先月、高知で開かれた日本在宅ホスピス・ケア研究会の全国大会に参加してきました。一昨年、飛騨で開催された大会では、「日本人の心性に適ったスピリチュアルケア(SC)」について前向きな議論があり、期待をしていましたが、今回はいささか失望しました。
スピリチュアルケア(SC)については、シンポジウム「死の恐怖に打ち勝つために」を聴講しました。カールベッカー先生(仏教)や高木慶子先生(キリスト教)と並んで、前世療法を奉ずる内科医や元幸福の科学幹部(!)であった病院理事(おふたりとも臨床医です)が登場しましたが、その見識に違和感を抱いたのは私だけでしょうか。在宅医療の議論の場に、宗教の実践家を招く意気は評価しますが、臨床医であれば宗教は何でも一緒くたなのでしょうか。失礼ながら企画者の節操を少々疑ってしまいました。
SCとは「霊的ケア」とか「魂のケア」と訳され、主には緩和ケアにおいて、末期患者のスピリチュアルペインを和らげるケアをいいます。キリスト教社会の欧米であれば、聖書を携えたチャプレンの登場かもしれませんが、無宗教な日本ではこれがよく理解されないまま、さきほどのような何でもありの様相を呈しています。そもそもSCが人間の実存的課題というより、切迫した医療的課題として扱われてきた経緯があるからか、宗教的ケアの何たるかをよく論じないまま、双方は完全に線引きされているように見えます。
もちろんスピリチュアリティと宗教に対する考え方は人それぞれです。宗教的ケアが何よりも万能とも思えません。しかし、臨床においてはスピリチュアリティと宗教はともに重要なのであって、両者は融合こそ必要であって、無視したり反目しあってはならないと思います。互いを包摂しあうような統合的な思考シフトがなぜ実現しないのでしょうか。
宗教は世の東西を問わず、「いかに死ぬか」という実存的命題を時間をかけて極めてきたものです。日本の浄土教などはその歴史的精緻ともいえるものですが、そういった日本人の伝来の叡智に学ぼうとせずに、欧米風の新説を取り入れたり、挙句に怪しげな宗教信奉者まで登場させるのは、宗教に対する不信あるいは警戒からなのでしょうか。
私はこの世界での仏教の復権を主張しているのではありません。浄土教と幸福の科学を一緒くたにするなと憤慨しているわけでもない。ただ少なくとも、日本人の死生観というからには歴史的な時間をかけて鍛錬されてきた思想的強度が不可欠であって、それがスピリチュアルな臨床を含めて生活文化の基層となるのでしょう。
医療では「死は終末」ですが、日本人の伝統的な死生観は「死は新しい旅立ち(往生)」と受け止めてきました。死んだらみなホトケであり、その生まれ変わりのシステムとして葬儀や年回法要、墓や仏壇が永く維持されてきたのだと思います。日本人は身近な死を通して、自らの死を写し取ってきたのだし、先祖という総体にいのちのつながりを感じ取ってきました。「葬式仏教」のレッテルの奥には、じつは営々と築かれた日本人のスピリチュアリティの可能性が秘められている。死生の哲学として、もう一度仏教に学ぶ時が来ていると思います(末木文美士さんの「仏典をよむ~死からはじまる仏教史」を読んでみてください)。
しかし、そうならないのは、仏教の側の責任も大きい。いまの僧侶の大方が、自家撞着を来たし、教団関係以外の人前でまともに対話できるとも思えない。業界だけで使いまわされてきた仏教の言葉は手垢にまみれ、干からびてしまっているともいえます。
ですから、これには布教とか折伏という一方的な支配原理ではなく、公共的な視点から仏教を見直し、市民の言語でこれを再構築していく、というダイナミックな上書き作業が必要なのだと思います。最近はどの教団でもビハーラ(仏教版ホスピス)が流行のようでそれは結構なことですが、またぞろ同宗の人間だけを対象に、教義の活用だけを優先しているようであれば、元の木阿弥です。同業者だけで自己完結させるのではなく、医療者も含め市民と対話や協働を重ね、ともに開発していくような姿勢が肝要だと思います。その試行も(このブログで紹介した(6月10日)NPO法人ビハーラ21のように)、ゆっくりとですが、始まっています。
最後にもう一言。そもそもSCとは、末期患者さんのベッドサイドだけで成立するものではありません。地域の生活や暮らし全体の中で醸し出される、互いを思い、慈しみ、支えあう関係性こそ、日常のSCだと思います。その気づきや促しをどう試みるか。日本に8万あるお寺が、それぞれの地域におけるスピリチュアル教育の拠点となればいい。私たち大蓮寺や應典院の活動も、その同一線上にあります。 (秋田光彦)
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