国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さんといえば、一般市民でも知る人が多いと思う。同書はその超専門家が夫人のがん闘病に文字通り悪戦苦闘する体験記であり、一年半にわたる闘病生活、自宅での看取り、夫人亡き後に押し寄せてきた激しい鬱状態から立ち直るまでの道のりを赤裸々に綴った本である。
垣添さんが定年を迎え、夫婦でのんびり過ごしていこうと思っていた矢先に、夫人にわずか六ミリの影が襲い、勤務していた病院に夫人が入院する。せめて年末年始だけは自宅で、と外泊を計画するが、ふたりきりの家族なので垣添さんが点滴や在宅酸素療法や排せつの介助を一手に引き受け、自宅へ帰る。自宅へ帰った途端に夫人が生き生きとする。だがよかったのは帰った日だけで、病状がどんどん進んで大晦日に自宅で永眠され、そしてその後の垣添さんがようやく立ち直りの兆しを見せるまでの3ヶ月間が詳細に書かれている。まさに独力のグリーフワークそのものである。
私はこの本を読んで、とても深い「愛」を感じた。なぜならば、本書での大切な点は夫妻のなりそめから発病して闘病、そして亡くなられた後に垣添さんが感じたご夫婦の交流にこそある。グリーフケアの参考書というより、夫人への熱い思いを込めた鎮魂の書である。
しかし何故、誰にも頼らず一人で看取ることができたのだろう。自宅に知らない人がいるのは落ち着かないと考えたからというが、専門家が在宅ケアに加わることに危惧を覚えた。ここは非常に重要なポイントだと思う。
また一方でいろいろな疑問も感じた。
自宅に知らない人がいるのはなんとなく落ち着かない、夫婦二人で静かに過ごしたいという夫人の願いを聞いたのだが、派遣看護師などの専門家に具体的にどういう不安を感じたのだろう。またどういう危惧を持っていたのか?
そのこと自体を否定しているのか、専門家の見識として問いたい。
巻末で、垣添さん自身、在宅看護というのは非常にハードルが高く、自分の場合は医療者だったので幸運であった、一般の人だと難しいと書いているが、しかし実際に支援体制を構築されて在宅看護をされている一般人も多くいる。在宅ホスピスケアが徐々に浸透していっているのも確かであり、そこに専心する訪問医や看護師の存在もある。それをどう考えるのだろう。
また夫人の死後のうつ状態ですが、睡眠薬は飲んでいると書いてあったが、どうしてカウンセリングなどの専門家と接しなかったのか、などいろいろと尋ねたい点はある。
しかし、国立がんセンター名誉総長という超専門家の医師がこれほど赤裸々に語った本には出会ったことがない。ぜひ今後も在宅の社会的な支援体制の構築をお願いしたい。
大切な人を亡くして苦しんでいる人に、読んでほしいと思う。(浦嶋偉晃)
2010年3月19日金曜日
2009年8月9日日曜日
日本人と『死の準備』~これからをより良く生きるために
本書は2部構成となっていて、第1部が山折氏、第2部には浄土宗総本山知恩院発行機関誌『知恩』と佛教大学四条センターの共同企画、よく生きるための『死の準備』講座から6人の講演を採録、という構成になっています。第1部では、宗教学者である著者が、人生80年時代の死生観を説いています。
人生50年時代、「生と死を同等の比重で考える人生観」が、急激な高齢化の中で、人生80年時代となり、「老いと病いの領域が肥大化して死のテーマを遠く押しやり覆いかくしてしまった」と山折氏は言います。
「死」というものの実感が遠ざかるほどに、「生」に対する感覚も薄れていくのは、いろいろな学者が提言していることですが、近年の親殺し子殺し、無差別殺人などの多発、また臓器移植問題を通じて様々な問題定義をする著者ですが、根底には「死生観」の欠如を語っているように思います。
葬送の現場に立ち会う立場の実感としても、枕経から始まる一連の儀式が、単なるセレモニー化となっており、「死」を見えにくく、感じにくくしているという感を持ちます。我々の立場からそれを遺族はもとより、参列する方々にとって、「死」と向き合う大切な経験とするにはどうしたらよいのか、僧侶として考えるべき大きなテーマをいただいたように思います。
第2部の6人の方々の講演の採録も、それぞれの立場から「いかに生き、いかの死ぬのか」を語られています。
豊かさとひきかえに失った大切なものは何なのか、本を読み終え、地域の中で語り合っていきたいと思いました。
(池野亮光)
人生50年時代、「生と死を同等の比重で考える人生観」が、急激な高齢化の中で、人生80年時代となり、「老いと病いの領域が肥大化して死のテーマを遠く押しやり覆いかくしてしまった」と山折氏は言います。
「死」というものの実感が遠ざかるほどに、「生」に対する感覚も薄れていくのは、いろいろな学者が提言していることですが、近年の親殺し子殺し、無差別殺人などの多発、また臓器移植問題を通じて様々な問題定義をする著者ですが、根底には「死生観」の欠如を語っているように思います。
葬送の現場に立ち会う立場の実感としても、枕経から始まる一連の儀式が、単なるセレモニー化となっており、「死」を見えにくく、感じにくくしているという感を持ちます。我々の立場からそれを遺族はもとより、参列する方々にとって、「死」と向き合う大切な経験とするにはどうしたらよいのか、僧侶として考えるべき大きなテーマをいただいたように思います。
第2部の6人の方々の講演の採録も、それぞれの立場から「いかに生き、いかの死ぬのか」を語られています。
豊かさとひきかえに失った大切なものは何なのか、本を読み終え、地域の中で語り合っていきたいと思いました。
(池野亮光)
2009年7月6日月曜日
BOOKガイド 「寺よ、変われ」
京都府城陽市の寺の住職です。このブログの主旨に賛同し、これから参加をさせていただきたいと思います。
最近、「寺よ、変われ」というタイトルの本が出版されました。著者の高橋卓志さんとは以前から面識があり、長野県の臨済宗・神宮寺の住職として、「お寺は地域に開かれたものであるべき」との信念のもとに、デイサービスやNPO活動などを行い、そのアイデアと熱意あふれた行動力には学ぶことばかりです。
この本は、「形骸化した葬儀と法事を続けるだけなのか?」、帯に書かれた言葉の通り、葬式仏教と揶揄される現状の仏教寺院、僧侶へ警鐘を鳴らす内容が展開されています。今までも仏教学者の方々が、伝統仏教、寺の現状を憂う内容ものはあまた出版されていますが、当事者である僧侶が書かれたものであるだけに、同じ立場にあるものとして、より深く受け止めるところがありました。
かくいう私の僧侶としての活動の大半は法事と葬儀。仏教のいう四苦「生」「老」「病」「死」の「死」、それも死にゆく場面でなく、死後に関わること、さまり葬式仏教にどっぷりとつかっているのが現状です。
「寺と僧侶は、死者だけを相手にするのでなく、現に生きて『苦』をかかえている人の支えや助けにならねばならない」というのが高橋師の行動の原点です。本書の中に「寺院改革ベスト5」というアンケート結果を紹介していますが、①お寺は今日の生き方を教えてほしい、②寺院を地域に開放しよう、③僧侶の所行(おこない)を正せ、④檀家制度は改革すべき、⑤葬儀・仏事のやり方に工夫を……。この結果、多くの僧侶は敏感に感じ取っているはずなのに、知らないふりをしていると感じるのは私だけでしょうか。かくいう私も、寺を改革するにはまだまだなのですが……。
本書に語られる寺が変わる道筋は、幅広く読んでいただきたいものです。寺は本来そこに住まう住職(その家族)のものだけではなく、それを支える方々のものであるはずです。寺が変わるには、双方の協力なくしては難しいものでしょう。寺に、住職に対する期待を本書をヒントに菩提寺の住職に投げかけることで、寺が変わるきっかけとなるのかもしれません。(池野亮光)
最近、「寺よ、変われ」というタイトルの本が出版されました。著者の高橋卓志さんとは以前から面識があり、長野県の臨済宗・神宮寺の住職として、「お寺は地域に開かれたものであるべき」との信念のもとに、デイサービスやNPO活動などを行い、そのアイデアと熱意あふれた行動力には学ぶことばかりです。
この本は、「形骸化した葬儀と法事を続けるだけなのか?」、帯に書かれた言葉の通り、葬式仏教と揶揄される現状の仏教寺院、僧侶へ警鐘を鳴らす内容が展開されています。今までも仏教学者の方々が、伝統仏教、寺の現状を憂う内容ものはあまた出版されていますが、当事者である僧侶が書かれたものであるだけに、同じ立場にあるものとして、より深く受け止めるところがありました。
かくいう私の僧侶としての活動の大半は法事と葬儀。仏教のいう四苦「生」「老」「病」「死」の「死」、それも死にゆく場面でなく、死後に関わること、さまり葬式仏教にどっぷりとつかっているのが現状です。
「寺と僧侶は、死者だけを相手にするのでなく、現に生きて『苦』をかかえている人の支えや助けにならねばならない」というのが高橋師の行動の原点です。本書の中に「寺院改革ベスト5」というアンケート結果を紹介していますが、①お寺は今日の生き方を教えてほしい、②寺院を地域に開放しよう、③僧侶の所行(おこない)を正せ、④檀家制度は改革すべき、⑤葬儀・仏事のやり方に工夫を……。この結果、多くの僧侶は敏感に感じ取っているはずなのに、知らないふりをしていると感じるのは私だけでしょうか。かくいう私も、寺を改革するにはまだまだなのですが……。
本書に語られる寺が変わる道筋は、幅広く読んでいただきたいものです。寺は本来そこに住まう住職(その家族)のものだけではなく、それを支える方々のものであるはずです。寺が変わるには、双方の協力なくしては難しいものでしょう。寺に、住職に対する期待を本書をヒントに菩提寺の住職に投げかけることで、寺が変わるきっかけとなるのかもしれません。(池野亮光)
2009年6月17日水曜日
BOOKガイド 「霊と金」
タイの開発僧の研究で著名な櫻井義秀さんの新潮新書の新刊。
かなりエグいタイトルですが、本旨は「スピリチュアル・ビジネの構造」の副題の通り。「霊感商法」といえばダークなイメージに覆われていたが、「スピリチュアルビジネス」といえば明るさや軽やかさに転化されるような。有名な「すぴこん」(スピリチュアルコンベンション)の紹介もくわしくあります。
本書のあとがきにもあるように「無宗教を自認し、確たる死生観もなく、宗教が社会の公的生活に浮上することをタブー視してきた日本において、カルトやスピリチュアリティ・ブームをどう認識し、対処してよいのか分からない人」にとっては、ある種のガイドブック的な役割もあるでしょう。いかにスピ・ビジネスの罠にかからないか、その具体的な対処法も興味深いものがあります。
スピ・ブームは、90年代の大不況以降、社会の不安定化が進行して、心身のストレスや不安を和らげるものを自前で調達しなくてはならない時代のあだ花として発生しました。一言いえば「自分癒し」。「自己責任」「自己決定」の波に追い込まれ、萎縮していく個の存在をあやふやな感性の中に棚上げするシステムともいえます。
同時代に生まれた應典院も、ひょっとして同じ「自分癒し」のブームの中に位置づけられるかもしれません。けれど、絶対的に違うのは、應典院が軸足とする「場」「身体」「関係」のリアリティが、スピ・ブームにはない(というか巧妙に避けられてる)という点。他者や世界と出会うために、特別な観念や技法の力を借りずとも、腹の据わった関係性に「個」を打ち立てる以外にないと思います。
なお、第3章「宗教と金の関係」はちょっと蛇足だったかも。宗教の経済観というマジメな観点からいえば、集英社新書の「宗教の経済思想」が適当ですので、こちらをおススメしておきます。
(秋田光彦)
かなりエグいタイトルですが、本旨は「スピリチュアル・ビジネの構造」の副題の通り。「霊感商法」といえばダークなイメージに覆われていたが、「スピリチュアルビジネス」といえば明るさや軽やかさに転化されるような。有名な「すぴこん」(スピリチュアルコンベンション)の紹介もくわしくあります。
本書のあとがきにもあるように「無宗教を自認し、確たる死生観もなく、宗教が社会の公的生活に浮上することをタブー視してきた日本において、カルトやスピリチュアリティ・ブームをどう認識し、対処してよいのか分からない人」にとっては、ある種のガイドブック的な役割もあるでしょう。いかにスピ・ビジネスの罠にかからないか、その具体的な対処法も興味深いものがあります。
スピ・ブームは、90年代の大不況以降、社会の不安定化が進行して、心身のストレスや不安を和らげるものを自前で調達しなくてはならない時代のあだ花として発生しました。一言いえば「自分癒し」。「自己責任」「自己決定」の波に追い込まれ、萎縮していく個の存在をあやふやな感性の中に棚上げするシステムともいえます。
同時代に生まれた應典院も、ひょっとして同じ「自分癒し」のブームの中に位置づけられるかもしれません。けれど、絶対的に違うのは、應典院が軸足とする「場」「身体」「関係」のリアリティが、スピ・ブームにはない(というか巧妙に避けられてる)という点。他者や世界と出会うために、特別な観念や技法の力を借りずとも、腹の据わった関係性に「個」を打ち立てる以外にないと思います。
なお、第3章「宗教と金の関係」はちょっと蛇足だったかも。宗教の経済観というマジメな観点からいえば、集英社新書の「宗教の経済思想」が適当ですので、こちらをおススメしておきます。
(秋田光彦)
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