2010年12月15日水曜日

死後をともに「生きる」仲間

(前回12月11日ブログから引き続きお読みください)

続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。
秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。
長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。
石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。
最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。
現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。
また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。

 私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。(浦嶋偉晃)

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