2010年12月19日日曜日

無縁から生まれた、結縁の場所

 今年の流行語大賞に「無縁社会」がランクインしました。NHKが年初に放送した番組がきっかけだが、年末にはすっかり時世を映す言葉として定着した感があります。また、それを裏打ちするような事件が、今年は相次ぎました。酷暑につづいた真夏には、児童虐待の惨い事件が連続して発生し、死んだ老親をタンスに隠した事件もありました。親名義の年金欲しさにだ。無縁というより、もはや絶縁社会といったほうが的確かもしれません。
 私が「無縁」という言葉に初めてふれたのは、学生時代に網野善彦さんの名著「無縁・苦界・楽座」を読んだ時です。日本の中世には無縁所という寺社を中心とした独特の共同体があって、そこには世俗を逸脱した人びと、職人や芸能者、宗教者が集住していた、といいます。鮮烈な印象が残りましたが、無縁に対する解釈は、むしろ束縛されない自由区というイメージに近いものがありました。
 現代の無縁社会は、イコール悪であり絶望を意味します。それを救済するには行政サービスや社会保障に頼むしかなく、しばしば政治の無策や不正が指弾されます。それは一面その通りなのですが、それだけが救済なら、われわれは結局権力の支配にすがる他はありません。むしろ無縁だからこそ、そこから生まれる新しいつながりやネットワークに知恵を働かせるべきではないか。家族にせよ地域にせよ、従来の共同体からこぼれおちた人びとを「結縁」するために、宗教者にやれることはないのでしょうか。
 今年は、釜ヶ崎で活動する宗教者たちと出会いがありました。寺もない、檀家もない、釜ヶ崎という独特のエリアで葬送の支援をしようという志に生きる僧侶もいました。対象の多くは日雇いの労務者であったり、野宿者です。ここでは、布教教化というような振る舞いが傲慢に見えるほど、宗教者と対象者の関係は限りなく近い。確かに無縁ではあるが、絶望ではない。あるのは、何とかしようという宗教者の意志と、それに協働する、さまざまな市民のはたらきです。利他の共同体ともいうべき「志縁のネットワーク」が、無縁社会の片隅から生まれつつあります。
 と同時に、そこから窺える、これまでとは異なる仏教者像に、私は気づかされます。布教者としての勇ましい使命感や責任感は棚上げして、ただ対象に寄り添う、という共感共苦に生きる態度です。あれこれ建前に惑わない。自分の感覚に正直に行動する。徹底的に自意識を退けた、その無為な立ち方やふるまいに、小さな希望を垣間見るのは私だけでしょうか。無縁とは、ひょっとして布教エゴに凝り固まった僧侶たちを、一度結縁の淵へと押し戻す、如来の導きではないか、とふと感じました。
 そして、間もなく大晦日。大蓮寺と應典院では翌元旦にかけて寺域を開放、生きることに疲れ、居場所を失った人びとが集う、「年越しいのちの村」(共催Live on)を開催する準備に忙しい。これもまた無縁から生まれた、もうひとつの場所なのです。(秋田光彦)

2010年12月15日水曜日

死後をともに「生きる」仲間

(前回12月11日ブログから引き続きお読みください)

続いて、大蓮寺秋田光彦住職と石黒大圓さんが加わられシンポジウムが開催された。
秋田さんは、ここ10年、「死」に対する、市民の感覚が加速的に変わってきた、言う。但し死生観は希薄なままだ。最後まで自分らしくありたいと言うが、一歩間違えば、最後までわがままを通すということにならないのか。人間の死、死後は自分の意思決定だけで良いのか。本当に自己決定、自立するならば、「死生観」をわきまえなければならないのに、違った方向に行っているのではないか。「死生観」はどんなにインターネットを駆使しても出てこない。仏教が長い年月を経過しても今も残っている意味を問いかけていきたい。
長尾さんは、もっと医学生に死生学をまなぶべきである。医療者が一番遅れていると言われた。また医療界はまだ守りの立場である。cureからcareへのパラダイムシフトが出来ていない。在宅はできつつあるが、病院はcureしかできていない。むろんcureもcareはどちらも大事である。ウェイトシフトができていないと言う。
石黒さんは、次の世界が光り輝く世界だと希望を持っていて、そこに導かれているのでいつ死んでも良いと思っているという。死後の悔いは残らない。そう思うようになってきたのは、「いのちと出会う会」でいろいろな方と出会ってお話しをお聞きして、死後の世界で亡くなった妻子たちが待ってくれているのだと信じて疑っていないから、と言われた。
最後に秋田さんが問われたのは印象的だった。
現在ひろまっているのは、自分が死ぬときにどうするのかという1人称の視点ばかりで、あなたの死、つまり2人称の死について学ぶ場が乏しいように思う。改めて長い間、継承されてきた「先祖教」の意義は何か、再考しなければならない。今後、1.5人称の視点が必要になってくるのではないか。
また、自己だけでなく、誰もが死に向かって一緒に歩いている仲間だという認識はあるだろうか。死後をともに「生きる」仲間として、いのちのコミュニティのあり方を考えていかなければならないのではないかと問われた。

 私は石黒さんの死生観というか、死に対する考え方がとても好きである。今回お聞きして、石黒さんの「いのちと出会う会」に対する思いに新たな発見もした。今後、そういう視点を持って「いのちと出会う会」に参加したいと思う。それによって私の揺らいでいる「死生観」についても思い直して見たいと思う。(浦嶋偉晃)

2010年12月11日土曜日

おせっかいと看取り~いのちと出会う会 100回記念講演「地域でつなぐ、いのちの絆」

 去る11月23日、應典院で「いのちと出会う会 100回記念講演」として、「地域でつなぐ、いのちの絆」というテーマで、講演とシンポジウムがあり、参加した。

 「いのちと出会う会」は代表世話人の石黒大圓さんが中心となり、2000年よりほぼ毎週木曜日に應典院で開催され、毎回話題提供者を迎え、いつか来る「人生の店じまい」を見据え、生きること、老いること、病すること、そして死についてじっくり語り合う「場」であり、このたび晴れて100回目の記念を迎えた。
 冒頭の挨拶で石黒さんは、人は生老病死の苦難を乗り越えられたときに、多くの人々の支えによって生かされたという発見から、「お陰さま」の気持ちやお世話になった人々に「恩返し」をしたいという行動に結びつくものであり、その結果、人間性もまた一回りも大きく成長していくと言われた。
 まずオープニングは、口笛演奏家のもくまさあきさんの素晴らしい演奏で幕開け、記念講演として、長尾クリニックの長尾和宏院長の「在宅医療といのちの絆」という講演があった。長尾さんは尼崎で開業され、365日の診療、24時間の在宅医療をされている。
 長尾さん自身、高校のとき父親を亡くされた経験をもっておられ、その時はとにかく力を失い、気力が喪失し、学校にも行けなくなり、一旦自動車工場に就職、しかし立ち仕事で腰を痛め、改めて大学進学の道を歩まれた。その後、大病院で救急医療に関わり、様々な死をみてこられたが、そうしている内に「終末期医療」について疑問を持ち始めた。そして阪神・淡路大震災をきっかけに、スラム化した病院ではなく、もっと患者に寄り添いたいという思いから開業されたという。
 在宅には、様々な人間模様がある。臨終の際には「死の壁」がある。とくに死の一日前にはもがき、大きな心の揺れがある。在宅で「死の壁」を乗り越える方法として、家族に「一日ほどの一瞬のことなので、ただただ患者さんに静かに寄り添ってほしい」と説明するという。これが現在の病院ではできない。
 言葉の通じない外国人を看取ることもあり、最初は通訳ボランティアを通じて会話をしていたが、「死の壁」がやってきた時、言葉が通じなくても身振り手振りで会話を交わしながら、家族が必死で生と死を支えているのを目の当たりにすることもある、という。生死と家族は、ここでも一緒なのだ。
 独居の看取りが、これからは当たり前のようになるだろう。独居でも、身体状態が悪くても、在宅で過ごすことは可能である。コミュニティは崩壊したと言われているが、近所の人がみているケースもある。これからの無縁社会を乗り越えていくのは「公的ヘルパー」であろう。
 これからの介護のキーワードは「おせっかい」だ。職場で死にたいという人がいれば、そこで看取りたい。もっと在宅ホスピスの可能性を知ってほしい。実際に在宅で看取るには家庭、家族によってさまざまな事情があり、難しいケースがあるが、やはり好きな人たちに囲まれて生を終えるのが理想であり、長尾さん自身、これからも理想の実現に向かって進みたいと言われた。(浦嶋偉晃)
≪この項つづく≫

2010年12月5日日曜日

「同治」によるコミュニティの力

(前回12月2日ブログから引き続きお読みください)

 應典院寺町倶楽部の名物企画で、2000年からほぼ毎月開催してきた「いのちと出会う会」が、11月に通算100回目を迎えました。私も世話人に名を連ねていますが、この功績は代表世話人として、この会とともに励んでこられた石黒良彦さんの尽力によるものです。
 さて、会の報告は別に譲るとして、「スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア」の可能性として市民学習の試みがあります。「いのちと出会う会」も「大蓮寺・エンディングを考える市民の会」も同様の場ですが、双方に通じるのは、大人が死生観について学ぶ場であることです。
 死生観は、これが正解というものがありません。昔は、仏教が大きな物語として作用してきましたが、現代は個人がバラバラになって、一人ひとりが自分の死生観を探しださなくてはならない時代です。世代間で引き継がれてきた伝統も、少子化と家族の多様化で、継承が難しい。インターネットで引っ張ってくるのは、知識や情報であって、「観」という考え方、あるいは生き方というようなものになっていない。そこに、市民学習の可能性があると思うのです。
 「いのちと出会う会」は、在宅ホスピスや成年後見制や葬儀の実際など、講師が情報を提供する学習もあるのですが、とくに特長的なのは、その後の語りあいです。参加者が裃を脱いで、今日の話題を共有しながら、少しお酒も入れながら意見交換をする。そこには問題解決してくれる専門家がいるのではなく、参加者同士が対等の関係で、共感の関係を紡いでいきます。時に死別体験やがん体験を、語り合うことも。誰かの言葉に耳をそば立て、そのことが他者に対する信頼となり、自己への安心となります。この「同治」の体験があって初めて、人は自分の中の死生観というものを養うのだと思います。誰かにケアしてもらう「対治」的なスピリチュアルケアではなく、皆でケアしあう、「同治」のスピリチュアルワークといった方がいいのかもしれません。
 そういう体験は、ネットで共有することは難しいものです。皆が対等に集えるリアルな場と、石黒さんのような市民の立場から場をつなぐような存在が必要となります。そして、この場に参加した人たちが、今度は自分の家庭や職場や地域に帰ってから、石黒さん同様につなぎ手となってくだされば、スピリチュアル・ワークはさらに拡がっていくことでしょう。
 「弱さ」には、周囲の人がそれ見捨ておけない、何とかしないではいられない、という求心力心があります。それは、人間の内部に秘められた「慈悲心」といってもいい。弱者がいたら、すぐに社会保障やサービスに頼る(そして、気に入らなければ文句を言う、という消費者的態度!)のではなく、それを支えあう「同治」によるコミュニティの力を私は信じたいと思います。
 枯渇した日本人の死生観も、そういうつながりの中から、次第ににじみ出してくるものであってほしいと願っています。≪おわり≫(秋田光彦)

2010年12月2日木曜日

スピリチュアルケアと言わないスピリチュアルケア

 先月20日、府立の急性期総合医療センターが主催のシンポジウム「生と死を考える~がん医療とスピリチュアリティ」に出演しました。府立の総合病院が「死」をテーマに企画をし、しかも満場の聴衆が集まったことは、時代の変化を肌で感じました。
 私も黒衣に輪袈裟で登壇しましたので、十分目立ったかと思いますが、ドクターやチャプレンと並んで意見を交わしました。自ずと議論の中心は、がんの緩和ケアからスピリチュアルケアへと移っていきました。
 僧侶がこういう場に出てくると、ビハーラとか僧医とかいって、新しいお坊さんの臨床への参加と持ち上げられるのですが、それは言うほど簡単なことではありません。お隣の韓国などは総合病院内に宗教別の部屋があって、そこに宗教者が常駐しているのは当たり前ですが、日本では教団経営の病院以外は、皆無に等しいのが実態です。それほど「「葬式仏教」に対するアレルギーは強いのでしょう。また、それを口実に、仏教者側も一向にこの課題に取り組もうとしない。現実は、一部の良心的な宗教者によって、個別に執り行われているのであって、日本で言う「スピリチュアルケア」は絶えず宗教と切り離して考えられてきました(もともとWHOの健康の定義に、スピリチュアルケアを提案したのはイスラム諸国です。理由は明白ですね)。
 もちろん、仏教者の臨床参加もたいせつな実践なのですが、だからといってスピリチュアルな活動が全部病院の中に、ベッドサイドの現場にある、と捉えていいとは思いません。それは、「ケア」という言葉を用いた瞬間、ケアギバー(ケアしてくれる人)とクライアント(患者)という二者関係を連想してしまうこととも通底しています。そもそもスピリチュアルケアとは、病院内の専門用語なのでしょうか。
 年間120万人が亡くなる多死な社会にあって、「治す」医療は限界と言われています。在宅医療や訪問医療も徐々に浸透し、じつは住み慣れた家で最期を迎える人たちも微増しています(2005年の79.8%をピークに、病院死は以後微減しています)。もちろん、在宅死であっても専門職の支援は欠かせませんが、人生の最後の時間を、一緒に過ごす家族や地域との関係は、スピリチュアルケアとは言わないのでしょうか。
 「同治」と「対治」という仏教の言葉があります。例えば熱が出て、その対処法がふたつあります。水で冷やして治すのが「対治」、うんと汗をかかせて治すのが「同治」です。病院というところは、何かをしてもうところなので、自ずと関係は「対治」にならざるを得ない。外科手術も投薬もすべて高等な技術としての「対治」です。しかし、その手前に、私たちの日常の生活や暮らしの中に、それ以上の「同治」の可能性があるはず。スピリチュアルケアとは、これまで「対治」してきたケアを、「同治」の関係へと取り戻すような意味があるのかもしれません。
 シンポジウムの席で私は、「スピリチュアルケアとは言わないスピリチュアルケア」を提唱しました。本来、スピリチュアリティとは生活や暮らしの中にあるもので、自分たちがさまざまな関係性の中から育んでいいくものだと。大蓮寺の「エンディングを考える市民の会」や、應典院の「いのちで出会う会」などの活動は、まさに他者や地域、社会とふれる、貴重な機会となっているのではないでしょうか。(秋田光彦)
≪この項つづく≫

2010年11月28日日曜日

シンポジウム「生と死を、今考える」を聴講して

去る11月20日に相愛大学×府立急性期・総合医療センター連携シンポジウム「生と死を、今考える」に参加した。
最初に驚いたのは、病院の入口からシンポジウム会場に向かうまでに、案内文が各所に貼られていたが、公立病院内であるのに「死」という文字が躍っていたことだ。今、「生と死」ということについて真剣に考える時代になったのだと感じ、「死」を思うということが確実に我々にとって身近なことになってきているのだと思った。

 冒頭、相愛大学の記念コンサートがあり、リラックスしたところでシンポジウムが始まった。最初の基調講演では「がん治療最前線と緩和ケア、ターミナルケアの諸問題」で府立急性期 田中診療局長の話があった。まさに日進月歩のがん治療の最前線について具体的に話して頂き、ロボット手術など今後の新しい治療法についての可能性についてお聞きし、将来に希望を感じた。また緩和ケアについてはチームとしてのアプローチが重要であり、今までのように終末 = 緩和ケアではなくて、早期の段階から緩和ケアの必要性を訴えられた。最後に医療現場の現在の問題点として、外科医になりたい人が少なくなっており、人手不足で困っている、医師でなくても出来ることの負担を取ってもらえれば、と講演を締めくくられた。
 確かに医療の人材不足は大きな問題である。何でも専門家任せではなく、我々市民と医療側との相互理解が深まれば、またそのために今回のような市民講座を開催されたのであろうが、その必要性を感じた。
 2つ目の基調講演では相愛大学の釈徹宗教授が「スピリチュアルケアの可能性」について講演をされた。スピリチュアルケアとは痛み(ペイン)を取り除く作業ではなく、その人の死生観にかかわるものであり、自分という存在そのものに関する問いへの寄り添いである。また「宗教的ケア」と「スピリチュアルケア」は違うものであり、「スピリチュアルケア」は伝統宗教にコミットしない人たちに必要なものであるが、本来は伝統的な価値を持つ宗教をもっと活用すべきであると思う、と強調された。釈さんは「慈悲の瞑想」という言葉を出され、人間は「死」を活用して生きることが出来る。宗教には「死のイメージトレーニング」という役割を持っている。「もし明日、死ぬとしたら」とリアルに死をイメージする、そうして普段の自分の価値観の枠組みが揺さぶられ再構築していく、つまり日常を点検していく作業が必要である。また「つながり」と「共振」という言葉を出され、「共振」について、同じ生と死の物語を共有する人同士でないと、宗教の救いは語れないし、共振現象が起こりにくい。生と死を超えるリアルな世界は共振現象でなければ成立しないと言われた。
釈さんは最後にこれからの可能性として、3つのトライアングルがあり、一つはエビデンスに基づいた医療(EMB)、その相対的な概念としての患者の主観的なナラティブに基づく医療(NBM)、そして地域(NPOなど)と連携、関連し合うことで生まれる医療、この3つのトライアングルが響きあって、新たな、本当の意味での医療の連携が生まれるのではないかと提起された。
 やはり釈さんが最後に言われた地域コミュニティの連携なくして、再生は有り得ないと思う。それを取り戻すのは決してハードルは低くないが、コミュニティの構築が大切になると思った。スピリチュアルケアはマニュアルのない、一人一人が違ったペインを持っている。難しい領域だ。

 シンポジウムの最後として、「がん医療とこころのケア」と題されたパネルディスカッションがあり、大蓮寺の秋田光彦住職、チャプレンの打本未来さん、府立急性期 吉田緩和ケアチーム長が加わって交わされた。 チャプレンの打本さんは、患者さんと2時間近くのお話しの中で、その人の人生を振り返る作業(ライフレビュー)をし、その人の歩んでこられた人生はどういうものだったのか、その人が人生の過程でぶち当たった問題に対してどうやって解決していったのかを聞き、それを話の中で参考にすると言われた。また関係性が崩れてしまった家族の場合に呼ばれることが多いという。
 秋田住職は、緩和ケアとスピリチュアルケアは元来違うものであり、そして当事者を主体としたスピリチュアルワークを積み上げていくには、「地域」こそふさわしい。一人の人間として裸になって向き合わなければならない。地図で区切られた「地域」ではなくて、場所、立場は違っても、同じ問題意識や境遇で集まってくる「コミュニティ」の再編が大切である(例えばがんコミュニティ)。また、死に対する自覚がないまま、何でも病院にお任せする前に、まず自らの死生観を学ぶことから始めなくてはならない、「今」を考えて生きることが何よりも大切であると言われた。
 秋田住職が言われた、「痛みは、悼みとも通じる。悼んでくれる誰かと出会う、悼み、悼まれる関係を整えることが必要」というのが身に沁みた。コミュニティの再構築が本当に重要だと思った。一年に一回でいいから、まず身近な家族から、こういった死生観を話し合うことから始めてみてはどうだろう。

 最初にも書いたが、府立病院が「死」という課題に取り組み、シンポジウムを開催されたのは画期的な進歩だと思う。我々市民も一緒になって、もっと「生と死」、「死生観」について考える必要性を感じた。(浦嶋偉晃)

2010年11月23日火曜日

死刑と市民と死生観

■市民が選択した極刑
 市民がかかわる裁判員裁判で、初めて死刑が選ばれました。
 11月16日、横浜地裁は、麻雀店経営者ら2名の殺害事件の被告に対し、その計画性、残虐性から死刑判決を言い渡しました。市民が自ら命の裁きを下したことになります。
今回の裁判では、事実関係の争いはありませんでした。被告は裁判当初は同情や共感を拒み、自ら死刑に追い込むような言動が目立ちました。それが審理を経るうちに「心情が変わっていくのが、よくわかった」(裁判員の男性)といいます。「被告に人間性は残っている。わずかでも死刑をためらう気持ちがあれば、死刑にしてはならない」(弁護人弁論)。そして、市民が加わって3日間の評議を経た結果の判決は、被告の人間性を問いながらも、極刑の選択をしました。
これまでは「お上にお任せ」の裁判でしたが、去年、裁判員裁判制度が始まって以来、急速に市民の関心は高まっています。量刑の如何にかかわらず、判決という究極の判断から誰もが逃れられなくなったからです。人権の立場から「死刑反対」というのは簡単だが、自分が裁く側となった時、その主張を貫くことが可能なのか、国民全員に重い課題が突き付けられています。

■他者の死と向き合う
 当初、裁判員制度立案の経緯では、裁判員のストレスなどを考慮して、刑の軽い事件から対象とすべき、という声があったといいます。しかし、それでは本当の司法の参加にならない。人の生死がかかる重大な犯罪にこそ、市民の良識を反映させる必要があるとされました。「裁判員が実際に判断することで、死刑が刑罰として適切なのか、今でも日本に必要なのかを社会全体で考えることにもつながる。制度を維持するなら、私たち1人1人が責任をもって向き合う必要がある」(土井真一京大教授)。
 市民社会は、それまでの「お任せ民主主義」を批判して生まれました。社会における重大な決定を、お上に任せるのではなく、自分たちに主体を取り戻そうという運動の結果でもありました。裁判員制度の誕生にも、その精神は活かされているはずで、「死刑判決だけは別」とはいかないのです。
今回の判決の結果は、尊重しなくてはなりません。今後、死刑を含む司法参加は進んでいくことでしょう。同時に、「司法的殺人」として死刑に反対する声についても熟慮を重ねなくてはなりません。死刑に市民が皆、向き合わなくてはならないのです。
 私は、もう1つ、今回の死刑判決が日本人の死生観にも大きな影響を及ぼす、と感じています。人間は一般に自己を中心に、家族や同僚、知人といった、親しい2人称の死までしか体験することはありませんでした。それが生死のかかる裁判では、自分が他者の死に意識的に関与し、責任を負い、公正な判断をしなくてはなりません。「最期まで自分らしく」というようなフレーズが委縮してしまうほど、「他者の死」は冷徹なほど自己の死生観を相対化していきます。
 判決言い渡し後、裁判員の一人は記者会見でこう発言しています。
 「日本がいまどんな状況にあるかを考えると、一般国民が裁判に参加する意味はあると思う」(趣旨)。
 犯罪、裁き、償い…そして、人間性とは何か。市民社会における死生観とは、個人の生死のみならず、そういう重く深い命題を引き受けていかざるを得ない、と思います。(秋田光彦)

*本稿は、11月16日、17日の各新聞報道を参考にしました。