去る5月27日(日)、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の第59回勉強会に参加した。
今回は奈良県で唯一のホスピスである国保中央病院「飛鳥」の緩和ケア長の四宮敏章先生が、『サイコオンコロジー(精神腫瘍学) 患者さんと家族のこころのケアについて』とテーマでご講演をされた。
以前から四宮先生に「サイコオンコロジー」という言葉についてお聞きしていたが、なかなか内容まで理解が進まず、今回お聞きできるのが楽しみだった。
簡単に言うと、「サイコオンコロジー」とは、心(サイコ)とがん(オンコ=腫瘍(しゅよう))との関係を解明し、がん患者さんの精神面のケアを目的とし、がん医療の領域では最新の分野とのこと。
実際にがん患者の苦悩の中で「痛み、副作用などの身体的苦痛」より多いパーセンテージを占めるのが、「落ち込み、不安、恐怖感などの精神的なこと」であり、50%以上の割合である。やはり「悪い知らせ」は、患者の将来への見通しを根底から否定的に変えてしまうものだ。
サイコオンコロジーはがんがこころに与える影響を分析し、こころのケアをすることにより、QOLの向上を図り、合わせて生存率の向上にも影響を与えるというものである。
現在、本年度中に成立を目指している、次期がん対策推進基本計画の骨子の中にも、緩和ケアは「がんと診断された時から」と掲げている。2007年度では、「治療の初期段階から」と書かれており、今回は初期というあいまいな表現をなくそうとしている。また緩和ケアの対象を、「家族や遺族」も含む、ともしている。ここが5年経過して、進歩した箇所かと思う。私もがんがこころに与える影響は計り知れないもので、また家族、遺族への悲嘆のケアも必須のものであると考えている。
四宮先生は3つの症例を上げられ、がんがこころに与える影響を説明してくださった。ある症例では、がん治療中の奥さんが、夫からのたびたびの不用意な言葉に傷つけられ、一度「主人を診察してほしい」と先生に要請されたという。闘病する奥さんもまた、ご主人に感情をぶつける。負の応酬となっていたのだろう。
四宮先生は夫と面談し、がん患者の家族への対応として以下の3点をアドバイスしたという。
①奥さんはあなたが怒るようなことを、ストレス発散のために、わざと無意識にしている
②でもそれは、病気を受け入れようとしている葛藤の一側面でもある、
③また、安心してストレスをぶつけられるのは、信頼できる人すなわち夫であるあなただけだ。
この3点を考えるようにすれば、奥さんから感情をぶつけられたときにあなたも自分の感情を抑えられ、もう少し受け入れることができるかもしれない。もしあなたも同じように感情が出てしまったら、奥さんの感情が収まるのを待って、「傷つけてごめんなさい」と言ってみてください、と言われたそうだ。そしてそのことを夫が実践することにより、徐々に解消されていったそうである。
やはりがん患者には適応障害、うつ病という精神症状が出る頻度がとても高い。しかし本人は自分がうつ病であることを否定する。「私がそんな病気にかかるはずがない」である。
がん患者、家族はもちろん、主治医、医療スタッフも、うつ症状を見逃したり、軽く考えがちである。つまりうつを過小評価してしまうのである。
がんと告知されて、様々な身体症状がでる、これを本人、家族はがんが悪化して全身に転移して症状が出ていると思ってしまいがちである。しかし実際には多くはうつ病が多く起因していることに気付いていない。うつの症状を緩和することによって、良くなることが多い。
ここは大きなポイントと思った。当然、告知されたら誰でもうつ状態になると思う。そして体の痛いところを、がんが原因と思ってしまうのは当たり前だと思う。
そこを医療者が患者のこころに目を向けて、サポートしてくださることは大変重要だと思う。普通の風邪でもこころの持ちようによって変わる。多くの医師がこころの症状に目を向けていただけたらと感じる。
四宮先生は最後に家族。遺族ケア外来のことにも触れられた。外来にて家族、遺族の精神的ケアも行われておられるそうだ。
これもとても大切だ。悲嘆ケアには、いろいろなアプローチがあるが、緩和ケア病棟で亡くなられた場合、それまでに医療者側と遺族側とは良い関係が築かれているケースが多く、とてもこういう外来の存在はありがたいことと思います。
私自身、がん患者のこころのケアに以前からとても深い興味があり、また四宮先生はもともと心療内科のご出身の専門家なので、とても分かりやすくご説明いただいた。こういうこころのケアを大切されている四宮先生が緩和ケア長をされているということは、私たちにとっては、とても心強いことだと思う。
「サイコオンコロジー」、ますます深く知りたい分野だと感じた。(浦嶋偉晃)
2012年5月30日水曜日
2011年7月10日日曜日
これからのグリーフケアのかたち
■葬儀社が主宰するグリーフケア
去る6月18日、葬儀社 公益社のグリーフサポート「ひだまりの会」月例会の見学に参加した。
公益社は、数多くのご遺族の悲しみに接してきた経験から、葬儀だけにとどまらず社会貢献活動の一環として、グリーフサポート「ひだまりの会」の活動を2003年12月から開始している。
私が例会に参加するのは2回目だが、以前の様子については、下記のブログをご参照いただきたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html
今回は21名のご遺族の方が来られていた。「ひだまりの会」には、ルールが二つある。1つは、「悲しみ比べをしない」。もう1つは、「(分かち合い)で起こったことは、口外しない」。この二つのルールによって、当事者にとって分かち合いの場が安全なものとなる。
何よりも「ひだまりの会」の強みは、スタッフ間の情報共有ができていることであると思う。故人の亡くなった状況、葬儀の状況、遺族を取り巻く状況やそれぞれの気持ちなどをデータベース化しているのだが、さらに驚くのはその情報が、スタッフの頭の中に完全に入っていることだ。
私は前回に続き、クロージングミーティングに参加させていただいたのだが、「分かち合い」の振り返りをし、一人一人の状態、そして今後のフォローをどうしていけば良いのかを話し合う。たとえば次月も月例会に誘ったほうがよいのか、数ヶ月空けたほうがよいのか、しばらくは定期的な電話のみにするのかなど、フォローのあり方について深く議論を交わす。スタッフ全員のコンセンサスのもと、方向性を共有するのである。この締めのミーティングのあり方が、本当に素晴らしいと思う。やりっぱなし、聞きっぱなしにしておかないのだ。
昨年の春に公益社という看板を外して、「ひだまりの会」の「卒業生」が集まってNPO法人「遺族支え愛ネット」を設立した。今や会員は135名という。現在、その中の70名ほど方が、緩和ケア病棟で傾聴ボランティアをされているそうだ。すごいことだと思う。一般的に、自分の辛い体験を思い出すので、病院などそういう場を避ける傾向にあると思っていた。まさにこの人たちは、よい意味で自分の体験を客観的に捉えられるまでなられたのである。それを支えてきたのが「ひだまりの会」のスタッフの方々だ。
葬儀社によるグリーフケアの活動に対しては、営利目的の営業活動としてとらえられるおそれがあると思う。「ひだまりの会」でも、遺族に初めて会の案内の電話をする際に、遺族から警戒されることがある。そのほか、営利企業である葬儀社は、地域の自治体、医療機関との連携が困難なので、会の発足まで、社内勉強会などを重ねることを通して、医療機関や市民団体が行うグリーフケアの現状を理解する努力をしたと聞く。
■同じグリーフの体験者どうし
かけがえのない人を亡くした死別体験者を支援する「グリーフケア」という用語は、少しずつ知られるようになったが、まだまだ定着したとは言えない。しかし葬儀への世間一般の関心の高まり、超高齢化社会、死亡率が急増する多死社会の進展とともに、グリーフケアの重要性は今後ますます高まると思う。
そういった中、すでにグリーフケアを実施している様々な『自助グループ』と呼ばれる市民団体との交流がますます盛んになり、地域の社会資源との連携にまで広がることを期待する。
こういう遺族会の存在は、たった一人で立ち向かうより、同じ体験者と一緒になって立ち向かい、そしてそれぞれが別の体験を聴くことで、自らケアされるという役目をはたしている。また、「自分の経験が、他の人の役に立つ」という事実が、自尊心を回復するのではないか。傷口を舐めあうのではなく、皆で話し合って立ち直るきっかけにするということであるのであろう。
家にこもっている状態から、こういう会に出かけることで、外出着に着替え、電車から車窓の風景を見ることが、すでにグリーフサポートが始まっているのではないかと思える。
私は「ひだまりの会」のあり方が好きだ。今後も関わりを深めて、いろいろな刺激を受けさせていただければと願っている。
私はこういう「分かち合い」を小単位からで良いので、お寺で開かれることを望んでいる。またお寺にはその可能性が大いにあると信じている。(浦嶋偉晃)
去る6月18日、葬儀社 公益社のグリーフサポート「ひだまりの会」月例会の見学に参加した。
公益社は、数多くのご遺族の悲しみに接してきた経験から、葬儀だけにとどまらず社会貢献活動の一環として、グリーフサポート「ひだまりの会」の活動を2003年12月から開始している。
私が例会に参加するのは2回目だが、以前の様子については、下記のブログをご参照いただきたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2009/10/blog-post_19.html
今回は21名のご遺族の方が来られていた。「ひだまりの会」には、ルールが二つある。1つは、「悲しみ比べをしない」。もう1つは、「(分かち合い)で起こったことは、口外しない」。この二つのルールによって、当事者にとって分かち合いの場が安全なものとなる。
何よりも「ひだまりの会」の強みは、スタッフ間の情報共有ができていることであると思う。故人の亡くなった状況、葬儀の状況、遺族を取り巻く状況やそれぞれの気持ちなどをデータベース化しているのだが、さらに驚くのはその情報が、スタッフの頭の中に完全に入っていることだ。
私は前回に続き、クロージングミーティングに参加させていただいたのだが、「分かち合い」の振り返りをし、一人一人の状態、そして今後のフォローをどうしていけば良いのかを話し合う。たとえば次月も月例会に誘ったほうがよいのか、数ヶ月空けたほうがよいのか、しばらくは定期的な電話のみにするのかなど、フォローのあり方について深く議論を交わす。スタッフ全員のコンセンサスのもと、方向性を共有するのである。この締めのミーティングのあり方が、本当に素晴らしいと思う。やりっぱなし、聞きっぱなしにしておかないのだ。
昨年の春に公益社という看板を外して、「ひだまりの会」の「卒業生」が集まってNPO法人「遺族支え愛ネット」を設立した。今や会員は135名という。現在、その中の70名ほど方が、緩和ケア病棟で傾聴ボランティアをされているそうだ。すごいことだと思う。一般的に、自分の辛い体験を思い出すので、病院などそういう場を避ける傾向にあると思っていた。まさにこの人たちは、よい意味で自分の体験を客観的に捉えられるまでなられたのである。それを支えてきたのが「ひだまりの会」のスタッフの方々だ。
葬儀社によるグリーフケアの活動に対しては、営利目的の営業活動としてとらえられるおそれがあると思う。「ひだまりの会」でも、遺族に初めて会の案内の電話をする際に、遺族から警戒されることがある。そのほか、営利企業である葬儀社は、地域の自治体、医療機関との連携が困難なので、会の発足まで、社内勉強会などを重ねることを通して、医療機関や市民団体が行うグリーフケアの現状を理解する努力をしたと聞く。
■同じグリーフの体験者どうし
かけがえのない人を亡くした死別体験者を支援する「グリーフケア」という用語は、少しずつ知られるようになったが、まだまだ定着したとは言えない。しかし葬儀への世間一般の関心の高まり、超高齢化社会、死亡率が急増する多死社会の進展とともに、グリーフケアの重要性は今後ますます高まると思う。
そういった中、すでにグリーフケアを実施している様々な『自助グループ』と呼ばれる市民団体との交流がますます盛んになり、地域の社会資源との連携にまで広がることを期待する。
こういう遺族会の存在は、たった一人で立ち向かうより、同じ体験者と一緒になって立ち向かい、そしてそれぞれが別の体験を聴くことで、自らケアされるという役目をはたしている。また、「自分の経験が、他の人の役に立つ」という事実が、自尊心を回復するのではないか。傷口を舐めあうのではなく、皆で話し合って立ち直るきっかけにするということであるのであろう。
家にこもっている状態から、こういう会に出かけることで、外出着に着替え、電車から車窓の風景を見ることが、すでにグリーフサポートが始まっているのではないかと思える。
私は「ひだまりの会」のあり方が好きだ。今後も関わりを深めて、いろいろな刺激を受けさせていただければと願っている。
私はこういう「分かち合い」を小単位からで良いので、お寺で開かれることを望んでいる。またお寺にはその可能性が大いにあると信じている。(浦嶋偉晃)
2011年6月13日月曜日
口から食べられなくなったらどうするのか。
去る5月29日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における人工栄養を考える」に参加した。
医療技術の発達は、これまで助からなかった多くの人々を救ってきたが、その一方で、終末期の状態にある人にまで、その技術を使うことに対しての疑問もあると思う。
今回、京都の医師・荒金英樹さん、神戸の言語聴覚士・前田達慶さん、そして東京大学の死生学応用倫理センター・会田薫子さんの話題提供があった。
口から食べられなくなった場合に胃ろうという処置が行われることが増えてきた。長期に渡り口から食べることが出来ない患者や、食べてもむせ込んで誤嚥などを起こす患者に対して使用され、腹壁と胃腔の間に造られた孔にチューブを通して、直接胃の中へ栄養を注入する方法である。
現在の胃ろう栄養の患者は、50万人程度と推計されており、高齢者が増え続ける2025年くらいには100万程度に増える可能性があると言われている。
そう言った中、今、世論は胃ろうに対して逆風であると思う。とくに昨年の2月に石飛幸三氏の著書「平穏死のすすめ」が評判になってからは、特に医療者側に顕著になってきた。今や胃ろうか平穏死かという二者択一的な傾向すらあるようにも思える。本当に胃ろうは一方的に悪なのか、それとも選択肢の一つとなり得るのかを今回を機に考えてみたいと思った。
シンポジウムでいろいろと話を聞いて、やはり使い方によって有効な場合と、害になる場合があるようである。
今足りないのは、インフォームド・コンセントであり、「なぜ必要なのか」、「手術内容と合併症」、「目的や治療のゴールについて」、また「メリット・デメリット」、「全ての選択肢」について医療者側にじっくりと説明をしてもらうことが大切だと思った。私の友人の親族でも、入院中に誤嚥性肺炎を起こし、急に提案をされたのだ。我々市民の駄目なところであるが、普段から勉強していない為に、何がなんだか分からないまま医療者側の言うとおりにしてしまい後悔することがある。改めて我々市民も変わらねばと考えさせられた。
今まで私は正直、胃ろうを造設すれば、それはイコール終末期であり、二度と外すことは出来なくて、後は死を待つのみだと思っていた。しかし造設することにより確実に栄養を補給することが可能になり、身体状態を良いレベルに持っていき、また口から食べられることになることも可能であるようだ。そして不要になれば、閉鎖することも出来るようである。つまりQOLの改善をするための一時的な栄養法と言える。
一方、認知症患者は難しい。また実際、対象者は認知症患者が多いことも確かだ。欧米の概念は、できるところまで食事介助し、それが出来なくなったときは、患者は最終段階に入ったことを理解すべきだ、というように言われていると聞く。でも正直、私にはそこまで割り切れない。色々な調査を見ると、自分のときは胃ろうなどによる延命策はいらないと言いながら、家族がそのような状態になったときには、胃ろうという延命策も選択肢に入ると答えている。日本人の死生観が固まっていないのだ。しかし欧米の死生観の直輸入が良いとも思っていない。
老衰の過程で徐々に食べられなくなってきた高齢者に、医療者は選択肢としてこの提案する場合、患者の尊厳という観点も考えて話すべきであると思う。しかし家族にしてみれば、生死の選択を迫られて戸惑ってしまい、本人の尊厳を尊重するよりも、身内として罪悪感を感じなくてすむ選択をしてしまいがちであるのではないか。つまり普段から家族の中で延命治療について話し合っておくことが最も重要と言える。我々市民がそういう話題を避けてしまう傾向があることや、医療者側が「本人の意向」よりも「家族の意向」を安易に優先させてきた、日本の根深い非倫理的医療慣習があるのではないか。患者側も、家族に遠慮せずに自分の死生観どおりに死にたい、と声を上げるべきであると思う。
「どのようになっても、その人らしさは失われない」、医療者をはじめ、患者を取り巻く様々な人たちの「良心」や「誠実さ」が問われているのではないか。
この問題は超高齢社会を控えて、今後ますます議論を深めていかなければならない。その中で我々市民が何が今出来るのかを引き続き考えたい。(浦嶋偉晃)
医療技術の発達は、これまで助からなかった多くの人々を救ってきたが、その一方で、終末期の状態にある人にまで、その技術を使うことに対しての疑問もあると思う。
今回、京都の医師・荒金英樹さん、神戸の言語聴覚士・前田達慶さん、そして東京大学の死生学応用倫理センター・会田薫子さんの話題提供があった。
口から食べられなくなった場合に胃ろうという処置が行われることが増えてきた。長期に渡り口から食べることが出来ない患者や、食べてもむせ込んで誤嚥などを起こす患者に対して使用され、腹壁と胃腔の間に造られた孔にチューブを通して、直接胃の中へ栄養を注入する方法である。
現在の胃ろう栄養の患者は、50万人程度と推計されており、高齢者が増え続ける2025年くらいには100万程度に増える可能性があると言われている。
そう言った中、今、世論は胃ろうに対して逆風であると思う。とくに昨年の2月に石飛幸三氏の著書「平穏死のすすめ」が評判になってからは、特に医療者側に顕著になってきた。今や胃ろうか平穏死かという二者択一的な傾向すらあるようにも思える。本当に胃ろうは一方的に悪なのか、それとも選択肢の一つとなり得るのかを今回を機に考えてみたいと思った。
シンポジウムでいろいろと話を聞いて、やはり使い方によって有効な場合と、害になる場合があるようである。
今足りないのは、インフォームド・コンセントであり、「なぜ必要なのか」、「手術内容と合併症」、「目的や治療のゴールについて」、また「メリット・デメリット」、「全ての選択肢」について医療者側にじっくりと説明をしてもらうことが大切だと思った。私の友人の親族でも、入院中に誤嚥性肺炎を起こし、急に提案をされたのだ。我々市民の駄目なところであるが、普段から勉強していない為に、何がなんだか分からないまま医療者側の言うとおりにしてしまい後悔することがある。改めて我々市民も変わらねばと考えさせられた。
今まで私は正直、胃ろうを造設すれば、それはイコール終末期であり、二度と外すことは出来なくて、後は死を待つのみだと思っていた。しかし造設することにより確実に栄養を補給することが可能になり、身体状態を良いレベルに持っていき、また口から食べられることになることも可能であるようだ。そして不要になれば、閉鎖することも出来るようである。つまりQOLの改善をするための一時的な栄養法と言える。
一方、認知症患者は難しい。また実際、対象者は認知症患者が多いことも確かだ。欧米の概念は、できるところまで食事介助し、それが出来なくなったときは、患者は最終段階に入ったことを理解すべきだ、というように言われていると聞く。でも正直、私にはそこまで割り切れない。色々な調査を見ると、自分のときは胃ろうなどによる延命策はいらないと言いながら、家族がそのような状態になったときには、胃ろうという延命策も選択肢に入ると答えている。日本人の死生観が固まっていないのだ。しかし欧米の死生観の直輸入が良いとも思っていない。
老衰の過程で徐々に食べられなくなってきた高齢者に、医療者は選択肢としてこの提案する場合、患者の尊厳という観点も考えて話すべきであると思う。しかし家族にしてみれば、生死の選択を迫られて戸惑ってしまい、本人の尊厳を尊重するよりも、身内として罪悪感を感じなくてすむ選択をしてしまいがちであるのではないか。つまり普段から家族の中で延命治療について話し合っておくことが最も重要と言える。我々市民がそういう話題を避けてしまう傾向があることや、医療者側が「本人の意向」よりも「家族の意向」を安易に優先させてきた、日本の根深い非倫理的医療慣習があるのではないか。患者側も、家族に遠慮せずに自分の死生観どおりに死にたい、と声を上げるべきであると思う。
「どのようになっても、その人らしさは失われない」、医療者をはじめ、患者を取り巻く様々な人たちの「良心」や「誠実さ」が問われているのではないか。
この問題は超高齢社会を控えて、今後ますます議論を深めていかなければならない。その中で我々市民が何が今出来るのかを引き続き考えたい。(浦嶋偉晃)
2011年5月22日日曜日
地域力と医療との関係
■患者さんは皆、先生
去る5月15日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。
開業医でもあり奈良県医師会副会長の竹村恵史さん、奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室の栗田麻美さんが登壇されて、「奈良県の在宅医療ネットワークを考える」という題で話題提供をされた。
竹村さんは祖父の代から地域に根付いた医療をしている。医療は地域医療であるべきであり、開業医は地域の一隅にいて、住民に沿って生きていければ良い。住民、患者さんは自分の大切な先生であり、親切に日々様々なことを教えてくださる、つまり医者は何も分かっていない、世間を知らないのだ。だからこそ医者は自分の分からないことがあれば、すぐに専門家に聴き、つなげるという感性を持つべきだと言われた。
奈良県医師会の課題として、全ての医師は、終末期ケアに対する基本的な知識を修得する必要があり、実際に在宅医療の研修をしているが、もっともっと各人が汗と恥をかいて努力しなければならないとも言われた。
奈良県の在宅死率は全国一である。その一方で私自身は何故一番なのか?という疑問をずっと持っている。確かに優れた在宅医が多いが、決して病診連携が確立されているとは思えない。まだ属人的な部分も多い。
私が自分なりに思うつくままに要因を並べると、県内に病院が少ない、会社員が帰宅する時間が全国で一番遅い、県外就職率が一番高く、女性の就職率が低い、特別養護老人ホームが実際には大阪府の人を多く受け入れている、訪問看護ステーションが頑張っている、などが挙げられるが、どれが正解かは分からない。
竹村さんは最後に、地域連携の枠組みが出来上がっていない。この構築がこれからの奈良県医師会の大きな課題であり、医療の目標(役割)は「『自分らしい生き方を実現する』を支援すること」である、と言われた。
私は「医師会副会長」という名を聞いて、どんなお堅い方が来られるのかと思っていたが、日頃から地域に根付いた医療をしておられる方であり、地域の人をとても大切にされておられる方で、安心した。
■地域力の再構築
栗田さんは奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室で退院調整をしている。これまで訪問看護師、ケアマネージャーを15年ほどされておられ、その時から、どうしてもっと早く自宅に帰ってこないのかと疑問に思っていたそうだ。
現在の同病院の平均在院日数は約16日であり、退院支援の役割は、退院支援が必要な患者さんをスクリーニングし、この人が退院した時に困らないか、自宅でどんなことが出来るか、またさせてもらえるかを調査、調整する事が大きな役目だ。退院に向けた自己決定支援とも言える。退院後の療養場所には自宅、ホスピス、施設などあるが、療養場所の移行を安全、安心して行えるように、つまり退院支援により「ケア」をつなぐことが大切である。
同病院は奈良県の中南和地区に位置する。栗田さんは、奈良県全体で今、地域力がそこなわれている。今回の東日本大震災をきっかけに再構築をしてほしいと言われた。その一方で奈良県南部(吉野郡など)では、まだまだ地域が生きている。地域の医療者は近辺の住民の健康状態を把握しており、また市町村の社会福祉協議会が中心となって強い連携を持っているところもまだまだあると言われた。
私は改めて地域連携の大切さ、難しさを感じた。奈良県は確かに個々に優れた医療者が多いが、あくまでも全県的なネットワークではなく個々の人間関係で繋がっている傾向が見られる。
しかしネットワークの構築を医療者だけに求めても駄目だろう。我々住民がもっと勉強して、医療者側に意見、要望を伝えなければならない。医療者側も少しずつ変わっていこうと努力をしている。だから住民ももっと変わらなければならないと思う。
また栗田さんが冒頭に、奈良県立医科大学附属病院では「かかりつけ医」の紹介でしか診察をしないと言われた。今は大きな病院ではほとんどそのようになってようだが、しかし実際「かかりつけ医」を持っている人は一握りであろう。大病院との連携という前にまずこの「かかりつけ医」を持つことが我々住民に抜け落ちている。「かかりつけ医」をどうやって探すか、何故「かかりつけ医」を持つ必要があるのかを誰がどう広めていくのかも大きな課題だと思う。
やはり住民や自治体が連携し,地域自ら地域医療の課題を解決していこうとする“地域力”の向上が不可欠であると思う。「住民が地域の医療を支えていく」という新たな視点から、何が自分自身に出来るかを考えなくてはならないと改めて思った。医療者による啓発活動は、医療技術的な解説に偏っていると思う。死の恐怖をどう乗り越えるのかとか、死にゆく大事に人とどう向き合うのかといった切実な問題について、しっかりと語りかける活動に乏しいと感じられる。このことについて医療者と我々がもっと議論を重ねていく場所、機会が欲しいと強く思う。(浦嶋偉晃)
去る5月15日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。
開業医でもあり奈良県医師会副会長の竹村恵史さん、奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室の栗田麻美さんが登壇されて、「奈良県の在宅医療ネットワークを考える」という題で話題提供をされた。
竹村さんは祖父の代から地域に根付いた医療をしている。医療は地域医療であるべきであり、開業医は地域の一隅にいて、住民に沿って生きていければ良い。住民、患者さんは自分の大切な先生であり、親切に日々様々なことを教えてくださる、つまり医者は何も分かっていない、世間を知らないのだ。だからこそ医者は自分の分からないことがあれば、すぐに専門家に聴き、つなげるという感性を持つべきだと言われた。
奈良県医師会の課題として、全ての医師は、終末期ケアに対する基本的な知識を修得する必要があり、実際に在宅医療の研修をしているが、もっともっと各人が汗と恥をかいて努力しなければならないとも言われた。
奈良県の在宅死率は全国一である。その一方で私自身は何故一番なのか?という疑問をずっと持っている。確かに優れた在宅医が多いが、決して病診連携が確立されているとは思えない。まだ属人的な部分も多い。
私が自分なりに思うつくままに要因を並べると、県内に病院が少ない、会社員が帰宅する時間が全国で一番遅い、県外就職率が一番高く、女性の就職率が低い、特別養護老人ホームが実際には大阪府の人を多く受け入れている、訪問看護ステーションが頑張っている、などが挙げられるが、どれが正解かは分からない。
竹村さんは最後に、地域連携の枠組みが出来上がっていない。この構築がこれからの奈良県医師会の大きな課題であり、医療の目標(役割)は「『自分らしい生き方を実現する』を支援すること」である、と言われた。
私は「医師会副会長」という名を聞いて、どんなお堅い方が来られるのかと思っていたが、日頃から地域に根付いた医療をしておられる方であり、地域の人をとても大切にされておられる方で、安心した。
■地域力の再構築
栗田さんは奈良県立医科大学附属病院 地域医療連携室で退院調整をしている。これまで訪問看護師、ケアマネージャーを15年ほどされておられ、その時から、どうしてもっと早く自宅に帰ってこないのかと疑問に思っていたそうだ。
現在の同病院の平均在院日数は約16日であり、退院支援の役割は、退院支援が必要な患者さんをスクリーニングし、この人が退院した時に困らないか、自宅でどんなことが出来るか、またさせてもらえるかを調査、調整する事が大きな役目だ。退院に向けた自己決定支援とも言える。退院後の療養場所には自宅、ホスピス、施設などあるが、療養場所の移行を安全、安心して行えるように、つまり退院支援により「ケア」をつなぐことが大切である。
同病院は奈良県の中南和地区に位置する。栗田さんは、奈良県全体で今、地域力がそこなわれている。今回の東日本大震災をきっかけに再構築をしてほしいと言われた。その一方で奈良県南部(吉野郡など)では、まだまだ地域が生きている。地域の医療者は近辺の住民の健康状態を把握しており、また市町村の社会福祉協議会が中心となって強い連携を持っているところもまだまだあると言われた。
私は改めて地域連携の大切さ、難しさを感じた。奈良県は確かに個々に優れた医療者が多いが、あくまでも全県的なネットワークではなく個々の人間関係で繋がっている傾向が見られる。
しかしネットワークの構築を医療者だけに求めても駄目だろう。我々住民がもっと勉強して、医療者側に意見、要望を伝えなければならない。医療者側も少しずつ変わっていこうと努力をしている。だから住民ももっと変わらなければならないと思う。
また栗田さんが冒頭に、奈良県立医科大学附属病院では「かかりつけ医」の紹介でしか診察をしないと言われた。今は大きな病院ではほとんどそのようになってようだが、しかし実際「かかりつけ医」を持っている人は一握りであろう。大病院との連携という前にまずこの「かかりつけ医」を持つことが我々住民に抜け落ちている。「かかりつけ医」をどうやって探すか、何故「かかりつけ医」を持つ必要があるのかを誰がどう広めていくのかも大きな課題だと思う。
やはり住民や自治体が連携し,地域自ら地域医療の課題を解決していこうとする“地域力”の向上が不可欠であると思う。「住民が地域の医療を支えていく」という新たな視点から、何が自分自身に出来るかを考えなくてはならないと改めて思った。医療者による啓発活動は、医療技術的な解説に偏っていると思う。死の恐怖をどう乗り越えるのかとか、死にゆく大事に人とどう向き合うのかといった切実な問題について、しっかりと語りかける活動に乏しいと感じられる。このことについて医療者と我々がもっと議論を重ねていく場所、機会が欲しいと強く思う。(浦嶋偉晃)
2011年5月10日火曜日
人生の黄昏に至る旅~認知症を考える
■認知症とは何か
去る4月9日、兵庫県保険医協会の第29回在宅医療研究会に参加した。
西宮のつちやま内科クリニックの土山雅人さんがお出でになり、「認知症に基礎知識」という題で講演をされた。認知症のケースを多く扱っておられる。
認知症患者は現在200万人を超えると推定されており、10年後には300万人に達すると言われている。これは高齢者の多く見られる疾患で、65歳以上では7~8%、85歳以上では4人に1人が認知症であると考えられている。まさに現在において地域のかかりつけ医にとっては「common disease(一般的な病気)」であると言える。
認知症について、私が強く印象に残っているのが、アメリカのレーガン大統領がアルツハイマーにかかり、最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. (私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉である。大統領在任中の1987年にすでに兆候があったとされる。またアメリカの俳優のチャールトン・へストンがアルツハイマーであることを発表したときも、彼のファンであった私にとっては衝撃だった。しかしそれ以後も彼は映画に出て圧倒的な存在感で演じた。アルツハイマーの特徴として、新しいことは覚えることは出来ないと言われているが、病状の進行と症状の変化にはばらつきがあるのである。
じつは認知症の定義は難しい。一般に記憶の障害が中心になるが、記憶の障害のみでは認知症と言えない(軽度認知障害)。また認知症のなかでも初期では記憶障害が目立たない場合もある。認知症の診断には、高次脳機能検査なども重要であるが、それ以前に個々の症例における日常の生活場面での変調について情報を得て評価することが重要である。
認知症に似た症状には、正常老化による物忘れとの違い、うつ病との区別、薬剤性のせん妄などとの切り分けが重要にもなってくる。非常に判定の難しい症状とも言える。
認知症をきたす疾患として、①変性型認知症として、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症の3種類があり、他に②脳血管性認知症があり、アルツハイマー型が全体の50%を占める。(ここではそれぞれの特徴について深く述べない)
■認知症と地域コミュニティ
変性型認知症に3種類あると言ったが、根本的に問題なのはそれぞれ症状が違い、治療法も違うのに、これを見極められる医師が大変少ないということだ。
介護面から見ても、介護力不足の家庭をどう支えるか、介護施設で認知症者の対応は出来ているのか、そして福祉面から見れば、認知症について誰に相談すれば良いのか、地域における認知症家庭のセーフティネットはあるのか、患者会、ボランティア団体などのインフォーマルサービスは活用されているのか、などの問題点が山積している。さらに身寄りのない認認家庭、認知症以外の身体疾患の管理などもあげられる。
認知症患者さんの看取りの場所として、在宅、病院、施設などがあげられるが、終末像の多様性と様々な延命処置として、胃瘻の問題もあげられる。胃瘻をするかどうかの意思を認知症患者さん自身は示すことができない。ここに家族の意向と経過に伴う心境の変化もからむ。これはこれからもっと議論を重ねなければならない課題と思う。
土山先生が最後に、認知症には医学的アプローチより、ケア的アプローチが大事である。薬物療法はほんの少しだけで、身体管理をいかにきちんと行うかがポイントであると言われた。昔は認知症の人は地域コミュニティの連携があったので、医療の必要がなかったそうである。これは大きなポイントと思った。
個人的なことを言わせてもらえば、私の父親が脳梗塞を患っているので、脳血管性認知症の心配をずっとしている。というより心に大きく引っかかりながら、あえて認知症に触れるのを避けていた。それはやはり怖いという気持ちである。しかし土山先生のご講演をお聞きして、周りが早めに判断して、的確な診断、治療をしてもらえれば、進行を遅らせ、良い介護を行えると言うことが理解できた。またデイケアなどの施設の役割も大きく関わってくるので、ここにも注力を充てたい。
認知症の方が暮らしやすい社会は、一般の高齢者や子どもたちにとっても優しい社会であるはずである。そういう社会を取り戻すのが大切である。(浦嶋偉晃)
去る4月9日、兵庫県保険医協会の第29回在宅医療研究会に参加した。
西宮のつちやま内科クリニックの土山雅人さんがお出でになり、「認知症に基礎知識」という題で講演をされた。認知症のケースを多く扱っておられる。
認知症患者は現在200万人を超えると推定されており、10年後には300万人に達すると言われている。これは高齢者の多く見られる疾患で、65歳以上では7~8%、85歳以上では4人に1人が認知症であると考えられている。まさに現在において地域のかかりつけ医にとっては「common disease(一般的な病気)」であると言える。
認知症について、私が強く印象に残っているのが、アメリカのレーガン大統領がアルツハイマーにかかり、最後のメッセージとなった、『I now begin the journey that will lead me into the sunset of my life. (私は今、私の人生の黄昏に至る旅に出かけます)』という言葉である。大統領在任中の1987年にすでに兆候があったとされる。またアメリカの俳優のチャールトン・へストンがアルツハイマーであることを発表したときも、彼のファンであった私にとっては衝撃だった。しかしそれ以後も彼は映画に出て圧倒的な存在感で演じた。アルツハイマーの特徴として、新しいことは覚えることは出来ないと言われているが、病状の進行と症状の変化にはばらつきがあるのである。
じつは認知症の定義は難しい。一般に記憶の障害が中心になるが、記憶の障害のみでは認知症と言えない(軽度認知障害)。また認知症のなかでも初期では記憶障害が目立たない場合もある。認知症の診断には、高次脳機能検査なども重要であるが、それ以前に個々の症例における日常の生活場面での変調について情報を得て評価することが重要である。
認知症に似た症状には、正常老化による物忘れとの違い、うつ病との区別、薬剤性のせん妄などとの切り分けが重要にもなってくる。非常に判定の難しい症状とも言える。
認知症をきたす疾患として、①変性型認知症として、アルツハイマー型認知症、レビー小体型認知症、前頭側頭型認知症の3種類があり、他に②脳血管性認知症があり、アルツハイマー型が全体の50%を占める。(ここではそれぞれの特徴について深く述べない)
■認知症と地域コミュニティ
変性型認知症に3種類あると言ったが、根本的に問題なのはそれぞれ症状が違い、治療法も違うのに、これを見極められる医師が大変少ないということだ。
介護面から見ても、介護力不足の家庭をどう支えるか、介護施設で認知症者の対応は出来ているのか、そして福祉面から見れば、認知症について誰に相談すれば良いのか、地域における認知症家庭のセーフティネットはあるのか、患者会、ボランティア団体などのインフォーマルサービスは活用されているのか、などの問題点が山積している。さらに身寄りのない認認家庭、認知症以外の身体疾患の管理などもあげられる。
認知症患者さんの看取りの場所として、在宅、病院、施設などがあげられるが、終末像の多様性と様々な延命処置として、胃瘻の問題もあげられる。胃瘻をするかどうかの意思を認知症患者さん自身は示すことができない。ここに家族の意向と経過に伴う心境の変化もからむ。これはこれからもっと議論を重ねなければならない課題と思う。
土山先生が最後に、認知症には医学的アプローチより、ケア的アプローチが大事である。薬物療法はほんの少しだけで、身体管理をいかにきちんと行うかがポイントであると言われた。昔は認知症の人は地域コミュニティの連携があったので、医療の必要がなかったそうである。これは大きなポイントと思った。
個人的なことを言わせてもらえば、私の父親が脳梗塞を患っているので、脳血管性認知症の心配をずっとしている。というより心に大きく引っかかりながら、あえて認知症に触れるのを避けていた。それはやはり怖いという気持ちである。しかし土山先生のご講演をお聞きして、周りが早めに判断して、的確な診断、治療をしてもらえれば、進行を遅らせ、良い介護を行えると言うことが理解できた。またデイケアなどの施設の役割も大きく関わってくるので、ここにも注力を充てたい。
認知症の方が暮らしやすい社会は、一般の高齢者や子どもたちにとっても優しい社会であるはずである。そういう社会を取り戻すのが大切である。(浦嶋偉晃)
2011年5月4日水曜日
「すべては患者さんのために~長崎Dr.ネットの挑戦」
■ひとりに主治医を多数の医師が支える仕組み
去る3月19日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。長崎の出口外科医院の出口雅浩さんが登壇され、「長崎における地域医療連携ネットワークの構築~長崎Dr.ネットの挑戦」という題で話題提供をされた。地方都市で、24時間の在宅対応されている先行例として知られている。
「長崎在宅Dr.ネット」は、在宅訪問診療や往診を複数の医師が連携して行ない、複数の医師が連携して24時間対応を実現し、患者さんが安心して在宅療養を行えるようにすることを目的とし、平成15年3月に結成された。実際には、患者さんの居住地域にあわせて、主治医を決め、さらに、副主治医がバックアップとして控え、訪問診療の分担や万が一の際の緊急対応をおこなうシステムである。
主治医は、主となって訪問診療・治療に当たる、一方、副主治医は主治医を補佐して訪問診療の分担や、万が一の際の緊急対応を行う。必要に応じて複数の副主治医を各医師の専門性を考慮して決定する。現在長崎市内の診療所の医師69名が登録をしている。
考え方として、①在宅医療を希望する方が、医師に対応できないという理由で自宅に帰れないことが無いようにする(24時間365日の対応)、②自宅で療養できるだけでなく、入院中に受けたのと同様の医療を受けられることを目指す、③医療・介護・福祉等と連携し、最適な在宅医療を提供する、ことを基本としている。
そもそも8年前にDr.ネットを作ったのは、もともとは情報交換をしていた医師どうしお互い電話でアドバイスをしていたが、その内に、それじゃあ、あなたが代わりに行ってくださいよという感じになり、仲良しグループが形成されていって、Dr.ネットに繋がったようである。ここでも人間関係が基本だ。
実際の流れだが、入院中の場合、現在入院中だが、自宅へ帰りたい患者さんやその御家族はまず主治医の先生と相談し、自宅療養が可能と判断していただいた場合、まず従来からのかかりつけの開業医の先生と相談。しかし、残念ながら往診や在宅訪問診療を頼めない場合「長崎在宅Dr.ネット」への問い合わせとなる。入院中の病院の主治医、看護師、又は地域連携室の方に相談して「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡する。また自宅療養中の場合は、現在の主治医の先生(かかりつけ医)とよく相談し、それでも在宅診療への対応が困難な場合「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡するということになる。
主治医と副主治医の連携であるが、副主治医がサブで同行するわけではない。行けば医療費負担が2倍かかることになる。最初に一緒にご挨拶に行く程度で、家の間取りが分かるようにという感じである。あくまでも目的は、一人の主治医を多数の医師が支え、それによって頑張れる仕組み作りである。
実際のところ、主治医と副主治医の報酬の分配は、例えれば副主治医はビール1本程度とか。お互い様という感覚だろう。基本的には、副主治医の出番はないようにしているとのことである。
一方で欠点として、患者さんが主治医を選べない、正直そりが合わない場合も少なくないという。その場合は再度病院に相談して、仕切り直しをするそうである。
■地域の特性を活かした在宅医療の在り方を
じつは長崎は在宅死率は下位だが、奈良は全国一番を誇っている。奈良の制度もマッチしている。
私が一番疑問に思ったのは、主治医と副主治医の関係である。基本的には副主治医が訪問診療しない、報酬がないというのが長崎の原則であるが、やはり奈良のように副主治医ももっと入っていく必要があるのではないかと思う。奈良では副主治医もコンスタントに訪問診療するため、患者さんを把握している。長崎ではそれがないのが、患者さんの不安感を与えるのでないかと感じた。このことを、最後に質問できなかったのが残念である。
一方、長崎県が在宅死率が低い理由は、病院が多いからとのこと。原爆の関係で都市の規模に対し、非常に病院が多く、常時ベッドが空いているそうである。その分、レスパイトケアが出来やすい。また長崎は坂が多く、道がなく自動車で診療にいけない。また離島が多く、一旦自宅に帰ったら、病院に戻りにくいのでなかなか自宅に帰らないということがあるという。
今後の長崎Dr.ネットの課題は、新人在宅医をいかに育てるかだ。そして参加医師の人数が県内の地域でばらつきがあるので、もっとネットワークを強めていきたいと言われた。
奈良にも同様の事態があるが、在宅医の疲弊をいかに改善するかが、課題だ。長崎Dr.ネットの挑戦が在宅療養比率を向上させる取り組みであることは確かだと思った。日本全国でスタンダードな形というのは有り得ないと思うし、各地域の特性を考慮し、どうカスタマイズするかも課題である。
今後、在宅医療の推進には、末期者はその家族だけが考えていたのでは不充分だろう。学校や家庭、地域社会にあける日常において「死」を、避けるべきものではなく、「皆がいつかは向き合うこと」としてフランクに話し合うベースを築くことがますます大事になっていくと思う。そこで初めて地域社会の中で在宅医療が根付き、成長していくと思う。(浦嶋偉晃)
去る3月19日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。長崎の出口外科医院の出口雅浩さんが登壇され、「長崎における地域医療連携ネットワークの構築~長崎Dr.ネットの挑戦」という題で話題提供をされた。地方都市で、24時間の在宅対応されている先行例として知られている。
「長崎在宅Dr.ネット」は、在宅訪問診療や往診を複数の医師が連携して行ない、複数の医師が連携して24時間対応を実現し、患者さんが安心して在宅療養を行えるようにすることを目的とし、平成15年3月に結成された。実際には、患者さんの居住地域にあわせて、主治医を決め、さらに、副主治医がバックアップとして控え、訪問診療の分担や万が一の際の緊急対応をおこなうシステムである。
主治医は、主となって訪問診療・治療に当たる、一方、副主治医は主治医を補佐して訪問診療の分担や、万が一の際の緊急対応を行う。必要に応じて複数の副主治医を各医師の専門性を考慮して決定する。現在長崎市内の診療所の医師69名が登録をしている。
考え方として、①在宅医療を希望する方が、医師に対応できないという理由で自宅に帰れないことが無いようにする(24時間365日の対応)、②自宅で療養できるだけでなく、入院中に受けたのと同様の医療を受けられることを目指す、③医療・介護・福祉等と連携し、最適な在宅医療を提供する、ことを基本としている。
そもそも8年前にDr.ネットを作ったのは、もともとは情報交換をしていた医師どうしお互い電話でアドバイスをしていたが、その内に、それじゃあ、あなたが代わりに行ってくださいよという感じになり、仲良しグループが形成されていって、Dr.ネットに繋がったようである。ここでも人間関係が基本だ。
実際の流れだが、入院中の場合、現在入院中だが、自宅へ帰りたい患者さんやその御家族はまず主治医の先生と相談し、自宅療養が可能と判断していただいた場合、まず従来からのかかりつけの開業医の先生と相談。しかし、残念ながら往診や在宅訪問診療を頼めない場合「長崎在宅Dr.ネット」への問い合わせとなる。入院中の病院の主治医、看護師、又は地域連携室の方に相談して「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡する。また自宅療養中の場合は、現在の主治医の先生(かかりつけ医)とよく相談し、それでも在宅診療への対応が困難な場合「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡するということになる。
主治医と副主治医の連携であるが、副主治医がサブで同行するわけではない。行けば医療費負担が2倍かかることになる。最初に一緒にご挨拶に行く程度で、家の間取りが分かるようにという感じである。あくまでも目的は、一人の主治医を多数の医師が支え、それによって頑張れる仕組み作りである。
実際のところ、主治医と副主治医の報酬の分配は、例えれば副主治医はビール1本程度とか。お互い様という感覚だろう。基本的には、副主治医の出番はないようにしているとのことである。
一方で欠点として、患者さんが主治医を選べない、正直そりが合わない場合も少なくないという。その場合は再度病院に相談して、仕切り直しをするそうである。
■地域の特性を活かした在宅医療の在り方を
じつは長崎は在宅死率は下位だが、奈良は全国一番を誇っている。奈良の制度もマッチしている。
私が一番疑問に思ったのは、主治医と副主治医の関係である。基本的には副主治医が訪問診療しない、報酬がないというのが長崎の原則であるが、やはり奈良のように副主治医ももっと入っていく必要があるのではないかと思う。奈良では副主治医もコンスタントに訪問診療するため、患者さんを把握している。長崎ではそれがないのが、患者さんの不安感を与えるのでないかと感じた。このことを、最後に質問できなかったのが残念である。
一方、長崎県が在宅死率が低い理由は、病院が多いからとのこと。原爆の関係で都市の規模に対し、非常に病院が多く、常時ベッドが空いているそうである。その分、レスパイトケアが出来やすい。また長崎は坂が多く、道がなく自動車で診療にいけない。また離島が多く、一旦自宅に帰ったら、病院に戻りにくいのでなかなか自宅に帰らないということがあるという。
今後の長崎Dr.ネットの課題は、新人在宅医をいかに育てるかだ。そして参加医師の人数が県内の地域でばらつきがあるので、もっとネットワークを強めていきたいと言われた。
奈良にも同様の事態があるが、在宅医の疲弊をいかに改善するかが、課題だ。長崎Dr.ネットの挑戦が在宅療養比率を向上させる取り組みであることは確かだと思った。日本全国でスタンダードな形というのは有り得ないと思うし、各地域の特性を考慮し、どうカスタマイズするかも課題である。
今後、在宅医療の推進には、末期者はその家族だけが考えていたのでは不充分だろう。学校や家庭、地域社会にあける日常において「死」を、避けるべきものではなく、「皆がいつかは向き合うこと」としてフランクに話し合うベースを築くことがますます大事になっていくと思う。そこで初めて地域社会の中で在宅医療が根付き、成長していくと思う。(浦嶋偉晃)
2011年2月15日火曜日
がん患者さんにかかわるということ
■医師と患者の壁
去る1月22日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。奈良県立医科大学附属病院 医療サービス課相談係の川本たか子さんがお出でになり、「がん患者さんにかかわって」という題で話題提供をされた。
川本さんは27年間の看護師経験を経て、奈良県立医科大学附属病院で相談業務に就かれて、今年で3年になられる。
現在、奈良県内に6箇所のがん診療連携拠点病院があるが、その役割の一つとして、「がん患者・家族に対する相談支援・情報提供」があり、それぞれの病院にがん相談支援センターが設立されている。
センターの役割として、がんに関するいろいろな悩みや疑問、そして医療費のこと、セカンドオピニオンなど様々なことがあるが、私が気になったのは、「病状や治療方法についてよくわからない」という項目だった。川本さんが言われたのは、患者側に、こんなこと医師に聞くと失礼になるのでは、という遠慮がまだまだ根強く残っているという。この点が気になりながらも、続けてお話を聞いていた。
看護師、社会福祉士を始め様々な方々が相談員をしておられるが、国立がんセンターの相談員研修を受講された方が相談員の資格を持ち、相談は無料で、その病院で治療を受けていない患者・家族の方でも相談ができるそうである。相談の場はやはり、直接来られる対面面談が多数を占めるが、川本さんの悩みは、現在入院中の方、外来に来られている方で相談者があまりいないこと。もっと増えてほしいと言われていた。
相談内容としては一番多いのが、「社会的・経済的な問題」で、医療費・生活費の悩みや介護保険の適用の可否の問い合わせであり、2番目として「診療治療に関すること」で、がんの検査・治療、医療者との関係、診断治療の理解・選択である。私が思うにはこれは医師との関係の中で解決している問題かと思ったが、やはり患者と医師の間に未だに「壁」が存在しているようだ。ここでさっきの気になる点が改めて出てきた。
今、世間では、「良い患者さん」になれ、とか言うが、そんなことはなかなか簡単に出来そうにない。患者は常に限りなく医療者に遠慮し、忙しいのにこんなことを聞いて良いのか、もう一度聞いたら申し訳ない、こんなこと聞いたら失礼じゃないだろうかという自己規制があり、聞きにくい。そのことが今回の川本さんのデータから改めて浮き彫りになった。
また、がん対策基本計画の中に、がん患者や家族等が心の悩み体験を語り合う場を提供する活動を促進する、というのがあり、各所に「がんサロン」が設立されている。現在、奈良県内でも4つの病院にあり、定期的に患者・家族の出会いの場、情報交換やお互いの気持ちを聴きあう場を提供している。やはり患者さんや家族の方が、体験した人でなければ分からない「辛さ」や「生活上の工夫」などを語り合う場となっている。またいつでも予約なしで、無料で、気が向いたときに参加できる仕組みになっている。
今後の相談支援センター・患者サロンの充実に向けた課題として、
①利用者が増加しない→相談支援センター(窓口)の案内不足
②相談体制の整備→相談支援の窓口が複数の業務を担当していて、数、質ともに不足している、
というのが掲げられる。
今後はいかに認知度を高めるための活動を続けていくのかが大きなポイントだろう。なかなか病院内での組織の無理解というのもある、組織の障壁はどこの世界でもあることなので、川本さんたちが、その中で負けずに進めていっていただくためのフォローを私たち市民が出来ればと強く思った。
■がんサロンという場所の可能性
続いて、「がんサロンに参加して」というテーマで、がん患者の立場から野村佳子さんがお話しになられた。
野村さんは膵臓がんを患われたが、今はお元気で「がんサロン」などでピアサポーターとして精力的に活動をされている。
野村さんは、家族や知人に病気のことを相談するとかえって心配させてしまうが、「がんサロン」では、全てのさらけ出せるのが良い点であり、1ヶ月毎のサロンに参加することが次の目標になり、励みになったという。サロンの皆さんと、このひと月の間にどのようなことがあったかを報告しあうようになり、それが良い目標になったそうである。サロンの人の中で、「がん患者のイメージを変えたい」と、積極的にスポーツに参加する人を見て、「死」までの時間を大切にどう送るかを考えるようになった。また同世代の患者さんと家族、子ども、生活のことを気軽に話し合えるようになり、今までのように助けられるだけでなく、自分には他の人を助ける立場になれることが出来るということに気づかれ、それがとても励みになったという。
一方で、サロンをいかに広げるかを常に考えている。なかなか県相手には難しい面もあるが、現在では市町村の広報誌に案内を掲載してもらえるようにまでなった。もっともっと気軽に参加して欲しい、病院によって特色があって面白いと、力強く言われた。
今後サロンに望むのは、患者の思いを受け止める、温かな場所であってほしい、やはり外では泣けないのが本音である、そしてもっとも手軽な緩和ケアの場であると言われた。
野村さんが最後に言われたのは、自分は転移したときに失望したが、サロンの存在が心強かった。生きる希望をいかに持つかが大事である。他の頑張っている人を見て、自分も他の人を元気づけることができる立場になれるんだ、と繰り返し言われた。そして何よりも、今は自分の病気のことを人前で言えるようになれたと言われた。まだ、「がんサロン」に対して理解のない病院があることも確かだ。だが、野村さんのように情熱を持たれた方がいらっしゃるのは本当に心強いこと。それに他の人にまで気持ちが行くようになったというのはすごいことだと思った。
今日は川本さん、野村さんのお話をお聞きして、がん治療にとって3大治療以外にどれほど大切なものがあるのか気づかされた。私もがん相談支援センター、がんサロンについて、いろいろな方々にPRをしたいと思った。とても勇気の出る話をお聞きした。
最後に勉強会が終わって、帰り際に川本さんに2つの質問をした。1つは患者・家族と医療者の壁について。川本さんは「壁は大きく存在しています」と言われた。つぎに今後、グリーフケアの相談についてどのように対応しますか、と尋ねたが、やはりご遺族からの電話はあるそうで、今はただお聞きするしかないと。今後はきちんとグリーフケアの研修を受けることを考えていると言われたのが印象的だった。(浦嶋偉晃)
去る1月22日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。奈良県立医科大学附属病院 医療サービス課相談係の川本たか子さんがお出でになり、「がん患者さんにかかわって」という題で話題提供をされた。
川本さんは27年間の看護師経験を経て、奈良県立医科大学附属病院で相談業務に就かれて、今年で3年になられる。
現在、奈良県内に6箇所のがん診療連携拠点病院があるが、その役割の一つとして、「がん患者・家族に対する相談支援・情報提供」があり、それぞれの病院にがん相談支援センターが設立されている。
センターの役割として、がんに関するいろいろな悩みや疑問、そして医療費のこと、セカンドオピニオンなど様々なことがあるが、私が気になったのは、「病状や治療方法についてよくわからない」という項目だった。川本さんが言われたのは、患者側に、こんなこと医師に聞くと失礼になるのでは、という遠慮がまだまだ根強く残っているという。この点が気になりながらも、続けてお話を聞いていた。
看護師、社会福祉士を始め様々な方々が相談員をしておられるが、国立がんセンターの相談員研修を受講された方が相談員の資格を持ち、相談は無料で、その病院で治療を受けていない患者・家族の方でも相談ができるそうである。相談の場はやはり、直接来られる対面面談が多数を占めるが、川本さんの悩みは、現在入院中の方、外来に来られている方で相談者があまりいないこと。もっと増えてほしいと言われていた。
相談内容としては一番多いのが、「社会的・経済的な問題」で、医療費・生活費の悩みや介護保険の適用の可否の問い合わせであり、2番目として「診療治療に関すること」で、がんの検査・治療、医療者との関係、診断治療の理解・選択である。私が思うにはこれは医師との関係の中で解決している問題かと思ったが、やはり患者と医師の間に未だに「壁」が存在しているようだ。ここでさっきの気になる点が改めて出てきた。
今、世間では、「良い患者さん」になれ、とか言うが、そんなことはなかなか簡単に出来そうにない。患者は常に限りなく医療者に遠慮し、忙しいのにこんなことを聞いて良いのか、もう一度聞いたら申し訳ない、こんなこと聞いたら失礼じゃないだろうかという自己規制があり、聞きにくい。そのことが今回の川本さんのデータから改めて浮き彫りになった。
また、がん対策基本計画の中に、がん患者や家族等が心の悩み体験を語り合う場を提供する活動を促進する、というのがあり、各所に「がんサロン」が設立されている。現在、奈良県内でも4つの病院にあり、定期的に患者・家族の出会いの場、情報交換やお互いの気持ちを聴きあう場を提供している。やはり患者さんや家族の方が、体験した人でなければ分からない「辛さ」や「生活上の工夫」などを語り合う場となっている。またいつでも予約なしで、無料で、気が向いたときに参加できる仕組みになっている。
今後の相談支援センター・患者サロンの充実に向けた課題として、
①利用者が増加しない→相談支援センター(窓口)の案内不足
②相談体制の整備→相談支援の窓口が複数の業務を担当していて、数、質ともに不足している、
というのが掲げられる。
今後はいかに認知度を高めるための活動を続けていくのかが大きなポイントだろう。なかなか病院内での組織の無理解というのもある、組織の障壁はどこの世界でもあることなので、川本さんたちが、その中で負けずに進めていっていただくためのフォローを私たち市民が出来ればと強く思った。
■がんサロンという場所の可能性
続いて、「がんサロンに参加して」というテーマで、がん患者の立場から野村佳子さんがお話しになられた。
野村さんは膵臓がんを患われたが、今はお元気で「がんサロン」などでピアサポーターとして精力的に活動をされている。
野村さんは、家族や知人に病気のことを相談するとかえって心配させてしまうが、「がんサロン」では、全てのさらけ出せるのが良い点であり、1ヶ月毎のサロンに参加することが次の目標になり、励みになったという。サロンの皆さんと、このひと月の間にどのようなことがあったかを報告しあうようになり、それが良い目標になったそうである。サロンの人の中で、「がん患者のイメージを変えたい」と、積極的にスポーツに参加する人を見て、「死」までの時間を大切にどう送るかを考えるようになった。また同世代の患者さんと家族、子ども、生活のことを気軽に話し合えるようになり、今までのように助けられるだけでなく、自分には他の人を助ける立場になれることが出来るということに気づかれ、それがとても励みになったという。
一方で、サロンをいかに広げるかを常に考えている。なかなか県相手には難しい面もあるが、現在では市町村の広報誌に案内を掲載してもらえるようにまでなった。もっともっと気軽に参加して欲しい、病院によって特色があって面白いと、力強く言われた。
今後サロンに望むのは、患者の思いを受け止める、温かな場所であってほしい、やはり外では泣けないのが本音である、そしてもっとも手軽な緩和ケアの場であると言われた。
野村さんが最後に言われたのは、自分は転移したときに失望したが、サロンの存在が心強かった。生きる希望をいかに持つかが大事である。他の頑張っている人を見て、自分も他の人を元気づけることができる立場になれるんだ、と繰り返し言われた。そして何よりも、今は自分の病気のことを人前で言えるようになれたと言われた。まだ、「がんサロン」に対して理解のない病院があることも確かだ。だが、野村さんのように情熱を持たれた方がいらっしゃるのは本当に心強いこと。それに他の人にまで気持ちが行くようになったというのはすごいことだと思った。
今日は川本さん、野村さんのお話をお聞きして、がん治療にとって3大治療以外にどれほど大切なものがあるのか気づかされた。私もがん相談支援センター、がんサロンについて、いろいろな方々にPRをしたいと思った。とても勇気の出る話をお聞きした。
最後に勉強会が終わって、帰り際に川本さんに2つの質問をした。1つは患者・家族と医療者の壁について。川本さんは「壁は大きく存在しています」と言われた。つぎに今後、グリーフケアの相談についてどのように対応しますか、と尋ねたが、やはりご遺族からの電話はあるそうで、今はただお聞きするしかないと。今後はきちんとグリーフケアの研修を受けることを考えていると言われたのが印象的だった。(浦嶋偉晃)
2011年1月27日木曜日
シンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」を聴講して。
去る1月15日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」に参加した。
1976年を境に自宅死と病院死が逆転する中、自宅でのターミナルケアや慢性疾患の療養等への対応を支えるため新設された在宅療養支援診療所制度が2006年からスタートし、訪問看護ステーションのサービスも広がってきたが、他方で同じ2006年に創設された特別養護老人ホームにおける「看取り介護加算」が、2009年4月の介護報酬改定では、グループホームにまで認められるようになり、在宅での看取りが復活しつつあるとともに、施設での看取りが増える傾向にある。
会場には多くの方々が来られ、施設関係者、現在入居施設を探そうとしている人、またこれから施設を開設しようとしている人などが大勢を占めた。
今回、京都の2施設、神戸の1施設の方々が話題提供をされた。どこも定員は60名前後で、入居者の平均要介護度は4である。
最初に「施設看取りの実践と職員の想い」では、京都の特養の生活相談員が報告をされた。その特養では、年間20名弱の看取りがあるが、希望者は年々増えていて、実際には契約時に看護師が同席して、看取りの意向を確認するそうである。むろん、職員はそれまでに死の場面に遭遇する機会がなく、入居者の「死」を受け入れることは容易ではない。だが逆に安らかな、満足された「死」を見ているうちに、終末期を日常生活の延長としてとらえ、その人らしい看取りをしてあげたいと思うようになったという。
看取りに対する現在の課題として、夜間の不安があげられる。30名の入居者に対して夜勤者は1名だそうである。それと終末期の人が優先され、自ずとケアが手厚くなるが、逆に他の入居者へのケアが低下することが懸念される。そして何よりも職員のメンタルケアが必要である。入居者の「死」という悲痛な気持ちをいかにサポートしあうかが大切だと言われた。
しかし、この仕事を続けていけるのは、入居者の「ありがとう」という言葉と「おだやかな寝顔」というのは、救われた気がした。
「高齢者施設における看取りケアを支えるチームのマネジメント」で話題提供をされたのは、京都の高齢者福祉総合施設の施設長だった。お話の中で印象的だったのは、施設の中で、生活の中の「音」が大事である、という指摘だった。家具や備えの備品、キッチンや居間の設備に加えて、生活音にも配慮が必要である。また、生活の中の「匂い」も重要で、不快な匂いを出来るだけ軽減し、花の香り、珈琲の香りが漂うように配慮しているという。
最後に神戸市長田区の特養の方が、「もうひとつの家(高齢者施設)でもうひとつの家族に看取られて」と話題提供をされた。福祉の必要性が浮き彫りになったのは、阪神淡路大震災であり、震災後の生活の厳しい中、多くの善意が集まり、延べ1万人から2億4千万円の寄付があり、設立されたそうである。
3つの施設ともそうであったが、入居者は8割以上が地域の方である。この特養の理念として、①地域の人たちの参加で、お互いがお互いを支えあうこと、②高齢者の歩んできた人生、人との交わりを大切にし、心を持ち込めること、③福祉と医療の連携を強めながら、地域の人たちと共に福祉あふれる街、明るいまちづくりをすすめることなど、やはり地域コミュニティの力はなくてはならないと感じた。在宅での看取りの課題点と全く同じだと思った。
3人の方が言われた共通したことであるが少し総花的な言い方になるが、①高齢者施設に質の悪いところが少なくない、②最初は死の兆候が分からなかったが、段々と分かってきた、③いろいろな専門職(特に嘱託医)との連携が大事である。以上のようにまだまだ発展途上であるが、毎日悩みながらも進めて行っているとのことであった。
「施設での看取り」というのは、これからの大きな課題である。
実際は看取りまでをしていない施設はまだまだたくさんある。今後どうして施設を増やしていけばいいのか、という関心も大きいが、会場から多く質問があったのは、どのようにすれば良い施設に巡り合えるのかということであった。在宅ホスピスの医師がどこにいるかが認知されていないのと同様に、どこに施設があるのかが分からない。市町村によってマップやパンフレットを作成しているところもあるが、やはりまだ少ない。現状での解決方法はとにかく役所、地域包括センターに聞いて、片っ端から見学に行くことしかないようである。ポイントは、施設長から受ける印象だという。せっかく良い施設に入ったのに、施設長が代わって雰囲気がガラリと違ってしまうことも多々あるようである。
現在、在宅死の率が頭打ちの状態だ。これからは政府が発表する数字には施設も含まれていくと言われている。まだまだ施設が少ない。300人の待機者がいる施設もざらにある。
私自身は在宅死を望んでいるが、世帯の変化や家族の多様化によって今後は施設死という選択肢も入れざるを得ない状況にあるだろう。施設の数の増加、中身の充実について、もっともっと真剣に取り組まなければならない課題だと思った。(浦嶋偉晃)
<参考>
今回このシンポジウムを主催した「ケアの臨床哲学」研究会とは、神戸を中心に活動している「患者のウェル・リビングを考える会」と京都を中心に活動している「〈ケア〉を考える会」を繋ぎながら、大阪大学大学院(臨床哲学)の教員(代表:浜渦辰二)・院生・学部生および一般の方々の有志で運営されている集まりである。医療施設で行われるケアの問題と高齢者施設で行われるケアの問題、さらに家庭で行われる在宅ケアも含め、これらは決して別々のものではないと考え、両者が繋がるところでケアの持つ問題を臨床哲学的に動きながら考えたいと集まった研究会である。
1976年を境に自宅死と病院死が逆転する中、自宅でのターミナルケアや慢性疾患の療養等への対応を支えるため新設された在宅療養支援診療所制度が2006年からスタートし、訪問看護ステーションのサービスも広がってきたが、他方で同じ2006年に創設された特別養護老人ホームにおける「看取り介護加算」が、2009年4月の介護報酬改定では、グループホームにまで認められるようになり、在宅での看取りが復活しつつあるとともに、施設での看取りが増える傾向にある。
会場には多くの方々が来られ、施設関係者、現在入居施設を探そうとしている人、またこれから施設を開設しようとしている人などが大勢を占めた。
今回、京都の2施設、神戸の1施設の方々が話題提供をされた。どこも定員は60名前後で、入居者の平均要介護度は4である。
最初に「施設看取りの実践と職員の想い」では、京都の特養の生活相談員が報告をされた。その特養では、年間20名弱の看取りがあるが、希望者は年々増えていて、実際には契約時に看護師が同席して、看取りの意向を確認するそうである。むろん、職員はそれまでに死の場面に遭遇する機会がなく、入居者の「死」を受け入れることは容易ではない。だが逆に安らかな、満足された「死」を見ているうちに、終末期を日常生活の延長としてとらえ、その人らしい看取りをしてあげたいと思うようになったという。
看取りに対する現在の課題として、夜間の不安があげられる。30名の入居者に対して夜勤者は1名だそうである。それと終末期の人が優先され、自ずとケアが手厚くなるが、逆に他の入居者へのケアが低下することが懸念される。そして何よりも職員のメンタルケアが必要である。入居者の「死」という悲痛な気持ちをいかにサポートしあうかが大切だと言われた。
しかし、この仕事を続けていけるのは、入居者の「ありがとう」という言葉と「おだやかな寝顔」というのは、救われた気がした。
「高齢者施設における看取りケアを支えるチームのマネジメント」で話題提供をされたのは、京都の高齢者福祉総合施設の施設長だった。お話の中で印象的だったのは、施設の中で、生活の中の「音」が大事である、という指摘だった。家具や備えの備品、キッチンや居間の設備に加えて、生活音にも配慮が必要である。また、生活の中の「匂い」も重要で、不快な匂いを出来るだけ軽減し、花の香り、珈琲の香りが漂うように配慮しているという。
最後に神戸市長田区の特養の方が、「もうひとつの家(高齢者施設)でもうひとつの家族に看取られて」と話題提供をされた。福祉の必要性が浮き彫りになったのは、阪神淡路大震災であり、震災後の生活の厳しい中、多くの善意が集まり、延べ1万人から2億4千万円の寄付があり、設立されたそうである。
3つの施設ともそうであったが、入居者は8割以上が地域の方である。この特養の理念として、①地域の人たちの参加で、お互いがお互いを支えあうこと、②高齢者の歩んできた人生、人との交わりを大切にし、心を持ち込めること、③福祉と医療の連携を強めながら、地域の人たちと共に福祉あふれる街、明るいまちづくりをすすめることなど、やはり地域コミュニティの力はなくてはならないと感じた。在宅での看取りの課題点と全く同じだと思った。
3人の方が言われた共通したことであるが少し総花的な言い方になるが、①高齢者施設に質の悪いところが少なくない、②最初は死の兆候が分からなかったが、段々と分かってきた、③いろいろな専門職(特に嘱託医)との連携が大事である。以上のようにまだまだ発展途上であるが、毎日悩みながらも進めて行っているとのことであった。
「施設での看取り」というのは、これからの大きな課題である。
実際は看取りまでをしていない施設はまだまだたくさんある。今後どうして施設を増やしていけばいいのか、という関心も大きいが、会場から多く質問があったのは、どのようにすれば良い施設に巡り合えるのかということであった。在宅ホスピスの医師がどこにいるかが認知されていないのと同様に、どこに施設があるのかが分からない。市町村によってマップやパンフレットを作成しているところもあるが、やはりまだ少ない。現状での解決方法はとにかく役所、地域包括センターに聞いて、片っ端から見学に行くことしかないようである。ポイントは、施設長から受ける印象だという。せっかく良い施設に入ったのに、施設長が代わって雰囲気がガラリと違ってしまうことも多々あるようである。
現在、在宅死の率が頭打ちの状態だ。これからは政府が発表する数字には施設も含まれていくと言われている。まだまだ施設が少ない。300人の待機者がいる施設もざらにある。
私自身は在宅死を望んでいるが、世帯の変化や家族の多様化によって今後は施設死という選択肢も入れざるを得ない状況にあるだろう。施設の数の増加、中身の充実について、もっともっと真剣に取り組まなければならない課題だと思った。(浦嶋偉晃)
<参考>
今回このシンポジウムを主催した「ケアの臨床哲学」研究会とは、神戸を中心に活動している「患者のウェル・リビングを考える会」と京都を中心に活動している「〈ケア〉を考える会」を繋ぎながら、大阪大学大学院(臨床哲学)の教員(代表:浜渦辰二)・院生・学部生および一般の方々の有志で運営されている集まりである。医療施設で行われるケアの問題と高齢者施設で行われるケアの問題、さらに家庭で行われる在宅ケアも含め、これらは決して別々のものではないと考え、両者が繋がるところでケアの持つ問題を臨床哲学的に動きながら考えたいと集まった研究会である。
2010年12月23日木曜日
介護施設で看取りが浸透しないわけ
去る11月27日、尼崎にて「第19回阪神ホームホスピスを考える会」があり、「施設での看取り」というテーマで講演を聴いた。
最初に、特別養護老人ホーム けま嬉楽苑の土谷施設長が、「そのひとらしい暮らしを支えるターミナルケア」という話題提供をされた。
施設の入口には鍵はかけておらず、入居者は自由に出入りできる(もちろん認知症の方も)が、トラブルはないそうである。入居者には事前に普段の雑談の中で自分の「死に対する考え」について確認をし、死後の世界などもタブー視しない雰囲気作りをしている。施設で亡くなられた方に対しては、お別れ会をして、正面玄関からご遺体は出棺される。入居者全員でお見送りをするのだが、それを見て認知症の方も一緒に涙をこぼされるという。現在入居者55人で看取りは年間7名。平均要介護度3.9、そして何と待機者が700人もいらっしゃるそうである。
この施設のスタッフは、皆さんがホスピスマインドを持たれているように感じた。高齢者の虐待とか孤独とか、そんなニュースが絶えない中で、がんばっておられる特養の話を聞いて気持ちが明るくなった。

続いて特別講演として、拓海会の藤田拓司先生が「介護施設の終末期ケア」というテーマで講演をされた。
2025年には160万人の多死社会を迎えると言われており、現状より50万人増えることになる。そういった背景の中で、藤田さんが冒頭に「家での在宅医療が限界かなと思う」と言われたのは衝撃であった。病院でも死ねない。家でも死ねない時代がやってくるのかとゾッとした。
家族の介護力が小さくなり、自宅での療養継続も困難になり、介護施設へ入所を希望する人、余儀なくされる人が少なくない。本来医療の現場ではない介護施設における終末期ケアを考えなければならないと言われた。しかし、介護施設では容易には死ねない現実もある。介護施設のスタッフたちの、看取りに対する忌避感が強いからだ。「死が怖い」「死にかかわりたくない」という気持ちもわかる。若いスタッフに死生観など要求するほどが酷なのかもしれない。そのため、藤田さんは「看取り」の研修を繰り返し実施されているそうだ。
もちろん「死生観」は人から教えられるものではないし、マニュアルなどない。でもその気づきのためのヒントになる研修を繰り返し実施されているのは、すごいと思った。
最後に藤田さんが言われたのは、今後、多死社会を迎える日本では、介護施設での看取りを積極的に行う必要がある。医療現場ではない介護施設で看取りを行うことは、困難を伴うが可能ではないか。そのためには医師の積極的な関与が必要である。自宅での在宅医療に近づけるために、①訪問看護が利用しやすいように制度を整備、②介護職による「吸引」などの医療処置が行えるように環境を整備することが必要、そして最も強調されたのは、③介護職に「死」を受け入れる教育が必要であると言われた。
すでに多死社会といわれ久しい。在宅看取りに比べて、施設での看取りはかなり遅れていると言われてきたが、必死でがんばっておられる現状が分かった。
残念ながら、この日の講演会では「死生観」の話は出てきたが、「宗教」というキーワードが出てこなかった。だからこそ、むしろこれからの宗教の可能性を感じた。
私自身、今まで在宅医療について知識を積んできたが、今後は介護施設についても深く考えてみたいと感じた。ただ最後にまったく個人的な見解を言わせてもらうと、私がお付き合いさせていただいている在宅の医師たちは、在宅の側にいて在宅を考えているので、限界なんてないぞと思っておられるが、一方で圧倒的多数の医療者や福祉の方は病院や施設にいらっしゃるのが現状である。施設重点主義は根強い。だから、そういう人が多いのではないか。また在宅が増えない理由もそこにあるのではないか。(浦嶋偉晃)
最初に、特別養護老人ホーム けま嬉楽苑の土谷施設長が、「そのひとらしい暮らしを支えるターミナルケア」という話題提供をされた。
施設の入口には鍵はかけておらず、入居者は自由に出入りできる(もちろん認知症の方も)が、トラブルはないそうである。入居者には事前に普段の雑談の中で自分の「死に対する考え」について確認をし、死後の世界などもタブー視しない雰囲気作りをしている。施設で亡くなられた方に対しては、お別れ会をして、正面玄関からご遺体は出棺される。入居者全員でお見送りをするのだが、それを見て認知症の方も一緒に涙をこぼされるという。現在入居者55人で看取りは年間7名。平均要介護度3.9、そして何と待機者が700人もいらっしゃるそうである。
この施設のスタッフは、皆さんがホスピスマインドを持たれているように感じた。高齢者の虐待とか孤独とか、そんなニュースが絶えない中で、がんばっておられる特養の話を聞いて気持ちが明るくなった。

続いて特別講演として、拓海会の藤田拓司先生が「介護施設の終末期ケア」というテーマで講演をされた。
2025年には160万人の多死社会を迎えると言われており、現状より50万人増えることになる。そういった背景の中で、藤田さんが冒頭に「家での在宅医療が限界かなと思う」と言われたのは衝撃であった。病院でも死ねない。家でも死ねない時代がやってくるのかとゾッとした。
家族の介護力が小さくなり、自宅での療養継続も困難になり、介護施設へ入所を希望する人、余儀なくされる人が少なくない。本来医療の現場ではない介護施設における終末期ケアを考えなければならないと言われた。しかし、介護施設では容易には死ねない現実もある。介護施設のスタッフたちの、看取りに対する忌避感が強いからだ。「死が怖い」「死にかかわりたくない」という気持ちもわかる。若いスタッフに死生観など要求するほどが酷なのかもしれない。そのため、藤田さんは「看取り」の研修を繰り返し実施されているそうだ。
もちろん「死生観」は人から教えられるものではないし、マニュアルなどない。でもその気づきのためのヒントになる研修を繰り返し実施されているのは、すごいと思った。
最後に藤田さんが言われたのは、今後、多死社会を迎える日本では、介護施設での看取りを積極的に行う必要がある。医療現場ではない介護施設で看取りを行うことは、困難を伴うが可能ではないか。そのためには医師の積極的な関与が必要である。自宅での在宅医療に近づけるために、①訪問看護が利用しやすいように制度を整備、②介護職による「吸引」などの医療処置が行えるように環境を整備することが必要、そして最も強調されたのは、③介護職に「死」を受け入れる教育が必要であると言われた。
すでに多死社会といわれ久しい。在宅看取りに比べて、施設での看取りはかなり遅れていると言われてきたが、必死でがんばっておられる現状が分かった。
残念ながら、この日の講演会では「死生観」の話は出てきたが、「宗教」というキーワードが出てこなかった。だからこそ、むしろこれからの宗教の可能性を感じた。
私自身、今まで在宅医療について知識を積んできたが、今後は介護施設についても深く考えてみたいと感じた。ただ最後にまったく個人的な見解を言わせてもらうと、私がお付き合いさせていただいている在宅の医師たちは、在宅の側にいて在宅を考えているので、限界なんてないぞと思っておられるが、一方で圧倒的多数の医療者や福祉の方は病院や施設にいらっしゃるのが現状である。施設重点主義は根強い。だから、そういう人が多いのではないか。また在宅が増えない理由もそこにあるのではないか。(浦嶋偉晃)
2010年12月15日水曜日
死後をともに「生きる」仲間
(前回12月11日ブログから引き続きお読みください)
続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。
秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。
長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。
石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。
最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。
現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。
また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。
私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。(浦嶋偉晃)
続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。
秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。
長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。
石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。
最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。
現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。
また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。
私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。(浦嶋偉晃)

2010年12月11日土曜日
おせっかいと看取り~いのちと出会う会 100回記念講演「地域でつなぐ、いのちの絆」
去る11月23日、應典院で「いのちと出会う会 100回記念講演」として、「地域でつなぐ、いのちの絆」というテーマで、講演とシンポジウムがあり、参加した。
「いのちと出会う会」は代表世話人の石黒大圓さんが中心となり、2000年よりほぼ毎週木曜日に應典院で開催され、毎回話題提供者を迎え、いつか来る「人生の店じまい」を見据え、生きること、老いること、病すること、そして死についてじっくり語り合う「場」であり、このたび晴れて100回目の記念を迎えた。
冒頭の挨拶で石黒さんは、人は生老病死の苦難を乗り越えられたときに、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰さま」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びつくものであり、その結果、人間性もまた一回りも大きく成長していくと言われた。
まずオープニングは、口笛演奏家のもくまさあきさんの素晴らしい演奏で幕開け、記念講演として、長尾クリニックの長尾和宏院長の「在宅医療といのちの絆」という講演があった。長尾さんは尼崎で開業され、365日の診療、24時間の在宅医療をされている。
長尾さん自身、高校のとき父親を亡くされた経験をもっておられ、その時はとにかく力を失い、気力が喪失し、学校にも行けなくなり、一旦自動車工場に就職、しかし立ち仕事で腰を痛め、改めて大学進学の道を歩まれた。その後、大病院で救急医療に関わり、様々な死をみてこられたが、そうしている内に「終末期医療」について疑問を持ち始めた。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、スラム化した病院ではなく、もっと患者に寄り添いたいという思いから開業されたという。
在宅には、様々な人間模様がある。臨終の際には「死の壁」がある。とくに死の一日前にはもがき、大きな心の揺れがある。在宅で「死の壁」を乗り越える方法として、家族に「一日ほどの一瞬のことなので、ただただ患者さんに静かに寄り添ってほしい」と説明するという。これが現在の病院ではできない。
言葉の通じない外国人を看取ることもあり、最初は通訳ボランティアを通じて会話をしていたが、「死の壁」がやってきた時、言葉が通じなくても身振り手振りで会話を交わしながら、家族が必死で生と死を支えているのを目の当たりにすることもある、という。生死と家族は、ここでも一緒なのだ。
独居の看取りが、これからは当たり前のようになるだろう。独居でも、身体状態が悪くても、在宅で過ごすことは可能である。コミュニティは崩壊したと言われているが、近所の人がみているケースもある。これからの無縁社会を乗り越えていくのは「公的ヘルパー」であろう。
これからの介護のキーワードは「おせっかい」だ。職場で死にたいという人がいれば、そこで看取りたい。もっと在宅ホスピスの可能性を知ってほしい。実際に在宅で看取るには家庭、家族によってさまざまな事情があり、難しいケースがあるが、やはり好きな人たちに囲まれて生を終えるのが理想であり、長尾さん自身、これからも理想の実現に向かって進みたいと言われた。(浦嶋偉晃)
≪この項つづく≫
「いのちと出会う会」は代表世話人の石黒大圓さんが中心となり、2000年よりほぼ毎週木曜日に應典院で開催され、毎回話題提供者を迎え、いつか来る「人生の店じまい」を見据え、生きること、老いること、病すること、そして死についてじっくり語り合う「場」であり、このたび晴れて100回目の記念を迎えた。
冒頭の挨拶で石黒さんは、人は生老病死の苦難を乗り越えられたときに、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰さま」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びつくものであり、その結果、人間性もまた一回りも大きく成長していくと言われた。
まずオープニングは、口笛演奏家のもくまさあきさんの素晴らしい演奏で幕開け、記念講演として、長尾クリニックの長尾和宏院長の「在宅医療といのちの絆」という講演があった。長尾さんは尼崎で開業され、365日の診療、24時間の在宅医療をされている。
長尾さん自身、高校のとき父親を亡くされた経験をもっておられ、その時はとにかく力を失い、気力が喪失し、学校にも行けなくなり、一旦自動車工場に就職、しかし立ち仕事で腰を痛め、改めて大学進学の道を歩まれた。その後、大病院で救急医療に関わり、様々な死をみてこられたが、そうしている内に「終末期医療」について疑問を持ち始めた。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、スラム化した病院ではなく、もっと患者に寄り添いたいという思いから開業されたという。
在宅には、様々な人間模様がある。臨終の際には「死の壁」がある。とくに死の一日前にはもがき、大きな心の揺れがある。在宅で「死の壁」を乗り越える方法として、家族に「一日ほどの一瞬のことなので、ただただ患者さんに静かに寄り添ってほしい」と説明するという。これが現在の病院ではできない。
言葉の通じない外国人を看取ることもあり、最初は通訳ボランティアを通じて会話をしていたが、「死の壁」がやってきた時、言葉が通じなくても身振り手振りで会話を交わしながら、家族が必死で生と死を支えているのを目の当たりにすることもある、という。生死と家族は、ここでも一緒なのだ。
独居の看取りが、これからは当たり前のようになるだろう。独居でも、身体状態が悪くても、在宅で過ごすことは可能である。コミュニティは崩壊したと言われているが、近所の人がみているケースもある。これからの無縁社会を乗り越えていくのは「公的ヘルパー」であろう。
これからの介護のキーワードは「おせっかい」だ。職場で死にたいという人がいれば、そこで看取りたい。もっと在宅ホスピスの可能性を知ってほしい。実際に在宅で看取るには家庭、家族によってさまざまな事情があり、難しいケースがあるが、やはり好きな人たちに囲まれて生を終えるのが理想であり、長尾さん自身、これからも理想の実現に向かって進みたいと言われた。(浦嶋偉晃)
≪この項つづく≫

2010年11月28日日曜日
シンポジウム「生と死を、今考える」を聴講して
去る11月20日に相愛大学×府立急性期・総合医療センター連携シンポジウム「生と死を、今考える」に参加した。
最初に驚いたのは、病院の入口からシンポジウム会場に向かうまでに、案内文が各所に貼られていたが、公立病院内であるのに「死」という文字が躍っていたことだ。今、「生と死」ということについて真剣に考える時代になったのだと感じ、「死」を思うということが確実に我々にとって身近なことになってきているのだと思った。
冒頭、相愛大学の記念コンサートがあり、リラックスしたところでシンポジウムが始まった。最初の基調講演では「がん治療最前線と緩和ケア、ターミナルケアの諸問題」で府立急性期 田中診療局長の話があった。まさに日進月歩のがん治療の最前線について具体的に話して頂き、ロボット手術など今後の新しい治療法についての可能性についてお聞きし、将来に希望を感じた。また緩和ケアについてはチームとしてのアプローチが重要であり、今までのように終末 = 緩和ケアではなくて、早期の段階から緩和ケアの必要性を訴えられた。最後に医療現場の現在の問題点として、外科医になりたい人が少なくなっており、人手不足で困っている、医師でなくても出来ることの負担を取ってもらえれば、と講演を締めくくられた。
確かに医療の人材不足は大きな問題である。何でも専門家任せではなく、我々市民と医療側との相互理解が深まれば、またそのために今回のような市民講座を開催されたのであろうが、その必要性を感じた。
2つ目の基調講演では相愛大学の釈徹宗教授が「スピリチュアルケアの可能性」について講演をされた。スピリチュアルケアとは痛み(ペイン)を取り除く作業ではなく、その人の死生観にかかわるものであり、自分という存在そのものに関する問いへの寄り添いである。また「宗教的ケア」と「スピリチュアルケア」は違うものであり、「スピリチュアルケア」は伝統宗教にコミットしない人たちに必要なものであるが、本来は伝統的な価値を持つ宗教をもっと活用すべきであると思う、と強調された。釈さんは「慈悲の瞑想」という言葉を出され、人間は「死」を活用して生きることが出来る。宗教には「死のイメージトレーニング」という役割を持っている。「もし明日、死ぬとしたら」とリアルに死をイメージする、そうして普段の自分の価値観の枠組みが揺さぶられ再構築していく、つまり日常を点検していく作業が必要である。また「つながり」と「共振」という言葉を出され、「共振」について、同じ生と死の物語を共有する人同士でないと、宗教の救いは語れないし、共振現象が起こりにくい。生と死を超えるリアルな世界は共振現象でなければ成立しないと言われた。
釈さんは最後にこれからの可能性として、3つのトライアングルがあり、一つはエビデンスに基づいた医療(EMB)、その相対的な概念としての患者の主観的なナラティブに基づく医療(NBM)、そして地域(NPOなど)と連携、関連し合うことで生まれる医療、この3つのトライアングルが響きあって、新たな、本当の意味での医療の連携が生まれるのではないかと提起された。
やはり釈さんが最後に言われた地域コミュニティの連携なくして、再生は有り得ないと思う。それを取り戻すのは決してハードルは低くないが、コミュニティの構築が大切になると思った。スピリチュアルケアはマニュアルのない、一人一人が違ったペインを持っている。難しい領域だ。
シンポジウムの最後として、「がん医療とこころのケア」と題されたパネルディスカッションがあり、大蓮寺の秋田光彦住職、チャプレンの打本未来さん、府立急性期 吉田緩和ケアチーム長が加わって交わされた。 チャプレンの打本さんは、患者さんと2時間近くのお話しの中で、その人の人生を振り返る作業(ライフレビュー)をし、その人の歩んでこられた人生はどういうものだったのか、その人が人生の過程でぶち当たった問題に対してどうやって解決していったのかを聞き、それを話の中で参考にすると言われた。また関係性が崩れてしまった家族の場合に呼ばれることが多いという。
秋田住職は、緩和ケアとスピリチュアルケアは元来違うものであり、そして当事者を主体としたスピリチュアルワークを積み上げていくには、「地域」こそふさわしい。一人の人間として裸になって向き合わなければならない。地図で区切られた「地域」ではなくて、場所、立場は違っても、同じ問題意識や境遇で集まってくる「コミュニティ」の再編が大切である(例えばがんコミュニティ)。また、死に対する自覚がないまま、何でも病院にお任せする前に、まず自らの死生観を学ぶことから始めなくてはならない、「今」を考えて生きることが何よりも大切であると言われた。
秋田住職が言われた、「痛みは、悼みとも通じる。悼んでくれる誰かと出会う、悼み、悼まれる関係を整えることが必要」というのが身に沁みた。コミュニティの再構築が本当に重要だと思った。一年に一回でいいから、まず身近な家族から、こういった死生観を話し合うことから始めてみてはどうだろう。
最初にも書いたが、府立病院が「死」という課題に取り組み、シンポジウムを開催されたのは画期的な進歩だと思う。我々市民も一緒になって、もっと「生と死」、「死生観」について考える必要性を感じた。(浦嶋偉晃)
最初に驚いたのは、病院の入口からシンポジウム会場に向かうまでに、案内文が各所に貼られていたが、公立病院内であるのに「死」という文字が躍っていたことだ。今、「生と死」ということについて真剣に考える時代になったのだと感じ、「死」を思うということが確実に我々にとって身近なことになってきているのだと思った。
冒頭、相愛大学の記念コンサートがあり、リラックスしたところでシンポジウムが始まった。最初の基調講演では「がん治療最前線と緩和ケア、ターミナルケアの諸問題」で府立急性期 田中診療局長の話があった。まさに日進月歩のがん治療の最前線について具体的に話して頂き、ロボット手術など今後の新しい治療法についての可能性についてお聞きし、将来に希望を感じた。また緩和ケアについてはチームとしてのアプローチが重要であり、今までのように終末 = 緩和ケアではなくて、早期の段階から緩和ケアの必要性を訴えられた。最後に医療現場の現在の問題点として、外科医になりたい人が少なくなっており、人手不足で困っている、医師でなくても出来ることの負担を取ってもらえれば、と講演を締めくくられた。
確かに医療の人材不足は大きな問題である。何でも専門家任せではなく、我々市民と医療側との相互理解が深まれば、またそのために今回のような市民講座を開催されたのであろうが、その必要性を感じた。
2つ目の基調講演では相愛大学の釈徹宗教授が「スピリチュアルケアの可能性」について講演をされた。スピリチュアルケアとは痛み(ペイン)を取り除く作業ではなく、その人の死生観にかかわるものであり、自分という存在そのものに関する問いへの寄り添いである。また「宗教的ケア」と「スピリチュアルケア」は違うものであり、「スピリチュアルケア」は伝統宗教にコミットしない人たちに必要なものであるが、本来は伝統的な価値を持つ宗教をもっと活用すべきであると思う、と強調された。釈さんは「慈悲の瞑想」という言葉を出され、人間は「死」を活用して生きることが出来る。宗教には「死のイメージトレーニング」という役割を持っている。「もし明日、死ぬとしたら」とリアルに死をイメージする、そうして普段の自分の価値観の枠組みが揺さぶられ再構築していく、つまり日常を点検していく作業が必要である。また「つながり」と「共振」という言葉を出され、「共振」について、同じ生と死の物語を共有する人同士でないと、宗教の救いは語れないし、共振現象が起こりにくい。生と死を超えるリアルな世界は共振現象でなければ成立しないと言われた。
釈さんは最後にこれからの可能性として、3つのトライアングルがあり、一つはエビデンスに基づいた医療(EMB)、その相対的な概念としての患者の主観的なナラティブに基づく医療(NBM)、そして地域(NPOなど)と連携、関連し合うことで生まれる医療、この3つのトライアングルが響きあって、新たな、本当の意味での医療の連携が生まれるのではないかと提起された。
やはり釈さんが最後に言われた地域コミュニティの連携なくして、再生は有り得ないと思う。それを取り戻すのは決してハードルは低くないが、コミュニティの構築が大切になると思った。スピリチュアルケアはマニュアルのない、一人一人が違ったペインを持っている。難しい領域だ。
シンポジウムの最後として、「がん医療とこころのケア」と題されたパネルディスカッションがあり、大蓮寺の秋田光彦住職、チャプレンの打本未来さん、府立急性期 吉田緩和ケアチーム長が加わって交わされた。 チャプレンの打本さんは、患者さんと2時間近くのお話しの中で、その人の人生を振り返る作業(ライフレビュー)をし、その人の歩んでこられた人生はどういうものだったのか、その人が人生の過程でぶち当たった問題に対してどうやって解決していったのかを聞き、それを話の中で参考にすると言われた。また関係性が崩れてしまった家族の場合に呼ばれることが多いという。
秋田住職は、緩和ケアとスピリチュアルケアは元来違うものであり、そして当事者を主体としたスピリチュアルワークを積み上げていくには、「地域」こそふさわしい。一人の人間として裸になって向き合わなければならない。地図で区切られた「地域」ではなくて、場所、立場は違っても、同じ問題意識や境遇で集まってくる「コミュニティ」の再編が大切である(例えばがんコミュニティ)。また、死に対する自覚がないまま、何でも病院にお任せする前に、まず自らの死生観を学ぶことから始めなくてはならない、「今」を考えて生きることが何よりも大切であると言われた。
秋田住職が言われた、「痛みは、悼みとも通じる。悼んでくれる誰かと出会う、悼み、悼まれる関係を整えることが必要」というのが身に沁みた。コミュニティの再構築が本当に重要だと思った。一年に一回でいいから、まず身近な家族から、こういった死生観を話し合うことから始めてみてはどうだろう。
最初にも書いたが、府立病院が「死」という課題に取り組み、シンポジウムを開催されたのは画期的な進歩だと思う。我々市民も一緒になって、もっと「生と死」、「死生観」について考える必要性を感じた。(浦嶋偉晃)
2010年6月14日月曜日
いただきます、という花束。
宮崎県の口蹄疫の災禍が、一向に収まる気配がない。もちろん、拡大は食いとめなくてはならないが、そのために数万頭以上の家畜が殺処分されると知ると、慄然とする。すでに遺骸を埋める場所さえないと聞く。それ以上に、畜産農家の悲痛は察して余りある。手塩をかけて、子ども同然に育て上げた牛豚を、「感染防止」のため次々と殺処分される。あまりに痛ましい。農家の中には、遺骸に花を供えてくれ、と涙ながら係員に託する人もいるという。
忘れてはならないことがある。もとよりこの牛や豚は、われわれ人間の「食用」として肥育されてきた、という事実。そして、私たち人間は多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいかない。
消費優先の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかない。牛も豚もみないのちはあるが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。殺された牛豚の場面をテレビで眺めながら、何段重ねの巨大なバーガーを食らう我々がいる。
私の幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、「食前のことば」を唱える。
「われいまこの清き食をいただきます。
与えられた天地の恵みを感謝します。
いただきます」
食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉だが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、栄養だ調理だという前に、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないか。
仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊んできた。にもかかわらず、人間は他者のいのちの上に成り立つしかない。わが身を悲しむと同時に、それを転じてすべてのいのちへの感謝と慈しみが大切であると教えてきた。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっている。そのことを忘れてはならない。
「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのである。(蓮池潤三)
忘れてはならないことがある。もとよりこの牛や豚は、われわれ人間の「食用」として肥育されてきた、という事実。そして、私たち人間は多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいかない。
消費優先の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかない。牛も豚もみないのちはあるが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。殺された牛豚の場面をテレビで眺めながら、何段重ねの巨大なバーガーを食らう我々がいる。
私の幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、「食前のことば」を唱える。
「われいまこの清き食をいただきます。
与えられた天地の恵みを感謝します。
いただきます」
食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉だが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、栄養だ調理だという前に、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないか。
仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊んできた。にもかかわらず、人間は他者のいのちの上に成り立つしかない。わが身を悲しむと同時に、それを転じてすべてのいのちへの感謝と慈しみが大切であると教えてきた。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっている。そのことを忘れてはならない。
「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのである。(蓮池潤三)
2010年5月30日日曜日
『宗教的ケアとスピリチュアルケア』~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」を聴講して
去る5月24日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第2回ビハーラ実践研究会」に参加した。
この研究会は、3月より隔月で開催されており、今回が2回目である。
第1回目については、下記のブログを参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
今回はビハーラ21の理事であり、曹洞宗崇禅寺副住職 西岡秀爾さんが「ビハーラ活動再考-宗教的ケアとスピリチュアルケア-」で話題を提供された。
僧侶、ヘルパーさんや一般の方など前回以上の30名近く方が集まられ、西岡さんの講演の後も予定時間を越える白熱したディスカッションになった。
西岡さんからのお話で、ビハーラ活動は、「仏教を基盤とした」「仏教を機縁とした」゛いのち゛の尊さに気づき、支え合う精神に基づく活動と言えるが、それではビハーラ活動は宗教的ケアなのか?スピリチュアルケアなのか?という問いがあった。
宗教的ケアとはケアを提供する側とされる側で互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提であり、ケアを提供する側が主導権を持つという。つまり僧侶、牧師などがいなければケアは不成立であり、援助者も僧侶、牧師などに限られることになる。本来スピリチュアルケアはケアを提供する側(援助者)がケアを受ける側(相談者)の世界観に合わせ、主導権は相談者にあって、援助者は相談者の行きたいほうに寄り添うのであるが、それ故援助者はカウンセラー、医師、ボランティアなど多岐にわたる。
またケア援助者が提供するものとして、宗教的ケアは「答え」「気づき」を与えるが、スピリチュアルケアは答えを提供するのではなく「気づきの場」を与えるものだ。
さらに宗教的ケアでは、相談者は援助者である宗教者を基軸とする「世界」に入り込むことになるが、スピリチュアルケアでは、その相談者の「世界」に入り込むので、信仰の種類や有無を問わないで、どのような相手にも対応できるともいえる。つまり、宗教者を基軸とする「世界」と相談者の「世界」と入り込み世界が違うのである。
そこでビハーラ21の活動は、「ビハーラを掲げる集まり(仏教を機縁とした集まり)としては、活動の場に応じ、宗教的ケア(超宗派の活動)とスピリチュアルケアを上手く使い分けることが必要不可欠」と考える。
末期を迎えている方から「死んだら天国に行けますか?」と聞かれたらどう対応するのか。釈尊の立場では「有るとも無いとも言えない」ということになるが、宗教的ケアでは援助者の信仰・信念において答えを提供する。つまり「極楽浄土がありますよ」ということになる一方、スピリチュアルケアでは、援助者は答えを提供しない。あくまでも相談者が折り合いをつける、という。
定義はそうかもしれない。しかし、もし私が末期の方に死後の世界をあるのかと尋ねられたら、何の根拠はなくとも「ある」「そこで愛する人たちと会えるよ」と答えると思う。乱暴な言い方だが、こんなとき「嘘も方便」ではないか。
これからは宗教者の役割は、問題に対し答えを出すことよりも、「問い」を「問題」まで構成し直すことができるかどうかが求められることになるであろう。
最後に西岡さんが、ビハーラを掲げる集まりは、あくまでも仏教が機縁となっているだけで、仏教を前面に押し出すものではない。援助者側の拠り所として仏教が支えとなっているのは事実だが、それを相談者に押し付けてはならない。さらに仏教を手段として利用するのは間違っている。ケアのために、看護のために、福祉のために、癒しのために仏教を使うのではなく、有縁の援助者側のバックボーン(生き方・支え)として仏教があるのではないか、と言って締めくくられた。
今回の話題はなかなか解答の出るものではないので、引き続き話し合えて行ければ思う。「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、このビハーラ実践研究会で議論を一つ一つじっくりと交わし、ぜひ一緒に歩んでみたいと改めて思った。
この研究会は大河内さん、西岡さんの持っておられる居住まいが、すごく良い「場」を作っておられる。今後もとても楽しみな研究会である。
次回のビハーラ実践研究会は7月26日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。通常、1時間半であるが、今回のように白熱したディスカッションから、今後は2時間の枠に広げるかもしれないと大河内さんが仰った。私も大賛成である。(浦嶋偉晃)
この研究会は、3月より隔月で開催されており、今回が2回目である。
第1回目については、下記のブログを参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
今回はビハーラ21の理事であり、曹洞宗崇禅寺副住職 西岡秀爾さんが「ビハーラ活動再考-宗教的ケアとスピリチュアルケア-」で話題を提供された。
僧侶、ヘルパーさんや一般の方など前回以上の30名近く方が集まられ、西岡さんの講演の後も予定時間を越える白熱したディスカッションになった。
西岡さんからのお話で、ビハーラ活動は、「仏教を基盤とした」「仏教を機縁とした」゛いのち゛の尊さに気づき、支え合う精神に基づく活動と言えるが、それではビハーラ活動は宗教的ケアなのか?スピリチュアルケアなのか?という問いがあった。
宗教的ケアとはケアを提供する側とされる側で互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提であり、ケアを提供する側が主導権を持つという。つまり僧侶、牧師などがいなければケアは不成立であり、援助者も僧侶、牧師などに限られることになる。本来スピリチュアルケアはケアを提供する側(援助者)がケアを受ける側(相談者)の世界観に合わせ、主導権は相談者にあって、援助者は相談者の行きたいほうに寄り添うのであるが、それ故援助者はカウンセラー、医師、ボランティアなど多岐にわたる。
またケア援助者が提供するものとして、宗教的ケアは「答え」「気づき」を与えるが、スピリチュアルケアは答えを提供するのではなく「気づきの場」を与えるものだ。
さらに宗教的ケアでは、相談者は援助者である宗教者を基軸とする「世界」に入り込むことになるが、スピリチュアルケアでは、その相談者の「世界」に入り込むので、信仰の種類や有無を問わないで、どのような相手にも対応できるともいえる。つまり、宗教者を基軸とする「世界」と相談者の「世界」と入り込み世界が違うのである。
そこでビハーラ21の活動は、「ビハーラを掲げる集まり(仏教を機縁とした集まり)としては、活動の場に応じ、宗教的ケア(超宗派の活動)とスピリチュアルケアを上手く使い分けることが必要不可欠」と考える。
末期を迎えている方から「死んだら天国に行けますか?」と聞かれたらどう対応するのか。釈尊の立場では「有るとも無いとも言えない」ということになるが、宗教的ケアでは援助者の信仰・信念において答えを提供する。つまり「極楽浄土がありますよ」ということになる一方、スピリチュアルケアでは、援助者は答えを提供しない。あくまでも相談者が折り合いをつける、という。
定義はそうかもしれない。しかし、もし私が末期の方に死後の世界をあるのかと尋ねられたら、何の根拠はなくとも「ある」「そこで愛する人たちと会えるよ」と答えると思う。乱暴な言い方だが、こんなとき「嘘も方便」ではないか。
これからは宗教者の役割は、問題に対し答えを出すことよりも、「問い」を「問題」まで構成し直すことができるかどうかが求められることになるであろう。
最後に西岡さんが、ビハーラを掲げる集まりは、あくまでも仏教が機縁となっているだけで、仏教を前面に押し出すものではない。援助者側の拠り所として仏教が支えとなっているのは事実だが、それを相談者に押し付けてはならない。さらに仏教を手段として利用するのは間違っている。ケアのために、看護のために、福祉のために、癒しのために仏教を使うのではなく、有縁の援助者側のバックボーン(生き方・支え)として仏教があるのではないか、と言って締めくくられた。
今回の話題はなかなか解答の出るものではないので、引き続き話し合えて行ければ思う。「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、このビハーラ実践研究会で議論を一つ一つじっくりと交わし、ぜひ一緒に歩んでみたいと改めて思った。
この研究会は大河内さん、西岡さんの持っておられる居住まいが、すごく良い「場」を作っておられる。今後もとても楽しみな研究会である。
次回のビハーラ実践研究会は7月26日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。通常、1時間半であるが、今回のように白熱したディスカッションから、今後は2時間の枠に広げるかもしれないと大河内さんが仰った。私も大賛成である。(浦嶋偉晃)
2010年4月28日水曜日
世界一周自転車の旅から学んだ「感謝」のこころ
先日、應典院で開催された「いのちと出会う会」で「世界一周自転車の旅から学んだ感謝の心」という題で、ミキハウス勤務の坂本達さんの話を聞いた。
坂本さんは4年3ヶ月もの長い間に43ヶ国を訪れ、のべ5万5000キロを走破した。
何よりも驚くのは、有給休暇を取って、しかもボーナス、定期昇給つきだということ。
普通なら無給の休職のはずだが、ミキハウスの社長が坂本さんの熱意にほだされた結果である。
坂本さんがこの旅を通じて感じたのは、「人の支えがなければ何もできない」「小さいことに大きな感謝をする」ということである。
自転車で一日平均120キロ近くの走行をすれば、当然トラブルが付き物である。そして最大の危機にギニアで遭遇した。マラリアに赤痢を併発したのである。しかし不幸中の幸いは村で唯一の医師の家に泊めてもらったことであった。医師は坂本さんのために村にたった一つ残っていたワクチンを使ってくれた。また村長も、村人が週に一度だけ食べる、ごちそうの鶏肉を坂本さんのために譲ってくれた。
またある村でイモムシを出された時は、かなり躊躇し手をつけないままでいると、村人たちの顔を表情がだんだんと曇って悲しい顔つきになってきた。しかし意を決して、目をつぶり飲み込んだ瞬間、村人たちは坂本さんを本当の仲間と思い、喜んでくれた。今まで村に来た欧米人は食べなかったそうである。
現地の人の協力なしに旅は出来ない。
帰国から数年後、恩返しで再度ギニアに薬を持って訪れたが、旅の時に助けてもらった医師が、「病気を防ぐのに一番必要なのは、きれいな水なんだ」、その一言で「井戸掘りプロジェクト」を思い立った。しかし村人たちは作ってもらえるのだと、つまりプレゼントしてもらえるものだと思い、傍観者になっていた。まだ垣根があったのだ。そこで坂本さんは見よう見真似でコーランを覚え、イスラム教徒の村人たちとの一体化した。坂本さんは「相手の大事にしているものを自分も尊重する。それが基本」と言う。
恩返しはさらにギニアにきちんとした診療所を作るという所まで進んでいった。
坂本さんに井戸を掘る技術があったわけではない。一番大切なのは、現地の人々がやる気になってもらう仕組み。何度も通い、コミュニケーションを深めて行くことが必要だと。
坂本さんが世界を回っている時に心がけたのは、挨拶をすることを大切に、そして感謝の気持ちを持つことである。
坂本さんの夢は再度、世界一周の旅をしたいと言われた。
すごい夢だと思う。
4年3ヶ月の有給休暇というのは普通の会社では有り得ないことである。だからどうしても私たちは夢をあきらめてしまう。しかし坂本さんは熱意と情熱で社長を、会社を動かしたのだ。そしてその感謝に気持ちを忘れずに、帰国後も日本全国の小学校を周って、経験を語り、「感謝」のこころとは何かを伝え続けている。
私は今回、初めて坂本さんのことを知ったが、自分が忘れていたもの、というより意識的にあきらめてしまっていたものを思い出した。
人間、やる気になれば何でも出来る。真の勇気を持つことを思い出せてもらった。(浦嶋偉晃)
坂本さんは4年3ヶ月もの長い間に43ヶ国を訪れ、のべ5万5000キロを走破した。
何よりも驚くのは、有給休暇を取って、しかもボーナス、定期昇給つきだということ。
普通なら無給の休職のはずだが、ミキハウスの社長が坂本さんの熱意にほだされた結果である。
坂本さんがこの旅を通じて感じたのは、「人の支えがなければ何もできない」「小さいことに大きな感謝をする」ということである。
自転車で一日平均120キロ近くの走行をすれば、当然トラブルが付き物である。そして最大の危機にギニアで遭遇した。マラリアに赤痢を併発したのである。しかし不幸中の幸いは村で唯一の医師の家に泊めてもらったことであった。医師は坂本さんのために村にたった一つ残っていたワクチンを使ってくれた。また村長も、村人が週に一度だけ食べる、ごちそうの鶏肉を坂本さんのために譲ってくれた。
またある村でイモムシを出された時は、かなり躊躇し手をつけないままでいると、村人たちの顔を表情がだんだんと曇って悲しい顔つきになってきた。しかし意を決して、目をつぶり飲み込んだ瞬間、村人たちは坂本さんを本当の仲間と思い、喜んでくれた。今まで村に来た欧米人は食べなかったそうである。
現地の人の協力なしに旅は出来ない。
帰国から数年後、恩返しで再度ギニアに薬を持って訪れたが、旅の時に助けてもらった医師が、「病気を防ぐのに一番必要なのは、きれいな水なんだ」、その一言で「井戸掘りプロジェクト」を思い立った。しかし村人たちは作ってもらえるのだと、つまりプレゼントしてもらえるものだと思い、傍観者になっていた。まだ垣根があったのだ。そこで坂本さんは見よう見真似でコーランを覚え、イスラム教徒の村人たちとの一体化した。坂本さんは「相手の大事にしているものを自分も尊重する。それが基本」と言う。
恩返しはさらにギニアにきちんとした診療所を作るという所まで進んでいった。
坂本さんに井戸を掘る技術があったわけではない。一番大切なのは、現地の人々がやる気になってもらう仕組み。何度も通い、コミュニケーションを深めて行くことが必要だと。
坂本さんが世界を回っている時に心がけたのは、挨拶をすることを大切に、そして感謝の気持ちを持つことである。
坂本さんの夢は再度、世界一周の旅をしたいと言われた。
すごい夢だと思う。
4年3ヶ月の有給休暇というのは普通の会社では有り得ないことである。だからどうしても私たちは夢をあきらめてしまう。しかし坂本さんは熱意と情熱で社長を、会社を動かしたのだ。そしてその感謝に気持ちを忘れずに、帰国後も日本全国の小学校を周って、経験を語り、「感謝」のこころとは何かを伝え続けている。
私は今回、初めて坂本さんのことを知ったが、自分が忘れていたもの、というより意識的にあきらめてしまっていたものを思い出した。
人間、やる気になれば何でも出来る。真の勇気を持つことを思い出せてもらった。(浦嶋偉晃)

2010年4月4日日曜日
日本人の死生観に合った看取りを。~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」
去る3月29日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第1回ビハーラ実践研究会」に参加した。
この研究会は、今回より隔月で開催され、毎回、話題提供者より「ビハーラ」についての発表・報告があり、その後、参加者とのディスカッションをし、「ビハーラ」に対する理解、実践の普及につなげることを目的としている。
第1回目の話題提供者は大河内大博さん。大河内さんについてはこのブログの下記を参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html
今回は初回ということで、大河内さんより、「ビハーラの展開と可能性」というテーマでビハーラの歴史、理念などのお話があった。
20名ほどの熱心な方が参加していた。僧侶の方が多く、またすでにビハーラの研修を受けた方や、看護師、ヘルパーなど様々な顔ぶれだった。
「ビハーラ」誕生の背景について話があった。欧米型ホスピスは1980年代に入り、日本でも相次いで設立されたが、当時から欧米直入の看取りの在り方ではなく、日本的な看取りが模索されていた。とくに日本古来の仏教を活かせないか、という視点はあったという。
また僧侶自身からは、葬祭仏教を反省し、「いのち」をめぐる「生死」の問題を最重要課題のひとつとしている仏教本来の目的に立ち還るべきであるという声が上がっていった。つまり「生きた命」にかかわっていくことこそ重要でないかという気運があった。
「ビハーラ」の理念と基本姿勢として、①限りある生命の、その限りを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である ②利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある ③願われた生命の尊さに気づかされた人が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である(但し、利用者本人やそのご家族がいかなる信仰をもたれていても自由である)。そしてビハーラの活動は仏教の特定の一宗一派の教義に偏ったものではなく、超宗派の活動であり、布教・伝道ではないというのが基本姿勢である。
現状では「ビハーラ」は1986年の「仏教ホスピスの会」がスタートしてから25年かかって、やっと3つが設立されただけである。(うち一つは厚生労働省の認可がおりていない)
やはり仏教者からも「ビハーラ」に対する偏見が大きかったのも確かなようである。
私は「ホスピス」という欧米モデルの死生観を日本向けに衣替えするだけでは充分ではなく、より日本人の死生観に合った「ビハーラ」の形が望ましいと思っている。やはり欧米人と日本人とは死生観が違う。今のホスピスは輸入型が大半のように思われる。
大河内さんは参加者に終末期に宗教者は必要ですか?と尋ねた。皆さん必要だと言われた。私もそう思う。但し「死んだらどうなるの?」というような終末期にある人にも、自分自身がぶれないで答えられることがとても重要だと思う。
この実践研究会は今後、隔月で開催され、次回は5月24日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。
「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、今後、回数を重ねる毎に、もっと深いディスカッションになっていくだろうという前向きな雰囲気を感じさせた。今後が楽しみな研究会であった。(浦嶋偉晃)
この研究会は、今回より隔月で開催され、毎回、話題提供者より「ビハーラ」についての発表・報告があり、その後、参加者とのディスカッションをし、「ビハーラ」に対する理解、実践の普及につなげることを目的としている。
第1回目の話題提供者は大河内大博さん。大河内さんについてはこのブログの下記を参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html
今回は初回ということで、大河内さんより、「ビハーラの展開と可能性」というテーマでビハーラの歴史、理念などのお話があった。
20名ほどの熱心な方が参加していた。僧侶の方が多く、またすでにビハーラの研修を受けた方や、看護師、ヘルパーなど様々な顔ぶれだった。
「ビハーラ」誕生の背景について話があった。欧米型ホスピスは1980年代に入り、日本でも相次いで設立されたが、当時から欧米直入の看取りの在り方ではなく、日本的な看取りが模索されていた。とくに日本古来の仏教を活かせないか、という視点はあったという。
また僧侶自身からは、葬祭仏教を反省し、「いのち」をめぐる「生死」の問題を最重要課題のひとつとしている仏教本来の目的に立ち還るべきであるという声が上がっていった。つまり「生きた命」にかかわっていくことこそ重要でないかという気運があった。
「ビハーラ」の理念と基本姿勢として、①限りある生命の、その限りを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である ②利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある ③願われた生命の尊さに気づかされた人が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である(但し、利用者本人やそのご家族がいかなる信仰をもたれていても自由である)。そしてビハーラの活動は仏教の特定の一宗一派の教義に偏ったものではなく、超宗派の活動であり、布教・伝道ではないというのが基本姿勢である。
現状では「ビハーラ」は1986年の「仏教ホスピスの会」がスタートしてから25年かかって、やっと3つが設立されただけである。(うち一つは厚生労働省の認可がおりていない)
やはり仏教者からも「ビハーラ」に対する偏見が大きかったのも確かなようである。
私は「ホスピス」という欧米モデルの死生観を日本向けに衣替えするだけでは充分ではなく、より日本人の死生観に合った「ビハーラ」の形が望ましいと思っている。やはり欧米人と日本人とは死生観が違う。今のホスピスは輸入型が大半のように思われる。
大河内さんは参加者に終末期に宗教者は必要ですか?と尋ねた。皆さん必要だと言われた。私もそう思う。但し「死んだらどうなるの?」というような終末期にある人にも、自分自身がぶれないで答えられることがとても重要だと思う。
この実践研究会は今後、隔月で開催され、次回は5月24日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。
「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、今後、回数を重ねる毎に、もっと深いディスカッションになっていくだろうという前向きな雰囲気を感じさせた。今後が楽しみな研究会であった。(浦嶋偉晃)
2009年12月8日火曜日
「グリーフケア、その理解 ~大切な人を亡くした悲しみ~」
去る11月29日、奈良県ホスピス勉強会の定例勉強会に参加した。グリーフカウンセラーとして活躍されている京都産業大学 学生相談室主任カウンセラーの米虫圭子さんから「グリーフケア、その理解」という題で講演を聞いた。
米虫さんはアメリカの大学を卒業し、アメリカのホスピスや遺族ケアに関わり、8年前に帰国したが、まだ当時の日本では「グリーフケア」という言葉はインターネットで検索してもほとんど載っていなく、職業としても確立していなかったという。
「グリーフ」というのは「喪失の悲嘆」と訳されているが、喪失体験とは必ずしも死別だけを指すものではない。病気・離婚・失業・転勤・引っ越しなどもグリーフを伴う喪失体験である。失ったものがその人にとって、代わりのもので埋められるのであれば、その悲しさは日々の生活の中でなんとかやり過ごすことができるが、死別というような大きな喪失の場合、グリーフは深く長く続く。グリーフは一瞬の出来事や感じ方ではなくて、死別を体験した人が辿る心や体の変化全てを含む長期にわたるプロセスである。
また人によって悲嘆の内容が違い、回復までの決まった道筋はない。
喪失体験後に起こりえる変化として多くの人に共通して見られるのは、不眠や食欲減退などの身体的な変化、外出をしたくなくなったり、人と会うのを避けたり、以前好きだった事も楽しめなくなったりする日常生活上の変化等である。感情的な変化は人によって様々で、悲しみだけでなく罪悪感を強く持ったり怒りでグリーフを表したりすることもある。一方、同じ家族の中でもグリーフの著し方はそれぞれ違い、そのため親族や夫婦間の関係が悪くなってしまうことも非常によく聞かれる。「グリーフケア」は、このようにさまざまな変化を体験している遺族の心の回復がよりスムーズに起こる助けとなるケアのことである。
悲嘆からの回復作業として、①喪失を現実のものとして受け入れる ②悲嘆の痛みを感じる ③亡くなった人がいない生活に慣れる ④死を情緒的に再配置し、これからの生活を歩んでいく、以上の4つの課題がある。人は元来回復する能力を持っている。つまり、亡くなった人が担当していた役割を残った人が再度役割分担し、その事によって徐々に悲しみを和らげて行く、また亡くなった人の居場所を確立することによって、いつもそこから見守ってくれていると感じることである。
私自身、グリーフケアは、とても難しいものと感じている。愛する人を亡くした人にどのように接したらいいのか正直、分からない。ただ米虫さん話を聞いて、相手に耳を傾け、思いやりを持って見守り、そして生活面の困難にも留意することが大切だと教えられた。死別後に辛かったこととして、「思いやりのない言葉をかけられた」というのはアンケートの上位にある。言葉をかけた本人にはそのつもりはなかったのだと思うが、だから余計に難しい。
今後、Formal care:サポートグループや追悼会、個別カウンセリング、Informal care:家族や友人知人、医療関係者などによる慰めや傾聴、という両輪が必要である。また突然死ではなく、施設、在宅ホスピスなどに見られるように、死のプロセスが大切となるだろう。
今回、お話を聞いて、グリーフケアへの寄り添い方について理解することができたが、実際には自分自身を振り返っても、悲嘆は一人ひとり違い、とても難しい領域であると感じた。あまり他人にふれられたくないとさえ思う。
実際、素朴に思うのは、グリーフはやはり人間関係からくるもので、生前からきちんと相手と向き合って、共感理解できる関係性を持てるように努めることが必要であり、これにどう対処するかで、私たち自身の生き方が問われていると思う。(浦嶋偉晃)
<参考>
下記の日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団のURLで「これからのとき 大切な人をなくしたあなたに」という冊子がダウンロードできる。
http://www.hospat.org/korekara.html
米虫さんはアメリカの大学を卒業し、アメリカのホスピスや遺族ケアに関わり、8年前に帰国したが、まだ当時の日本では「グリーフケア」という言葉はインターネットで検索してもほとんど載っていなく、職業としても確立していなかったという。
「グリーフ」というのは「喪失の悲嘆」と訳されているが、喪失体験とは必ずしも死別だけを指すものではない。病気・離婚・失業・転勤・引っ越しなどもグリーフを伴う喪失体験である。失ったものがその人にとって、代わりのもので埋められるのであれば、その悲しさは日々の生活の中でなんとかやり過ごすことができるが、死別というような大きな喪失の場合、グリーフは深く長く続く。グリーフは一瞬の出来事や感じ方ではなくて、死別を体験した人が辿る心や体の変化全てを含む長期にわたるプロセスである。
また人によって悲嘆の内容が違い、回復までの決まった道筋はない。
喪失体験後に起こりえる変化として多くの人に共通して見られるのは、不眠や食欲減退などの身体的な変化、外出をしたくなくなったり、人と会うのを避けたり、以前好きだった事も楽しめなくなったりする日常生活上の変化等である。感情的な変化は人によって様々で、悲しみだけでなく罪悪感を強く持ったり怒りでグリーフを表したりすることもある。一方、同じ家族の中でもグリーフの著し方はそれぞれ違い、そのため親族や夫婦間の関係が悪くなってしまうことも非常によく聞かれる。「グリーフケア」は、このようにさまざまな変化を体験している遺族の心の回復がよりスムーズに起こる助けとなるケアのことである。
悲嘆からの回復作業として、①喪失を現実のものとして受け入れる ②悲嘆の痛みを感じる ③亡くなった人がいない生活に慣れる ④死を情緒的に再配置し、これからの生活を歩んでいく、以上の4つの課題がある。人は元来回復する能力を持っている。つまり、亡くなった人が担当していた役割を残った人が再度役割分担し、その事によって徐々に悲しみを和らげて行く、また亡くなった人の居場所を確立することによって、いつもそこから見守ってくれていると感じることである。
私自身、グリーフケアは、とても難しいものと感じている。愛する人を亡くした人にどのように接したらいいのか正直、分からない。ただ米虫さん話を聞いて、相手に耳を傾け、思いやりを持って見守り、そして生活面の困難にも留意することが大切だと教えられた。死別後に辛かったこととして、「思いやりのない言葉をかけられた」というのはアンケートの上位にある。言葉をかけた本人にはそのつもりはなかったのだと思うが、だから余計に難しい。
今後、Formal care:サポートグループや追悼会、個別カウンセリング、Informal care:家族や友人知人、医療関係者などによる慰めや傾聴、という両輪が必要である。また突然死ではなく、施設、在宅ホスピスなどに見られるように、死のプロセスが大切となるだろう。
今回、お話を聞いて、グリーフケアへの寄り添い方について理解することができたが、実際には自分自身を振り返っても、悲嘆は一人ひとり違い、とても難しい領域であると感じた。あまり他人にふれられたくないとさえ思う。
実際、素朴に思うのは、グリーフはやはり人間関係からくるもので、生前からきちんと相手と向き合って、共感理解できる関係性を持てるように努めることが必要であり、これにどう対処するかで、私たち自身の生き方が問われていると思う。(浦嶋偉晃)
<参考>
下記の日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団のURLで「これからのとき 大切な人をなくしたあなたに」という冊子がダウンロードできる。
http://www.hospat.org/korekara.html
2009年12月3日木曜日
「葬送と仏教~死生観の視座をもとめて~」の講演をお聞きしました。
去る11月21日、大阪YWCAにてエンディング講座「葬送と宗教~死生観の視座をもとめて~」のパネルディスカッションに参加した。時間も限られており、議論も十分掘り下げるには到らなかったが、意欲的な企画に敬意を表したい。
当日はコーディネーター役にジャーナリストの北村敏泰さん、パネリストに大蓮寺住職・秋田光彦さん、公益社執行役員・廣江輝夫さん、宗教思想史家 笠原芳光さん、イースター式典社社長・小林望さんの4名の方からお話を聞いた。参加者は50名を数えた。
冒頭、北村さんから現在増え続けている「直葬」の話題が提供された後、「葬送の現況と今後の展望」というテーマについてパネリストがそれぞれの立場から語った。以後はその発言要旨である。
1
廣江さんの話で印象的だったのは、現在の葬儀は「参加する儀式」という指摘だ。昔はご近所さんが中心になって葬儀を担当していたのが、今は主導権を葬儀社が握り、喪主も単なる参加者の一人になっている。高齢者も葬儀文化を伝えようとしない。葬儀社中心の葬儀になっていくのは、それでいいのか。また、葬儀を合理化し、単純化する傾向が著しい。本来、葬儀は人間関係の再構築の場であるべきだが、その意味も損なわれている。
葬儀の様式にはそれを行う人たちの死生観、宗教観が深く埋め込まれいる。葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理していくか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。
小林さんも「葬儀の大切さ」を話され、葬儀はお世話になった方へのお礼の場であると言われた。
一方、笠原さんは、仏陀もイエスも共に葬儀は必要ない、生きている者を大切にしなさい、葬儀よりも生者のほうが大切であると説かれていると言われたが、正直なところ、この部分の解釈は今の私には難解であると感じた。
2
秋田さんは、葬送は長い人生の死生観を生きるための人生儀礼である、と述べた。また「仏陀の弟子アーナンダの裏切り」を例に挙げ、葬式仏教は仏陀の死から始まった。仏陀の「遺体を焼いて、そのあとで骨を拾ったり供養の対象にしたりする必要はない」という遺言に対して、供養の気持ちを押しとどめることができなかったアーナンダは背いてしまった。
現在、仏教を批判して、葬式仏教と嘲笑をあびせる人々の声は絶えない。しかし現実は日本の仏教がかくも長く生きながらえてきたのは、アーナンダ以来その死の儀礼を執行しつづけてきたからではないか。
日本の葬送文化の基軸は、仏として再生するという浄土往生思想にある。日本人の浄土観では、浄土は遠い所にあるのではなく、常に生活の延長線上の身近にある。
現在、「地縁型寺院の崩壊」があり、都市社会において、死はどんどん「個人化」(一人称化)して、閉ざされている。現在の葬送は文化というより市場サービスであり、宗教観、共同的死生観が衰退し、二人称としての視点が後退している。
死の「個人化」と「脱宗教性」により、死の共同性が喪われている。
3
大蓮寺では、7年前から生前個人葬「自然」を設けた。生前に個人の資格で参加する「共同墓」において、血縁でなく「結縁」で結ばれた人、同じ仲間どうしが支えあう関係づくりをしている。それば言わば、死に向かうトレーニングにもなっている。
死は究極の公共問題であり、「死」を閉じた私事から地域の絆として開く試みを通して、新しいタイプの「葬式仏教」のデザインが必要となってくる。
死生観とは「生」を考えることであり、また死生観は知識や情報ではない。人間は喪失に直面した時、共感、共苦を感じる。
命に対する社会の動きにもっと関心をもってほしい、一人称の死だけに関心が偏っている、それを教えるのは寺院の役目でもあるはずだ。
4
最近は、私の周りでも、葬送の簡略化が目立ち、また会葬者の都合を優先しすぎた余り、逆の意味での儀式の簡略化加速したと思っている。今回、お話しを聞き、改めて葬送と仏教の関係の大切さについて考えさせられた。またそれだけに、葬送に宗教者がどうかかわっているのか、また宗教とのかかわりはどうなのかがますます興味が湧き、期待する。
私自身、宗教、お寺の大いなる可能性と、いざという時に宗教者が支えになれることを信じている人間である。また途切れないように、そういう気持ちを子供たちに伝えていきたいと感じた。(浦嶋偉晃)
当日はコーディネーター役にジャーナリストの北村敏泰さん、パネリストに大蓮寺住職・秋田光彦さん、公益社執行役員・廣江輝夫さん、宗教思想史家 笠原芳光さん、イースター式典社社長・小林望さんの4名の方からお話を聞いた。参加者は50名を数えた。
冒頭、北村さんから現在増え続けている「直葬」の話題が提供された後、「葬送の現況と今後の展望」というテーマについてパネリストがそれぞれの立場から語った。以後はその発言要旨である。
1
廣江さんの話で印象的だったのは、現在の葬儀は「参加する儀式」という指摘だ。昔はご近所さんが中心になって葬儀を担当していたのが、今は主導権を葬儀社が握り、喪主も単なる参加者の一人になっている。高齢者も葬儀文化を伝えようとしない。葬儀社中心の葬儀になっていくのは、それでいいのか。また、葬儀を合理化し、単純化する傾向が著しい。本来、葬儀は人間関係の再構築の場であるべきだが、その意味も損なわれている。
葬儀の様式にはそれを行う人たちの死生観、宗教観が深く埋め込まれいる。葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理していくか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。
小林さんも「葬儀の大切さ」を話され、葬儀はお世話になった方へのお礼の場であると言われた。
一方、笠原さんは、仏陀もイエスも共に葬儀は必要ない、生きている者を大切にしなさい、葬儀よりも生者のほうが大切であると説かれていると言われたが、正直なところ、この部分の解釈は今の私には難解であると感じた。
2
秋田さんは、葬送は長い人生の死生観を生きるための人生儀礼である、と述べた。また「仏陀の弟子アーナンダの裏切り」を例に挙げ、葬式仏教は仏陀の死から始まった。仏陀の「遺体を焼いて、そのあとで骨を拾ったり供養の対象にしたりする必要はない」という遺言に対して、供養の気持ちを押しとどめることができなかったアーナンダは背いてしまった。
現在、仏教を批判して、葬式仏教と嘲笑をあびせる人々の声は絶えない。しかし現実は日本の仏教がかくも長く生きながらえてきたのは、アーナンダ以来その死の儀礼を執行しつづけてきたからではないか。
日本の葬送文化の基軸は、仏として再生するという浄土往生思想にある。日本人の浄土観では、浄土は遠い所にあるのではなく、常に生活の延長線上の身近にある。
現在、「地縁型寺院の崩壊」があり、都市社会において、死はどんどん「個人化」(一人称化)して、閉ざされている。現在の葬送は文化というより市場サービスであり、宗教観、共同的死生観が衰退し、二人称としての視点が後退している。
死の「個人化」と「脱宗教性」により、死の共同性が喪われている。
3
大蓮寺では、7年前から生前個人葬「自然」を設けた。生前に個人の資格で参加する「共同墓」において、血縁でなく「結縁」で結ばれた人、同じ仲間どうしが支えあう関係づくりをしている。それば言わば、死に向かうトレーニングにもなっている。
死は究極の公共問題であり、「死」を閉じた私事から地域の絆として開く試みを通して、新しいタイプの「葬式仏教」のデザインが必要となってくる。
死生観とは「生」を考えることであり、また死生観は知識や情報ではない。人間は喪失に直面した時、共感、共苦を感じる。
命に対する社会の動きにもっと関心をもってほしい、一人称の死だけに関心が偏っている、それを教えるのは寺院の役目でもあるはずだ。
4
最近は、私の周りでも、葬送の簡略化が目立ち、また会葬者の都合を優先しすぎた余り、逆の意味での儀式の簡略化加速したと思っている。今回、お話しを聞き、改めて葬送と仏教の関係の大切さについて考えさせられた。またそれだけに、葬送に宗教者がどうかかわっているのか、また宗教とのかかわりはどうなのかがますます興味が湧き、期待する。
私自身、宗教、お寺の大いなる可能性と、いざという時に宗教者が支えになれることを信じている人間である。また途切れないように、そういう気持ちを子供たちに伝えていきたいと感じた。(浦嶋偉晃)
2009年11月21日土曜日
なぜ日本人は「慟哭」しないのか~悲しみを外に出さない美徳について。
韓国人の激情ぶりは有名だ。家族や身内が犠牲になった時の悲しみようは、まさに天を仰ぎ、地に伏して「慟哭」そのものである。情にもろいのは日本人も同じだが、感情に正直でその激高を抑えようともしない。
産経新聞の海外特派員のレポートに「静かな日本人」という小さなコラムがあった。先日、釜山の射撃場で犠牲になった日本人旅行者の遺族たちのふるまいを評しての言葉だ。肉親を失った悲しみにもかかわらず、韓国人のように泣き叫ばず、実に静かな気配を残した日本人に感心しているという。
「その背景として日本人の<人に迷惑をかけない>という教育や<悲しみを外に出さないことが美徳>とする価値観などを(韓国メディアは)指摘している。ある記者は『現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然とした姿と節約された言動はわれわれの記憶に残るだろう』と書いている」(産経新聞091121)
私は少々複雑な気分に陥った。確かに日本人の美徳のひとつといえるかもしれないが、それは逆に「状況を受け入れやすい」日本人の気質とも通じる。政治でも経済でも、目の前の状況が大勢であればさしたる批判も葛藤もなく、黙って受け入れるのも日本人的感性なのかもしれない。今夏の臓器移植法改正の問題でも感じたが、生命倫理という実存の危機に直面しながら、われわれは何と流されやすいのか。
葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が3割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。(蓮池潤三)
産経新聞の海外特派員のレポートに「静かな日本人」という小さなコラムがあった。先日、釜山の射撃場で犠牲になった日本人旅行者の遺族たちのふるまいを評しての言葉だ。肉親を失った悲しみにもかかわらず、韓国人のように泣き叫ばず、実に静かな気配を残した日本人に感心しているという。
「その背景として日本人の<人に迷惑をかけない>という教育や<悲しみを外に出さないことが美徳>とする価値観などを(韓国メディアは)指摘している。ある記者は『現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然とした姿と節約された言動はわれわれの記憶に残るだろう』と書いている」(産経新聞091121)
私は少々複雑な気分に陥った。確かに日本人の美徳のひとつといえるかもしれないが、それは逆に「状況を受け入れやすい」日本人の気質とも通じる。政治でも経済でも、目の前の状況が大勢であればさしたる批判も葛藤もなく、黙って受け入れるのも日本人的感性なのかもしれない。今夏の臓器移植法改正の問題でも感じたが、生命倫理という実存の危機に直面しながら、われわれは何と流されやすいのか。
葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が3割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。(蓮池潤三)
2009年10月19日月曜日
グリーフケア「ひだまりの会」月例会
去る9月20日、「應典院 夏のエンディングセミナー」でも講演いただいた、公益社の廣江輝夫さんが中心に活動しているグリーフケア「ひだまりの会」の月例会の見学をした。
「ひだまりの会」の活動については、ブログの「公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー」を参照してほしいが、見学をして最初にすごいと思ったのは、ひだまりの会事務局長の出口さんが、来場された人たちに気さくに声をかけ、また手を握ったりして会話をし、緊張している会員の方に対して和やかな雰囲気づくりをしておられたことだった。初参加の人は非常な不安を持っているだろうが、その緊張をやわらかにほぐされているのを見て、出口さんの細やかな心配りを感じた。何よりも笑顔が素敵だった。
午前中の第1部は、初めて参加される方や、悲嘆の強い方が中心で20名の方が来られていた。男女比率も同じくらいで、年齢層は会社を定年した方から若い方まで様々だった。

最初は岡本双美子さんが、「大切な人を亡くすという体験」という題で講演され、その後、「分かち合い」と呼ばれる小グループに分かれ、体験談を話し合う場に移った。私は龍谷大学の教員の黒川雅代子さんがファシリテーターをされているグループの見学をした。4名の会員の方が体験を話された。涙をずっと流さている方や、まだ大切な方の死を受容できない人など、まだまだ悲嘆の強い状態であった。もし私に何か発言をしろと言われても、とてもとても私などが意見できるようなものではなかった。
黒川さんは、「大切な人を亡くした悲しみとどう向き合えるか?」その「答え」は、その人の中にしかないのかもしれない。しかし、その「答え」は、そう簡単に導き出せるものではない。そのために、時間や、そばで寄り添い傾聴し共感してくれる人が必要なのかもしれない。その「答え」を導き出すための過程の中で、同じ体験者同士の分かち合いは大きな役割を果たすのではないだろうかと言われた。
その言葉通り、分かち合いが終了する頃には、皆さんの表情が柔らかになっていく印象を得た。もちろん一回ですっきりするわけではない。何回も同じ場を繰り返し、少しずつ悲嘆を和らげていくことが必要である。また実際、アンケートでも皆さん、また参加したいと書かれていた。
「ひだまりの会」は傷口のなめあいでもなく、また他の人との悲しみの比較をするわけでもない。お互いの経験を話し合い、次のステップ、残された人生を生きる活力、エネルギーを養う場である。
午後からの2部は、ある程度、立ち直られた方が90名ほど集まられた。ここでも驚いたのだが、受付も進行も会員の方が担当されており、表情も明るく、月一回の同窓会のような感じがした。これが「ひだまりの会」が目指している、ライフサポート、つまりマイナスからゼロではなく、ゼロからプラスに転換するという実践がうかがえた。
音楽グループの方が合唱し、会員の皆さんの一緒に口ずさむ、そんな明るい風景が見られた。とにかく明るい、言い方は悪いが、うるさいほど会話が弾んでいるのを見て、「ひだまりの会」が果たしてきた役割の大きさを感じた。
私は、1部でお会いした悲嘆の強い方々が、この会に参加してきっと変わっていくだろうと強い確信を持った。また変わっていく姿を見たいとも思った。
人によって悲しみの度合いも違い、悲嘆の大きさ、立ち直りの時期も違う。しかし廣江さん、出口さんを始め、「ひだまりの会」のスタッフの方々の会員さんとの接し方を見て、本当に何か安らぎを得た一日であった。(浦嶋偉晃)
「ひだまりの会」の活動については、ブログの「公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー」を参照してほしいが、見学をして最初にすごいと思ったのは、ひだまりの会事務局長の出口さんが、来場された人たちに気さくに声をかけ、また手を握ったりして会話をし、緊張している会員の方に対して和やかな雰囲気づくりをしておられたことだった。初参加の人は非常な不安を持っているだろうが、その緊張をやわらかにほぐされているのを見て、出口さんの細やかな心配りを感じた。何よりも笑顔が素敵だった。
午前中の第1部は、初めて参加される方や、悲嘆の強い方が中心で20名の方が来られていた。男女比率も同じくらいで、年齢層は会社を定年した方から若い方まで様々だった。

最初は岡本双美子さんが、「大切な人を亡くすという体験」という題で講演され、その後、「分かち合い」と呼ばれる小グループに分かれ、体験談を話し合う場に移った。私は龍谷大学の教員の黒川雅代子さんがファシリテーターをされているグループの見学をした。4名の会員の方が体験を話された。涙をずっと流さている方や、まだ大切な方の死を受容できない人など、まだまだ悲嘆の強い状態であった。もし私に何か発言をしろと言われても、とてもとても私などが意見できるようなものではなかった。
黒川さんは、「大切な人を亡くした悲しみとどう向き合えるか?」その「答え」は、その人の中にしかないのかもしれない。しかし、その「答え」は、そう簡単に導き出せるものではない。そのために、時間や、そばで寄り添い傾聴し共感してくれる人が必要なのかもしれない。その「答え」を導き出すための過程の中で、同じ体験者同士の分かち合いは大きな役割を果たすのではないだろうかと言われた。
その言葉通り、分かち合いが終了する頃には、皆さんの表情が柔らかになっていく印象を得た。もちろん一回ですっきりするわけではない。何回も同じ場を繰り返し、少しずつ悲嘆を和らげていくことが必要である。また実際、アンケートでも皆さん、また参加したいと書かれていた。
「ひだまりの会」は傷口のなめあいでもなく、また他の人との悲しみの比較をするわけでもない。お互いの経験を話し合い、次のステップ、残された人生を生きる活力、エネルギーを養う場である。
午後からの2部は、ある程度、立ち直られた方が90名ほど集まられた。ここでも驚いたのだが、受付も進行も会員の方が担当されており、表情も明るく、月一回の同窓会のような感じがした。これが「ひだまりの会」が目指している、ライフサポート、つまりマイナスからゼロではなく、ゼロからプラスに転換するという実践がうかがえた。
音楽グループの方が合唱し、会員の皆さんの一緒に口ずさむ、そんな明るい風景が見られた。とにかく明るい、言い方は悪いが、うるさいほど会話が弾んでいるのを見て、「ひだまりの会」が果たしてきた役割の大きさを感じた。
私は、1部でお会いした悲嘆の強い方々が、この会に参加してきっと変わっていくだろうと強い確信を持った。また変わっていく姿を見たいとも思った。
人によって悲しみの度合いも違い、悲嘆の大きさ、立ち直りの時期も違う。しかし廣江さん、出口さんを始め、「ひだまりの会」のスタッフの方々の会員さんとの接し方を見て、本当に何か安らぎを得た一日であった。(浦嶋偉晃)
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