2010年7月24日土曜日

遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~

7月10日、應典院にて寺子屋トーク「遺族と<墓友>たち~人生の最期にこだわる仲間たち~」で、エンディングセンター代表 井上治代さんの講演を聞いた。井上さんは、今や死と葬送をめぐる環境は“選択する時代”に入っており、核家族の晩年の姿は「夫婦だけ」、最晩年は「独居」となるからこそ、個と個がどうつながり、助け合うか、家族をも含めた他者との「ゆるやかな共同性」「結縁」Support Networkを模索し、実現していきたいと活動されている。
冒頭、大蓮寺の創設した「第1回自然賞」の授賞式があり、受賞団体として、桜葬などに取組む「エンディングセンター」が選ばれ、贈呈式が行われた。

最初に井上さんは家族が遺族になった時、①死の受容、②悲嘆の回復(グリーフワーク)③高齢者が「一人で生きる」ということ、ということが課題として掲げられるが、その中で一番大切なものは、核家族が進む中、③の高齢者が「一人でどう生きていくか」が大問題であり、またそれと対になって「一人でどう死んでいくか」が課題であると言われた。現在、子どものいない高齢者世帯が増加しており、葬式でも喪主も確保できない人が増えているが、1990年代からは跡継ぎを必要としないお墓もできてきた。しかし、それは決して子どものいない夫婦ばかりでなく、むしろ子ども(娘、息子)がいる家に多く、跡継ぎがいる家族が、跡継ぎを必要としないお墓を求めだした傾向が強い。つまり現在において、血縁による継承は制度疲労を来しているのである。

1990年代からのお墓の変化として、①跡継ぎ性からの脱「継承」、継承者を必要としない集合墓など、②散骨、樹木葬などの自然志向、③個人化が挙げられる。中でも③個人化、つまり個人が選ぶ死後のあり方が進み、家族機能の外部化、社会化という時代になった。他人に託す介護保険制度がその象徴である。そこでその死後の社会化(喪主、死者祭祀の家族外部化)をサポートするのが、エンディングセンターの役割だと思っていると言われた。
葬送の中の「家」システムが後退し、「集団から個人へ」と価値意識が転換していく中、エンディングセンターでは「桜葬」墓地を作った。ここではお墓というハードだけでなく、そこに集った人達や会員でお墓を守ったり、生前から交流したりするという「墓友」グループを作っている。
今は家族の永遠性を求めることはむずかしい。桜などの自然という永遠性に囲まれて、「墓友」みんなで眠るというイメージである。
今では家族用にも「桜葬」墓地を設けている。子どもたちが入るかどうか分からないが、将来一緒に入りたいと思ったときに入れるように、可能性を保持できるところが人気となっている。子どもに墓の管理を負わすことなく、しかし一緒に入りたければ入ることが出来る、このあたりに現代の核家族の特徴があらわれていると言える。

最近は「就活」ならぬ「終活」という「死」を自分でデザインする時代に入ってきた。元気なうちに終末、むしろ死んだ後のことを考える時代に来ている。生き方にこだわる人が死に方にもこだわっている。墓を核としたネットワークはすごい。実際には家族と親族は永遠ではない。「人生の最期」にこだわる仲間たち、つまり血縁だけでない新たなサポートネットワークの時代がやってきたのではないか。家族の行方を、今後も墓を焦点に考えていきたい。

人生の最期、お墓の問題については、私にとっても悩ましい課題だ。桜葬に関しては、私自身まだまだ考え方の部分に踏み切れないところがあるが、関心を示している人が多いことも確かである。現代では「死」はあくまでも個人のものとなり、共同体のものでなくなったのだろうか。その家族の移ろいを認めざるを得ないが、私自身、一抹の空しさは感じる。
今回は私自身が、親、子どもを視野に入れつつ、自分の最期、死んだ後について考えるよい機会になった。(浦嶋偉晃)

0 件のコメント:

コメントを投稿