8月1日、夏のエンディングセミナー「’みとりびと’は語る」の第3回目のゲスト、アットホームホスピス代表の吉田利康さんの講演を聞きしました。吉田さんは、10年前に奥様を自宅で看取られた体験者です。
お話は、奥様の「病名告知」から「おわかれ」まで、時間にそって、吉田さんの心の揺れ動きを率直に語ってくださいました。
1999年、奥様が急性骨髄性白血病と診断された頃、まだ介護保険はなく、また、今と違ってインターネットも普及途上にあって、容易に往診医も探せない時代でした。吉田さんもかかりつけ医に在宅療養支援を相談されましたが、がん末期と知ると往診を断られたそうです。
吉田さん夫婦は、結婚した際に、どちらかがんになっても隠さないという約束をされていました。奥様は当時病院勤務の看護師をしておられ、ある程度の死の準備教育は積んでおられましたが、実際の「告知」を受けたショックは予想を超えた衝撃でした。頭の中は真っ白、膝はガクガクと震え、「告知」というのは医療者やマスコミが言うほど、簡単なものではないと実感したそうです。
奥様は、ご自分の病気の事を必要最小限の人だけ知らせてほしい、それ以外の人には伝えないでほしい、他人から口伝えで病名が伝わる、それだけで怖いと仰ったようです。
病院に見舞い、家に帰って家事をつとめる吉田さんの生活が始まります。奥様のいない家では、汚れたタオルを洗濯しているだけで泣けて仕方なかったといいます。そして、余命告知が本人に告げられました。そのショックも壮絶でしたが、それ以上にすごいのは、そこから自力で立ち上がってくる人間の強さでした。告知から一ヶ月が過ぎるころ、奥様は徐々にいつもらしさを取り戻し、それに安心したのか、逆に吉田さんは精神状態が悪くなっていく。ついに奥様の前で「おれはもうどうしていいかわからない」とべそをかく。それを支えたのは、なんと死と向き合っている奥様だったのです。吉田さんの目からうろこが落ちます。そして、妻を背負って歩こうとしていた傲慢さに気づき、妻がして欲しいことをすればそれでよいのだと思った時、気持ちが楽になったと話されました。
すると奥様が「私、家に帰ってもいいかな?」「もう他人に身体を触られるのはこりごりや」と遠慮がちに言われ、介護保険のない時代に在宅ケア、男の介護が始まりました。家には不思議な力がありました。今まで連携の悪かった父子でしたが、母親が帰ってくると見違えるように子どもたちのふるまいが変わりました。病院で眠れなかった奥様が、熟睡できるようになりました。なによりも家に帰った奥様は患者ではなく、妻に、又、母親に戻られた。
在宅での生活は17日間でした。がんの末期は短距離競争です。枕元には氷枕と体温計と血圧計の三つだけでした。そして本人の意思により最期までモルヒネも使わず、お別れは家族だけでした。
奥様の看取りから10年たって思うことは、家での看取りは自分自身を変えた、ということ。奥様のためと思っていたことは、じつは自分自身の生き方の転機となったと吉田さんは言います。
吉田さんが今、在宅介護や看取りの講演・執筆活動をされているのは、「もし病気がよくなるんだったら、同じ病気の人の話し相手になりたい」という言葉が契機となっています。その思いを代わりに引き受けるのが、自分のささやかな供養だと思っていると仰っておられました。
家で看取ると言っても、家族としてどうすれば看取れるのか分からないのが正直なところではないでしょうか。その結果、在宅医や訪問看護師に過度な委託をし、家族の役割も果たせないまま終わってしまいます。時には旅立ちの二日前ほどの時期になって、再入院をさせるなどが起こります。「妻(患者)がして欲しいことをすればそれでよい」とのことばは、看取りへの大きな示唆と受け止めましたし、それが介護をするものの基本姿勢ではないかと感じました。
いま、死は社会から封印されています。8割の人が病院で亡くなり、葬儀も6割が式場で執り行われる。死は生活から遠ざけられ、姿が見えないまま、福祉や介護といった制度論だけが先行しているように思います。在宅ホスピスの心とは、「死」を生活の場に取り戻し、それを見据えながら、今、生きることの意味を考えることなのです。
医療や介護、福祉の充実もたいせつですが、家に備わっている「日常」に潜む力を引き出すことが何よりも必要であり、それが結局、「ケア」の本質に触れることではないでしょうか。
吉田さんの絵本「いびらのすむ家」の「いびら」とは、「家に住む人たちを見守る神」のこと。人には見えない「いびら」の存在が私たちの「暮らし」を守っているのです。(浦嶋偉晃)
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