■東京の情報に惑わされない
去る9月20日、「葬式は、要らない」の著者、島田裕巳さんと対談をしました。應典院は満杯の盛況、「葬式は、要らない」と主張する宗教学者に、「葬式をしない寺」の住職が挑む、という格好で、当初は緊張がありましたが、なかなか中身のある話し合いができたと思っています。以下に私が申し上げたことを、3点にまとめておきます。
まず、島田さんの本の論拠は、首都圏型に偏っていること。関西には月詣りの習慣があり、五重相伝で生前戒名が授与されるなど、寺と檀家の信頼関係が厚い。首都圏はそういった前提がなく、葬式になって初めて僧侶に会うことも少なくありません。そもそも流動人口が多く、寺とのつきあいがない「浮動層」が全世帯の半分近いといいます。
メディアの責任も大きく、東京のローカル情報をさも全国ニュースのように報道し、それを鵜呑みにしている地方、という構図があります。地方にはその地方固有の伝統や習わしがあるはずなのに、情報の中央集権化に惑わされている現実は残念なことです。
2点目は、現実の葬式仏教が、儀式主義に終わっていることです。そもそも葬式仏教の成立は、地域共同体の中心として、「寺のある暮らし」が前提となっていました。死んでから始まる関係ではなく、それに至る長い時間を共有して、ゆっくりと形成していく、寺と檀家の共通理解・共通認識がありました。その時間感覚は、現代のような効率や合理性を優先する考え方とは相いれないものかもしれません。
■ 生涯全体にかかわる仏教
現実の仏教は、「葬式は」「戒名は」とテーマごとに別々に説いているのではない。生涯時間をかけながら、じわじわと身体に馴染ませていくものであって、需給関係に立っているわけではありません。島田さんの本は消費者的立場で述べられており、逆にいえば、それほど現実の仏教から生活感覚が薄れてきていると思います。
このブログでも紹介してきた、大蓮寺の生前個人墓「自然」がよい例ですが、これまでまったくつきあいのなかった方々が、お墓を縁にして入信され、そして「寺のある暮らし」を始めていかれます。寺を中心として、互いに助けあい、拝みあう関係をつくりあげていく。本来、檀家さんも同じではないでしょうか。
3点目が、では、葬式仏教はどう再生されていけばいいのか。これには統一した回答があるわけではないのですが、私はやはり生涯全体に仏教がかかわる以外ないと考えています。人生の長い時間の道のりのあちこちに、寺がある。私はいまお寺直営の幼稚園の園長を務めていますが、そこで子どもたちやその親を、應典院で若者たちを、そして大蓮寺で、と世代を選ばないかかわりを重ねている真意がそこにあります。そういう全体像の中で、人々は葬式仏教という「形式知」に、信頼や安心を寄せてくれるのではないでしょうか。
島田さんからは「しかし、大阪がいつ東京型にならないとも限らない」と警告がありましたが、そうならないためにも、私たちは関西の、大阪の伝統をしっかり保っていくべきだと思います。(秋田光彦)
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