2010年4月28日水曜日

世界一周自転車の旅から学んだ「感謝」のこころ

 先日、應典院で開催された「いのちと出会う会」で「世界一周自転車の旅から学んだ感謝の心」という題で、ミキハウス勤務の坂本達さんの話を聞いた。
 坂本さんは4年3ヶ月もの長い間に43ヶ国を訪れ、のべ5万5000キロを走破した。
何よりも驚くのは、有給休暇を取って、しかもボーナス、定期昇給つきだということ。
普通なら無給の休職のはずだが、ミキハウスの社長が坂本さんの熱意にほだされた結果である。
坂本さんがこの旅を通じて感じたのは、「人の支えがなければ何もできない」「小さいことに大きな感謝をする」ということである。
 自転車で一日平均120キロ近くの走行をすれば、当然トラブルが付き物である。そして最大の危機にギニアで遭遇した。マラリアに赤痢を併発したのである。しかし不幸中の幸いは村で唯一の医師の家に泊めてもらったことであった。医師は坂本さんのために村にたった一つ残っていたワクチンを使ってくれた。また村長も、村人が週に一度だけ食べる、ごちそうの鶏肉を坂本さんのために譲ってくれた。 
 またある村でイモムシを出された時は、かなり躊躇し手をつけないままでいると、村人たちの顔を表情がだんだんと曇って悲しい顔つきになってきた。しかし意を決して、目をつぶり飲み込んだ瞬間、村人たちは坂本さんを本当の仲間と思い、喜んでくれた。今まで村に来た欧米人は食べなかったそうである。
 現地の人の協力なしに旅は出来ない。
 帰国から数年後、恩返しで再度ギニアに薬を持って訪れたが、旅の時に助けてもらった医師が、「病気を防ぐのに一番必要なのは、きれいな水なんだ」、その一言で「井戸掘りプロジェクト」を思い立った。しかし村人たちは作ってもらえるのだと、つまりプレゼントしてもらえるものだと思い、傍観者になっていた。まだ垣根があったのだ。そこで坂本さんは見よう見真似でコーランを覚え、イスラム教徒の村人たちとの一体化した。坂本さんは「相手の大事にしているものを自分も尊重する。それが基本」と言う。
 恩返しはさらにギニアにきちんとした診療所を作るという所まで進んでいった。
 坂本さんに井戸を掘る技術があったわけではない。一番大切なのは、現地の人々がやる気になってもらう仕組み。何度も通い、コミュニケーションを深めて行くことが必要だと。
 坂本さんが世界を回っている時に心がけたのは、挨拶をすることを大切に、そして感謝の気持ちを持つことである。
 坂本さんの夢は再度、世界一周の旅をしたいと言われた。
 すごい夢だと思う。
 4年3ヶ月の有給休暇というのは普通の会社では有り得ないことである。だからどうしても私たちは夢をあきらめてしまう。しかし坂本さんは熱意と情熱で社長を、会社を動かしたのだ。そしてその感謝に気持ちを忘れずに、帰国後も日本全国の小学校を周って、経験を語り、「感謝」のこころとは何かを伝え続けている。
 私は今回、初めて坂本さんのことを知ったが、自分が忘れていたもの、というより意識的にあきらめてしまっていたものを思い出した。
 人間、やる気になれば何でも出来る。真の勇気を持つことを思い出せてもらった。(浦嶋偉晃)

2010年4月22日木曜日

市民は祈る。市民救助者の惨事ストレス。

  興味深い記事を見つけた。惨事ストレス。災害救援者が凄惨な現場に出動した際にかかるストレスだ。恐怖や職業上の強い責任感から心身に不調が生じるとされ、心拍数が上がったり、情景がフラッシュバックしたりする。PTSDにつながる恐れもあるという。
記事は、2005年のJR福知山線の脱線事故の際、救援を手伝った「市民救助者」に焦点を当てていた。消防隊員などプロの救助者には対策が取られているが、市民の現状はほとんど顧みられていない。北里大学の調査によると、事故から4年を経た段階で、市民の3割近くが「不眠」「疲労感」「罪悪感」などストレス症状が続いているという。
市民救助者はたまたま事故現場に居合わせたに過ぎない。状況によると思うが、「火事場の見物」でもよかったはずだが、止むにやまれず「救助者」となったのだろう。本来なら賞賛されるはずの勇気ある行為が、当人の心のトラウマとなっていくとは、何と悲痛なことだろう。
<救助にかかわったHさんは、電車内から『お母さん、助けて』」という若い女性の声がしたため、バールを探して戻ったが、もう声は聞こえなかった。負傷者に肩を貸すなど救助を手伝い、作業着は血だらけに。その日から1週間、地獄のような情景が夢に現われた。今も朝夕、現場に向かって手を合わす。「もっと多くの人を救えたのでは、と自責の念にかられた」という>(読売2010年4月8日)
Hさんの「自責の念」の要因は、自ら招いたものではない。たまたまた現場にいた、そして見かねて救援を手伝った。それが、その後何年も拭いきれない「縛り」となってしまう。それぞれに領分があって、自分にできることには限界があるのだ。プロでも苛まれる惨状であったのなら、果たして自発的であったにせよ市民救助者を迎えるべきだったか、とも考えてしまう。
Hさんは、「(その後は)冥福を祈ることが心の救いになった」という。個人では背負いきれないストレス感情を、神仏の領域に預けるということかもしれない。自分の限界点まで辿りついて、人間はようやく諦観の念を起こす。あとは仏の救済力に任せて、自分は手を引くのだ。
 近代は、ずっと個人の可能性を推し進めてきた。「自分には限りない可能性がある」と刷りこんで、自己実現から自己責任まで、実体のない「自己像」を売りさばいた。けれど、やがて個人ではどうにもならない現実に行きあたる。自分の能力の限界を思い知る。それは近代から見れば「敗北」かもしれないが、私には、もうひとつの可能性としての「霊性の気づき」のようにも見える。自らの弱さ、無力さから立ち上がる、宗教的感覚の発見といってもいい。
 国内外で自然災害や大事故が続く。死傷者何万人という数字が強調され、あちこちで募金活動が活発になる。それ自体はだいじなことだが、だから「してあげた」と傲慢になってはいけない。忘れてならないのは、自然の脅威を前に、私たちの無力さを自覚しながら、誰かのために真摯に「祈る」ということではないか。惨事ストレスのニュースを見て、そんなことを感じた。(秋田光彦)

2010年4月16日金曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて(3)慈しみ、悲しむということ。

 「あの日」から15年が経つ。そう、阪神・淡路大震災から15回目の1月17日がやってくる。当時、京都で学生生活を送っていた私は、当初、事の大きさが理解できなかった。しかし、もはや朝とは呼べない時間に、実家のある静岡県からの電話口で「やっとつながった」と安堵ことばを聞いた頃、甚大な被害が出たことを実感し、言いようのない感覚に浸っていったことを今でもよく想い起こす。
 人は必ず死ぬが、突然の災害で大量の方が亡くなった空間に身を置くことは本当にいたたまれなかった。幼少の頃から「備えよ常に」と、東海地震への警鐘が鳴らされる中で育ってきたものの、「いざ、そのとき」に身体が覚えていないことは、とっさに動けないことも知った。大学の試験が落ち着いて以降、同級生らの呼びかけで、現地視察とボランティアの機会を得た。震災から1週間ほど経ち、まちは救急・救命の段階から、復旧に向けた動きが始まっていた。
 実は、今の私の生き方には、震災ボランティアとして動いたときの経験が影響している。神戸大学国際文化学部の避難所で救援物資の整理をし、瓦礫の片付けなどを山手幹線から2号線のあたりで行い、芦屋市内の幼稚園・保育園を訪問して遊び場をつくった。こうして積極的に動いたのだが、若さゆえに「何でもできる」という万能感に陥り、さらに作業や雰囲気への慣れが重なることによって、気づかぬうちに、合理的で効率ばかりを優先させてしまっていたことに後々気づいた。パソコンが得意だからと暗い中手作業でつくられていた避難所の名簿を勝手に作り替えたり、避難所に届く救援物資のパンがもったいからと徐々に店が開き始めた街角にて無料で配るなど、支援する側の視点ばかりを優先させていたのだ。
 大阪大学の渥美公秀先生は、ご自身も被災された「あの日」について、ある詩人のことばを引用し、「悲しみが果てることの悲しみ」を訴えている。ここに、大乗仏教の「慈悲」の教えを重ねれば、悲しむことに加えて、慈しむことも大切となる。震災から10年のとき、「お寺で働かないか」と声をかけて頂いたとき、私は、押しつけに近いボランティア活動で心地よさに浸ってしまった自らの愚かさと、未だに果てることのない悲しみに向き合うと共に、多くの気づきや学びをいただいた神戸のまちに慈しみの念を抱きたいと、仏道を歩むことに決めた。今年、「ことばくよう」という手紙の企画を展開し、15年目を迎えている。(山口洋典)

2010年4月9日金曜日

いのちのエナジー 現代の寺子屋を求めて (2)情熱は他人のためだけならず

 私が現在身を置く應典院には「呼吸するお寺」というキャッチコピーがつけられている。再建10年を記念して2007年に刊行された記念誌にも同じ名が掲げられた。人間の身体をお寺の伽藍に見立て、社会の動きを空気として捉えた比喩である。その心臓部にあたるのが、住職以下、私を含め6名のスタッフであり、血液にあたるのが本堂ホールで公演をする劇団、研修室でワークショップ等を行うNPOの皆さん、またロビーで展示を行うアーティスト等であり、またそれらの場を楽しみに集まる多くの方々という具合だ。
 昨年10月から3回連続で開催した「大乗仏典講座」の講師を務めていただいた釈徹宗先生は、「お寺には社会とは違う時間が流れるかたらこそ、そこに物語が生まれます」と語る。そして、違う時間が流れるからこそ、社会の歯車とうまく合わない人たちが救われるのだ、と説く。その前提にあるのは、お寺が人を無条件に受け入れる機能持っているからだという。それは、あくまでお寺の宗教性であって、お寺の社会性ではない、と断言する。
 特に大乗仏教では、自利利他が理想とされている。自分のための努力と他人のための行動の双方が伴っていることが大切だとされているのだ。時に「情けは人の為ならず」という表現は誤解されているようだが、このことわざのとおりに、自らの情熱は自分だけに返ってくるものでも、他人にばかりに流れていくわけでもない。なぜなら、「わたし」と「あなた」とは、かけがえのないつながりを持っているため、と経典は教えてくれる。
 仏典講座の主催者の立場だが、改めて関係性を大切にする大乗仏教の宗教性に触れると、昨今注目を集めているスピリチュアリティの概念とは大幅に異なる点に気づかされる。特に、関係性の重視とは自らが他者との間で我を見つめていくことを意味するのに対し、いわゆるスピリチュアリティのブームにおいては自らの世界に浸ることが重視されていないか、考えるようになった。宗教学者の島薗進先生による「スピリチュアリティの興隆」(岩波書店)では、健康や娯楽といった利己的な活動と、「わたし」と「あなた」の探求活動とのあいだには、大きな開きがあることが指摘されている。モノや情報があふれる現代社会を生きる上では、一面的な心地よさに浸るのでも一方的な感情移入を行うでもなく、他者との呼吸や間合いを積極的に調整する「利他心」を大切にしたい。(山口洋典)

2010年4月4日日曜日

日本人の死生観に合った看取りを。~ビハーラ21「ビハーラ実践研究会」

 去る3月29日、NPO法人ビハーラ21が開催した「第1回ビハーラ実践研究会」に参加した。
 この研究会は、今回より隔月で開催され、毎回、話題提供者より「ビハーラ」についての発表・報告があり、その後、参加者とのディスカッションをし、「ビハーラ」に対する理解、実践の普及につなげることを目的としている。
 第1回目の話題提供者は大河内大博さん。大河内さんについてはこのブログの下記を参照頂きたい。
 http://mitoribito.blogspot.com/2009/06/30.html
 今回は初回ということで、大河内さんより、「ビハーラの展開と可能性」というテーマでビハーラの歴史、理念などのお話があった。
 20名ほどの熱心な方が参加していた。僧侶の方が多く、またすでにビハーラの研修を受けた方や、看護師、ヘルパーなど様々な顔ぶれだった。
 「ビハーラ」誕生の背景について話があった。欧米型ホスピスは1980年代に入り、日本でも相次いで設立されたが、当時から欧米直入の看取りの在り方ではなく、日本的な看取りが模索されていた。とくに日本古来の仏教を活かせないか、という視点はあったという。
また僧侶自身からは、葬祭仏教を反省し、「いのち」をめぐる「生死」の問題を最重要課題のひとつとしている仏教本来の目的に立ち還るべきであるという声が上がっていった。つまり「生きた命」にかかわっていくことこそ重要でないかという気運があった。
 「ビハーラ」の理念と基本姿勢として、①限りある生命の、その限りを知らされた人が、静かに自身を見つめ、また見守られる場である ②利用者本人の願いを軸に、看取りと医療が行われる場である。そのために十分な医療行為が可能な医療機関に直結している必要がある ③願われた生命の尊さに気づかされた人が集う、仏教を基礎とした小さな共同体である(但し、利用者本人やそのご家族がいかなる信仰をもたれていても自由である)。そしてビハーラの活動は仏教の特定の一宗一派の教義に偏ったものではなく、超宗派の活動であり、布教・伝道ではないというのが基本姿勢である。
 現状では「ビハーラ」は1986年の「仏教ホスピスの会」がスタートしてから25年かかって、やっと3つが設立されただけである。(うち一つは厚生労働省の認可がおりていない)
やはり仏教者からも「ビハーラ」に対する偏見が大きかったのも確かなようである。
 私は「ホスピス」という欧米モデルの死生観を日本向けに衣替えするだけでは充分ではなく、より日本人の死生観に合った「ビハーラ」の形が望ましいと思っている。やはり欧米人と日本人とは死生観が違う。今のホスピスは輸入型が大半のように思われる。
 大河内さんは参加者に終末期に宗教者は必要ですか?と尋ねた。皆さん必要だと言われた。私もそう思う。但し「死んだらどうなるの?」というような終末期にある人にも、自分自身がぶれないで答えられることがとても重要だと思う。
 この実践研究会は今後、隔月で開催され、次回は5月24日PM6:30からシェアハウス中井で行われる。
 「ビハーラ」が今後大きく展開していくには、まだまだ様々な課題があるが、今後、回数を重ねる毎に、もっと深いディスカッションになっていくだろうという前向きな雰囲気を感じさせた。今後が楽しみな研究会であった。(浦嶋偉晃)