7月18日、大蓮寺にて夏のエンディングセミナーとして「遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~」を聴いた。講師の㈱ジーエスアイ代表 橋爪謙一郎さんは、グリーフサポートに関して、深い知識とアメリカでの実務経験を持つ、日本における第一人者である。新著に『お父さん、「葬式はいらない」って言わないで』(小学館新書)がある。
最初に「グリーフ」の定義について言われた。
例えば、男であるから悲しみを我慢しなければいけないなど、自分が持っている先入観で自分の心の中の感情を押さえつけたり、周囲の人が持っている勝手な「暗黙のルール」や、あるいは地域の習慣や社会全体の「常識」「通念」に押さえられて、気持ちを外に出せなかったりする、つまり自分の心の中ではいろいろな感情、行動が浮かびあがってきているが、それを周りの人に受け入れてもらえないのが「グリーフ」の状況だと。
その時に、周りの人間にできるのが、「グリーフサポート」ではないか。行ったり来たりする当事者の感情を、自分らしく表現できるように寄り添って支えてあげることがグリーフの中で必要な支援だという。
遺族や死別体験者が必要としていることは一人ひとり違うが、日本人は自分の気持ちや考え、思いを共有することに慣れていない。人と違うことを怖れるので、余計に自分の中で感情や思いを押さえ込む人が多い。
そこで、橋爪さんは、日本の葬儀を「再評価」を試みた。
本来、日本の葬式とは、遠慮なく悲しみなどの感情表現できる数少ない場であった。故人を知る人が集まることも大切だ。家族の知らない故人の一面を教えてもらうことによって、遺族にとって気持ちを整理できる場になる。現状の葬儀はどうか。
また今では法要も省略される傾向にある。いろいろな法要が連続して葬儀のプロセスを形成してきたが、現在の葬儀は「点」になっている。自分の気持ちを整理する場として、どうつきあえばいいかわからい。面倒くさいものとして、省略しようという心境もある。
葬儀が少しずつ自分の気持ちを整理する場であると気づくと、考え方ももっと変わってくるのではないか。供養の仕組みをもっと考えるべきである。「点」でなくて「プロセス」として葬式や法要を捉えなおすことによって、辛い体験を乗り越えていく。改めて「過程」をどうやって作っていくのかを再考しなければならない。
グリーフを支えるとは、相手に「寄り添うこと」である。遺族のあるがままをどのようにして受け止められるのか、また寄り添っている相手に自分が「味方」であると気づいてもらうことが重要である。側にいて、いつでも必要な時に手を差し伸べられるようにする。
「グリーフにおける支援」とは心理的支援だから、ある意味、葬儀社が行う、葬式の打合せ自体がカウンセリングであるとも言える。遺族が大切にしていることをどれだけ聞けるか、どれだけ心の中のことを出してもらい、整理することができるか、それができれば、必ずよい葬式になる。今の葬式は、準備の時間が少なすぎるのでないか。そしてそこが葬式に対する不全感になっているのではないか。また、情報提供も重要だ。どこにいけば葬式関連の情報が手に入るのか、すぐに分かるシステム作りが今後の課題だ。
橋爪さんが一番強調されたのは、「大切な人を喪った人が、自分が何をしてほしいか声を上げること」。残念ながら声が聞こえてこないと、誰も手を差し伸べられない。またその時に、周りの人も自分たちができることがあることを知ってほしい。一つでも変わるとその人は元気になれる。そういう簡単なところから始めてほしいと言われたのが、印象に残った。
橋爪さんのお話しはとても共感するところが多かった。でもやはり私は「グリーフ」はとても難しいことと感じてしまう。ある意味、グリーフというのは癒せないものであるのではないかとすら思う。私自身、心理学の勉強をしていたが、今は心理学からのアプローチの限界を感じている。
私にとっても、これからいろいろな角度でのグリーフが訪れると思う。私は簡単に乗り切れるほど強くない。でもどうやってグリーフと共存して生きていけるかを模索していきたい。その際に大事なポイントになるものを、今回のセミナーで学んだような気がする。(浦嶋偉晃)
2010年7月30日金曜日
2010年7月24日土曜日
遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~
7月10日、應典院にて寺子屋トーク「遺族と<墓友>たち~人生の最期にこだわる仲間たち~」で、エンディングセンター代表 井上治代さんの講演を聞いた。井上さんは、今や死と葬送をめぐる環境は“選択する時代”に入っており、核家族の晩年の姿は「夫婦だけ」、最晩年は「独居」となるからこそ、個と個がどうつながり、助け合うか、家族をも含めた他者との「ゆるやかな共同性」「結縁」Support Networkを模索し、実現していきたいと活動されている。
冒頭、大蓮寺の創設した「第1回自然賞」の授賞式があり、受賞団体として、桜葬などに取組む「エンディングセンター」が選ばれ、贈呈式が行われた。
最初に井上さんは家族が遺族になった時、①死の受容、②悲嘆の回復(グリーフワーク)③高齢者が「一人で生きる」ということ、ということが課題として掲げられるが、その中で一番大切なものは、核家族が進む中、③の高齢者が「一人でどう生きていくか」が大問題であり、またそれと対になって「一人でどう死んでいくか」が課題であると言われた。現在、子どものいない高齢者世帯が増加しており、葬式でも喪主も確保できない人が増えているが、1990年代からは跡継ぎを必要としないお墓もできてきた。しかし、それは決して子どものいない夫婦ばかりでなく、むしろ子ども(娘、息子)がいる家に多く、跡継ぎがいる家族が、跡継ぎを必要としないお墓を求めだした傾向が強い。つまり現在において、血縁による継承は制度疲労を来しているのである。
1990年代からのお墓の変化として、①跡継ぎ性からの脱「継承」、継承者を必要としない集合墓など、②散骨、樹木葬などの自然志向、③個人化が挙げられる。中でも③個人化、つまり個人が選ぶ死後のあり方が進み、家族機能の外部化、社会化という時代になった。他人に託す介護保険制度がその象徴である。そこでその死後の社会化(喪主、死者祭祀の家族外部化)をサポートするのが、エンディングセンターの役割だと思っていると言われた。
葬送の中の「家」システムが後退し、「集団から個人へ」と価値意識が転換していく中、エンディングセンターでは「桜葬」墓地を作った。ここではお墓というハードだけでなく、そこに集った人達や会員でお墓を守ったり、生前から交流したりするという「墓友」グループを作っている。
今は家族の永遠性を求めることはむずかしい。桜などの自然という永遠性に囲まれて、「墓友」みんなで眠るというイメージである。
今では家族用にも「桜葬」墓地を設けている。子どもたちが入るかどうか分からないが、将来一緒に入りたいと思ったときに入れるように、可能性を保持できるところが人気となっている。子どもに墓の管理を負わすことなく、しかし一緒に入りたければ入ることが出来る、このあたりに現代の核家族の特徴があらわれていると言える。
最近は「就活」ならぬ「終活」という「死」を自分でデザインする時代に入ってきた。元気なうちに終末、むしろ死んだ後のことを考える時代に来ている。生き方にこだわる人が死に方にもこだわっている。墓を核としたネットワークはすごい。実際には家族と親族は永遠ではない。「人生の最期」にこだわる仲間たち、つまり血縁だけでない新たなサポートネットワークの時代がやってきたのではないか。家族の行方を、今後も墓を焦点に考えていきたい。
人生の最期、お墓の問題については、私にとっても悩ましい課題だ。桜葬に関しては、私自身まだまだ考え方の部分に踏み切れないところがあるが、関心を示している人が多いことも確かである。現代では「死」はあくまでも個人のものとなり、共同体のものでなくなったのだろうか。その家族の移ろいを認めざるを得ないが、私自身、一抹の空しさは感じる。
今回は私自身が、親、子どもを視野に入れつつ、自分の最期、死んだ後について考えるよい機会になった。(浦嶋偉晃)
冒頭、大蓮寺の創設した「第1回自然賞」の授賞式があり、受賞団体として、桜葬などに取組む「エンディングセンター」が選ばれ、贈呈式が行われた。
最初に井上さんは家族が遺族になった時、①死の受容、②悲嘆の回復(グリーフワーク)③高齢者が「一人で生きる」ということ、ということが課題として掲げられるが、その中で一番大切なものは、核家族が進む中、③の高齢者が「一人でどう生きていくか」が大問題であり、またそれと対になって「一人でどう死んでいくか」が課題であると言われた。現在、子どものいない高齢者世帯が増加しており、葬式でも喪主も確保できない人が増えているが、1990年代からは跡継ぎを必要としないお墓もできてきた。しかし、それは決して子どものいない夫婦ばかりでなく、むしろ子ども(娘、息子)がいる家に多く、跡継ぎがいる家族が、跡継ぎを必要としないお墓を求めだした傾向が強い。つまり現在において、血縁による継承は制度疲労を来しているのである。
1990年代からのお墓の変化として、①跡継ぎ性からの脱「継承」、継承者を必要としない集合墓など、②散骨、樹木葬などの自然志向、③個人化が挙げられる。中でも③個人化、つまり個人が選ぶ死後のあり方が進み、家族機能の外部化、社会化という時代になった。他人に託す介護保険制度がその象徴である。そこでその死後の社会化(喪主、死者祭祀の家族外部化)をサポートするのが、エンディングセンターの役割だと思っていると言われた。
葬送の中の「家」システムが後退し、「集団から個人へ」と価値意識が転換していく中、エンディングセンターでは「桜葬」墓地を作った。ここではお墓というハードだけでなく、そこに集った人達や会員でお墓を守ったり、生前から交流したりするという「墓友」グループを作っている。
今は家族の永遠性を求めることはむずかしい。桜などの自然という永遠性に囲まれて、「墓友」みんなで眠るというイメージである。
今では家族用にも「桜葬」墓地を設けている。子どもたちが入るかどうか分からないが、将来一緒に入りたいと思ったときに入れるように、可能性を保持できるところが人気となっている。子どもに墓の管理を負わすことなく、しかし一緒に入りたければ入ることが出来る、このあたりに現代の核家族の特徴があらわれていると言える。
最近は「就活」ならぬ「終活」という「死」を自分でデザインする時代に入ってきた。元気なうちに終末、むしろ死んだ後のことを考える時代に来ている。生き方にこだわる人が死に方にもこだわっている。墓を核としたネットワークはすごい。実際には家族と親族は永遠ではない。「人生の最期」にこだわる仲間たち、つまり血縁だけでない新たなサポートネットワークの時代がやってきたのではないか。家族の行方を、今後も墓を焦点に考えていきたい。
人生の最期、お墓の問題については、私にとっても悩ましい課題だ。桜葬に関しては、私自身まだまだ考え方の部分に踏み切れないところがあるが、関心を示している人が多いことも確かである。現代では「死」はあくまでも個人のものとなり、共同体のものでなくなったのだろうか。その家族の移ろいを認めざるを得ないが、私自身、一抹の空しさは感じる。
今回は私自身が、親、子どもを視野に入れつつ、自分の最期、死んだ後について考えるよい機会になった。(浦嶋偉晃)
2010年7月5日月曜日
「遺族不在」の時代とこれからの葬送 2010年、エンディングセミナーの開催にあたって思うこと
■二人称の死と家族葬
「死の人称論」を説いたのはジャンケレヴィッチだが、日本では作家・柳田邦男が著作「犠牲(サクリファイス)」で述べて、広く一般的になった。一人称は亡くなる本人の視点、二人称は身近な家族や友人の視点、そして三人称がそれ以外の第三者の視点、といわれ、柳田の本は、「二人称の死」の重要性を訴えた。つまり、遺族としての視点を掘り起こした。
葬式はいったい誰のものか。その問いにいろいろな答え方がある。宗教的に言えば、死者を来世へ送ることだが、社会的には死の事実を示して、死者が世帯主である場合は、その承継を地域に対し表明することでもあった。だから、一昔前までの葬儀では、遺族は町内や職場のいろいろな決まりごとを生真面目に順守してきた。遺族の視点(二人称)というより、社会の視点(三人称)が優先されてきたのだ。
最近になって、二人称の死、遺族の視点が強調されてきたのは、葬式の形態の変化とも無関係ではない、と思う。家族葬の普及である。
ここ20年ほどの間、伝統とされてきた葬送がリストラされて、いろいろな葬法が登場してきたが、中でも家族葬はすっかりスタンダードになった。外から会葬者を招かない、身内だけで親密な別れを告げるコンパクトな葬式は、死の視点から考えれば、従来になく死者と遺族の距離を近づけた。深い人間関係を結んできた親密感を、切り裂かれるような喪失感、悼み、悲嘆が隠しようもなく露わになる。私の印象だが、社会的な儀礼性が後退した分、家族葬はグリーフ(死別の悲嘆)の感情を浮き彫りにしたと言えるのではないか。
最近、このグリーフという言葉の浸透が著しい。グリーフサポートとかグリーフワークという考え方は遺族を中心としているが、日本の葬式もまた遺族という二人称の視点からその意味を問い直されようとしている。
■遺族の不在、という問題
年間114万人が亡くなる現在の多死社会は、その意味では多くのグリーフを背負う時代でもある。たいせつな人の死をどう受け入れ、どう送るか---それは日本人が独自の歴史と文化の中で育んできた遺族の精神史とも重なるが、ここにも変化の兆しが見て取れる。
NHKが1月に「無縁社会」を報道して話題となった。日本には、身元不明の、遺体引き取りを拒否される人が1年間に3万人以上いるという事実。単身世帯の急増は、将来の無縁死や孤独死の増を示唆しているのかもしれないし、別の言い方をすれば「遺族の不在」という深刻な事態が迫ってきている。俗世のつながりが分断すれば、死者と遺族の関係も歪が生じる。そもそも少子化が加速して、死後の継承者が縮小しているので、「遺族なき供養」という問題は、どの寺院でも逼迫した課題であるはずだ。永代供養墓の普及はその証拠だし、究極の選択は、遺族がいても、葬式をしない「直葬」だろう。首都圏では、葬儀全体の3割を占めるという。多死社会において、いったい供養の担い手とは誰なのか。
グリーフという遺族の内面にかかわる問題が生起する一方で、「遺族の不在」という社会的な現象が立ちはだかる。そもそもグリーフの主体者とは誰なのか。遺族なき時代が到来する中、死別の悲しみはどう支えられ、死者をどう悼んでいくのか。
■グリーフサポートとしての葬送
墓、葬式など葬送儀礼、あるいは僧侶という存在は、長い歴史を通して、死別の悲しみを支える作法を伝えてきた。かつての大家族、長男世襲の時代ではそれは至極当然の生活文化であったから、とりたててグリーフという問題が取り上げられたこともなかった。しかし、家族が多様化して、遺族が急速に変容する今、葬式仏教も制度疲労を来し、逆にその間隙を縫ってグリーフの観点が浮上してきた。
確かにこれまで通りの葬式仏教は後退するだろう。しかし、ある意味でグリーフを核とした新たな葬式の再構築が始まる、これは転機なのかもしれない。「一人では弱い存在である人間が死別と向き合ってとき、誰かに支えてもらうことで生きるために必要な力を得る時間や場所として葬儀がある」(橋爪謙一郎)ならば、グリーフサポートとしての葬送の役割を、いま真剣に考えるべき時が来ているのではないか。それは同時に、儀礼の執行役であった僧侶の役割をも問い直すものとなるだろう。
今回のエンディングセミナーでは、3人のゲストの活動を通して、グリーフサポートとしての葬送について考えてみたい。(秋田光彦)
❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑
大蓮寺・應典院 夏のエンディングセミナー2010
「遺族」をどう支えるか~グリーフサポートとしての葬送~
第1回 7/10(土)14:00~
應典院寺町倶楽部「寺子屋トーク第58回」
遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~
会場:應典院 <閉会16:30>
井上 治代さん(NPO法人エンディングセンター代表・東洋大学教授)
対話:秋田光彦 司会:出口久美さん(NPO法人遺族支え愛ネット)
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689
参加費 :一般1,500円・應典院寺町倶楽部会員・学生1,200円
*なお、同日、大蓮寺のエンディング奨励事業「自然賞」授賞式を併催します。
第2回 7/18(日)14:00~
遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~
会場:大蓮寺 <閉会16:00>
橋爪 謙一郎さん(株式会社ジーエスアイ代表取締役)
対話:秋田光彦
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690
参加費 :一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円
第3回 7/25(日)14:00~
自殺遺族と仏教~自殺問題に取り組む僧侶たち~
会場:大蓮寺 <閉会16:00>
藤澤 克己さん(自殺対策に取り組む僧侶の会代表・浄土真宗本願寺派安楽寺副住職)
対話:秋田光彦
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691
参加費 :一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円
主催:大蓮寺・エンディングを考える市民の会、應典院寺町倶楽部
共催:浄土宗大蓮寺、應典院
助成:公益財団法人JR西日本あんしん社会財団
協力:NPO法人遺族支え愛ネット、Live on、NPO法人エンディングセンター
<各回ともインターネットで直接申込が可能です>
10日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689
18日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690
25日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691
<事前の準備状況は大蓮寺のブログで紹介!>
http://mitoribito.blogspot.com
問合せ 應典院寺町倶楽部(おうてんいんてらまちくらぶ)
543-0076 大阪市天王寺区下寺町1-1-27 TEL 06-6771-7641 FAX 06-6770-3147
電子メール info@outenin.com ホームページ http://www.outenin.com
「死の人称論」を説いたのはジャンケレヴィッチだが、日本では作家・柳田邦男が著作「犠牲(サクリファイス)」で述べて、広く一般的になった。一人称は亡くなる本人の視点、二人称は身近な家族や友人の視点、そして三人称がそれ以外の第三者の視点、といわれ、柳田の本は、「二人称の死」の重要性を訴えた。つまり、遺族としての視点を掘り起こした。
葬式はいったい誰のものか。その問いにいろいろな答え方がある。宗教的に言えば、死者を来世へ送ることだが、社会的には死の事実を示して、死者が世帯主である場合は、その承継を地域に対し表明することでもあった。だから、一昔前までの葬儀では、遺族は町内や職場のいろいろな決まりごとを生真面目に順守してきた。遺族の視点(二人称)というより、社会の視点(三人称)が優先されてきたのだ。
最近になって、二人称の死、遺族の視点が強調されてきたのは、葬式の形態の変化とも無関係ではない、と思う。家族葬の普及である。
ここ20年ほどの間、伝統とされてきた葬送がリストラされて、いろいろな葬法が登場してきたが、中でも家族葬はすっかりスタンダードになった。外から会葬者を招かない、身内だけで親密な別れを告げるコンパクトな葬式は、死の視点から考えれば、従来になく死者と遺族の距離を近づけた。深い人間関係を結んできた親密感を、切り裂かれるような喪失感、悼み、悲嘆が隠しようもなく露わになる。私の印象だが、社会的な儀礼性が後退した分、家族葬はグリーフ(死別の悲嘆)の感情を浮き彫りにしたと言えるのではないか。
最近、このグリーフという言葉の浸透が著しい。グリーフサポートとかグリーフワークという考え方は遺族を中心としているが、日本の葬式もまた遺族という二人称の視点からその意味を問い直されようとしている。
■遺族の不在、という問題
年間114万人が亡くなる現在の多死社会は、その意味では多くのグリーフを背負う時代でもある。たいせつな人の死をどう受け入れ、どう送るか---それは日本人が独自の歴史と文化の中で育んできた遺族の精神史とも重なるが、ここにも変化の兆しが見て取れる。
NHKが1月に「無縁社会」を報道して話題となった。日本には、身元不明の、遺体引き取りを拒否される人が1年間に3万人以上いるという事実。単身世帯の急増は、将来の無縁死や孤独死の増を示唆しているのかもしれないし、別の言い方をすれば「遺族の不在」という深刻な事態が迫ってきている。俗世のつながりが分断すれば、死者と遺族の関係も歪が生じる。そもそも少子化が加速して、死後の継承者が縮小しているので、「遺族なき供養」という問題は、どの寺院でも逼迫した課題であるはずだ。永代供養墓の普及はその証拠だし、究極の選択は、遺族がいても、葬式をしない「直葬」だろう。首都圏では、葬儀全体の3割を占めるという。多死社会において、いったい供養の担い手とは誰なのか。
グリーフという遺族の内面にかかわる問題が生起する一方で、「遺族の不在」という社会的な現象が立ちはだかる。そもそもグリーフの主体者とは誰なのか。遺族なき時代が到来する中、死別の悲しみはどう支えられ、死者をどう悼んでいくのか。
■グリーフサポートとしての葬送
墓、葬式など葬送儀礼、あるいは僧侶という存在は、長い歴史を通して、死別の悲しみを支える作法を伝えてきた。かつての大家族、長男世襲の時代ではそれは至極当然の生活文化であったから、とりたててグリーフという問題が取り上げられたこともなかった。しかし、家族が多様化して、遺族が急速に変容する今、葬式仏教も制度疲労を来し、逆にその間隙を縫ってグリーフの観点が浮上してきた。
確かにこれまで通りの葬式仏教は後退するだろう。しかし、ある意味でグリーフを核とした新たな葬式の再構築が始まる、これは転機なのかもしれない。「一人では弱い存在である人間が死別と向き合ってとき、誰かに支えてもらうことで生きるために必要な力を得る時間や場所として葬儀がある」(橋爪謙一郎)ならば、グリーフサポートとしての葬送の役割を、いま真剣に考えるべき時が来ているのではないか。それは同時に、儀礼の執行役であった僧侶の役割をも問い直すものとなるだろう。
今回のエンディングセミナーでは、3人のゲストの活動を通して、グリーフサポートとしての葬送について考えてみたい。(秋田光彦)
❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑ ❑
大蓮寺・應典院 夏のエンディングセミナー2010
「遺族」をどう支えるか~グリーフサポートとしての葬送~
第1回 7/10(土)14:00~
應典院寺町倶楽部「寺子屋トーク第58回」
遺族と<墓友>たち~「人生の最期」にこだわる仲間たち~
会場:應典院 <閉会16:30>
井上 治代さん(NPO法人エンディングセンター代表・東洋大学教授)
対話:秋田光彦 司会:出口久美さん(NPO法人遺族支え愛ネット)
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689
参加費 :一般1,500円・應典院寺町倶楽部会員・学生1,200円
*なお、同日、大蓮寺のエンディング奨励事業「自然賞」授賞式を併催します。
第2回 7/18(日)14:00~
遺族サポートとお葬式~グリーフでつながる~
会場:大蓮寺 <閉会16:00>
橋爪 謙一郎さん(株式会社ジーエスアイ代表取締役)
対話:秋田光彦
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690
参加費 :一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円
第3回 7/25(日)14:00~
自殺遺族と仏教~自殺問題に取り組む僧侶たち~
会場:大蓮寺 <閉会16:00>
藤澤 克己さん(自殺対策に取り組む僧侶の会代表・浄土真宗本願寺派安楽寺副住職)
対話:秋田光彦
[オンライン予約]
http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691
参加費 :一般1,000円・應典院寺町倶楽部会員・学生800円
主催:大蓮寺・エンディングを考える市民の会、應典院寺町倶楽部
共催:浄土宗大蓮寺、應典院
助成:公益財団法人JR西日本あんしん社会財団
協力:NPO法人遺族支え愛ネット、Live on、NPO法人エンディングセンター
<各回ともインターネットで直接申込が可能です>
10日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40689
18日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40690
25日:http://uemachi.cotocoto.jp/event/40691
<事前の準備状況は大蓮寺のブログで紹介!>
http://mitoribito.blogspot.com
問合せ 應典院寺町倶楽部(おうてんいんてらまちくらぶ)
543-0076 大阪市天王寺区下寺町1-1-27 TEL 06-6771-7641 FAX 06-6770-3147
電子メール info@outenin.com ホームページ http://www.outenin.com
2010年6月14日月曜日
いただきます、という花束。
宮崎県の口蹄疫の災禍が、一向に収まる気配がない。もちろん、拡大は食いとめなくてはならないが、そのために数万頭以上の家畜が殺処分されると知ると、慄然とする。すでに遺骸を埋める場所さえないと聞く。それ以上に、畜産農家の悲痛は察して余りある。手塩をかけて、子ども同然に育て上げた牛豚を、「感染防止」のため次々と殺処分される。あまりに痛ましい。農家の中には、遺骸に花を供えてくれ、と涙ながら係員に託する人もいるという。
忘れてはならないことがある。もとよりこの牛や豚は、われわれ人間の「食用」として肥育されてきた、という事実。そして、私たち人間は多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいかない。
消費優先の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかない。牛も豚もみないのちはあるが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。殺された牛豚の場面をテレビで眺めながら、何段重ねの巨大なバーガーを食らう我々がいる。
私の幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、「食前のことば」を唱える。
「われいまこの清き食をいただきます。
与えられた天地の恵みを感謝します。
いただきます」
食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉だが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、栄養だ調理だという前に、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないか。
仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊んできた。にもかかわらず、人間は他者のいのちの上に成り立つしかない。わが身を悲しむと同時に、それを転じてすべてのいのちへの感謝と慈しみが大切であると教えてきた。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっている。そのことを忘れてはならない。
「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのである。(蓮池潤三)
忘れてはならないことがある。もとよりこの牛や豚は、われわれ人間の「食用」として肥育されてきた、という事実。そして、私たち人間は多くの生き物のいのちを食べ、その上に生かさせてもらっている、ということを再認識しないわけにいかない。
消費優先の社会では、そういった実体は隠されており、店先に並ぶ食肉は、多くは切り身となったパック入りの姿でしかない。牛も豚もみないのちはあるが、消費の世界では、それらは商品であり、食材であり、代価の対象以外の何物でもない。殺された牛豚の場面をテレビで眺めながら、何段重ねの巨大なバーガーを食らう我々がいる。
私の幼稚園では給食の際、園児たちは合掌して、「食前のことば」を唱える。
「われいまこの清き食をいただきます。
与えられた天地の恵みを感謝します。
いただきます」
食は、商品ではなく、天地の恵みとして授けられたものであるという考え方。そして、「いただきます」とは英語では訳せない独特の言葉だが、その根底には「あなたの尊いいのちをいただきます」という深い懺悔の念がこめられています。食育の原点は、栄養だ調理だという前に、この「尊いいのちのおかげ」を知ることではないか。
仏教では、「山川草木悉有仏性」と、生きとし生けるものすべてを尊んできた。にもかかわらず、人間は他者のいのちの上に成り立つしかない。わが身を悲しむと同時に、それを転じてすべてのいのちへの感謝と慈しみが大切であると教えてきた。いのちを授けてくださったあなたの分も、しっかり生きていきます、という誓いが横たわっている。そのことを忘れてはならない。
「いただきます」とは、私たちが毎日、いのちに捧げる感謝の花束なのである。(蓮池潤三)
2010年5月30日日曜日
『宗教的ケアとスピリチュアルケア』~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」を聴講して
去る5月24日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第2回ビハーラ実践研究会」に参加した。
この研究会は、3月より隔月で開催されており、今回が2回目である。
第1回目については、下記のブログを参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
今回はビハーラ21の理事であり、曹洞宗崇禅寺副住職 西岡秀爾さんが「ビハーラ活動再考-宗教的ケアとスピリチュアルケア-」で話題を提供された。
僧侶、ヘルパーさんや一般の方など前回以上の30名近く方が集まられ、西岡さんの講演の後も予定時間を越える白熱したディスカッションになった。
西岡さんからのお話で、ビハーラ活動は、「仏教を基盤とした」「仏教を機縁とした」゛いのち゛の尊さに気づき、支え合う精神に基づく活動と言えるが、それではビハーラ活動は宗教的ケアなのか?スピリチュアルケアなのか?という問いがあった。
宗教的ケアとはケアを提供する側とされる側で互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提であり、ケアを提供する側が主導権を持つという。つまり僧侶、牧師などがいなければケアは不成立であり、援助者も僧侶、牧師などに限られることになる。本来スピリチュアルケアはケアを提供する側(援助者)がケアを受ける側(相談者)の世界観に合わせ、主導権は相談者にあって、援助者は相談者の行きたいほうに寄り添うのであるが、それ故援助者はカウンセラー、医師、ボランティアなど多岐にわたる。
またケア援助者が提供するものとして、宗教的ケアは「答え」「気づき」を与えるが、スピリチュアルケアは答えを提供するのではなく「気づきの場」を与えるものだ。
さらに宗教的ケアでは、相談者は援助者である宗教者を基軸とする「世界」に入り込むことになるが、スピリチュアルケアでは、その相談者の「世界」に入り込むので、信仰の種類や有無を問わないで、どのような相手にも対応できるともいえる。つまり、宗教者を基軸とする「世界」と相談者の「世界」と入り込み世界が違うのである。
そこでビハーラ21の活動は、「ビハーラを掲げる集まり(仏教を機縁とした集まり)としては、活動の場に応じ、宗教的ケア(超宗派の活動)とスピリチュアルケアを上手く使い分けることが必要不可欠」と考える。
末期を迎えている方から「死んだら天国に行けますか?」と聞かれたらどう対応するのか。釈尊の立場では「有るとも無いとも言えない」ということになるが、宗教的ケアでは援助者の信仰・信念において答えを提供する。つまり「極楽浄土がありますよ」ということになる一方、スピリチュアルケアでは、援助者は答えを提供しない。あくまでも相談者が折り合いをつける、という。
定義はそうかもしれない。しかし、もし私が末期の方に死後の世界をあるのかと尋ねられたら、何の根拠はなくとも「ある」「そこで愛する人たちと会えるよ」と答えると思う。乱暴な言い方だが、こんなとき「嘘も方便」ではないか。
これからは宗教者の役割は、問題に対し答えを出すことよりも、「問い」を「問題」まで構成し直すことができるかどうかが求められることになるであろう。
最後に西岡さんが、ビハーラを掲げる集まりは、あくまでも仏教が機縁となっているだけで、仏教を前面に押し出すものではない。援助者側の拠り所として仏教が支えとなっているのは事実だが、それを相談者に押し付けてはならない。さらに仏教を手段として利用するのは間違っている。ケアのために、看護のために、福祉のために、癒しのために仏教を使うのではなく、有縁の援助者側のバックボーン(生き方・支え)として仏教があるのではないか、と言って締めくくられた。
今回の話題はなかなか解答の出るものではないので、引き続き話し合えて行ければ思う。「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、このビハーラ実践研究会で議論を一つ一つじっくりと交わし、ぜひ一緒に歩んでみたいと改めて思った。
この研究会は大河内さん、西岡さんの持っておられる居住まいが、すごく良い「場」を作っておられる。今後もとても楽しみな研究会である。
次回のビハーラ実践研究会は7月26日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。通常、1時間半であるが、今回のように白熱したディスカッションから、今後は2時間の枠に広げるかもしれないと大河内さんが仰った。私も大賛成である。(浦嶋偉晃)
この研究会は、3月より隔月で開催されており、今回が2回目である。
第1回目については、下記のブログを参照頂きたい。
http://mitoribito.blogspot.com/2010/04/blog-post.html
今回はビハーラ21の理事であり、曹洞宗崇禅寺副住職 西岡秀爾さんが「ビハーラ活動再考-宗教的ケアとスピリチュアルケア-」で話題を提供された。
僧侶、ヘルパーさんや一般の方など前回以上の30名近く方が集まられ、西岡さんの講演の後も予定時間を越える白熱したディスカッションになった。
西岡さんからのお話で、ビハーラ活動は、「仏教を基盤とした」「仏教を機縁とした」゛いのち゛の尊さに気づき、支え合う精神に基づく活動と言えるが、それではビハーラ活動は宗教的ケアなのか?スピリチュアルケアなのか?という問いがあった。
宗教的ケアとはケアを提供する側とされる側で互いの宗教観が一致もしくは似ていることが前提であり、ケアを提供する側が主導権を持つという。つまり僧侶、牧師などがいなければケアは不成立であり、援助者も僧侶、牧師などに限られることになる。本来スピリチュアルケアはケアを提供する側(援助者)がケアを受ける側(相談者)の世界観に合わせ、主導権は相談者にあって、援助者は相談者の行きたいほうに寄り添うのであるが、それ故援助者はカウンセラー、医師、ボランティアなど多岐にわたる。
またケア援助者が提供するものとして、宗教的ケアは「答え」「気づき」を与えるが、スピリチュアルケアは答えを提供するのではなく「気づきの場」を与えるものだ。
さらに宗教的ケアでは、相談者は援助者である宗教者を基軸とする「世界」に入り込むことになるが、スピリチュアルケアでは、その相談者の「世界」に入り込むので、信仰の種類や有無を問わないで、どのような相手にも対応できるともいえる。つまり、宗教者を基軸とする「世界」と相談者の「世界」と入り込み世界が違うのである。
そこでビハーラ21の活動は、「ビハーラを掲げる集まり(仏教を機縁とした集まり)としては、活動の場に応じ、宗教的ケア(超宗派の活動)とスピリチュアルケアを上手く使い分けることが必要不可欠」と考える。
末期を迎えている方から「死んだら天国に行けますか?」と聞かれたらどう対応するのか。釈尊の立場では「有るとも無いとも言えない」ということになるが、宗教的ケアでは援助者の信仰・信念において答えを提供する。つまり「極楽浄土がありますよ」ということになる一方、スピリチュアルケアでは、援助者は答えを提供しない。あくまでも相談者が折り合いをつける、という。
定義はそうかもしれない。しかし、もし私が末期の方に死後の世界をあるのかと尋ねられたら、何の根拠はなくとも「ある」「そこで愛する人たちと会えるよ」と答えると思う。乱暴な言い方だが、こんなとき「嘘も方便」ではないか。
これからは宗教者の役割は、問題に対し答えを出すことよりも、「問い」を「問題」まで構成し直すことができるかどうかが求められることになるであろう。
最後に西岡さんが、ビハーラを掲げる集まりは、あくまでも仏教が機縁となっているだけで、仏教を前面に押し出すものではない。援助者側の拠り所として仏教が支えとなっているのは事実だが、それを相談者に押し付けてはならない。さらに仏教を手段として利用するのは間違っている。ケアのために、看護のために、福祉のために、癒しのために仏教を使うのではなく、有縁の援助者側のバックボーン(生き方・支え)として仏教があるのではないか、と言って締めくくられた。
今回の話題はなかなか解答の出るものではないので、引き続き話し合えて行ければ思う。「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、このビハーラ実践研究会で議論を一つ一つじっくりと交わし、ぜひ一緒に歩んでみたいと改めて思った。
この研究会は大河内さん、西岡さんの持っておられる居住まいが、すごく良い「場」を作っておられる。今後もとても楽しみな研究会である。
次回のビハーラ実践研究会は7月26日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。通常、1時間半であるが、今回のように白熱したディスカッションから、今後は2時間の枠に広げるかもしれないと大河内さんが仰った。私も大賛成である。(浦嶋偉晃)
2010年5月15日土曜日
いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(5)坊さんも、大志を抱く
「ボーズ・ビー・アンビシャス」。どこかで聞いたことがありそうな言葉だが、誤植ではない。そう、これは「青年よ、大志を抱け」をもじり、「お坊さんよ、大志を抱け」とされたスローガンなのだ。使い始めたのは、東京・港区にある青松寺。伝統ある曹洞宗のお寺で、宗門以外の講師を招いて始めた「仏教ルネッサンス塾」の上田紀行塾長(東京工業大学大学院准教授)のもと、僧侶たちが自らの問題を語り合う場がボーズ・ビー・アンビシャスである。
去る3月9日、大阪市下寺町の應典院にて、ボーズ・ビー・アンビシャス、通称BBAの関西での第1回が開催された。きっかけは、既に7年13回にわたり開催されてきた東京での会に、関西方面から何度も参加してきた僧侶がいたことだった。そして、昨年7月20日に準備会が発足し、16人の仲間たちとともに、実現に向けて取り組んできた。結果として、63人の僧侶らによる激論の場が生まれた。BBAを知る人も、知らない人も、カミングアウトや自己宣言をする機会を得たように思う。
ただ、開催にあたって事務局を務めさせていただいた側としての率直な感想は、「集まり、語ることに満足をしていないか」ということである。言葉を選ばずに言えば、「いけてるお坊さん」を装ったところで、それぞれの寺院が抱えている問題は、いっこうに解決を導き出すことはできないのだ。もちろん、こうして集い、考える場が無意味だとは言っていない。要するに、集い、考えたものを、どのように自らの生き方、すなわち現場に重ねていくのかが、決定的に重要なのである。
宗教学者の島田裕巳さんの『葬式は、要らない』では、日本仏教を「墓参り教」と指摘する。今、行動する仏教者が受け止めるべきは、こうして家族が遺族になった後から、関係を維持・発展させてきたことではないかと思う。仏教者は、仏教ファンを増やすことや寺院経営のサポーターを増やすことだけに注力すべきではない。そう、檀信徒の方々と共に、今の時代を生き抜いていかねばならないのだ。
ちなみに、BBA関西の議論は、はやりのツイッターで「中継」させていただいた。すると、会場で紡がれた言葉を、宗教者以外によってつぶやき直されることがあった。ここに、仏教の言葉は、今の時代にも響く可能性を持っているはずと会心した。だからこそ、仏教を説きながら、その言葉を届ける「あなた」に寄り添い、共に生きていく大志を抱きたい。(山口洋典)
去る3月9日、大阪市下寺町の應典院にて、ボーズ・ビー・アンビシャス、通称BBAの関西での第1回が開催された。きっかけは、既に7年13回にわたり開催されてきた東京での会に、関西方面から何度も参加してきた僧侶がいたことだった。そして、昨年7月20日に準備会が発足し、16人の仲間たちとともに、実現に向けて取り組んできた。結果として、63人の僧侶らによる激論の場が生まれた。BBAを知る人も、知らない人も、カミングアウトや自己宣言をする機会を得たように思う。
ただ、開催にあたって事務局を務めさせていただいた側としての率直な感想は、「集まり、語ることに満足をしていないか」ということである。言葉を選ばずに言えば、「いけてるお坊さん」を装ったところで、それぞれの寺院が抱えている問題は、いっこうに解決を導き出すことはできないのだ。もちろん、こうして集い、考える場が無意味だとは言っていない。要するに、集い、考えたものを、どのように自らの生き方、すなわち現場に重ねていくのかが、決定的に重要なのである。
宗教学者の島田裕巳さんの『葬式は、要らない』では、日本仏教を「墓参り教」と指摘する。今、行動する仏教者が受け止めるべきは、こうして家族が遺族になった後から、関係を維持・発展させてきたことではないかと思う。仏教者は、仏教ファンを増やすことや寺院経営のサポーターを増やすことだけに注力すべきではない。そう、檀信徒の方々と共に、今の時代を生き抜いていかねばならないのだ。
ちなみに、BBA関西の議論は、はやりのツイッターで「中継」させていただいた。すると、会場で紡がれた言葉を、宗教者以外によってつぶやき直されることがあった。ここに、仏教の言葉は、今の時代にも響く可能性を持っているはずと会心した。だからこそ、仏教を説きながら、その言葉を届ける「あなた」に寄り添い、共に生きていく大志を抱きたい。(山口洋典)
2010年5月7日金曜日
いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(4)あなたの分まで生きる
この1月、應典院では「震災15年の手紙」を募った。先祖供養だけではなく、時代を生きる人々と呼吸するお寺を目指すゆえの挑戦であった。そもそも供養とは、誰かの死を想い起こすことである。そこで、ことばを専門に扱う2名の表現者と共に、あの日に思いを馳せることにした。
簡単に言えば、誰に宛ててもよいので、震災15年の今だからこそ、封書に思いをしたためて、お寺に送って下さい、という取り組みである。それを宛名がわからないようにお寺のロビーに展示した。しかもロビーはその間だけ人工芝が敷かれるなど、造園が専門のデザイナー、花村周寛さんの手によって公園のような空間に設えられていた。そこで、作家の岩淵拓郎さんの着想で、額に入れるなどした展示ではなく、公園に置き忘れたかのように演出された。また、期間中にはこうした工夫も、詩人の上田假奈代さんによる詩作と朗読のワークショップも開催した。
新聞各紙の報道や、浄土真宗本願寺派神戸教区など、地域や宗派を超えた関心を頂いて、40通程の手紙が寄せられた。近親者の死、また当時の記憶などが綴られた手紙は、展示の最終日に、幅広く募られた参加者によって供養された。その手順は、印象に残った手紙をトレーシングペーパーで書きなぞり、写し取った部分を朗読、さらにその朗読を聞いた他の参加者が耳についた言葉を辞書で引き、朗読を重ねた。その後、大蓮寺・應典院住職の読経の中で、原典と共に火にくべる「浄焚式」が執り行われた。途中、「燃やすのはもったいない」との声が出たが、「人間の亡骸も荼毘に付した後、遺骨を大切にするのですから」など、手紙を身体に見立てて、浄焚する意味を説かせて頂いた。永遠に有形のものなど何もない、という諸行無常そのままである。
生涯発達心理学者のやまだようこ先生によれば、「死者を葬る、忘れる」のではなく、死者と共に生きる決心をしたとき、「不在の他者と同行する物語」を紡ぎ、そこに生きる力を得ているという。まさに今回の取り組みは、名前も知らぬ他者の死を、手紙の文面から悼み、その内容を受け止めた人々が、「あなたの分まで」それぞれのいのちを生き抜くことを誓うというものであった。これも、お寺が継承してきた儀礼の文化を、表現者たちの創意工夫が異化させてくれたゆえんだろう。取り組みの全体像は「コモンズフェスタ」特別ブログで公開しているので、ご参照願いたい。(山口洋典)
簡単に言えば、誰に宛ててもよいので、震災15年の今だからこそ、封書に思いをしたためて、お寺に送って下さい、という取り組みである。それを宛名がわからないようにお寺のロビーに展示した。しかもロビーはその間だけ人工芝が敷かれるなど、造園が専門のデザイナー、花村周寛さんの手によって公園のような空間に設えられていた。そこで、作家の岩淵拓郎さんの着想で、額に入れるなどした展示ではなく、公園に置き忘れたかのように演出された。また、期間中にはこうした工夫も、詩人の上田假奈代さんによる詩作と朗読のワークショップも開催した。
新聞各紙の報道や、浄土真宗本願寺派神戸教区など、地域や宗派を超えた関心を頂いて、40通程の手紙が寄せられた。近親者の死、また当時の記憶などが綴られた手紙は、展示の最終日に、幅広く募られた参加者によって供養された。その手順は、印象に残った手紙をトレーシングペーパーで書きなぞり、写し取った部分を朗読、さらにその朗読を聞いた他の参加者が耳についた言葉を辞書で引き、朗読を重ねた。その後、大蓮寺・應典院住職の読経の中で、原典と共に火にくべる「浄焚式」が執り行われた。途中、「燃やすのはもったいない」との声が出たが、「人間の亡骸も荼毘に付した後、遺骨を大切にするのですから」など、手紙を身体に見立てて、浄焚する意味を説かせて頂いた。永遠に有形のものなど何もない、という諸行無常そのままである。
生涯発達心理学者のやまだようこ先生によれば、「死者を葬る、忘れる」のではなく、死者と共に生きる決心をしたとき、「不在の他者と同行する物語」を紡ぎ、そこに生きる力を得ているという。まさに今回の取り組みは、名前も知らぬ他者の死を、手紙の文面から悼み、その内容を受け止めた人々が、「あなたの分まで」それぞれのいのちを生き抜くことを誓うというものであった。これも、お寺が継承してきた儀礼の文化を、表現者たちの創意工夫が異化させてくれたゆえんだろう。取り組みの全体像は「コモンズフェスタ」特別ブログで公開しているので、ご参照願いたい。(山口洋典)
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