葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。
07年に應典院で講演をしていただいた東京大学大学院の島薗進さんは、この個人の宗教化の問題を「再聖化」という言葉を使って論じています。社会制度の原理によって成り立ってきた医療や福祉、教育などが宗教的な要素を取り込むようになって、「再聖化」していく。先に挙げたスピリチュアルケアやグリーフケア、またいのちの教育、死の準備教育などがそれです。私はこの「再聖化」がひたすら個人に内面化していくのではなく、外の社会と交渉することによって、開かれ、鍛えられていくことにも期待をしています。最近では、仏教各教団でも、ビハーラや自殺防止に教団を挙げて取り組もうとする動きが見られますが、これもまた、社会と接続することで、既存の布教主義とは異なる、公共宗教へのアプローチといえるのではないでしょうか。
應典院の活動を通して、私は多くの「再聖化」する市民と出会ってきました。彼ら彼女らは、既存の宗教にすがるのでもなく、社会制度にも頼らず、自立した個人として仲間とネットワークをつなぎ、対話や協働を繰り返して、身近な社会や地域変革に取り組んでいます。医療や教育のみならず、環境問題や食品問題も人間のいのちに直結しており、そこには医師や教師といった高度なレベルの専門家も参加しています。私はしばしばそういう場において、教化本位ではなく、ひとりの市民として仏教を語ってきました。一方的な布教を目的としたメッセージではなく、個々人に対し生きる実践ための知として仏教を語ってきたと自覚しています。どこまで伝わっているのかはわかりませんが、選ぶのは個人です。私ができることは、個が自己を見つめ直そうとするその根拠として、仏教をいかに提示するか、です。そのためには、これまでの仏教とは違う言葉、表現をもっと開発していかなくてはならない、とも思います。
私のような立場から、伝統仏教と再聖化する個人の関係を論じることは、非常に緊張感を伴います。ただ檀信徒教化の場面以外の生々しい臨床に立ち臨んだ時、先にも述べましたが、仏教にも組織から個へと大きな質的転換の波が迫ってきていると強く感じています。また寺や僧侶がその転換にどう呼応していくのか、接続するのか、あるいは断絶するのか。何事も教団に倣えではなく、一人ひとりの仏教者の覚悟と行動が切実に求められています。そのことを、大学の研究室からの提言ではなく、生きた臨床の現場どうしの試行錯誤も含めた対話を通して、状況は少しずつ変わっていくのではないかと思っています。
最後に、最近、應典院で講演を行った国際日本文化研究センター教授の末木文美士さんの著書から、私たち臨床にいる僧侶への問いかけとして以下を引用させていただきたいと思います。
「仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しか
し、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。それでもどうしても自分が主張せずにはいられないこと、実践せずにはいられないこと---そこから出発する他ない」(「現代と仏教」佼成出版社)。(秋田光彦)
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