2009年12月27日日曜日

(2)死の臨床と物語

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

3人のゲストは、葬儀社最大手の大阪・公益社執行役員の廣江輝夫さん、開業医でいまい内科クリニック院長の今井信行さん、アットホームホスピス代表の吉田利康さんですが、共通しているのは立場を違うが、死の臨床に立ち会う専門家であるということです。しかも、その専門性が現代の死と切り結ぶうちに意味の異化作用を起してる点がたいへん興味深いものでした。
葬儀社の廣江さんは、早くから遺族支援「ひだまりの会」を設置して、グリーフケアの普及に取り組んでいますが、これは「葬儀」を扱う葬儀社が「葬儀後」を扱い始めた点で異化されています。 今井さんも、在宅ホスピス医として大勢の方を看取ってこられましたが、「延命ではなく、いかに死を受容するか」という文脈自体、近代の治療医学とは違う地点に立たざるを得ません。
このように現代の死の臨床では「脱専門」という大きな転換期を迎えていると思います。一方で同じ現場にいながら、僧侶は無関与のままほとんど反応を示さないでいます。臨床家としての自覚がないのでしょうけど、ある意味、ものすごくもったいないことだと思います。 今回のセミナーでも「葬儀社対僧侶」「医師対僧侶」という異なる専門性をすり合わせながら初めて見えてくるものがあります。僧侶とは、本来そういう異化を引き起こす他者性をゆたかなに内蔵しているはずですが、残念ながらそれが発揮されることは皆無に等しかったのです。私は「僧侶性の限界」と言っているのですが、それぞれの宗派に依って立つことが僧侶のアイデンティティであると同時に、皮肉なことにそれがバリアとなって、外との対話や交流の機会を阻んでいるように思います。日本の僧侶は社会性云々という前に、絶望的なほど他の専門家と向き合う接点が少なすぎます。 
3人との対話では、臓器移植法の改正やスピリチュアルケアについても議論があったのですが、私がいちばん印象に残ったのは、長年在宅医療にかかわる今井ドクターが「在宅死って、一篇の詩のようなものなのかもしれない」とつぶやいたことでした。物語とかナラティブ(編集部注釈・narrative=話術、語り口、叙述すること)とか言われるところと重なるのですが、これはいまの仏教に大きく欠落しているところと感じました。
愛妻を自宅で看取られた吉田さんも、元々文才の豊かな方だったこともありますが、その死別の悲嘆を外に表現することで受容していかれました。最初にある医療財団から助成を受けてつくった在宅ホスピスの啓発用ブックレット「あなたの家にかえろう」が十万部無償配布されて話題になって、今年は絵本「いびらのすむ家」を刊行されました。これは、吉田さんの死別体験を原案とした絵本です。愛妻の発病から入院、闘病、余命告知、在宅看護、そして最期の看取りまでが家族たちの魂の物語として描かれています。これは医療の専門家には絶対書けないものであって、患者やその家族といった当事者たちが「物語」という方法を手にして、死の臨床に立ち上がってきたことを強く実感しています。 
  吉田さんは今、生活の座から生老病死を見つめ直し、市民目線で介護・看取り・交流・助け合いを実践していく場「アット・ホームホスピス」を立ち上げ、活動しています。非常に横断的なネットワークで、従来の専門職のタコ壺的状況に切り込もうとしています。ここから市民によるもうひとつの専門性が生まれるかもしれません。現代の仏教がそういった動きとどう連携できるのか、あるいはできないのか、関心は尽きません。(秋田光彦)

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