東京、九州を巡回していた国宝・阿修羅像が奈良の興福寺に帰り、17日から本家での展示が始まる。両方で165万という記録的な観覧者を迎えた阿修羅像は、最近の仏像ブームも牽引した。いったい何が人々を魅了したのか、14日の朝日新聞で記事が載っていた。
納得したのは、「芸術新潮」の編集長が言っていた「阿修羅はキャラ立ちしている」というコメント。この像の造形的なキャラクターは世界に冠たるものと私も思う。興福寺の多川俊映さんも「心をくすぐる、何か懐かしい面相」が人々をひきつけたといい、「戦いに疲れて釈迦の教えを聞き、安らぎに到達した阿修羅に、自分も安らぎたいという思いを無意識のうちに感じるのでしょう」。
同感だが、それはいつの時代にも不変のもの。阿修羅の美学的価値は絶対的だが、それを評価せしめているのはそれぞれの時代の感覚だ。仏像ガールというようなキャラ(最近仏教教団の講演会などで引っ張りだのお姉さん)が登場するのも時代の要請なのだろう。
不景気、失業、自死、そして衝動殺人…世情は殺伐として、一向に明るい兆しは見られない。デジタル万能化が進み、会社も学校もすべてが異様なスピードで「決済」されていく中で、人々は自分の中に大きな欠落感を感じているのではないか。皆が荒々しい変化の風を、背中に受けながらじっと耐えている。東京展では長い行列で、入場まで6時間静かに待った人もいたという。
現代は変化することは成長と等価である。変化こそ絶対善の今にあって、仏像のように不変の存在はそれだけで希少であり、そこに揺るぎない規範のようなものを求めたのだと思う。失われた中心に回復していくような感覚。それは「癒し」という感覚と少し違って、再生への希望の色を留めている(私はその希望を、阿修羅の姿形に感じる)。
17日から始まる興福寺展では、「お堂でみる阿修羅」と副題がついている。お寺だけど「みる」であって「拝む」ではないのはちょっと複雑だが、堂内照明(展示的には照明効果が大きい)もあるそうだから、行ってみたら。(蓮池潤三)
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