2009年12月3日木曜日

「葬送と仏教~死生観の視座をもとめて~」の講演をお聞きしました。

 去る11月21日、大阪YWCAにてエンディング講座「葬送と宗教~死生観の視座をもとめて~」のパネルディスカッションに参加した。時間も限られており、議論も十分掘り下げるには到らなかったが、意欲的な企画に敬意を表したい。
 当日はコーディネーター役にジャーナリストの北村敏泰さん、パネリストに大蓮寺住職・秋田光彦さん、公益社執行役員・廣江輝夫さん、宗教思想史家 笠原芳光さん、イースター式典社社長・小林望さんの4名の方からお話を聞いた。参加者は50名を数えた。
 冒頭、北村さんから現在増え続けている「直葬」の話題が提供された後、「葬送の現況と今後の展望」というテーマについてパネリストがそれぞれの立場から語った。以後はその発言要旨である。

 廣江さんの話で印象的だったのは、現在の葬儀は「参加する儀式」という指摘だ。昔はご近所さんが中心になって葬儀を担当していたのが、今は主導権を葬儀社が握り、喪主も単なる参加者の一人になっている。高齢者も葬儀文化を伝えようとしない。葬儀社中心の葬儀になっていくのは、それでいいのか。また、葬儀を合理化し、単純化する傾向が著しい。本来、葬儀は人間関係の再構築の場であるべきだが、その意味も損なわれている。
 葬儀の様式にはそれを行う人たちの死生観、宗教観が深く埋め込まれいる。葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理していくか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。
 小林さんも「葬儀の大切さ」を話され、葬儀はお世話になった方へのお礼の場であると言われた。
 一方、笠原さんは、仏陀もイエスも共に葬儀は必要ない、生きている者を大切にしなさい、葬儀よりも生者のほうが大切であると説かれていると言われたが、正直なところ、この部分の解釈は今の私には難解であると感じた。

 秋田さんは、葬送は長い人生の死生観を生きるための人生儀礼である、と述べた。また「仏陀の弟子アーナンダの裏切り」を例に挙げ、葬式仏教は仏陀の死から始まった。仏陀の「遺体を焼いて、そのあとで骨を拾ったり供養の対象にしたりする必要はない」という遺言に対して、供養の気持ちを押しとどめることができなかったアーナンダは背いてしまった。
 現在、仏教を批判して、葬式仏教と嘲笑をあびせる人々の声は絶えない。しかし現実は日本の仏教がかくも長く生きながらえてきたのは、アーナンダ以来その死の儀礼を執行しつづけてきたからではないか。
日本の葬送文化の基軸は、仏として再生するという浄土往生思想にある。日本人の浄土観では、浄土は遠い所にあるのではなく、常に生活の延長線上の身近にある。
 現在、「地縁型寺院の崩壊」があり、都市社会において、死はどんどん「個人化」(一人称化)して、閉ざされている。現在の葬送は文化というより市場サービスであり、宗教観、共同的死生観が衰退し、二人称としての視点が後退している。
 死の「個人化」と「脱宗教性」により、死の共同性が喪われている。

 大蓮寺では、7年前から生前個人葬「自然」を設けた。生前に個人の資格で参加する「共同墓」において、血縁でなく「結縁」で結ばれた人、同じ仲間どうしが支えあう関係づくりをしている。それば言わば、死に向かうトレーニングにもなっている。
 死は究極の公共問題であり、「死」を閉じた私事から地域の絆として開く試みを通して、新しいタイプの「葬式仏教」のデザインが必要となってくる。
死生観とは「生」を考えることであり、また死生観は知識や情報ではない。人間は喪失に直面した時、共感、共苦を感じる。
 命に対する社会の動きにもっと関心をもってほしい、一人称の死だけに関心が偏っている、それを教えるのは寺院の役目でもあるはずだ。

 最近は、私の周りでも、葬送の簡略化が目立ち、また会葬者の都合を優先しすぎた余り、逆の意味での儀式の簡略化加速したと思っている。今回、お話しを聞き、改めて葬送と仏教の関係の大切さについて考えさせられた。またそれだけに、葬送に宗教者がどうかかわっているのか、また宗教とのかかわりはどうなのかがますます興味が湧き、期待する。

 私自身、宗教、お寺の大いなる可能性と、いざという時に宗教者が支えになれることを信じている人間である。また途切れないように、そういう気持ちを子供たちに伝えていきたいと感じた。(浦嶋偉晃)

2009年11月21日土曜日

なぜ日本人は「慟哭」しないのか~悲しみを外に出さない美徳について。 

 韓国人の激情ぶりは有名だ。家族や身内が犠牲になった時の悲しみようは、まさに天を仰ぎ、地に伏して「慟哭」そのものである。情にもろいのは日本人も同じだが、感情に正直でその激高を抑えようともしない。
  産経新聞の海外特派員のレポートに「静かな日本人」という小さなコラムがあった。先日、釜山の射撃場で犠牲になった日本人旅行者の遺族たちのふるまいを評しての言葉だ。肉親を失った悲しみにもかかわらず、韓国人のように泣き叫ばず、実に静かな気配を残した日本人に感心しているという。
 「その背景として日本人の<人に迷惑をかけない>という教育や<悲しみを外に出さないことが美徳>とする価値観などを(韓国メディアは)指摘している。ある記者は『現場で日本人遺族たちが見せてくれた毅然とした姿と節約された言動はわれわれの記憶に残るだろう』と書いている」(産経新聞091121)
 私は少々複雑な気分に陥った。確かに日本人の美徳のひとつといえるかもしれないが、それは逆に「状況を受け入れやすい」日本人の気質とも通じる。政治でも経済でも、目の前の状況が大勢であればさしたる批判も葛藤もなく、黙って受け入れるのも日本人的感性なのかもしれない。今夏の臓器移植法改正の問題でも感じたが、生命倫理という実存の危機に直面しながら、われわれは何と流されやすいのか。
 葬送の世界でも最近、直葬の問題がよく取り沙汰されている。首都圏では、すでに葬儀をしない遺族が3割あるという。いったい葬儀の本義とは、愛する家族と死別した悲しみを社会的に表明する場ではなかったのか。悲しみに打ちひしがれ、悲しみにくれ、そんな喪の時間を費やしながら、やがて死を受け入れていく。直葬の背景にはそんな「悲しみ」の深い影がまったく見当たらない。それが「死への無関心」という静けさだとしたら、日本人の美徳といっていられない。(蓮池潤三)

2009年11月11日水曜日

仏教都市の変遷~大阪・上町台地の魅力

 大阪・上町台地は伽藍の街である。その歴史は古代、仏法伝来の地・四天王寺に始まり、中世には浄土教の聖地として、また近世には石山本願寺を中心に発達した自治都市大阪の表舞台として名高い。江戸時代には町民文化の開花に伴い、都心の寺町文化が発展するなど、近代までの上町台地の歴史はそのまま仏教都市・大阪の変遷を写し取っている。
 今日もなお上町台地は現役の一大寺町ゾーンである。都市の光景は著しく変貌し、あたりにはタワーマンションが林立しているが、寺町だけは時間が止まったように三五〇年以上前の豪壮な姿を今に留めている。しかも寺々には隣接して、商店街や市場、学校や病院があり、人々の暮らしのただ中に祈りがある。京都や奈良のような巨大な観光寺院はないが、何よりも都心に息づく歴史の触感が、上町台地最大の魅力だ。
 私の寺にはしばしば海外からのゲストが来訪するが、彼らはお笑いや食い倒れ以上に、この街中に溶け込んだ歴史の存在感に大きな関心を表す。歴史はただ事実を探ることだけでなく、今という地点から読み返されてこそ意味を持つが、外国人には、教科書に記述された正史より、日常の中で育まれてきた歴史の物語の方が魅力的に映るのだろう。歴史は生き物であって、それを古臭い博物館の中に閉じ込めてはならない。
 私の寺のある天王寺区下寺町は南北に一.四キロ伽藍が並ぶ市内随一の寺町だが、ここでは物語を上書きする実践に取り組んでいる。界隈では一心寺がお堂に寺町インフォメーションセンターを付設、また一心寺シアター倶楽や應典院など芝居や落語を楽しめるお寺もあって活況を呈している。毎年、桜の季節には寺町を挙げて人形芝居のフェスティバルが開催され、昨年秋には「防災てらまちウォーク」という防災にちなんだユニークなまち歩きも実施された。仰ぎ見る歴史ではなく、自身の足で歴史に参加していく試みだ。
 近年上町台地では観光資源の開発に熱心だが、本当に必要なものは土産物やグルメではない。歴史の現在にふれながら、まずそこに生きる人々が地域に対する誇りや愛着を取り戻すこと。また無数の生老病死を繰り返してきた先人たちの知恵や作法に学ぶことではないか。内に暮らす人に「死ぬまでここで暮らしたい」と思わせる都市は、自ずと外の人も引きつける。
 上町台地は、歴史を現代の中で再生させていく最後の「聖地」なのである。(秋田光彦)


(本稿は11月10日産経新聞夕刊に掲載されたものを転載しました)

2009年10月29日木曜日

個の時代。フリースタイルな僧侶たち

8月に京都で「フリースタイルな僧侶たちのフリーマガジン」が創刊された。A4版、8頁、カラーグラビア印刷でお金がかかっているが、そもそも何で僧侶がフリーマガジンなんだろう。
 編集の仕掛け人である池口さんに会った。昭和55年生まれ、尼崎の浄土宗のお寺に生まれ、京都大学から同大学院に進み、いま総本山知恩院の職員として働いている。若いがれっきとしたプロの僧侶だ。フリーマガジンのその他の書き手は、彼の大学院での仲間の僧侶たち。宗派は異なる。その意気に応じたライターやカメラマンが参加した僧俗混成部隊だ。


 マガジンはそのままインターネット上でも読むことができるが、その中に池口さん自身が発刊の趣旨にこう書いている。
 「インターネットで僧侶一人一人の情報が交換され、それぞれの個性が評価される時代は遠くない。すでにその息吹は見受けられる。その時は、人々は「自分の価値観に合う僧侶」を選ぶだろう。それならば、手垢のついた表現を駆使するよりも、「フリースタイル」で自分の個性をアピールするほうが、時代のニーズに合っていると思うのだ」
 この文章の前後には、池口さんの僧侶としての時代認識や仏教への可能性など熱く述べられているのだが、とりわけ私が共感したのは、若い優秀な僧侶はすでに「僧侶個人」が「選択される」ことを認識している点だ。ここではフリースタイルとは、市民と僧侶個人のフリーアクセス、フリーコンタクトということであって、最初から宗派、教団という囲いの外に自分の地点を持っている。最初から相手は檀信徒ではなく、「個」としての市民を向いている。
 これまで僧侶は、外の社会とのアクセスを教団組織を介して行ってきた。教団はそこに所属する僧侶にとってだいじな出世機関であり、いい意味で僧侶(人材)の能力を吸い上げるヒエラルキーでもあった。そのため宗内には星の数ほど団体や役職が設けられ、若い僧侶を囲い込んできた。
 が、同時に徹底したムラ社会である教団では、際立った個人の能力は嫌われる。布教、でも子ども会でも、昔ながらの教化には鉄壁の上意下達のシステムがあって、若い才能など発揮しようもない。そもそも若い人材を活かそうという発想が教団にはない。幹部職は大抵が70代以上なのだから無理もないのだが。
 「個」が隆起する時代にあって、組織にしがみついている場合ではないのだ。寺は一つ一つが独立した拠点であって、教団組織の下部にぶらさがっているわけではない。自分で考え、自分で判断する。同じ宗門人だからといって、何でも教団に横並びでいいのか。でなければ、日本に寺が7万5千もある説明がつかないではないか。
 ひとりの僧侶としての生涯において、青年僧の時代は貴重だ。無垢なまま社会と向き合い、自他の関係に身を投じてみる。外とフリーアクセスすれば、教団の言葉が閉じた世界でしか通用しないことがわかるだろう。自分たちが何を期待されていて、何がズレているか、よくわかるだろう。次代の仏教者の基本は、教化でも折伏でもなく、協働と対話であることが骨にしみてわかるだろう。
 よるべきなき「個」の時代である。「個」が確立されないまま「自己決定」「自己責任」と追いたくられ、現代の「個」は孤立して喘いでいる。仏教は集団や組織の原理でなく、いま目の前の「個」を救う教えでなくてはならない。たくましい「個」をつなぎ、もうひとつの共同体を形成する力といおうか。これまでの仏教とは異なる、語り口やスタイルが必要とされている。
 ちなみに池口さんのフリーマガジンは、京都市内の大手書店にも置いてある。聞けば、書店とは一軒一軒足を運んで直接交渉したとか。「どうせ仏教なんて…」などとやりもしないで、嘆くなかれ。青年僧の情熱に、きっと社会は答えてくれている。(秋田光彦)

*ネットでフリスタを読むこともできます。
http://www.freemonk.net/

2009年10月19日月曜日

グリーフケア「ひだまりの会」月例会

 去る9月20日、「應典院 夏のエンディングセミナー」でも講演いただいた、公益社の廣江輝夫さんが中心に活動しているグリーフケア「ひだまりの会」の月例会の見学をした。
 「ひだまりの会」の活動については、ブログの「公益社執行役員・廣江輝夫さんインタビュー」を参照してほしいが、見学をして最初にすごいと思ったのは、ひだまりの会事務局長の出口さんが、来場された人たちに気さくに声をかけ、また手を握ったりして会話をし、緊張している会員の方に対して和やかな雰囲気づくりをしておられたことだった。初参加の人は非常な不安を持っているだろうが、その緊張をやわらかにほぐされているのを見て、出口さんの細やかな心配りを感じた。何よりも笑顔が素敵だった。
 午前中の第1部は、初めて参加される方や、悲嘆の強い方が中心で20名の方が来られていた。男女比率も同じくらいで、年齢層は会社を定年した方から若い方まで様々だった。

 最初は岡本双美子さんが、「大切な人を亡くすという体験」という題で講演され、その後、「分かち合い」と呼ばれる小グループに分かれ、体験談を話し合う場に移った。私は龍谷大学の教員の黒川雅代子さんがファシリテーターをされているグループの見学をした。4名の会員の方が体験を話された。涙をずっと流さている方や、まだ大切な方の死を受容できない人など、まだまだ悲嘆の強い状態であった。もし私に何か発言をしろと言われても、とてもとても私などが意見できるようなものではなかった。
 黒川さんは、「大切な人を亡くした悲しみとどう向き合えるか?」その「答え」は、その人の中にしかないのかもしれない。しかし、その「答え」は、そう簡単に導き出せるものではない。そのために、時間や、そばで寄り添い傾聴し共感してくれる人が必要なのかもしれない。その「答え」を導き出すための過程の中で、同じ体験者同士の分かち合いは大きな役割を果たすのではないだろうかと言われた。
 その言葉通り、分かち合いが終了する頃には、皆さんの表情が柔らかになっていく印象を得た。もちろん一回ですっきりするわけではない。何回も同じ場を繰り返し、少しずつ悲嘆を和らげていくことが必要である。また実際、アンケートでも皆さん、また参加したいと書かれていた。
 「ひだまりの会」は傷口のなめあいでもなく、また他の人との悲しみの比較をするわけでもない。お互いの経験を話し合い、次のステップ、残された人生を生きる活力、エネルギーを養う場である。
 午後からの2部は、ある程度、立ち直られた方が90名ほど集まられた。ここでも驚いたのだが、受付も進行も会員の方が担当されており、表情も明るく、月一回の同窓会のような感じがした。これが「ひだまりの会」が目指している、ライフサポート、つまりマイナスからゼロではなく、ゼロからプラスに転換するという実践がうかがえた。
 音楽グループの方が合唱し、会員の皆さんの一緒に口ずさむ、そんな明るい風景が見られた。とにかく明るい、言い方は悪いが、うるさいほど会話が弾んでいるのを見て、「ひだまりの会」が果たしてきた役割の大きさを感じた。
 私は、1部でお会いした悲嘆の強い方々が、この会に参加してきっと変わっていくだろうと強い確信を持った。また変わっていく姿を見たいとも思った。
 人によって悲しみの度合いも違い、悲嘆の大きさ、立ち直りの時期も違う。しかし廣江さん、出口さんを始め、「ひだまりの会」のスタッフの方々の会員さんとの接し方を見て、本当に何か安らぎを得た一日であった。(浦嶋偉晃)

2009年10月15日木曜日

阿修羅像、奈良に帰る。失われた中心への回復。

 東京、九州を巡回していた国宝・阿修羅像が奈良の興福寺に帰り、17日から本家での展示が始まる。両方で165万という記録的な観覧者を迎えた阿修羅像は、最近の仏像ブームも牽引した。いったい何が人々を魅了したのか、14日の朝日新聞で記事が載っていた。



 納得したのは、「芸術新潮」の編集長が言っていた「阿修羅はキャラ立ちしている」というコメント。この像の造形的なキャラクターは世界に冠たるものと私も思う。興福寺の多川俊映さんも「心をくすぐる、何か懐かしい面相」が人々をひきつけたといい、「戦いに疲れて釈迦の教えを聞き、安らぎに到達した阿修羅に、自分も安らぎたいという思いを無意識のうちに感じるのでしょう」。
 同感だが、それはいつの時代にも不変のもの。阿修羅の美学的価値は絶対的だが、それを評価せしめているのはそれぞれの時代の感覚だ。仏像ガールというようなキャラ(最近仏教教団の講演会などで引っ張りだのお姉さん)が登場するのも時代の要請なのだろう。
 不景気、失業、自死、そして衝動殺人…世情は殺伐として、一向に明るい兆しは見られない。デジタル万能化が進み、会社も学校もすべてが異様なスピードで「決済」されていく中で、人々は自分の中に大きな欠落感を感じているのではないか。皆が荒々しい変化の風を、背中に受けながらじっと耐えている。東京展では長い行列で、入場まで6時間静かに待った人もいたという。
 現代は変化することは成長と等価である。変化こそ絶対善の今にあって、仏像のように不変の存在はそれだけで希少であり、そこに揺るぎない規範のようなものを求めたのだと思う。失われた中心に回復していくような感覚。それは「癒し」という感覚と少し違って、再生への希望の色を留めている(私はその希望を、阿修羅の姿形に感じる)。
 17日から始まる興福寺展では、「お堂でみる阿修羅」と副題がついている。お寺だけど「みる」であって「拝む」ではないのはちょっと複雑だが、堂内照明(展示的には照明効果が大きい)もあるそうだから、行ってみたら。(蓮池潤三)

2009年10月8日木曜日

見えない死を、見えるカタチにする。

 死ぬと、私という存在が消滅するのではないか…そのような死後の行方の不確かさについて、人は恐怖心を抱きます。身近な人を喪った時も、「いまどこにいるのだろう」「本当に安らかに逝ったのだろうか」と不安をおぼえる遺族は少なくありません。
日本の仏教は、お釈迦さまが説かれた直説的な教えとは別に「いかに死すべきか」を説き、日本人固有の死生観をつくってきました。中でも浄土教は「極楽浄土に行って仏として生まれ変わる」と死後の世界を保証しました。つまり、生と死を連続した「いのち」としてとらえたのです。
昔、お寺は、病院や薬局の機能も兼ね備えた医療福祉センターとして成り立っていました。ご本尊のあるお堂はホスピスです。看取りも僧侶たちの役割であって、「病気をいかに治すか」よりも「安楽に往生させるか(看取ることができるか)」を追求していました。今風にいえば、スピリチュアルな痛みを緩和させていたわけですが、同じ信仰に支えられた者どうし、死へのソフトランディングを可能にしたのだと思います。
 いま看取りの作法や文化がなくなりつつあります。臨終は家族から病院へ、葬儀も自宅から葬斎場へとアウトソーシングされていく。かつて家族が、共同体が喪の作業として協同してきたものが、外部サービへとス委託されることで、死が見えにくくなっています。いかに老い、いかに死ぬかは、年齢を重ねれば自ずと理解できるわけではない。後事は子どもにすべて任せるといえる人も今や少数派です。
 少子高齢化の時代といえど、人間は誰の世話にもならず死ぬことはできません。血縁に頼る看取りが実現しにくくなっている今、死を孤立させずに、互いサポートする仕組みと関係が必要となっています。自分の死を、生前に準備する。固有の死を支えあうもうひとつの家族が必要になります。
 それは、見えなくなった死を、見えるカタチにする(デザイン)ということと同義です。エンディングデザインの思想がそこから生まれます。(秋田光彦)