死ぬと、私という存在が消滅するのではないか…そのような死後の行方の不確かさについて、人は恐怖心を抱きます。身近な人を喪った時も、「いまどこにいるのだろう」「本当に安らかに逝ったのだろうか」と不安をおぼえる遺族は少なくありません。
日本の仏教は、お釈迦さまが説かれた直説的な教えとは別に「いかに死すべきか」を説き、日本人固有の死生観をつくってきました。中でも浄土教は「極楽浄土に行って仏として生まれ変わる」と死後の世界を保証しました。つまり、生と死を連続した「いのち」としてとらえたのです。
昔、お寺は、病院や薬局の機能も兼ね備えた医療福祉センターとして成り立っていました。ご本尊のあるお堂はホスピスです。看取りも僧侶たちの役割であって、「病気をいかに治すか」よりも「安楽に往生させるか(看取ることができるか)」を追求していました。今風にいえば、スピリチュアルな痛みを緩和させていたわけですが、同じ信仰に支えられた者どうし、死へのソフトランディングを可能にしたのだと思います。
いま看取りの作法や文化がなくなりつつあります。臨終は家族から病院へ、葬儀も自宅から葬斎場へとアウトソーシングされていく。かつて家族が、共同体が喪の作業として協同してきたものが、外部サービへとス委託されることで、死が見えにくくなっています。いかに老い、いかに死ぬかは、年齢を重ねれば自ずと理解できるわけではない。後事は子どもにすべて任せるといえる人も今や少数派です。
少子高齢化の時代といえど、人間は誰の世話にもならず死ぬことはできません。血縁に頼る看取りが実現しにくくなっている今、死を孤立させずに、互いサポートする仕組みと関係が必要となっています。自分の死を、生前に準備する。固有の死を支えあうもうひとつの家族が必要になります。
それは、見えなくなった死を、見えるカタチにする(デザイン)ということと同義です。エンディングデザインの思想がそこから生まれます。(秋田光彦)
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