2009年11月21日土曜日

なぜ日本人は「慟哭」しないのか~悲しみを外に出さない美徳について。 

 韓国人の激情ぶりは有名だ。家族や身内が犠牲になった時の悲しみようは、まさに天を仰ぎ、地に伏して「慟哭」そのものである。情にもろいのは日本人も同じだが、感情に正直でその激高を抑えようともしない。
  産経新聞の海外特派員のレポートに「静かな日本人」という小さなコラムがあった。先日、釜山の射撃場で犠牲になった日本人旅行者の遺族たちのふるまいを評しての言葉だ。肉親を失った悲しみにもかかわらず、韓国人のように泣き叫ばず、実に静かな気配を残した日本人に感心しているという。
 「その背景として日本人の<人に迷惑をかけない>という教育や<悲しみを外に出さないことが美徳>とする価値観などを(韓国メディアは)指摘している。ある記者は『現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然とした姿と節約された言動はわれわれの記憶に残るだろう』と書いている」(産経新聞091121)
 私は少々複雑な気分に陥った。確かに日本人の美徳のひとつといえるかもしれないが、それは逆に「状況を受け入れやすい」日本人の気質とも通じる。政治でも経済でも、目の前の状況が大勢であればさしたる批判も葛藤もなく、黙って受け入れるのも日本人的感性なのかもしれない。今夏の臓器移植法改正の問題でも感じたが、生命倫理という実存の危機に直面しながら、われわれは何と流されやすいのか。
 葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が3割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。(蓮池潤三)

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