2011年5月4日水曜日

「すべては患者さんのために~長崎Dr.ネットの挑戦」

■ひとりに主治医を多数の医師が支える仕組み
 去る3月19日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。長崎の出口外科医院の出口雅浩さんが登壇され、「長崎における地域医療連携ネットワークの構築~長崎Dr.ネットの挑戦」という題で話題提供をされた。地方都市で、24時間の在宅対応されている先行例として知られている。
 「長崎在宅Dr.ネット」は、在宅訪問診療や往診を複数の医師が連携して行ない、複数の医師が連携して24時間対応を実現し、患者さんが安心して在宅療養を行えるようにすることを目的とし、平成15年3月に結成された。実際には、患者さんの居住地域にあわせて、主治医を決め、さらに、副主治医がバックアップとして控え、訪問診療の分担や万が一の際の緊急対応をおこなうシステムである。
 主治医は、主となって訪問診療・治療に当たる、一方、副主治医は主治医を補佐して訪問診療の分担や、万が一の際の緊急対応を行う。必要に応じて複数の副主治医を各医師の専門性を考慮して決定する。現在長崎市内の診療所の医師69名が登録をしている。
 考え方として、①在宅医療を希望する方が、医師に対応できないという理由で自宅に帰れないことが無いようにする(24時間365日の対応)、②自宅で療養できるだけでなく、入院中に受けたのと同様の医療を受けられることを目指す、③医療・介護・福祉等と連携し、最適な在宅医療を提供する、ことを基本としている。
そもそも8年前にDr.ネットを作ったのは、もともとは情報交換をしていた医師どうしお互い電話でアドバイスをしていたが、その内に、それじゃあ、あなたが代わりに行ってくださいよという感じになり、仲良しグループが形成されていって、Dr.ネットに繋がったようである。ここでも人間関係が基本だ。
 実際の流れだが、入院中の場合、現在入院中だが、自宅へ帰りたい患者さんやその御家族はまず主治医の先生と相談し、自宅療養が可能と判断していただいた場合、まず従来からのかかりつけの開業医の先生と相談。しかし、残念ながら往診や在宅訪問診療を頼めない場合「長崎在宅Dr.ネット」への問い合わせとなる。入院中の病院の主治医、看護師、又は地域連携室の方に相談して「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡する。また自宅療養中の場合は、現在の主治医の先生(かかりつけ医)とよく相談し、それでも在宅診療への対応が困難な場合「長崎在宅Dr.ネット」事務局へ連絡し、病状、居住地域医を考慮した上で、主治医及び副主治医を決めて連絡するということになる。
 主治医と副主治医の連携であるが、副主治医がサブで同行するわけではない。行けば医療費負担が2倍かかることになる。最初に一緒にご挨拶に行く程度で、家の間取りが分かるようにという感じである。あくまでも目的は、一人の主治医を多数の医師が支え、それによって頑張れる仕組み作りである。
実際のところ、主治医と副主治医の報酬の分配は、例えれば副主治医はビール1本程度とか。お互い様という感覚だろう。基本的には、副主治医の出番はないようにしているとのことである。
 一方で欠点として、患者さんが主治医を選べない、正直そりが合わない場合も少なくないという。その場合は再度病院に相談して、仕切り直しをするそうである。

■地域の特性を活かした在宅医療の在り方を
 じつは長崎は在宅死率は下位だが、奈良は全国一番を誇っている。奈良の制度もマッチしている。
 私が一番疑問に思ったのは、主治医と副主治医の関係である。基本的には副主治医が訪問診療しない、報酬がないというのが長崎の原則であるが、やはり奈良のように副主治医ももっと入っていく必要があるのではないかと思う。奈良では副主治医もコンスタントに訪問診療するため、患者さんを把握している。長崎ではそれがないのが、患者さんの不安感を与えるのでないかと感じた。このことを、最後に質問できなかったのが残念である。
 一方、長崎県が在宅死率が低い理由は、病院が多いからとのこと。原爆の関係で都市の規模に対し、非常に病院が多く、常時ベッドが空いているそうである。その分、レスパイトケアが出来やすい。また長崎は坂が多く、道がなく自動車で診療にいけない。また離島が多く、一旦自宅に帰ったら、病院に戻りにくいのでなかなか自宅に帰らないということがあるという。
 今後の長崎Dr.ネットの課題は、新人在宅医をいかに育てるかだ。そして参加医師の人数が県内の地域でばらつきがあるので、もっとネットワークを強めていきたいと言われた。
 奈良にも同様の事態があるが、在宅医の疲弊をいかに改善するかが、課題だ。長崎Dr.ネットの挑戦が在宅療養比率を向上させる取り組みであることは確かだと思った。日本全国でスタンダードな形というのは有り得ないと思うし、各地域の特性を考慮し、どうカスタマイズするかも課題である。
 今後、在宅医療の推進には、末期者はその家族だけが考えていたのでは不充分だろう。学校や家庭、地域社会にあける日常において「死」を、避けるべきものではなく、「皆がいつかは向き合うこと」としてフランクに話し合うベースを築くことがますます大事になっていくと思う。そこで初めて地域社会の中で在宅医療が根付き、成長していくと思う。(浦嶋偉晃)

2011年3月7日月曜日

お寺はまだ生きている。

「新潮社の広報紙「波」に掲載された一文です。転載します」

 昨年は、お寺バッシングの風が吹き荒れた。1月、『葬式は、要らない』がベストセラーとなって、これに週刊各誌が追随、A誌では「『お寺』はもういらない」を特集した。また5月に、葬祭業に進出した最大手スーパーが「お布施の目安」をネット上に公開、最近ではコンビニ全国チェーンが、葬儀の受注を検討中だ。
 仏教界の危機感にも火がついた。全日本仏教会の「お布施」シンポジウムをはじめ、各宗派・教団で俄に葬式仏教総点検が始まった。葬式を巡る議論が活発化するのは結構だが、「そもそも仏教では……」と説明を尽くしても、市民には建前にしか聞こえない。このままでは、人口が減る、檀家が減る、布施収入は減って、寺は滅びる? 日本に7万8千ある寺院のいくつが生き残るのか。ある識者は「50年後、6千まで減る」と断言する(慶応義塾大学・中島隆信教授)。
 1997年に、大阪の都心に新しい寺・應典院を建てた。本堂は小劇場、セミナールームやギャラリーも付設している、異貌の寺である。檀家がいないので、最初から「葬式をしない」と宣言をした。その代わり、こころの文化拠点として、若い芸術家やNPOと協働して数々の場を作り上げてきた。催しの数は大小合わせて年間百件以上。寺は夜十時までにぎわい、訪れる若者は年3万人を超える。
 もちろん、私は葬式無用論に与するつもりはない。規模や形態は変わっても、葬式は日本仏教の王道であることに違いはない。ただ寺院経済と不可分となった現在の葬式は、もはや制度疲労を来たしているといっていいだろう。地域共同体や先祖供養が衰え、無縁社会といわれる今、寺院再生のためには、新たな模索が必要なのだ。
 「葬式をしない寺」應典院が取り組んだものは、「寺=葬式」という凝り固まった枠組みを外して、創造資源としての寺の可能性を徹底的に掘り起こすことであった。演劇、美術展、講演会、ワークショップ……寺に、誰も考えたことのない、多種多様な場と関係性を呼び込んだ。担い手は、仕事もお金もない若者たち。ゼロから何かを創造していくプロセスで、彼らは学校や社会では教わらない、たいせつなものに出会う。フリーター、ニート、就職難民と、時代からはじかれた若者が、寺で「生き直し」を図るのだ。
 「こんな寺、ありなのか」と、周囲ではいぶかる声もある。逆に私は、そもそも寺とは何をする場所なのか、と問い返す。「葬式しかしない寺」からは、仏教の何事かが立ち現れる機会は決定的に乏しい。制度と慣習に安住していては、創意も挑戦も生まれることはない。
 寺は生きている。社会と向き合い、人々と対話を繰り返し、世俗と格闘しながら、寺は寺になっていくのである。
 應典院は呼吸する寺なのだ。(秋田光彦)

2011年2月15日火曜日

がん患者さんにかかわるということ

■医師と患者の壁

 去る1月22日、「奈良県のホスピスとがん医療をすすめる会」の勉強会に参加した。奈良県立医科大学附属病院 医療サービス課相談係の川本たか子さんがお出でになり、「がん患者さんにかかわって」という題で話題提供をされた。
 川本さんは27年間の看護師経験を経て、奈良県立医科大学附属病院で相談業務に就かれて、今年で3年になられる。
 現在、奈良県内に6箇所のがん診療連携拠点病院があるが、その役割の一つとして、「がん患者・家族に対する相談支援・情報提供」があり、それぞれの病院にがん相談支援センターが設立されている。
 センターの役割として、がんに関するいろいろな悩みや疑問、そして医療費のこと、セカンドオピニオンなど様々なことがあるが、私が気になったのは、「病状や治療方法についてよくわからない」という項目だった。川本さんが言われたのは、患者側に、こんなこと医師に聞くと失礼になるのでは、という遠慮がまだまだ根強く残っているという。この点が気になりながらも、続けてお話を聞いていた。
 看護師、社会福祉士を始め様々な方々が相談員をしておられるが、国立がんセンターの相談員研修を受講された方が相談員の資格を持ち、相談は無料で、その病院で治療を受けていない患者・家族の方でも相談ができるそうである。相談の場はやはり、直接来られる対面面談が多数を占めるが、川本さんの悩みは、現在入院中の方、外来に来られている方で相談者があまりいないこと。もっと増えてほしいと言われていた。
 相談内容としては一番多いのが、「社会的・経済的な問題」で、医療費・生活費の悩みや介護保険の適用の可否の問い合わせであり、2番目として「診療治療に関すること」で、がんの検査・治療、医療者との関係、診断治療の理解・選択である。私が思うにはこれは医師との関係の中で解決している問題かと思ったが、やはり患者と医師の間に未だに「壁」が存在しているようだ。ここでさっきの気になる点が改めて出てきた。
 今、世間では、「良い患者さん」になれ、とか言うが、そんなことはなかなか簡単に出来そうにない。患者は常に限りなく医療者に遠慮し、忙しいのにこんなことを聞いて良いのか、もう一度聞いたら申し訳ない、こんなこと聞いたら失礼じゃないだろうかという自己規制があり、聞きにくい。そのことが今回の川本さんのデータから改めて浮き彫りになった。
 また、がん対策基本計画の中に、がん患者や家族等が心の悩み体験を語り合う場を提供する活動を促進する、というのがあり、各所に「がんサロン」が設立されている。現在、奈良県内でも4つの病院にあり、定期的に患者・家族の出会いの場、情報交換やお互いの気持ちを聴きあう場を提供している。やはり患者さんや家族の方が、体験した人でなければ分からない「辛さ」や「生活上の工夫」などを語り合う場となっている。またいつでも予約なしで、無料で、気が向いたときに参加できる仕組みになっている。
今後の相談支援センター・患者サロンの充実に向けた課題として、
 ①利用者が増加しない→相談支援センター(窓口)の案内不足
 ②相談体制の整備→相談支援の窓口が複数の業務を担当していて、数、質ともに不足している、
というのが掲げられる。
 今後はいかに認知度を高めるための活動を続けていくのかが大きなポイントだろう。なかなか病院内での組織の無理解というのもある、組織の障壁はどこの世界でもあることなので、川本さんたちが、その中で負けずに進めていっていただくためのフォローを私たち市民が出来ればと強く思った。

■がんサロンという場所の可能性

 続いて、「がんサロンに参加して」というテーマで、がん患者の立場から野村佳子さんがお話しになられた。
 野村さんは膵臓がんを患われたが、今はお元気で「がんサロン」などでピアサポーターとして精力的に活動をされている。
 野村さんは、家族や知人に病気のことを相談するとかえって心配させてしまうが、「がんサロン」では、全てのさらけ出せるのが良い点であり、1ヶ月毎のサロンに参加することが次の目標になり、励みになったという。サロンの皆さんと、このひと月の間にどのようなことがあったかを報告しあうようになり、それが良い目標になったそうである。サロンの人の中で、「がん患者のイメージを変えたい」と、積極的にスポーツに参加する人を見て、「死」までの時間を大切にどう送るかを考えるようになった。また同世代の患者さんと家族、子ども、生活のことを気軽に話し合えるようになり、今までのように助けられるだけでなく、自分には他の人を助ける立場になれることが出来るということに気づかれ、それがとても励みになったという。
 一方で、サロンをいかに広げるかを常に考えている。なかなか県相手には難しい面もあるが、現在では市町村の広報誌に案内を掲載してもらえるようにまでなった。もっともっと気軽に参加して欲しい、病院によって特色があって面白いと、力強く言われた。
 今後サロンに望むのは、患者の思いを受け止める、温かな場所であってほしい、やはり外では泣けないのが本音である、そしてもっとも手軽な緩和ケアの場であると言われた。
 野村さんが最後に言われたのは、自分は転移したときに失望したが、サロンの存在が心強かった。生きる希望をいかに持つかが大事である。他の頑張っている人を見て、自分も他の人を元気づけることができる立場になれるんだ、と繰り返し言われた。そして何よりも、今は自分の病気のことを人前で言えるようになれたと言われた。まだ、「がんサロン」に対して理解のない病院があることも確かだ。だが、野村さんのように情熱を持たれた方がいらっしゃるのは本当に心強いこと。それに他の人にまで気持ちが行くようになったというのはすごいことだと思った。
 今日は川本さん、野村さんのお話をお聞きして、がん治療にとって3大治療以外にどれほど大切なものがあるのか気づかされた。私もがん相談支援センター、がんサロンについて、いろいろな方々にPRをしたいと思った。とても勇気の出る話をお聞きした。
 最後に勉強会が終わって、帰り際に川本さんに2つの質問をした。1つは患者・家族と医療者の壁について。川本さんは「壁は大きく存在しています」と言われた。つぎに今後、グリーフケアの相談についてどのように対応しますか、と尋ねたが、やはりご遺族からの電話はあるそうで、今はただお聞きするしかないと。今後はきちんとグリーフケアの研修を受けることを考えていると言われたのが印象的だった。(浦嶋偉晃)

2011年2月4日金曜日

年越いのちの村。悲しみに寄り添う。

 應典院で、「グリーフタイム」を定期的に催している尾角光美さんは、大学入学目前の19歳の冬、同居していたお母さんを自死で喪いました。事業に失敗した父親はその直前に出奔、一気に両親を失くした尾角さんは失意と苦悩が襲いました。
 私が出会った頃の尾角さんは、同じ境遇の自死遺児たちと東京や京都でネットワークを作り上げていました。次第に社会起業に目覚め、遺族支援の市民団体リブ・オン(生き続けるの意)を創設、去年あたりからの活躍は目覚ましく、僧侶や葬儀社に向けた研修会や中高生向けのいのちの授業の講師などを務めています。
 その尾角さんから「大晦日らから元旦に、お寺で年越村ができないか」と相談を受けました。人間関係に苦しみ、帰る場所もなく、孤独感を抱いた人たちが身を寄せて「生き続けるための場所」。見知らぬ者どうしでも、正月のある暮らしをみんなで分かち合えれば。それには、お寺こそふさわしい。自死問題をずっと考えてきた尾角さんらしい企画でした。
 昨年12月31日の大晦日、若い世代を中心に25名の人々が集まりました。会場となった應典院の部屋には、「年越いのちの村」の書が貼り出されました。多くはボランティアでしたが、中には「何度も死のうと思った」という男女の顔をありました。自殺未遂を繰り返した中年男性、発達障害を抱え、いじめに遭った女性、30代の引きこもりの男性…思いつめた表情の彼らも、最初は見知らぬ人の輪に溶け込むことに苦労しているようでした。
 固かった関係が絆に近づいたのは、意外なことに、正月の習わしでした。ボランティアがつくった年越しそばを食べる、みんなで大蓮寺の除夜の鐘を撞く、お雑煮や書き初めや、そういう年中行事を共有するに伴い、参加者の口からゆっくりと境遇が語られ始めました。
 「人間はひとり取り残されて、生きづらさを感じてしまうことがあります。病苦や経済問題より深刻なのは、苦しい時に支えとなる人とのつながりのないこと」(尾角さん)
 社会保障が充実すれば、心の痛みや生きづらさが克服できるわけではありません。どんな手の込んだサービスより、たいせつなものは、生きることを支えるつながりの感覚、あなたに寄り添う他者の存在ではないでしょうか。
 初めて会った者どうし、言葉(理)だけで共通理解は進まない。それをシンクロさせたのは、当たり前の年中行事を一緒に務めながら伝わった悲しみの体温ではなかったかと思います。大勢いたボランティアの中にも、悲苦を抱えた人がいました。彼らは悲しみの解決者ではなく、悲苦に寄り添う「同苦同悲」の存在だったのでしょう。
 もうひとつ気づいたことがあります。
 この集いに準備段階から、尾角さんのサポーターのように協力する、若い僧侶の姿がありました。大切な人を喪ったグリーフをどう支えるのか、僧侶である自分に何ができるのか---ひとりの市民が磁力となって、同じ思いを抱える若い僧侶たちが集まってきていたのです。
 自死者の遺族に不用意な言葉を吐いて、顰蹙を買う僧侶がいるといいます。ただ語ればいいというような安易な布教根性では通じない、ここは文字通り「同事」(四摂事のひとつで、他者と苦楽を共にすること)の集いではなかったかと思います。
 つながりとは、誰かが誰かに与えるものではない。人と人が思いやり、支えあう関係性の中から自ずと生起してくるものなのです。それは「慈悲」の真の姿に近い、と思います。
 1月1日正午、閉村式を行いました。参加した女性の言葉--- 。 「皆が支えてくれて、私のいのちは、私だけのものじゃない、と感じました」
(秋田光彦)


<参加者と大蓮寺本堂で新年の回向をつとめる>

2011年1月27日木曜日

シンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」を聴講して。

 去る1月15日、「ケアの臨床哲学」研究会主催のシンポジウム「高齢社会における施設での看取りを考える」に参加した。
 1976年を境に自宅死と病院死が逆転する中、自宅でのターミナルケアや慢性疾患の療養等への対応を支えるため新設された在宅療養支援診療所制度が2006年からスタートし、訪問看護ステーションのサービスも広がってきたが、他方で同じ2006年に創設された特別養護老人ホームにおける「看取り介護加算」が、2009年4月の介護報酬改定では、グループホームにまで認められるようになり、在宅での看取りが復活しつつあるとともに、施設での看取りが増える傾向にある。
 会場には多くの方々が来られ、施設関係者、現在入居施設を探そうとしている人、またこれから施設を開設しようとしている人などが大勢を占めた。
 今回、京都の2施設、神戸の1施設の方々が話題提供をされた。どこも定員は60名前後で、入居者の平均要介護度は4である。
 最初に「施設看取りの実践と職員の想い」では、京都の特養の生活相談員が報告をされた。その特養では、年間20名弱の看取りがあるが、希望者は年々増えていて、実際には契約時に看護師が同席して、看取りの意向を確認するそうである。むろん、職員はそれまでに死の場面に遭遇する機会がなく、入居者の「死」を受け入れることは容易ではない。だが逆に安らかな、満足された「死」を見ているうちに、終末期を日常生活の延長としてとらえ、その人らしい看取りをしてあげたいと思うようになったという。
 看取りに対する現在の課題として、夜間の不安があげられる。30名の入居者に対して夜勤者は1名だそうである。それと終末期の人が優先され、自ずとケアが手厚くなるが、逆に他の入居者へのケアが低下することが懸念される。そして何よりも職員のメンタルケアが必要である。入居者の「死」という悲痛な気持ちをいかにサポートしあうかが大切だと言われた。
 しかし、この仕事を続けていけるのは、入居者の「ありがとう」という言葉と「おだやかな寝顔」というのは、救われた気がした。
 「高齢者施設における看取りケアを支えるチームのマネジメント」で話題提供をされたのは、京都の高齢者福祉総合施設の施設長だった。お話の中で印象的だったのは、施設の中で、生活の中の「音」が大事である、という指摘だった。家具や備えの備品、キッチンや居間の設備に加えて、生活音にも配慮が必要である。また、生活の中の「匂い」も重要で、不快な匂いを出来るだけ軽減し、花の香り、珈琲の香りが漂うように配慮しているという。
 最後に神戸市長田区の特養の方が、「もうひとつの家(高齢者施設)でもうひとつの家族に看取られて」と話題提供をされた。福祉の必要性が浮き彫りになったのは、阪神淡路大震災であり、震災後の生活の厳しい中、多くの善意が集まり、延べ1万人から2億4千万円の寄付があり、設立されたそうである。
 3つの施設ともそうであったが、入居者は8割以上が地域の方である。この特養の理念として、①地域の人たちの参加で、お互いがお互いを支えあうこと、②高齢者の歩んできた人生、人との交わりを大切にし、心を持ち込めること、③福祉と医療の連携を強めながら、地域の人たちと共に福祉あふれる街、明るいまちづくりをすすめることなど、やはり地域コミュニティの力はなくてはならないと感じた。在宅での看取りの課題点と全く同じだと思った。
 3人の方が言われた共通したことであるが少し総花的な言い方になるが、①高齢者施設に質の悪いところが少なくない、②最初は死の兆候が分からなかったが、段々と分かってきた、③いろいろな専門職(特に嘱託医)との連携が大事である。以上のようにまだまだ発展途上であるが、毎日悩みながらも進めて行っているとのことであった。
 「施設での看取り」というのは、これからの大きな課題である。
 実際は看取りまでをしていない施設はまだまだたくさんある。今後どうして施設を増やしていけばいいのか、という関心も大きいが、会場から多く質問があったのは、どのようにすれば良い施設に巡り合えるのかということであった。在宅ホスピスの医師がどこにいるかが認知されていないのと同様に、どこに施設があるのかが分からない。市町村によってマップやパンフレットを作成しているところもあるが、やはりまだ少ない。現状での解決方法はとにかく役所、地域包括センターに聞いて、片っ端から見学に行くことしかないようである。ポイントは、施設長から受ける印象だという。せっかく良い施設に入ったのに、施設長が代わって雰囲気がガラリと違ってしまうことも多々あるようである。
 現在、在宅死の率が頭打ちの状態だ。これからは政府が発表する数字には施設も含まれていくと言われている。まだまだ施設が少ない。300人の待機者がいる施設もざらにある。
 私自身は在宅死を望んでいるが、世帯の変化や家族の多様化によって今後は施設死という選択肢も入れざるを得ない状況にあるだろう。施設の数の増加、中身の充実について、もっともっと真剣に取り組まなければならない課題だと思った。(浦嶋偉晃)

<参考>
今回このシンポジウムを主催した「ケアの臨床哲学」研究会とは、神戸を中心に活動している「患者のウェル・リビングを考える会」と京都を中心に活動している「〈ケア〉を考える会」を繋ぎながら、大阪大学大学院(臨床哲学)の教員(代表:浜渦辰二)・院生・学部生および一般の方々の有志で運営されている集まりである。医療施設で行われるケアの問題と高齢者施設で行われるケアの問題、さらに家庭で行われる在宅ケアも含め、これらは決して別々のものではないと考え、両者が繋がるところでケアの持つ問題を臨床哲学的に動きながら考えたいと集まった研究会である。

2010年12月30日木曜日

年末回想。若者たちの未来の死生観に希望を託して。

 2010年、今年は、いのちのありようについて重く考えさせられた一年でした。
 身近には葬式仏教への逆風、社会面では、幼児や高齢者への虐待が相次ぎました。また、脳死・臓器移植の改正法や市民参加の裁判員裁判で死刑判決が初めて下されました。十分な検討も熟慮も伴わず、私には、ただ状況ばかりが前のめりに加速している印象があります。
 人間は、葬式の形態や規模は別にして、死者を供養しないではいられない存在です。
 年が明けるとまた「1.17」が巡ってきますが、いまなお、あれだけの人々が現地で、また日本中の人々も死者たちを鎮魂するのは何故でしょう。人間だけでありません。宮崎県を襲った口蹄疫の時も、殺処分される牛馬のために、畜産農家の人たちがこぞってユリの花を供えたと聞きます。
 私は、生前個人墓「自然」を通してこれまで、結縁を希望する、200人以上の高齢者と面談してきました。多くはとりたてて宗教には関係を持たずに来た人たちでしたが、分かったことがあります。日本人は、それが家であるなしにかかわらず、「供養」という文脈を使いながら、自らの死生観を形成していくのだと。今までは家制度によって暗黙に「保証」されてきた供養が、環境の変化によって急に、個人の問題として突き付けられ、人は自分の「死後の供養」を考えて、準備に急ぎ始めたのです。「自然」という墓を契機として、いきいきと死生観を語り始める人たち。葬式や墓は、今まで眠っていた死生観を想起させる装置といっていいのかもしれません。
 しかし、現実には、葬式仏教への不信は根強く、そして、消費者として君臨する人々との溝はあまりに大きい。消費者には、葬式仏教の教えはすべて建前であって、要求すべきはサービスとコストなのです。日本人は、この間、死生観を予行する大切な体験を根こそぎ喪ってしまうのではないか、という危惧も覚えます。

 話はかわりますが、今月初め、ある若者の葬儀の参列しました。
 彼女は息子の友人で、自宅で急に倒れ、9日間病床に伏せって、25年の生涯を閉じました。ご家族は「家族葬で」と計画したらしいですが、若い友人たちの要望で一般葬に変更となったと聞きました。
 お通夜の式場は、高校、大学、職場とずっと吹奏楽を嗜んできた彼女の仲間たちで、埋め尽くされました。20代の若者たちは、ひょっとして初めて遺影に向かって手を合わせたのかもしれません。あまりに早すぎる親友の死を、まだ受け入れがたいのでしょうか、取り乱した様子もなく、式は淡々と進行していきました。
 読経が終わって、若い僧侶がふりかえって語り始めました。
 「私も26歳です」
 けっして上手な説教というものではなかったけど、式場には若者どうしの一体感のようなものがこみ上げてきました。
 「同じ世代として、もっと生きたかったろうに、やりたいこともたくさんあったろうに。そう思うと残念でなりません」
 会葬者の席でずっと時間を共有しながら、私はふと不思議な感覚に襲われました。この若者たちの死者に対する謙虚で、誠実な態度は何だろう。メディアでは若い人の暴力沙汰がしばしば報道されるというのに、一転してこの身近な死に対する敬虔な姿に接し、私は、何か大きな落差を感じてしまったのです。
 「いまどきの若者にふさわしくない…」と言いたいのではありません。逆に、情報とサービス漬けとなって、消費者として完成されてしまった人々には窺えない、生と死の美しい対話劇を見るような感覚でした。身近な人の死を、三人称(他人)の「死」として扱わず、自らのいのちの一脈として感応しあう。いや、あまりに急な死であったからかも、また彼らには慣れない体験であったからかもしれません。しかし、それ以上に、私は「死」に対する「若さ」の持つ清らかさと愛おしさを見てしまったような気がしてならないのです。
 この国には、もはや紛争も飢餓もありません。死にゆく人は、みな病院の個室に運ばれ、多くの日本人が考えている「死」は、実体験を伴わない「死」です。それとまともに向き合わず、「千の風になって」を歌って、見せかけのイメージに溺れているのではありませんか。
 だからこそ、私は若者たちの未来の死生観に、一縷の望みを託したい。
 今年10月には、川中大輔さん(30歳)のグループが、應典院で「生と死を考える共育ワークショップ」を1泊2日で開催、「看取り」をわかちあいました。また、大晦日から元旦にかけては、尾角光美さん(28歳)のグループと、「年越し・いのちの村」を開催します。こちらは、年末年始、帰る場所もなく、孤立に陥る人たちと温かい正月をお寺で過ごそうという企画です。
 若者たちに、決まり切った先祖供養は似合わない。あるのは、他者の「死」に自分の「生」を重ねることです。他者の死とは、ここでは、生きる痛み、悲しみといってもいい。私には、こうして若者たちの試みに寺として加担することが、「消費されていく仏教」を遠回りかもしれないが、徐々に本来の軌道に回復させる、唯一の道のように思えてならないのです。
 どうぞよき新年をお迎えください。南無阿弥陀仏。(秋田光彦)

2010年12月23日木曜日

介護施設で看取りが浸透しないわけ

去る11月27日、尼崎にて「第19回阪神ホームホスピスを考える会」があり、「施設での看取り」というテーマで講演を聴いた。
 最初に、特別養護老人ホーム けま嬉楽苑の土谷施設長が、「そのひとらしい暮らしを支えるターミナルケア」という話題提供をされた。
 施設の入口には鍵はかけておらず、入居者は自由に出入りできる(もちろん認知症の方も)が、トラブルはないそうである。入居者には事前に普段の雑談の中で自分の「死に対する考え」について確認をし、死後の世界などもタブー視しない雰囲気作りをしている。施設で亡くなられた方に対しては、お別れ会をして、正面玄関からご遺体は出棺される。入居者全員でお見送りをするのだが、それを見て認知症の方も一緒に涙をこぼされるという。現在入居者55人で看取りは年間7名。平均要介護度3.9、そして何と待機者が700人もいらっしゃるそうである。
 この施設のスタッフは、皆さんがホスピスマインドを持たれているように感じた。高齢者の虐待とか孤独とか、そんなニュースが絶えない中で、がんばっておられる特養の話を聞いて気持ちが明るくなった。


 続いて特別講演として、拓海会の藤田拓司先生が「介護施設の終末期ケア」というテーマで講演をされた。
 2025年には160万人の多死社会を迎えると言われており、現状より50万人増えることになる。そういった背景の中で、藤田さんが冒頭に「家での在宅医療が限界かなと思う」と言われたのは衝撃であった。病院でも死ねない。家でも死ねない時代がやってくるのかとゾッとした。
 家族の介護力が小さくなり、自宅での療養継続も困難になり、介護施設へ入所を希望する人、余儀なくされる人が少なくない。本来医療の現場ではない介護施設における終末期ケアを考えなければならないと言われた。しかし、介護施設では容易には死ねない現実もある。介護施設のスタッフたちの、看取りに対する忌避感が強いからだ。「死が怖い」「死にかかわりたくない」という気持ちもわかる。若いスタッフに死生観など要求するほどが酷なのかもしれない。そのため、藤田さんは「看取り」の研修を繰り返し実施されているそうだ。
もちろん「死生観」は人から教えられるものではないし、マニュアルなどない。でもその気づきのためのヒントになる研修を繰り返し実施されているのは、すごいと思った。
最後に藤田さんが言われたのは、今後、多死社会を迎える日本では、介護施設での看取りを積極的に行う必要がある。医療現場ではない介護施設で看取りを行うことは、困難を伴うが可能ではないか。そのためには医師の積極的な関与が必要である。自宅での在宅医療に近づけるために、①訪問看護が利用しやすいように制度を整備、②介護職による「吸引」などの医療処置が行えるように環境を整備することが必要、そして最も強調されたのは、③介護職に「死」を受け入れる教育が必要であると言われた。
すでに多死社会といわれ久しい。在宅看取りに比べて、施設での看取りはかなり遅れていると言われてきたが、必死でがんばっておられる現状が分かった。
残念ながら、この日の講演会では「死生観」の話は出てきたが、「宗教」というキーワードが出てこなかった。だからこそ、むしろこれからの宗教の可能性を感じた。

私自身、今まで在宅医療について知識を積んできたが、今後は介護施設についても深く考えてみたいと感じた。ただ最後にまったく個人的な見解を言わせてもらうと、私がお付き合いさせていただいている在宅の医師たちは、在宅の側にいて在宅を考えているので、限界なんてないぞと思っておられるが、一方で圧倒的多数の医療者や福祉の方は病院や施設にいらっしゃるのが現状である。施設重点主義は根強い。だから、そういう人が多いのではないか。また在宅が増えない理由もそこにあるのではないか。(浦嶋偉晃)