってきたのかもしれないと仰っておられます。&lt;br /&gt;　 今井さんは志して在宅ホスピスケアを始めたわけではない、終末期ケアを断る医師もいるが、普段の診療の延長だからと断ることをしなかった為だと仰っておられます。&lt;br /&gt;　また開業医になって、患者さんや死に対する意識が随分と変わられたそうです。&lt;br /&gt;   今井さんはかつて病院の勤務医をしていましたが、病棟では末期患者の方がある日突然に姿を消すが、何事もなかったかのようにその翌日には別の人が同じベッドに横たわっている。死は通過していくだけで、立ち止まったり、ふりかえることがない。それが「病院の死」でした。&lt;br /&gt;   しかし開業医になって、患者さんの家々に往診するようになって見えてきたものは、当たり前の「暮らし」でした。勤務医時代は、患者さんをその人の暮らしの中で見つめることがなかったといいます。そして多くの患者さんを往診する内に、次第にケアする側の医師が、逆に患者さんにケアされているという「ケアの相互作用性」を感じてこられたそうです。重症の患者さんから、いろいろなことを教えて頂くことができると気付かれたそうです。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sknv3YkOMmI/AAAAAAAAACU/bxPWYGtt1EA/s1600-h/dr.gif"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5353073366872765026" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 195px; CURSOR: hand; HEIGHT: 180px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sknv3YkOMmI/AAAAAAAAACU/bxPWYGtt1EA/s320/dr.gif" border="0" /&gt;&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;   今井さんは、こう言います。&lt;br /&gt;　「私たち医者は医者の仕事しかできない。その意味では私も勤務医時代と同じで、やることもやれることも変わりありません。でも家庭医となることで患者さんの生き方や死と向きあう姿勢は間違いなく変わったと思います」（浦嶋偉晃）&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-5203395271076225153?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/5203395271076225153/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/blog-post_30.html#comment-form' title='0 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5203395271076225153'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/5203395271076225153'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/blog-post_30.html' title='勤務医が家庭医になって見えてきたもの'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://3.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sknv3YkOMmI/AAAAAAAAACU/bxPWYGtt1EA/s72-c/dr.gif' height='72' width='72'/><thr:total>0</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-4690321385135295467</id><published>2009-06-28T21:17:00.005+09:00</published><updated>2009-06-28T21:27:02.994+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='いまい内科クリニック院長・今井信行さんインタビュー'/><title type='text'>住み慣れた町でいつまでも</title><content type='html'>　エンディングセミナー「”みとりびと”は語る」（７月２５日）の話題提供者・いまい内科クリニック院長の今井信行さんにお会いする機会がありました。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　今井さんは平成12年に、生まれ育った宝塚市でいまい内科クリニックを開院されました。&lt;br /&gt;　昭和59年に医院を開業されていたお父様が腎臓病を患われていたこともあって、今井さんは高血圧・腎臓病を専門とされ、クリニックには透析施設を備えられました。透析は週3回も継続しなくてはならない治療なので、できるだけ家庭的な環境で医療を提供したいというのが開院時の願いでもありました。&lt;br /&gt;　今井さんはいまい内科クリニックで求めるものとして３つの項目を掲げておられます。&lt;br /&gt;　①住み慣れたこの町で、いつまでも安心して過ごしていけるように&lt;br /&gt;　②スタンダードな医療を心がけて、わかりやすい言葉で伝えたい。&lt;br /&gt;　③難病であっても、毎日の生活の中に「生きがい」を見出せるように援助したい&lt;br /&gt;　クリニックでは、待合室などはフローリングにされ、外光を取り入れて明るい雰囲気にされました。いろいろなアメニテイも考えられたそうですが、最終的には最も有効と思われるのは、自然に始まる患者さんどうしの会話だったそうです。自然な会話ができるためには患者さんが場の雰囲気に和んでおられてこそ可能になりますので、できるだけ安心を感じて寛いでいただけるような配慮を心がけておられます。&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;　その今井さんが、なぜ開業医として在宅ホスピスケアを始められるに至ったか、次回はその経緯をご紹介致したいと思います。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SkdgYmhFPEI/AAAAAAAAACM/aG6D1acSxjY/s1600-h/out.gif"&gt;&lt;img id="BLOGGER_PHOTO_ID_5352352657925553218" style="DISPLAY: block; MARGIN: 0px auto 10px; WIDTH: 300px; CURSOR: hand; HEIGHT: 171px; TEXT-ALIGN: center" alt="" src="http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SkdgYmhFPEI/AAAAAAAAACM/aG6D1acSxjY/s320/out.gif" border="0" /&gt;&lt;/a&gt; &lt;a href="http://www.kunpfukai.com/imai_naika/index.html"&gt;http://www.kunpfukai.com/imai_naika/index.html&lt;/a&gt;&lt;br /&gt;→いまい内科クリニック　ＨＰ&lt;div class="blogger-post-footer"&gt;&lt;img width='1' height='1' src='https://blogger.googleusercontent.com/tracker/214124274512972917-4690321385135295467?l=mitoribito.blogspot.com' alt='' /&gt;&lt;/div&gt;</content><link rel='replies' type='application/atom+xml' href='http://mitoribito.blogspot.com/feeds/4690321385135295467/comments/default' title='コメントの投稿'/><link rel='replies' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/blog-post_28.html#comment-form' title='1 件のコメント'/><link rel='edit' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4690321385135295467'/><link rel='self' type='application/atom+xml' href='http://www.blogger.com/feeds/214124274512972917/posts/default/4690321385135295467'/><link rel='alternate' type='text/html' href='http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/blog-post_28.html' title='住み慣れた町でいつまでも'/><author><name>urashima</name><uri>http://www.blogger.com/profile/10389757090536341212</uri><email>noreply@blogger.com</email><gd:image rel='http://schemas.google.com/g/2005#thumbnail' width='16' height='16' src='http://img2.blogblog.com/img/b16-rounded.gif'/></author><media:thumbnail xmlns:media='http://search.yahoo.com/mrss/' url='http://1.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/SkdgYmhFPEI/AAAAAAAAACM/aG6D1acSxjY/s72-c/out.gif' height='72' width='72'/><thr:total>1</thr:total></entry><entry><id>tag:blogger.com,1999:blog-214124274512972917.post-8233668642405021235</id><published>2009-06-22T15:48:00.007+09:00</published><updated>2009-06-22T16:08:29.790+09:00</updated><category scheme='http://www.blogger.com/atom/ns#' term='公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー'/><title type='text'>グリーフケアと地域コミュニティ</title><content type='html'>　公益社がひだまりの会の会員にアンケートを取った際、「死別後の心の支えになったもの」は「家族」が約70%と最も多く、2番目に「友人」が58%を占めました。驚いたのは、それに次いで「ひだまりの会」というのが48%という数字。私はこの結果を見て、「ひだまりの会」の意義の深さを顕著に物語っていると思いました。&lt;br /&gt;　もちろん、私もまだ深い活動内容について熟知しているわけではありません。なぜ見知らぬ者どうしに遺族会が、かくも心の支えとなるのか。その秘密を探るべく、7/18の廣江さんのご講演がよりいっそう楽しみになってきました。&lt;br /&gt;　公益社のさらに興味深い取組みは、おひとりさまの生活支援です。遺族の方が今度は「おひとりさま」になって、自分自身の明日への準備の必要が生まれます。そういう方にも、月例会で講演を行い、準備しておくことなど、グリーフケアとはまた異なる学びの場を設けられています。心の持ち方や活動が「ゼロからプラス」になられた方を廣江さんは「卒業生」と呼ばれていましたが、それらの方が自主運営するOB会サロンが設立され、今では会員50名を超えるといいます。それらの方々は遺族会を通して、これからを生きる意味を見出したといえるでしょう。&lt;br /&gt; 　「ひだまりの会」の将来像にはいろいろな可能性がうかがえます。家族や地域社会が遺族の悲嘆やその後の生活を支えにくくなっている現状では、その補完システムとして近親者以外のサポート体制にも必要が出てくることでしょう。&lt;br /&gt;  　廣江さんは、「ひだまりの会」のような遺族どうしによる相互扶助の関係が、やがて高齢化・孤立化する地域コミュニティ全体を支えるのでは、とおっしゃっていました。私は今回のインタビューで、葬儀社のイメージが１８０度変わりました。ホスピス・緩和ケア病棟でもグリーフケアは整備されつつありますが、医療は遺族のサポートまで手が回りません。むしろ、死を起点としての再生プロセスに取り組む公益社の活動に、地域におけるグリーフケアの新しい可能性を感じました。&lt;br /&gt;　ぜひ7/18にお越しいただき、ひだまりの会の現状だけでなく、今後の可能性についてもご一緒に考えていきたいものです。（浦嶋偉晃）&lt;br /&gt;&lt;br /&gt;&lt;a href="http://4.bp.blogspot.com/_FDfNmk_VkQc/Sj8qKWKFIUI/AAAAAAAAACE/eNfNtzs_iMI/s1600-h/hidamari_img03.jpg"&gt;&lt;img style="display:block; margin:0px auto 10px; text-align:center;cursor:pointer; cursor:hand;width: 216px; height: 162px;" 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