2009年9月27日日曜日

シンポジウム「今を生きる力~激動の時代をホリスティックに生きる~」五木寛之さん

 日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「今を生きる力」で作家の五木寛之さんから「いまを生きる力」の講演を聞いた。五木さんは、『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞受賞。『青春の門』で吉川英治文学賞。第1エッセイ集『風に吹かれて』は現在総部数460万 部に達するロングセラーとなっている。ニューヨークで発売された、英文版『TARIKI』は大きな反響を呼び、2001年度「BOOK OF THE YEAR」 (スピリチュアル部門)に選ばれた。また2002年度第50回菊池寛賞を受賞。2004 年には第38回仏教伝道文化賞を受賞。1981年より休筆、京都の龍谷大学において仏教史を学ぶ。著書多数。


 人生にはいろいろな場面がある。安定期があり、変動期があり、そして今はどういう時代かを見定めることが大事である。登山に例えると、「いま」は頂上からふもとへ降りていく、つまり下山の道にさしかかっているのではないか。登山という行為は、頂上に着いた時に終わるではない。ひと休みしたのち、今度は安全に優雅にふもとまで下山しなければならない。下山は、決して登山のオマケではなく、むしろ山頂にいたる過程よりも、さらに大事な意味を持つ行為である。山を登っていく過程だけが大事なのではない、登山と下山を含めて登山は完成されるのである。                              
 現代は「『躁』から『鬱』に大きく転換する時代」である。笑うことは大事だが、悲しむことも決してマイナスではない。プラス思考も大事だが、マイナス思考も大事である。「鬱」と言う字は草木の繁る様を表している字であり、生命力とエネルギーにあふれている状態をいう。そしてまた、この鬱勃たる生命力に蓋をされて夢も計画もうまく行かない状態であり、エネルギーの出場所のない状態で澱んでいると言う意味である。だから本来的に無気力で萎えている人は「鬱」にはならない。
 また昔は『心が萎える』と表現したが、萎えるのは良くないことか。鬱は暗く、嫌なイメージでとらえられているが、悪いことなのか。また同様に「慈悲」という言葉の「悲」について、これまではマイナス思考なイメージが大きかった。明るく、元気であることが未来を展望したが、悩み深く考えることも次代を構想する大事な営みである。人間は絶望から立ち上がらなければ、喜ぶことはない。だから「鬱」には生命力があり、エネルギーのもとである。そして「泣く」ことが大事で、それは文化である。現代の日本人は何故泣かなくなったのか、それは良いことではない。泣くべき時に泣くことができる事が大切である。欝は病ではなく、エネルギーである。                      
 金沢兼六園の「雪吊り」というのは、冬に積雪の重みで木が折れないようにする雪国の知恵である。雪吊りが必要な木は、固くて曲がらない、雪の重みですぐに折れてしまう木だが、逆にしなる木は、いつかその重みをすべり落としてはじき返し、元に戻ることが出来るからその必要はない。しなることによって、曲がることによって、また屈することによって、重い荷物をするっとすべり落として、また元の状態にもどれる。それを繰り返していれば、心折れずに生きていける。今は「鬱」の時代がまだ続くと思われるが、泣いてもよい、萎えてもよい、そうしてこの世の中を生きようと結ばれた。
 
 今回、五木さんのお話を聞いて、圧倒された。どの言葉も大事な話で、このブログを簡単にまとめることなど出来ない。でも私は本当に心が楽になった。マイナス思考、そして「鬱」もいいじゃないか。それもこれからの生きていくためのエネルギーになる。実際に私の鬱病の友人は治療の一つとして、五木さんの本を読むことを医師から薦められたそうだ。               
 最後に五木さんはこのような時代を生き抜くには、悲しい時に悲しみ、深く「ため息」をつくことによって、そこから生きる力を得ていくことが大事ではないかと問いかけた。そうなのか、と共感した。私も「ため息」を大きくつきながら、そして前に進んで行きたい。(浦嶋偉晃)

2009年9月22日火曜日

日常生活の中の死 ~死の瞬間まで人生の主人公であるために~

 去る9月12日、奈良県ホスピス勉強会の定例勉強会に参加した。奈良県田原本町で在宅医療(在宅療養支援診療所)に取り組んでいる坂根医院 坂根俊輔院長から「日常生活の中の死」という題で講演を聞いた。


 医大に入ったのは26歳で30過ぎて医者になり、「自分ならそうして欲しいと思う医療の実現」が、生涯のテーマである。
 医療側から見て、在宅医療はバラ色かと言われると、正直医師一人で外来診療を続けながら在宅療養支援診療所を運営するのは無理があり、地域の在宅療養支援診療所間で相互扶助もなかなか難しく、在宅医は相当疲弊している。でも自分はとにかく在宅が好きだから続けている。
 在宅医療は、自宅で死ぬことの援助ではなく、最期まで自宅で生きることへの援助であり、患者さん、ご家族を含めた皆で作り上げていく面が強く、患者さん本人、ご家族がしっかりした意見を持ち表明することが肝要である。また日常生活が人生そのものであり、在宅医療の整備こそが、日常の中の死(最期まで自分自身であり続ける死)を可能にする。
 大事なこととして、自宅で最期を迎えたいという思いを通すには、まず自分の死をイメージし、自分の横で世話をしてくれる人は誰か、そしていざという時、面倒を見てくれる人の「愛情」を獲得しておくことが必要である。可能なら在宅医療に理解のある自分より長生きしそうな医者をかかりつけにし、普段から希望を述べておく。

 私もこのことはとても大事なことと思う。やはり日頃からの家族の中で死について語り合うという機会を持つこと、そしてかかりつけ医を持つことが大変大切だと感じる。

 自分自身(坂根)も最期まで慣れ親しんだ自宅で家族と共に生きたい。その実現には患者さんも介護者の方も、苦痛なく不安なく在宅で過ごせる社会的体制作りが必要で、そして体制の容器を満たすのは家族愛、隣人愛に他ならない。自分は在宅患者さんに自分の将来を投影している。患者さんはタイムマシンで見える自分の将来像だと感じている。自分自身、主体性を持ったまま死を迎えたい、ワガママに死んでいきたい。そして何よりも、患者さんはもっとワガママになるべきだと思う。
 結局、最期に何処で心臓が止まるかは、大きな問題ではなく、大切なのは、生活をどこまで続ける事ができるかだと思う。末期患者在宅生活の一助となれるよう、今後とも尽力したいと思っている。

 私たち市民にとって、医療者が熱く語っているのを聞き、安心すると共に、私たちも市民の立場から、在宅医療をしている医療者の方々に対して、どうすれば支える力になれるかを考えないといけないと感じた。市民のパワーが何よりも大切である。(浦嶋偉晃)

2009年9月20日日曜日

シンポジウム「今を生きる力~激動の時代をホリスティックに生きる~」上田紀行さん

  日本ホリスティック医学協会のシンポジウムで、文化人類学者の上田紀行さんから「生きる意味とホリスティック医学」の講演を聞いた。上田さんは東京工業大学大学院准教授で仏教にも造詣の深い文化人類学者。スリランカで「悪魔祓い」のフィールドワークを行い、その後「癒し」の観点を最も早くから提示し、現代社会の諸問題にも積極的に提言を行う。近年は日本仏教の再生に向けての運動に取り組み、2003年より「仏教ルネッサンス塾」塾長をつとめ、宗派を超えた若手僧侶のディスカッションの場である「ボーズ・ビー・アンビシャス」のアドバイザーでもある。


  いま私たちの社会を覆う問題の本質とはなんだろうか。
  それは「生きる意味」が見えないということだ。自分が生きていることの意味が分からない。生きることの豊かさ、何が幸せなのかが分からない。その「崩壊」が目に見える形で現れているのが若者の危機である。若者だから「夢」があるというイメージは過去のものになり、いつも疲れている、何故生きているのかがわからない若者が標準となりつつある。一方いつも人の評価を気にして、そして仲間内で決して目立たないように努める。「自分の本音は絶対出してはいけない」という若者が多い。
  しかしそれは大人にも通じる。小さいときから他人から見て「いい子」「いい友達」「いい夫、妻」「いい父、母」と結局、「いい子」をずっと演じ続けている。そして会社においても会社方針、そして社員の輪を崩さないように生きている。自分の個性を殺し、会社の方針に従ってきて、そしてその結果が、いつの間にか、いつでも「交換可能」な社員になっている。10年前に「若者の危機」として現れていたものが、全世代に拡大し、「生きることの空しさ」が広がっている。

 私自身も一会社員として、同感である。今の会社で個性を出し、目立つと必ず潰される。会社のルールに従えと言われる。しかしその一方で経営層は今の社員は個性がないとこき下ろす。結局、どの道を言っていいのか分からなくなり、ジッとしているのが賢明だと思ってしまう。とても辛い世の中の構造と感じてしまう。

  古くから欧米人から日本の文化は「恥の文化」の典型だと指摘されてきた。他者の目」による「恥」の認識が優越しているのが「恥」の文化である。逆に現在は「人の目」が気にならなくなれば何でもやってしまうのが、現在の日本人の姿なのではないか。そしてそこには決定的に欠けているものは、自分自身に対する「自尊感情」である。それではどうすれば良いのか。それは自己信頼の回復だが、それはどうすれば可能だろうか。それには感受性を持つことである。子供や若者に対して、様々な躓きや苦悩に対してもそれを「内的成長」というスタンスで見る努力が必要である。そうすることによって「生きる意味」を探求することになるであろう。

  私は思うのだが、今は世代関係なく「生きる意味」を失っている人が多い。とくに会社内では強く感じる。でも自分がかけがえのない自分だということを認識してほしいと思う。自分は一人しかいない。でも、かと言って他人と違うという所を必死に探すことではないと思う。他人と同じ結果でもいい、それが自分自身なのであるという意識が必要なのではないかと思う。(浦嶋偉晃)

2009年9月15日火曜日

シンポジウム「今を生きる力~激動の時代をホリスティックに生きる~」帯津良一さん

  日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「今を生きる力」で、当協会の会長である帯津良一さんから「生きることと死ぬこと~青雲の志について」のご講演をお聞きした。帯津さんは、1982年帯津三敬病院を設立、現在は同病院名誉院長。西洋医学だけでなく、中国医学、ホメオパシー、 代替医療など様々な療法を駆使してがん診療に立ち向かい、人間を丸ごととらえるホリスティック医学の確立を目指している。2004 年には東京・池袋に帯津三敬塾クリニックを開設している。著書多数。


「ホリスティック医学」とは、一言で言うと、「人間をまるごと全体的に見る医学」を言う。ホリスティック医学は生きること全て、人生を貫いて関わり、命の場を対象にした場の医学である。「縁」と「場」のエネルギーが高くないとホリスティックにならない。ホリスティック医学は体の中の場が外界の場の一部であるという前提を一番強くもっている。
場の医学では命の場を体内にみるだけではなく、おかれた場にも注目しなければならない。そしておかれた場を高めるために苦心する。実際に患者さんをみると、家族の場や職場は外界の場のエネルギーが高い人、病院では良い医師、スピリットの高い医師にぶっかった人がよくなっている。またそういう医師がそろっている病院は非常にエネルギーが高く、そこでは人が回復する力が高い。だから医療現場では命の場を高め続けて、外界の場も高め続けるという志をもった人が必要である。

私自身、ホリスティック医学の自然治癒力を癒しの原点に置くという定義に興味を持った。とても大切な事だと思うが、実際にはこのエネルギーを高めるには、またそういう人と出会うにはどうすれば良いのかと正直迷ってしまう。

一方、体の故障の修理である医学から出られないと「治った」か「治らない」という二極化になってしまう。命はエネルギーレベルを上げながら前進している。そのなかで起こってきたトラブルが病である。トラブル対処も命の流れを進めながらやっていく。
そこをしっかりみていかなくてはならない。あまりに「治った」「治らない」だけにこだわると分からなくなる。それではホリスティックにはならない。
 病の経過も治り方も生きていくことと同じように少しずつ高めていくこと。命はエネルギーだから修理とは違う。
私(帯津)の死生観は「青雲の志」であり、これを果たしていくためには、虚空の大いなる命の場に身を任せながら、内なる生命のエネルギーを高め続けなければならない。つまり他力と自力の統合の中に青雲の志が在る。他力と自力の統合とは生と死の統合に他ならない。生と死の統合こそホリスティック医学の究極である。

私にはホリスティック医学がいう「人間をまるごと見る医学」という定義ががもう一つはっきり把握できませんでしたが、イメージはつかめました。ホリスティック医学はまだまだ奥が深く、期待できる部分が多いと感じました。また注目されている代替療法についても、ホリスティック医学の中でどのような関係性を持っているのか、今後に対する興味がますます広がりました。(浦嶋偉晃)

2009年9月11日金曜日

休眠宗教法人が不正行為の温床に。

  NHKの朝のテレビで「休眠宗教法人が不正行為の温床となっている」というニュースがあった。暴力団によるお寺のっとり事件が報道されていた。
  文化庁によると現在休眠中の宗教法人、神社仏閣は全国に4500もあり、立地がよく資産の多いお寺はターゲットになりやすいという。暴力団はまず有名寺院の肩書を騙り、お寺の経営難を救済すると新しい事業を持ちかけてくる。最初は親切に尽くしてくれるので、お寺側が信用すると、手のひらを返して墓地の名義を勝手に書き換えたり、最悪の場合登記も偽造して、のっとられたケースもあるらしい。休眠中のお寺にも新しい事業で再建したい焦りがあって、まんまと口車にのせられたという。
  いかにもガードが甘い。といってしまえばそれまでだが、地方の一寺院に危機管理に万全を凝らせというのもさびしい。文化庁では、休眠の宗教法人を解散させて対応するというが、実態はどこまで明らかにできるのだろう。
  休眠寺院は即廃寺では早晩仏教教団は衰退する。何とか別の形で寺を再建して、経営維持することはできないか。寺の事業といえば、墓地や納骨堂の分譲が代表的だが、いわば不動産事業であり、莫大な資金も要する。そこに暴力団もうまみを感じるのだろう。たとえば社会福祉法人と共同して、福祉介護施設をつくるとか、デイサービスのような公益性の高い拠点でもいい。いまはNPO法人という手法もある。地域住民に喜ばれ、公金投入の仕組みをつくることで、経営の透明性を高める。そういう新しい発想が生まれないだろうか。
寺が休眠化するのは、後継者難という事情も大きいと聞く。社会貢献型のお寺の事業であれば、そこにやりがいを感じる、有為な若者が「発心」に目覚めることもあるだろう。教団レベルの幅広い議論が必要だ。(秋田光彦)

2009年9月9日水曜日

シンポジウム「今を生きる力~激動の時代をホリスティックに生きる~」大下大圓さん

  去る9月6日、日本ホリスティック医学協会のシンポジウム「今を生きる力」に参加しました。大下大圓さん、帯津良一さん、上田紀行さん、五木寛之さんという豪華な方々が講演されましたので、会場は満杯の盛況ぶりでした。4人の方々のそれぞれのお話を、講演順に従ってご報告していきます。

  最初の講演は飛騨千光寺住職の大下大圓さんから「仏教とスピリチュアルケア~縁生から覚醒へ」のご講演をお聞きした。大下さんは、和歌山県の高野山 で修行し、スリランカ国へ留学、スリランカ僧として得度研修され、飛騨で約25年前より「いのち、生と 死」の学習会として「ビハ-ラ飛騨」を主宰、その一方で患者さんのベッドサイドなど医療の現場や青少年育成、まちづくりでのボランティア活動も続ける。また千光寺で「人間性回復や心のケア」に関する様々な瞑想 研修を手がけ、医療、福祉、教育における「スピリチュアルケア」や「ケアする人のケア」を探究している。


 まず大下さんの僧侶としての立場から、スピリチュアルケアについてのお話があった。
 今、日本の精神文化としてのスピリチュアリティの研究やスピリチュアルケアのあり方が問われている。日本人の精神的な背景を考えるなら、儒教や道教、とりわけ日本人の生き方に多大な影響を与えた仏教の思考や叡智が生かされることが重要である。その中心となるのが「縁」の思想であり、「縁生」とは「縁起によって生じたもの」の意である。
  スピリチュアルケアとは「スピリチュアルペインを心の内に持ち、あるいは訴えようとするケアの対象者に対して、ケアを提供する側(援助者、スピリチュアルケアワーカー、セラピストなど)が共にその実態を『三つの縁生=自縁、他縁、法縁』から明らかにして、苦悩からの開放、解脱に至る営み」であると言える。臨床場面で「縁生」を考えるならば、まず人間存在として援助される存在や、援助する存在そのものが縁生と言える。医師や看護師がどんな患者さんやご家族と出会うかということは、深い「ご縁」以外のなにものでもないことである。
  大下さんは住職という立場でありつつ、病院で医師や看護師とチームを成して患者さんやご家族に寄り添う活動を通して、ベッドサイドで何が見えるか、治療期の心のケアについて深く携わっている。私自身、ここに深い興味を惹かれる。仏教におけるスピリチュアルケアとは、患者さんのベッドサイドでどのような役目をし、患者さんの心にどう寄り添っていけるのかについて、できれば具体的なことをもう少しお聞きしたかったと思う。
  大下さんは最後に、仏教におけるスピリチュアルケアとは、その人自身が自らの人生を統合することを援助する、つまり人生の苦悩への解決のプログラムを発見させられることをサポートすることだと言われた。
  
  正直、今回、勉強不足の私にとっては難しい話だったが、自分らしくどう生きたいのか、またどう死にたいのか日頃から考えていくことが大切であると感じた。毎日生きている中で、いろいろな楽しみ、苦しみがあるが、本当に「心」が喜ぶこと、「魂」が喜ぶことをしているかを常に自問自答しながら生きたいと思った。「<念>とは今の心と書くが、ありのままの今という時間において、自他のことを直感的に洞察することが仏教的なスピリチュアルケアの態度」と言った大下さんの言葉が印象的にだった。
  やはり思ってた通り、仏教とスピリチュアルケアはとても奥が深い領域であった。とても興味深く内容で、今後も勉強を続けたいと思う。(浦嶋偉晃)

2009年9月6日日曜日

布施は宗教サービスの代価ではない。派遣僧侶という問題。

  お盆最中にNHKの「おはよう日本」で「お盆ビジネス」(!)の特集があって、驚いた。極めつけは「僧侶派遣会社」からの実況中継。会社の会議室で、スーツ姿の社長を剃髪した僧侶たちが取り囲む場面。銘々に手帳を持ち、「派遣」のスケジュールを確認していた。僧侶たちは地方寺院の住職らしく、「檀家が数十軒で、成り立たない」から「出稼ぎ」に来たとインタビューに答える。あまりのあからさまぶりに、見ているこちらが赤面するほどだった。「僧侶プロダクション」にあって、まったく自省する影もない。
 首都圏では檀那寺を持たない人が圧倒的に多い。そこに葬儀ができると市場が生まれて、業者が僧侶を斡旋する。お布施は「派遣サービス料」で、リベートは4割とも5割ともいわれる。「迅速丁寧」「院号も安い」「面倒なお寺とのつきあいもなし」等々、ここでは僧侶は「便利屋」と同格の扱いである。
 日本にお寺は8万もあるが、じつはお寺だけで経営が成り立つ寺院は首都圏・大都市部の3割程度といわれている。反対に地方寺院は過疎の極みにあり、葬儀がひとつあると1軒檀家が減るといわれる。当然住職専業ではやっていけないから教員や公務員を兼職する僧侶が多い。首都圏に「出稼ぎ」せざるを得ない、地方寺院の疲弊こそ問題なのだ(しかし、宗派や仏教会がこぞってこの問題に取り組もうという動きも聞かない)。
 布施はあくまで布施であって、サービスの代価ではない。在家信者にとって仏道の実践行のひとつとして、本尊に施し供えるものでなくてはならない。それが「建前」であったとしても、その前提が崩れると、仏教の布施はすべてお金で買う消費行為になってしまう。だから不要であれば、買わなければいいのだ。例の直葬もその延長線上にある。
 映画「おくりびと」では、日本人の死者に対する敬意や親密感が描かれ、多くの感動を呼んだ。死者を懇ろに葬り、供養するという営みは、逝く者と残された者が交わす、人間のもっとも崇高なコミュニケーションであるはずだ。そこに位置付けられてこそ、葬式仏教の本当の存在感があるはずなのに、それがビジネスの具と化していくのは、碑文谷創さんではないが、「死者への冒涜」に等しい。
 しかし、テレビの派遣僧侶たちには悪びれる様子もなく、あっけらかんとしていた。すでに実態は不信用を超えて、自明のものになっているのかもしれない。宗教サービスは織り込み済みであって、目くじらたてるほどのこともない。そんな無自覚ぶりが恐ろしい。
(秋田光彦)