2010年5月7日金曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(4)あなたの分まで生きる

  この1月、應典院では「震災15年の手紙」を募った。先祖供養だけではなく、時代を生きる人々と呼吸するお寺を目指すゆえの挑戦であった。そもそも供養とは、誰かの死を想い起こすことである。そこで、ことばを専門に扱う2名の表現者と共に、あの日に思いを馳せることにした。
 簡単に言えば、誰に宛ててもよいので、震災15年の今だからこそ、封書に思いをしたためて、お寺に送って下さい、という取り組みである。それを宛名がわからないようにお寺のロビーに展示した。しかもロビーはその間だけ人工芝が敷かれるなど、造園が専門のデザイナー、花村周寛さんの手によって公園のような空間に設えられていた。そこで、作家の岩淵拓郎さんの着想で、額に入れるなどした展示ではなく、公園に置き忘れたかのように演出された。また、期間中にはこうした工夫も、詩人の上田假奈代さんによる詩作と朗読のワークショップも開催した。
 新聞各紙の報道や、浄土真宗本願寺派神戸教区など、地域や宗派を超えた関心を頂いて、40通程の手紙が寄せられた。近親者の死、また当時の記憶などが綴られた手紙は、展示の最終日に、幅広く募られた参加者によって供養された。その手順は、印象に残った手紙をトレーシングペーパーで書きなぞり、写し取った部分を朗読、さらにその朗読を聞いた他の参加者が耳についた言葉を辞書で引き、朗読を重ねた。その後、大蓮寺・應典院住職の読経の中で、原典と共に火にくべる「浄焚式」が執り行われた。途中、「燃やすのはもったいない」との声が出たが、「人間の亡骸も荼毘に付した後、遺骨を大切にするのですから」など、手紙を身体に見立てて、浄焚する意味を説かせて頂いた。永遠に有形のものなど何もない、という諸行無常そのままである。
 生涯発達心理学者のやまだようこ先生によれば、「死者を葬る、忘れる」のではなく、死者と共に生きる決心をしたとき、「不在の他者と同行する物語」を紡ぎ、そこに生きる力を得ているという。まさに今回の取り組みは、名前も知らぬ他者の死を、手紙の文面から悼み、その内容を受け止めた人々が、「あなたの分まで」それぞれのいのちを生き抜くことを誓うというものであった。これも、お寺が継承してきた儀礼の文化を、表現者たちの創意工夫が異化させてくれたゆえんだろう。取り組みの全体像は「コモンズフェスタ」特別ブログで公開しているので、ご参照願いたい。(山口洋典)

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