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2010年8月8日日曜日

自死遺族と仏教~自殺問題に取り組む僧侶たち~

 7月25日、大蓮寺にて【夏のエンディングセミナー2010】第3回「自死遺族と仏教~自殺問題に取組む僧侶たち~」で、自殺対策に取り組む僧侶の会 代表・浄土真宗本願寺派安楽寺 住職の藤澤克己さんの講演を聞いた。
 藤澤さんは2007年5月に「自殺対策に取り組む僧侶の会」を立ち上げ、自死に関する悩みを手紙で受け付ける「自死の問い・お坊さんとの往復書簡」や、自死遺族のための追悼法要「いのちの日 いのちの時間」などを開催している。
 冒頭に藤澤さんから自死(自殺)問題とは?という問いかけがあった。「自殺対策」って自死者が減れば良いのか?、自死(自殺)は身勝手な死か?、自死(自殺)することは悪いことか?、宗教者はこの問題に関わるべきか?これらについて、どのように考えるかを心に留めながら講演を聞いてほしいと言われた。
 「自死」と「自殺」という言葉では、出来るだけ「自死」という言葉を使いたい。「殺」の字は「悪いもの」というニュアンスを含んでいて、自死遺族の方の心に突き刺さり、苦しめる。
 自死念慮者と話をすると分かるが、死にたくて自死する人はいない。「死にたい」とは言うけれど、本当は生きていたい、でも生きていくことが出来ないほど辛い、逃げたい、だから死ぬしかないというに思っている。死ぬしか選べないほど苦しいのだと。
 一方で自死遺族の方は、寂しさ以外に自責の念や怒り、疑問などの怯えがある。どうして救えなかったのかなど自分を責めてしまう。また社会の偏見があって、安心して悲しめない、語りたいのに語れないという状況に追い込まれていく。自死遺族はただでさえ悲しみがあるのに周りから、どうして気づかなかったのかと責められるのである。そして悲しみ、苦しさにも様々なパターンがあり、関わる際に万能な言葉などない、それぞれの立場によって違うので、一人ひとりと丁寧に関わっていかしかない、と藤澤さんは言う。以下に印象に残った言葉を記録しておきたい。 自殺対策を進めていくのに政府はスローガンとして、自殺は追い込まれた末の死であり、自殺は防ぐことが出来る、自殺を考える人はサインを発している、と発言しているが、これらの言葉が余計に遺族を苦しませている。
 世間では自死した人に対して「死ぬ気になれば何でも出来たのに」「いのちを粗末にした」などと言う。でも亡くなった人の気持ちを100%分かる人なんていない。
 自死遺族は世間の色々な言葉に傷つき、様々な態度に嫌な思いをしている。遺族に対し「しっかりね」「がんばってね」と不適切な言葉発し、また安易な励ましや、あなたの気持ちは良く分かると言ったりして、余計に傷つけてしまっている。色々と悩んでいるときにどうしてもらいたいか。それには支え合う、お互いさまと声を掛け合う、何か困っていることはありませんか、何か力になれることはありませんか声を掛けてもらいたいと思っているのではないだろうか。
 自死遺族支援というのは、何かしてあげることではなくて、「見守り」と「伴走」であると言える。
 そのままの気持ちに寄り添い、ペースに合わせて一緒に進むのである。その時に留意することは、上から目線は禁物で、引っ張らず、追い立てずである。何故かと言えば、「人にはだれでも回復力」を持っているのである。全ての人に回復力があると信じて、「見守り」「伴走」する関わり方が自死遺族支援として大切なことと思う。
 「自死対策で目指すもの」として、自死者は決して特別な人ではない、ほっとけない気持ちで悼むことが大切である。自死念慮者、遺族に対してはお互いに認め合い、支え合うことが大切である。誰にとっても生き心地の良い社会にしなければならない。
 冒頭の問いにあったように、この問題は、ただ自死者数が減ればいいのではない。生き生きと暮らすようになり、その結果、自死する人の数が減ってほしい。そして遺族が認め合い安心して悲しめるような社会でなければならない。安心して生きることが出来る社会づくりを目指して行きたいと言われた。そして、困っているときこそ、遠慮なく人の世話になって良いのである、そして回復すれば今度は他の人を助ければ良い。お互いさま、支え合うということである。安心して悩むことが出来る社会にしたいと最後に強く言われた。

 藤澤さんのお話しは実践に基づいたとても説得力があるところが多かった。私も昔、深く悩み自死がよぎったことがあった。というより自死しか解決法がないのではないかと考えたことがある。自分さえいなくなれば、全て上手くいくのではないかとも思ったが、今思えば身勝手な考えである。しかしそんな時に冷静には考えられない。幸いにもその時の私には、支えてくれる人がいたのである。
 藤澤さんが言われたように、「お互いさま」と支え合う、安心して悩むことが出来る社会になれば良いなあと改めて強く思った。(浦嶋偉晃)

2010年7月30日金曜日

遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~

  7月18日、大蓮寺にて夏のエンディングセミナーとして「遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~」を聴いた。講師の㈱ジーエスアイ代表 橋爪謙一郎さんは、グリーフサポートに関して、深い知識とアメリカでの実務経験を持つ、日本における第一人者である。新著に『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』(小学館新書)がある。
 最初に「グリーフ」の定義について言われた。
 例えば、男であるから悲しみを我慢しなければいけないなど、自分が持っている先入観で自分の心の中の感情を押さえつけたり、周囲の人が持っている勝手な「暗黙のルール」や、あるいは地域の習慣や社会全体の「常識」「通念」に押さえられて、気持ちを外に出せなかったりする、つまり自分の心の中ではいろいろな感情、行動が浮かびあがってきているが、それを周りの人に受け入れてもらえないのが「グリーフ」の状況だと。
 その時に、周りの人間にできるのが、「グリーフサポート」ではないか。行ったり来たりする当事者の感情を、自分らしく表現できるように寄り添って支えてあげることがグリーフの中で必要な支援だという。
 遺族や死別体験者が必要としていることは一人ひとり違うが、日本人は自分の気持ちや考え、思いを共有することに慣れていない。人と違うことを怖れるので、余計に自分の中で感情や思いを押さえ込む人が多い。
 そこで、橋爪さんは、日本の葬儀を「再評価」を試みた。
 本来、日本の葬式とは、遠慮なく悲しみなどの感情表現できる数少ない場であった。故人を知る人が集まることも大切だ。家族の知らない故人の一面を教えてもらうことによって、遺族にとって気持ちを整理できる場になる。現状の葬儀はどうか。
 また今では法要も省略される傾向にある。いろいろな法要が連続して葬儀のプロセスを形成してきたが、現在の葬儀は「点」になっている。自分の気持ちを整理する場として、どうつきあえばいいかわからい。面倒くさいものとして、省略しようという心境もある。
 葬儀が少しずつ自分の気持ちを整理する場であると気づくと、考え方ももっと変わってくるのではないか。供養の仕組みをもっと考えるべきである。「点」でなくて「プロセス」として葬式や法要を捉えなおすことによって、辛い体験を乗り越えていく。改めて「過程」をどうやって作っていくのかを再考しなければならない。
 グリーフを支えるとは、相手に「寄り添うこと」である。遺族のあるがままをどのようにして受け止められるのか、また寄り添っている相手に自分が「味方」であると気づいてもらうことが重要である。側にいて、いつでも必要な時に手を差し伸べられるようにする。
 「グリーフにおける支援」とは心理的支援だから、ある意味、葬儀社が行う、葬式の打合せ自体がカウンセリングであるとも言える。遺族が大切にしていることをどれだけ聞けるか、どれだけ心の中のことを出してもらい、整理することができるか、それができれば、必ずよい葬式になる。今の葬式は、準備の時間が少なすぎるのでないか。そしてそこが葬式に対する不全感になっているのではないか。また、情報提供も重要だ。どこにいけば葬式関連の情報が手に入るのか、すぐに分かるシステム作りが今後の課題だ。
 橋爪さんが一番強調されたのは、「大切な人を喪った人が、自分が何をしてほしいか声を上げること」。残念ながら声が聞こえてこないと、誰も手を差し伸べられない。またその時に、周りの人も自分たちができることがあることを知ってほしい。一つでも変わるとその人は元気になれる。そういう簡単なところから始めてほしいと言われたのが、印象に残った。

 橋爪さんのお話しはとても共感するところが多かった。でもやはり私は「グリーフ」はとても難しいことと感じてしまう。ある意味、グリーフというのは癒せないものであるのではないかとすら思う。私自身、心理学の勉強をしていたが、今は心理学からのアプローチの限界を感じている。
 私にとっても、これからいろいろな角度でのグリーフが訪れると思う。私は簡単に乗り切れるほど強くない。でもどうやってグリーフと共存して生きていけるかを模索していきたい。その際に大事なポイントになるものを、今回のセミナーで学んだような気がする。(浦嶋偉晃)

2010年7月24日土曜日

遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~

7月10日、應典院にて寺子屋トーク「遺族と<墓友>たち~人生の最期にこだわる仲間たち~」で、エンディングセンター代表 井上治代さんの講演を聞いた。井上さんは、今や死と葬送をめぐる環境は“選択する時代”に入っており、核家族の晩年の姿は「夫婦だけ」、最晩年は「独居」となるからこそ、個と個がどうつながり、助け合うか、家族をも含めた他者との「ゆるやかな共同性」「結縁」Support Networkを模索し、実現していきたいと活動されている。
冒頭、大蓮寺の創設した「第1回自然賞」の授賞式があり、受賞団体として、桜葬などに取組む「エンディングセンター」が選ばれ、贈呈式が行われた。

最初に井上さんは家族が遺族になった時、①死の受容、②悲嘆の回復(グリーフワーク)③高齢者が「一人で生きる」ということ、ということが課題として掲げられるが、その中で一番大切なものは、核家族が進む中、③の高齢者が「一人でどう生きていくか」が大問題であり、またそれと対になって「一人でどう死んでいくか」が課題であると言われた。現在、子どものいない高齢者世帯が増加しており、葬式でも喪主も確保できない人が増えているが、1990年代からは跡継ぎを必要としないお墓もできてきた。しかし、それは決して子どものいない夫婦ばかりでなく、むしろ子ども(娘、息子)がいる家に多く、跡継ぎがいる家族が、跡継ぎを必要としないお墓を求めだした傾向が強い。つまり現在において、血縁による継承は制度疲労を来しているのである。

1990年代からのお墓の変化として、①跡継ぎ性からの脱「継承」、継承者を必要としない集合墓など、②散骨、樹木葬などの自然志向、③個人化が挙げられる。中でも③個人化、つまり個人が選ぶ死後のあり方が進み、家族機能の外部化、社会化という時代になった。他人に託す介護保険制度がその象徴である。そこでその死後の社会化(喪主、死者祭祀の家族外部化)をサポートするのが、エンディングセンターの役割だと思っていると言われた。
葬送の中の「家」システムが後退し、「集団から個人へ」と価値意識が転換していく中、エンディングセンターでは「桜葬」墓地を作った。ここではお墓というハードだけでなく、そこに集った人達や会員でお墓を守ったり、生前から交流したりするという「墓友」グループを作っている。
今は家族の永遠性を求めることはむずかしい。桜などの自然という永遠性に囲まれて、「墓友」みんなで眠るというイメージである。
今では家族用にも「桜葬」墓地を設けている。子どもたちが入るかどうか分からないが、将来一緒に入りたいと思ったときに入れるように、可能性を保持できるところが人気となっている。子どもに墓の管理を負わすことなく、しかし一緒に入りたければ入ることが出来る、このあたりに現代の核家族の特徴があらわれていると言える。

最近は「就活」ならぬ「終活」という「死」を自分でデザインする時代に入ってきた。元気なうちに終末、むしろ死んだ後のことを考える時代に来ている。生き方にこだわる人が死に方にもこだわっている。墓を核としたネットワークはすごい。実際には家族と親族は永遠ではない。「人生の最期」にこだわる仲間たち、つまり血縁だけでない新たなサポートネットワークの時代がやってきたのではないか。家族の行方を、今後も墓を焦点に考えていきたい。

人生の最期、お墓の問題については、私にとっても悩ましい課題だ。桜葬に関しては、私自身まだまだ考え方の部分に踏み切れないところがあるが、関心を示している人が多いことも確かである。現代では「死」はあくまでも個人のものとなり、共同体のものでなくなったのだろうか。その家族の移ろいを認めざるを得ないが、私自身、一抹の空しさは感じる。
今回は私自身が、親、子どもを視野に入れつつ、自分の最期、死んだ後について考えるよい機会になった。(浦嶋偉晃)