2010年4月4日日曜日

日本人の死生観に合った看取りを。~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」

 去る3月29日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第1回ビハーラ実践研究会」に参加した。
 この研究会は、今回より隔月で開催され、毎回、話題提供者より「ビハーラ」についての発表・報告があり、その後、参加者とのディスカッションをし、「ビハーラ」に対する理解、実践の普及につなげることを目的としている。
 第1回目の話題提供者は大河内大博さん。大河内さんについてはこのブログの下記を参照頂きたい。
 http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html
 今回は初回ということで、大河内さんより、「ビハーラの展開と可能性」というテーマでビハーラの歴史、理念などのお話があった。
 20名ほどの熱心な方が参加していた。僧侶の方が多く、またすでにビハーラの研修を受けた方や、看護師、ヘルパーなど様々な顔ぶれだった。
 「ビハーラ」誕生の背景について話があった。欧米型ホスピスは1980年代に入り、日本でも相次いで設立されたが、当時から欧米直入の看取りの在り方ではなく、日本的な看取りが模索されていた。とくに日本古来の仏教を活かせないか、という視点はあったという。
また僧侶自身からは、葬祭仏教を反省し、「いのち」をめぐる「生死」の問題を最重要課題のひとつとしている仏教本来の目的に立ち還るべきであるという声が上がっていった。つまり「生きた命」にかかわっていくことこそ重要でないかという気運があった。
 「ビハーラ」の理念と基本姿勢として、①限りある生命の、その限りを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である ②利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある ③願われた生命の尊さに気づかされた人が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である(但し、利用者本人やそのご家族がいかなる信仰をもたれていても自由である)。そしてビハーラの活動は仏教の特定の一宗一派の教義に偏ったものではなく、超宗派の活動であり、布教・伝道ではないというのが基本姿勢である。
 現状では「ビハーラ」は1986年の「仏教ホスピスの会」がスタートしてから25年かかって、やっと3つが設立されただけである。(うち一つは厚生労働省の認可がおりていない)
やはり仏教者からも「ビハーラ」に対する偏見が大きかったのも確かなようである。
 私は「ホスピス」という欧米モデルの死生観を日本向けに衣替えするだけでは充分ではなく、より日本人の死生観に合った「ビハーラ」の形が望ましいと思っている。やはり欧米人と日本人とは死生観が違う。今のホスピスは輸入型が大半のように思われる。
 大河内さんは参加者に終末期に宗教者は必要ですか?と尋ねた。皆さん必要だと言われた。私もそう思う。但し「死んだらどうなるの?」というような終末期にある人にも、自分自身がぶれないで答えられることがとても重要だと思う。
 この実践研究会は今後、隔月で開催され、次回は5月24日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。
 「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、今後、回数を重ねる毎に、もっと深いディスカッションになっていくだろうという前向きな雰囲気を感じさせた。今後が楽しみな研究会であった。(浦嶋偉晃)

2010年3月31日水曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて (1)修羅の時代を生きる

今、仏教がブームだという。記憶に新しいのは、東京と九州で開催された興福寺の阿修羅像の展示に、合わせて165万人を超える人々が足を運んだことである。そのほか、座禅や写経に参加するために、お寺を訪れる人々も増えているという。
 ただし、仏像好きの若い女性を「仏女(ぶつじょ)」と呼ぶなど、軽妙な言葉で報道やビジネスが進んでいることに対し、「信心を一過性の流行として取り扱うなんて」といった批判も聞こえてきそうだ。とはいえ、経済的な合理性が追求されるなかで、特に若者の生きづらさを仏教が支えているとすれば、仏教には現代でも不変の価値、現代にも普遍の意味があることが明らかにされたと言えるだろう。
 突然、社会と仏教の関係を語り出した私は、大阪・天王寺にある應典院で僧侶をしている。この應典院というお寺は、浄土宗大蓮寺の塔頭寺院として350年の歴史を持つが、大阪大空襲の被害を受けた後、1997年に現在の形へと再建された。見かけは鉄とガラスとコンクリートでできた現代建築であるものの、寺子屋、駆け込み寺、また勧進興行など、かつて寺院が地域における教育、福祉、芸術文化の拠点であったことに着目し、多彩な場を生み出すことに注力している。要するに温故知新で、お寺の原点回帰を目指している。
 文化人類学者の上田紀行先生の言葉を用いるなら、私は應典院による「仏教ルネッサンス」の中にいる。そんな私は、実はお寺の出ではなく、しかも出身は静岡県磐田市である。こんな私を應典院の主幹へと起用したのは、大蓮寺に生まれ、映画プロデューサーの経験を携えて應典院を再建した秋田光彦住職だ。そもそも主幹とは、お寺には聞きなじみのない役職なのだが、初代主幹を兼務した秋田住職は、「場の編集者」であり「拠点のプロデューサー」と定義する。
 2006年に2代目主幹に着任してから得度した、新米僧侶の私が教育面の当コラムを担うにあたって、奈良日日新聞の担当編集者さんとテーマの相談をしたところ、「いのちのエナジー」という看板が掲げられることになった。ここには、生きづらい時代をいかに生き抜くかの知恵を、仏教を手掛かりに見いだしたいという願いが込められている。同時に、副題にあるように、読者の方々にとっても書き手の私にとっても、この場が学びの場になれば、とも思っている。
 それこそ、阿修羅像の名にも埋め込まれている「修羅場」が満ちた時代への向き合い方とつきあい方を紐(ひも)解く手掛かりとなれば幸甚である。(山口洋典)

2010年3月19日金曜日

BOOKガイド 「妻を看取る日~国立がんセンター名誉総長の喪失と再生の記録」

 国立がんセンター名誉総長・垣添忠生さんといえば、一般市民でも知る人が多いと思う。同書はその超専門家が夫人のがん闘病に文字通り悪戦苦闘する体験記であり、一年半にわたる闘病生活、自宅での看取り、夫人亡き後に押し寄せてきた激しい鬱状態から立ち直るまでの道のりを赤裸々に綴った本である。
 垣添さんが定年を迎え、夫婦でのんびり過ごしていこうと思っていた矢先に、夫人にわずか六ミリの影が襲い、勤務していた病院に夫人が入院する。せめて年末年始だけは自宅で、と外泊を計画するが、ふたりきりの家族なので垣添さんが点滴や在宅酸素療法や排せつの介助を一手に引き受け、自宅へ帰る。自宅へ帰った途端に夫人が生き生きとする。だがよかったのは帰った日だけで、病状がどんどん進んで大晦日に自宅で永眠され、そしてその後の垣添さんがようやく立ち直りの兆しを見せるまでの3ヶ月間が詳細に書かれている。まさに独力のグリーフワークそのものである。
 私はこの本を読んで、とても深い「愛」を感じた。なぜならば、本書での大切な点は夫妻のなりそめから発病して闘病、そして亡くなられた後に垣添さんが感じたご夫婦の交流にこそある。グリーフケアの参考書というより、夫人への熱い思いを込めた鎮魂の書である。
 しかし何故、誰にも頼らず一人で看取ることができたのだろう。自宅に知らない人がいるのは落ち着かないと考えたからというが、専門家が在宅ケアに加わることに危惧を覚えた。ここは非常に重要なポイントだと思う。
 また一方でいろいろな疑問も感じた。
 自宅に知らない人がいるのはなんとなく落ち着かない、夫婦二人で静かに過ごしたいという夫人の願いを聞いたのだが、派遣看護師などの専門家に具体的にどういう不安を感じたのだろう。またどういう危惧を持っていたのか? 
そのこと自体を否定しているのか、専門家の見識として問いたい。
 巻末で、垣添さん自身、在宅看護というのは非常にハードルが高く、自分の場合は医療者だったので幸運であった、一般の人だと難しいと書いているが、しかし実際に支援体制を構築されて在宅看護をされている一般人も多くいる。在宅ホスピスケアが徐々に浸透していっているのも確かであり、そこに専心する訪問医や看護師の存在もある。それをどう考えるのだろう。
 また夫人の死後のうつ状態ですが、睡眠薬は飲んでいると書いてあったが、どうしてカウンセリングなどの専門家と接しなかったのか、などいろいろと尋ねたい点はある。
 しかし、国立がんセンター名誉総長という超専門家の医師がこれほど赤裸々に語った本には出会ったことがない。ぜひ今後も在宅の社会的な支援体制の構築をお願いしたい。
 大切な人を亡くして苦しんでいる人に、読んでほしいと思う。(浦嶋偉晃)

2010年2月3日水曜日

日本人は葬式でなぜ泣かないのか

○人前で泣かないのは美徳?
 昨年11月14日に韓国の釜山の室内射撃場で陰惨な火災事故が起きて、大勢の日本人観光客が犠牲となりました。韓国ではこのニュースは大々的に論じられましたが、事故翌日に韓国に来た日本人遺族の、つつましやかな哀悼の姿に多く注目が集まりました。
 「日本人遺族は感情を抑え、悲しみを心中に押しとどめた」(東亜日報)
 「(遺族は)言葉を慎んだし、号泣することもなかった」(文化日報)
 肉親の葬儀となれば、まさに天を仰ぎ、地に伏す「慟哭」の韓国人ですから、日本人が泣き叫ぶこともせず、静かな気配を残したことに感心するのもわかるような気がしますが、その理由について朝鮮日報のコラム子は、
「日本人には自分の悲しみで他人に気遣いさせることを迷惑と考え、悲しみを外に出さないことを美徳とする態度が背景にあるから」
 と書いています。さらに、コラム子は日韓の葬祭文化の違いにも言及して、
「日本人の美徳とは日本の葬儀を見てもわかるように、他人の見ている前で感情をあらわにすることをはばかる」
 と述べています。
 むろん国や民族によって、感情の表出もさまざまです。韓国のデモのパワーなど見ればその違いは一目瞭然ですが、韓国人の行動力の根底には、政治意識というより自分たちの感情に正直に行動する気質がうかがえます。逆に日本人には、デモなどしても仕方ない、状況は変えられないという「長いものに巻かれろ」式の諦観があります。これも、大勢の影響を受け入れやすい、日本人の気質といえるでしょう。

○葬儀はもはや私事
 その彼我の違いは十分理解しつつ、果たして葬儀で泣かないことが日本人の美徳なのか、私は逆に日本人の「悲嘆の感情」の急速な退行を思わないではいられませんでした。
 最近の一般的な葬儀においても、遺族はほとんど泣くことをしません。今は家族葬など身内だけの葬儀が主流ですから、何事も合理的に効率よく運ばれていきます。けっして火災事故の日本人遺族を同列に論じるつもりはないのですが、「泣かない日本人」というのはかのコラム子が言うような美徳というより、私たちが悲しみの作法を忘れかけている、その現われではないかとも思います。
 最近、直葬の問題がよく取り沙汰されています。葬儀を執り行わず、死後24時間を経て火葬に直行する葬法ですが、首都圏ではすでに葬儀全体の15%を超えたともいわれます。バブル崩壊以降、家族葬志向も著しく、今や日本の葬儀は際限のないミニマム化が続いています。葬儀はもはや私事なのです。
 私事ですから、死という事実を公にしません。無意識に抑制しようとします。その根底には、死別した悲しみを最小限度に押しとどめる、悪い言い方をすれば、死を封印するような感性がにじみ出ているのではないでしょうか。。
 そもそも葬儀の本義とは、愛する人を喪った悲嘆を十分に表出する公認の場であったはずです。死別の悲しみを、家族や親族、友人や地域社会に対し、公的に表明していく共通の体験として、葬儀は社会に開かれてきました。家族だけでなく、会葬者もまた死者を悼み、また遺族の悲痛に寄り添うことで、共同体として死を受け入れていきます。葬儀とは一過性のイベントではなく、遺族や地域に対し、死を公のものとし、厳然とした事実を差し出す、たいせつな「喪の体験」なのです。

○グリーフワークとしての葬儀
 直葬には、そんな悲嘆に対する深い共感が見当たりません。というより、他者の死に対し無関心、不感症であり、遺体の処理だけが際立っているように見えます。家族葬もすべてとは言いませんが、私事の中に閉ざされ、遺族自身が死と十分に向き合えていない危惧があります。それは韓国メディアが礼賛するような日本人の美徳だとは、けっして言いきれないでしょう。
 死別した悲しみと向き合うための働きかけを、グリーフワークといいます。その出発点は、遺族が死という事実を認識し、それを十分に悲しみ切ることから始まります。時を重ねて新たに死者と遺族との関係を結びなおす「再生」までの道のりともいえます。また葬儀以降、中陰、一周忌、三回忌と続く、長大な供養の時間も、徐々に喪失から再生へと「成長」していくグリーフワークのプロセスではなかったかと思います。
 「葬儀で泣かない日本人」からは、死の実像に目をそらしたまま、精神的に成長しようとしない、私たちの地顔が透けて見えます。(秋田光彦)

2010年1月17日日曜日

震災15年、災害と葬送を考える

  「あの日」から15年が経ちました。地域とは何か、いのちとは何か、私とは誰か。その後、應典院再建の転換点ともなった阪神淡路大震災について、連日多くの報道が届けられています。 
  被災当時、私が所属していた仏教NGOが真っ先に着手したのは、葬送への取り組みでした。多くの遺体が、火葬も葬儀もできないまま、むごい状況にありました。当時かろうじて稼働していた神戸市北区の鵯越(ひよどりごえ)の斎場で、私たち僧侶は葬儀のボランティアにあたっていました。
 被災後、犠牲となった遺体をどう葬るのか。それまで日本が直面したことのないもうひとつの葬送問題について、1月13日付の読売新聞は、こう報じています。。 家族の遺体を安置所に置かれたまま、耐えきれず、「数日後、ある遺族から『もう見ておれない。空き地でいいから(遺体を)焼いてほしい』と懇願された。『早く火葬を』と死の災対本部に伝えたが、すぐに解決できる問題ではなかった。灘区で約700人、東灘区で約1000人などと、わかっているだけで(安置された遺体は)3300人以上だった。当時、神戸市で使える火葬場は3箇所。1日計150人しか火葬できない」 
  厚生省の役人から「野火にしては」という打診に対し、「死者への尊厳と遺族感情を優先したい。『お別れ』は大切な節目だから」と断った神戸市役所衛生局長の言葉も紹介されています。 
  死が予知可能であれば、心の準備はできたのでしょうか。いや、むしろ「日本人にとっては死を予測し、準備をしておくことなどタブー」であったと思います。だから、どこにも憤りをぶつけられない被災死に対し、死者をどのように送り、葬るのかという難しい問題が横たわっています。 
  安置所の確保、棺やドライアイスの用意や火葬、搬送の手配など、適切な死後実務は、そのまま遺族を支えるグリーフケアに直結していると容易に想像できます。しかし、遺体は火葬処理をしたから、死者になるのではない。死者はここではない、どこかに赴くのであって、そこに宗教儀礼としての葬儀の必然性が生まれてきます。 
  葬儀はあくまで個人によって選択されるものです。信仰の有無や宗派の相違といった個別性の問題が浮き立ちます。檀家の一員であっても、自分の宗旨さえ知らない人も少なくない。その違いを克服しながら、緊急対応時にあって、どう葬儀をグリーフケアとして実効させるのか、議論が必要と感じます。ある意味、公共的な宗教の役割を実践から見出すといってもいいでしょう。 
  映画「おくりびと」が大ヒットする一方で、葬儀をしない「直葬」が増えています。日本人の死生観がアンバランスに宙を漂ういま、災害と葬送を考える意味は小さくないと思います。(秋田光彦)

2010年1月4日月曜日

(5)再聖化する個人、市民とともに

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

  07年に應典院で講演をしていただいた東京大学大学院の島薗進さんは、この個人の宗教化の問題を「再聖化」という言葉を使って論じています。社会制度の原理によって成り立ってきた医療や福祉、教育などが宗教的な要素を取り込むようになって、「再聖化」していく。先に挙げたスピリチュアルケアやグリーフケア、またいのちの教育、死の準備教育などがそれです。私はこの「再聖化」がひたすら個人に内面化していくのではなく、外の社会と交渉することによって、開かれ、鍛えられていくことにも期待をしています。最近では、仏教各教団でも、ビハーラや自殺防止に教団を挙げて取り組もうとする動きが見られますが、これもまた、社会と接続することで、既存の布教主義とは異なる、公共宗教へのアプローチといえるのではないでしょうか。
 應典院の活動を通して、私は多くの「再聖化」する市民と出会ってきました。彼ら彼女らは、既存の宗教にすがるのでもなく、社会制度にも頼らず、自立した個人として仲間とネットワークをつなぎ、対話や協働を繰り返して、身近な社会や地域変革に取り組んでいます。医療や教育のみならず、環境問題や食品問題も人間のいのちに直結しており、そこには医師や教師といった高度なレベルの専門家も参加しています。私はしばしばそういう場において、教化本位ではなく、ひとりの市民として仏教を語ってきました。一方的な布教を目的としたメッセージではなく、個々人に対し生きる実践ための知として仏教を語ってきたと自覚しています。どこまで伝わっているのかはわかりませんが、選ぶのは個人です。私ができることは、個が自己を見つめ直そうとするその根拠として、仏教をいかに提示するか、です。そのためには、これまでの仏教とは違う言葉、表現をもっと開発していかなくてはならない、とも思います。
 私のような立場から、伝統仏教と再聖化する個人の関係を論じることは、非常に緊張感を伴います。ただ檀信徒教化の場面以外の生々しい臨床に立ち臨んだ時、先にも述べましたが、仏教にも組織から個へと大きな質的転換の波が迫ってきていると強く感じています。また寺や僧侶がその転換にどう呼応していくのか、接続するのか、あるいは断絶するのか。何事も教団に倣えではなく、一人ひとりの仏教者の覚悟と行動が切実に求められています。そのことを、大学の研究室からの提言ではなく、生きた臨床の現場どうしの試行錯誤も含めた対話を通して、状況は少しずつ変わっていくのではないかと思っています。
 最後に、最近、應典院で講演を行った国際日本文化研究センター教授の末木文美士さんの著書から、私たち臨床にいる僧侶への問いかけとして以下を引用させていただきたいと思います。
 「仏教は平和主義であるとか、仏教は生命を大事にするとか、口先だけのきれい事をやめようではないか。自分の感覚として何が大事なのか、自分自身を見つめ、そして考え直すところから出発するのでなければならない。経典に書いてあるからとか、宗祖がこういったから、ということは、もちろん宗派内の「公」としては成り立つし、それは否定しない。しか  
し、それは宗派を離れたら何の説得力も持たないことを認識しなければならない。それでもどうしても自分が主張せずにはいられないこと、実践せずにはいられないこと---そこから出発する他ない」(「現代と仏教」佼成出版社)。(秋田光彦)

2010年1月1日金曜日

(4)若者とスピリチュアリティ

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

 死生観の個人化という変化にいま一番近接しているのが「スピリチュアリティ」だと思います。今やちょっと流行語になっていて、SOGIの前号にも碑文谷創さんが書いていましたが、あまりに多義的、多層的で私もよくわかりません。言葉の咀嚼力が大きく、何でも呑みこんでしまうような胃袋を持っているから、わからない余白の分、解釈の自由度があるのでしょうか、フレキシブルな言葉であることには違いないが、やや振り回されている感も否めません。
 7月に高知で日本在宅ホスピスケア研究会の全国大会があって参加してきたのですが、やはり大きなテーマのひとつがスピリチュアルケアでした。宗教的ケアを論じたシンポジウムでは、京都大学のカール・ベッカーさんが日本の仏教による伝統的な死生観を語る一方で、同じ舞台に幸福の科学や前世療法の信奉者(いずれも臨床医)が登壇し、非常に違和感を覚えました。何がスピリチュアリティと宗教の境界なのか、スピリチュアリティとは宗教の代替なのか、臨床の現場も混乱しているという印象でした。
 むしろ、それを現場で予感するのは、應典院(大蓮寺の塔頭寺院)で起きている、若者たちのユニークな取り組みについてです。スピリチュアリティという言葉は使いませんが、死を見据えていかに生きるかというようなワークショップの数々が連続して起きています。宗教体験も乏しい、20代の若者に死生が語れるのか、と鼻白むかもしれませんが、私はむしろそこに新たな死生観への模索が始まっていると受け止めています。
 若者たちにはそもそも従来型の死生観がありません。拘泥するものがないから、自由に死生観をデザインすることができるように思います。いまはワークショップやカウンセリングの手法が発達しており、これまで一方的に「教わる」対象であったものから、自分たちで編み出すことができます。言い換えれば「救済される客体」から「自ら変容していこうとする主体」へと自覚的な変化が起き始めているように感じます。
 應典院で実施している、二つの事例を挙げます。
 ひとつは、自死者の遺児たちが主宰する「グリーフタイム」。母親を亡くした20代のふたりの若者、臨床心理士の宮原俊也さんと大学生の尾角光美さんが9月から始めました。グリーフケアというと、私は遺族支援を連想しますが、ここでは死別のみならずここでは「大切なものを失われた方」すべてが対象です。ペットの死、健康な体を失う、両親の離婚、引っ越しや転校による人間関係や環境の変化、失業により役割や自信がなくなる…すべてがその人にとってグリーフであり、その時自分の気持ちをいかに大切にすることができるか、が重要と考えます。集まってくる人たち(全部女性でしたが)がみな原因のはっきりしたグリーフを抱えているとも限りません。本を読んだり、お茶を飲んだり、銘々に好きな時間を過ごします。全体の交流やカウンセリングはしない。助言もせずに、ただ体験者どうしが静かな時間を共有していきます。
 若年層は周囲に死別などの体験者が少なくグリーフケアから取り残されることが多いといいます。ここでは原因究明や問題解決が目的ではなく、悲嘆を抱えた若者たちが誰にも介入されず、それぞれが自分の内面と向き合う「場」を提供しているように思えます。何らかの悩みや問題を抱えている人が当事者どうしで集まり、交流を通して相互に支えあうためのネットワークをセルフヘルプグループと言いますが、こういうのも「スピリチュアルな人間関係」であり、これに救われる若者たちもいます。
 もうひとつは、NPO法人のシティズンシップ共育企画の川中大輔さんたちと3年前から共催している「生と死の共育ワークショップ」です。07年に「自死」、08年は「葬式」、09年は「老い」(予定)をテーマにそれぞれ大蓮寺に泊まり込んでの合宿形式で行われました。08年、「自分のお葬式はどうあげられたいか?」」のネットの広報文を一部少し紹介します。
 「『お葬式』」という生者と死者が共に過ごす、場の持つ意味を探りながら、自分が死ぬ時、どのように記憶され、見送られていきたいのか、その『ありたい死』」を考えた時に、私はいま何をすべきかという問いが深みをもっておとずれるのではないかと考えています。
 『よく死ぬことはよく生きることだ』」という言葉があります。自分や他者の「死」と向き合いながら、これからの自分の『生きかた』」をゆっくりと考える時間を共にしませんか? 」
 これを書いた主催の川中さんは29歳。彼は、さまざまなテーマを参加学習の手法で伝えるファシリテーターとして将来を嘱望されてる人材ですが、最大の関心のひとつが「生死」といいます。
 一日目こそ、寺の住職として私が仏式の葬儀の基本を講義しましたが、そのあとは翌日いっぱいまで参加者どうしが生と死を巡って語りたいことを存分に語り合う場となりました。自他の死の葬送、自らの死にざま・生きざま、あるいは死後のイメージなど、様々な話題が広がりました。全国から集まってきた20人ほどの若者が、お寺でひたすら死生について語り合う、というのは寺の住職にとっては感動的な場ですらありました。しかし、ここでは仏教はあくまで参照点でしかなく、重要なことはそれぞれの個にとっての死生観の創造なのです。「答えを求めるのではなく、問いを温める場所」(川中さん)として、こういうワークショップが生まれ始めていることを私は、これまでの伝統的な死生観とは異なる、スピリチュアリティの萌芽ではないかとらえています。
 ここは非常にデリケートな問題も孕んでいるのですが、私はこのスピリチュアリティの動きと伝統的な仏教が対立的な関係にあるとは思いません。彼ら彼女ら應典院というお寺に場を求め、住職である私に「法話」を要請してきました。入信・折伏といった直接的な宗教体験を求めるのではなく、一定の距離を担保しつつ、重要な参照点としてアクセスしようとしています。
 先に「伝統的な儀礼や教義は一旦退行した」と述べましたが、それは権威的であり、教条主義的なものの退行であって、若者たちもまた先人たちの知の蓄積に学ぼうとしていることを強く感じます。問題はそういう若者たちの立ち位置を尊重できない、いまの仏教の定形化された話法であり、硬直したコミュニケーションスタイルにあるのではないでしょうか。一方的な教化圧力が浮き立つだけで、若者との対話や共感がない。そうなれば、当然僧侶の役割もアジテーターからメデュエーター(仲介者)へと転換していくと思います。語ること以上に、聴く姿勢が求められます。そのうえで、両者は今後寄り添いながら、緩やかな連携を深めていくのではないでしょうか。
 川中さんの団体名にもある「シティズンシップ」とは、個人の市民性、市民的行動と訳され、市民社会とはそういった主体的な個人参加型の社会をいいます。個人というものが欲望だけを肥大させるのではなく、説明や合意をどう図りながら、ゆるやかな共同性を獲得していくのか、これは個人の時代における社会観形成の上で、極めて重要な意味を持つと思います。いま注目される「公共宗教」とは、東京基督教大学の稲垣久和さんの定義によれば、「私と公の間に市民的・公共的領域が多様に存在し、宗教はそこで(国家的統制を受けず)本来の役割を果たすことが期待」され、「そのような市民社会形成のエートスを与える宗教」(稲垣久和・金泰昌編「公共哲学16 宗教から考える公共性」東京大学出版会)を言うといいます。もし、そうであれば、まさに仏教もまたつぎのステージを模索しはじめる時を迎えているのではないでしょうか。まだまだ今後の動きを見つめていかなくてはなりませんが、その考察は今後も深めていきたいと思っています。(秋田光彦)