2009年12月29日火曜日

(3)死生観を語りあうブログ

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

 今回のエンディングセミナーでは、もうひとつ「みとりびとは、ゆく」というブログを同時スタートしました。セミナーの模様の紹介や私や仲間の雑感などを交えていますが、それを機会として個々人の死生観を自由に語り合う場として設けました。布教ブログでもなければ、仏事のFAQでもない。僧侶も一緒になって、現代の死生について考えようというのがねらいです。 

 多死社会において、否応なしに家庭が死の臨床となるなら、いっそう日常における死生観の成熟が急務と思います。しかし、宗教なき現代では誰もが共有できる死生観がありません。中高年の自殺問題やいじめ、衝動殺人など、すべてといいませんが、日本人の死生観が基軸を欠いたまま不安に喘いでる現状を象徴しています。これを千葉大学の広井良典さんは、死ということの意味がよく見えないと同時に、生それ自体の意味もよく見えない「死生観の空洞化」(『死生学Ⅰ』東京大学出版会)と指摘していますが、私も同感です。 
 それに対し、「今こそ仏教に死生を学べ」と布教師たちは声高に言うかもしれません。それはそれでおっしゃる通りなのですが、個人がむき出しになった現代、昔ながらの流儀や因習に従うとも思えません。地域共同体が壊れ、葬儀も個人嗜好で多様化したように、個人の感性や価値観は、好むと好まざるとかかわらず、過去から続いてきた規範を踏み越えていきます。作家の柳田邦男さんは、現代は「自分の死を創る時代」と言いましたが、まさにこれからの死生観はかつてあったものを伝承されるというより、自分たちで参加しながらデザインしていくものとして相対化されていくのでしょう。
 これまで伝統仏教の結束の基盤となったきたものは、血縁であり地縁でした。それが壊れて急速に個人化が進み、信仰もまた家単位から個人の宗教の時代に大きく転換していこうとしています。教義が授けられ、絶対存在によって救われるという受動態ではなく、自己の気づきや変容を重視していくのが、個人の宗教の顕著な傾向です。そこを檀信徒教化というフォーカス(つまり家の宗教の視線)で見ていては、永遠にかみ合いません。このままでは、仏教は宗派とか教団という囲いを取り払うと忽ち存立不能に陥ってしまわないか、という不安をおぼえています。
 このブログ「みとりびとは、ゆく」は檀信徒対象ではありません。無宗教の人も意識しています。そこでは、仏教は絶対的回答なのではなく、壮大な問いとして提出されるものです。「浄土宗では…と考えます」ではなく、読者に対し「あなたはどう考えるのか」という問いかけであり、「ともに考え、ともに悩もう」というのが基本スタンスです。模範解答であればホームページで十分ですが、現代の死生観には対話型のブログがどうしても必要だったのです。
 八月から九月にかけてブログには、エンディングセミナーのレポート以外には、こんなタイトルが並んでいます。
○少子化時代の「供養」をどう考えるか。お盆に想うこと。
○書評:日本人と『死の準備』~これからをより良く生きるために
○日常生活の中の死 ~死の瞬間まで人生の主人公であるために~ 奈良県ホスピス勉強会報告
○シンポジウム聴講:「今を生きる力~激動の時代をホリスティックに生きる~」帯津良一さん
○布施は宗教サービスの代価ではない。派遣僧侶という問題
 書き手は私以外にも僧侶や市民数名と分担しているので、一貫性は乏しいかもしれませんが、仏教を共通軸としながら話題は拡張していっていくことが汲み取っていただけると思います。別の月には「臓器移植改正法」「衝動殺人」なども取り上げましたが、意識的に社会問題について仏教の死生観から問い直すことをやっているつもりです。仏教を「私事」に閉じ込めず、いかに公共的なものとつなげていくのかという試みです。ここでは仏教は答えとしてでなく、重要な参照点として共有されています。
 まだ始まって間もないので、コメントが続々というわけにはいきませんが、議論できる場をつくる、という意味では、少しずつ関心が広がっています。ネット上でどういう出会いや対話が起きるのか、楽しみでもあります。(秋田光彦)

2009年12月27日日曜日

(2)死の臨床と物語

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

3人のゲストは、葬儀社最大手の大阪・公益社執行役員の廣江輝夫さん、開業医でいまい内科クリニック院長の今井信行さん、アットホームホスピス代表の吉田利康さんですが、共通しているのは立場を違うが、死の臨床に立ち会う専門家であるということです。しかも、その専門性が現代の死と切り結ぶうちに意味の異化作用を起してる点がたいへん興味深いものでした。
葬儀社の廣江さんは、早くから遺族支援「ひだまりの会」を設置して、グリーフケアの普及に取り組んでいますが、これは「葬儀」を扱う葬儀社が「葬儀後」を扱い始めた点で異化されています。 今井さんも、在宅ホスピス医として大勢の方を看取ってこられましたが、「延命ではなく、いかに死を受容するか」という文脈自体、近代の治療医学とは違う地点に立たざるを得ません。
このように現代の死の臨床では「脱専門」という大きな転換期を迎えていると思います。一方で同じ現場にいながら、僧侶は無関与のままほとんど反応を示さないでいます。臨床家としての自覚がないのでしょうけど、ある意味、ものすごくもったいないことだと思います。 今回のセミナーでも「葬儀社対僧侶」「医師対僧侶」という異なる専門性をすり合わせながら初めて見えてくるものがあります。僧侶とは、本来そういう異化を引き起こす他者性をゆたかなに内蔵しているはずですが、残念ながらそれが発揮されることは皆無に等しかったのです。私は「僧侶性の限界」と言っているのですが、それぞれの宗派に依って立つことが僧侶のアイデンティティであると同時に、皮肉なことにそれがバリアとなって、外との対話や交流の機会を阻んでいるように思います。日本の僧侶は社会性云々という前に、絶望的なほど他の専門家と向き合う接点が少なすぎます。 
3人との対話では、臓器移植法の改正やスピリチュアルケアについても議論があったのですが、私がいちばん印象に残ったのは、長年在宅医療にかかわる今井ドクターが「在宅死って、一篇の詩のようなものなのかもしれない」とつぶやいたことでした。物語とかナラティブ(編集部注釈・narrative=話術、語り口、叙述すること)とか言われるところと重なるのですが、これはいまの仏教に大きく欠落しているところと感じました。
愛妻を自宅で看取られた吉田さんも、元々文才の豊かな方だったこともありますが、その死別の悲嘆を外に表現することで受容していかれました。最初にある医療財団から助成を受けてつくった在宅ホスピスの啓発用ブックレット「あなたの家にかえろう」が十万部無償配布されて話題になって、今年は絵本「いびらのすむ家」を刊行されました。これは、吉田さんの死別体験を原案とした絵本です。愛妻の発病から入院、闘病、余命告知、在宅看護、そして最期の看取りまでが家族たちの魂の物語として描かれています。これは医療の専門家には絶対書けないものであって、患者やその家族といった当事者たちが「物語」という方法を手にして、死の臨床に立ち上がってきたことを強く実感しています。 
  吉田さんは今、生活の座から生老病死を見つめ直し、市民目線で介護・看取り・交流・助け合いを実践していく場「アット・ホームホスピス」を立ち上げ、活動しています。非常に横断的なネットワークで、従来の専門職のタコ壺的状況に切り込もうとしています。ここから市民によるもうひとつの専門性が生まれるかもしれません。現代の仏教がそういった動きとどう連携できるのか、あるいはできないのか、関心は尽きません。(秋田光彦)

2009年12月24日木曜日

(1)生前個人墓とエンディングセミナー

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

 2003年からほぼ毎年、夏に市民向け講座エンディングセミナーを開催しています。同様に大蓮寺墓域に生前個人墓「自然」を建立したことが契機となって、エンディングにかかわる6つのNPOと緩やかなネットワーク団体「大蓮寺エンディングを考える市民の会」を運営してきました。セミナーもNPOと共催でやってきましたが、医療相談、住宅、遺産・相続、生きがい等々、エンディングセミナーは生前にシフトするほど扱う領域も拡大していきます。
 なぜお寺とNPOの協働なのか、というと、大切な生死の問題を当事者である自分たちどうしで知恵を出し合い、支え合うネットワークをつくりたかったからです。現実は病院任せ、葬儀社任せ、と専門家に丸投げされているのが実態であって、それを当事者の権利として回復するためには市民が相談できたり、学習できたりするためのサポートセンターの機能が必要だと考えたからです。「おひとりさまの老後」はやがて個人の力で支え切れなくなりますから、立場の違う人たちどうし連帯して支え合うネットワークづくりが重要となります。NPOがそのパートナーとしてふさわしいと考えました。
 いまのお寺自体には何の対応能力もないですが、やはりよろず相談所の名残はあって、いろんな相談事が集まってきます。解決はできないが、紹介ならできるかもしれないと、お寺が中間機関として専門性のあるNPOと連携するようになりました。例えば医療関係なら大阪のNPO法人ささえあい医療人権センターCOML(コムル)、葬送であれば東京のNPO法人エンディングセンターなど相談内容に応じて仲介をするわけです。いのちに関係する相談の取り次ぎ役みたいなものです。このサービスは、ネット上でも展開しています。
 もうひとつ当初から考えていたのは、お寺自体の問題です。お寺をめぐるお金は、誤解も含めしばしば不透明性を指摘されてきました。お寺に寄せられるお金は本質は浄財ですから、本来は公益性のあるものに還元されなくてはならない。「自然」というお墓は檀家が対象ではないので、考えやすかったのですが、ご志納いただいたお金から一部をエンディングのNPOに毎年寄付することを想定していました。NPOの世界にはファンドマネジメントといって自治体や企業から寄付を開発する手法はよくありますが、宗教法人のお金がNPO法人の事業費として提供されるケースは恐らく初めてだと思います。「自然」を建立する費用がようやく減価償却できたので、来年度からスタートさせる予定です。
 ここ数年エンディングセミナーは、私の個人的関心もあって、看取りの問題を扱うことが多くなっていました。今回のセミナーもNPOと共催ではなく、ちょうど映画「おくりびと」がブームでエンディングに関心が高まっていたので、それをもじって「みとりびと」として、看取りにかかわる3人のゲストを招いて、私との対話方式で開催しました。セミナーの企画書に、私はつぎのように趣旨を述べました。
『映画「おくりびと」の大ヒットは、日本人にとっての死と家族の関係について改めて想い起こさせました。しかし、映画とは違い、実際の死の風景、とりわけ末期から死、死後のプロセスは、家族には知らされず、実際に体験した場合、心身ともに大きな重圧がかかります。年間110万以上の人が亡くなる多死社会の日本において、家庭は看取りとは無関係な場所ではなく、もはや死の臨床といってよいはずですが、そのための環境や人材、作法など、その基盤はけっして充分なものとはいえません。遺族会、在宅ホスピス、そして家族による看取り…死と家族をめぐる3つの物語に学びながら、いのちを支えることの意味をともに考えます』(秋田光彦)

2009年12月19日土曜日

《講演会案内》 「救えるいのちを救う」~山本孝史さんの遺志をつなごう~

 年間自殺者数が11年連続で3万人を突破する中、「自殺者の出ない社会に向けて行動を」と、肉親と死別した人への支援などに取り組む任意団体「Live on(リブオン)」(代表 尾角光美さん)が主催する講演会が開催されます。
 尾角さん達は、9月に全国の自死遺児を集めた交流会 YES for lifeを東京で開催しました。その時に参加者と「精神的に不安定になりがちな遺児を支える活動をしたい」「自分たちも自殺を減らすために何かしたい」「この社会を生きやすくしたい」という思いを共有したことから、今回の講演会の場が生まれました。
 尾角さんは「自殺は様々な社会的要因で起きている。自殺について共に考え、行動していくきっかけにしてもらいたい」と語ります。
 自殺者が過去最高となりかねないほどの高い水準で推移している今年の最後に「救えるいのちを救う」ためにいのちをかけた山本孝史さん(民主党・衆参両院議員)の遺志をみんなでつなぎ、自死遺族だけではなく、社会全体で、その思いを共有し、行動につなげていける場にしたいという思いです。(浦嶋偉晃)

□□□□□□□□□□□□□□□□ 概要 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□

日時:12月22日(火)19時~21時(18時半 受付開始)
場所:ドーンセンター5階 特別会議室(大阪市中央区)
内容:山本ゆきさん講演
    「いのちに生きて」~「自殺対策基本法」に込められ
た山本孝史の思い~
   自死遺族の体験談、社会に向けたメッセージ など
参加者:一般市民
参加費:無料
定員:90名
申し込み:m.liveon@gmail.com までご連絡下さい。(定員に空きがあれば当日参加も可能)

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2009年12月8日火曜日

「グリーフケア、その理解 ~大切な人を亡くした悲しみ~」

 去る11月29日、奈良県ホスピス勉強会の定例勉強会に参加した。グリーフカウンセラーとして活躍されている京都産業大学 学生相談室主任カウンセラーの米虫圭子さんから「グリーフケア、その理解」という題で講演を聞いた。

 米虫さんはアメリカの大学を卒業し、アメリカのホスピスや遺族ケアに関わり、8年前に帰国したが、まだ当時の日本では「グリーフケア」という言葉はインターネットで検索してもほとんど載っていなく、職業としても確立していなかったという。
 「グリーフ」というのは「喪失の悲嘆」と訳されているが、喪失体験とは必ずしも死別だけを指すものではない。病気・離婚・失業・転勤・引っ越しなどもグリーフを伴う喪失体験である。失ったものがその人にとって、代わりのもので埋められるのであれば、その悲しさは日々の生活の中でなんとかやり過ごすことができるが、死別というような大きな喪失の場合、グリーフは深く長く続く。グリーフは一瞬の出来事や感じ方ではなくて、死別を体験した人が辿る心や体の変化全てを含む長期にわたるプロセスである。
また人によって悲嘆の内容が違い、回復までの決まった道筋はない。
 喪失体験後に起こりえる変化として多くの人に共通して見られるのは、不眠や食欲減退などの身体的な変化、外出をしたくなくなったり、人と会うのを避けたり、以前好きだった事も楽しめなくなったりする日常生活上の変化等である。感情的な変化は人によって様々で、悲しみだけでなく罪悪感を強く持ったり怒りでグリーフを表したりすることもある。一方、同じ家族の中でもグリーフの著し方はそれぞれ違い、そのため親族や夫婦間の関係が悪くなってしまうことも非常によく聞かれる。「グリーフケア」は、このようにさまざまな変化を体験している遺族の心の回復がよりスムーズに起こる助けとなるケアのことである。

 悲嘆からの回復作業として、①喪失を現実のものとして受け入れる ②悲嘆の痛みを感じる ③亡くなった人がいない生活に慣れる ④死を情緒的に再配置し、これからの生活を歩んでいく、以上の4つの課題がある。人は元来回復する能力を持っている。つまり、亡くなった人が担当していた役割を残った人が再度役割分担し、その事によって徐々に悲しみを和らげて行く、また亡くなった人の居場所を確立することによって、いつもそこから見守ってくれていると感じることである。
 私自身、グリーフケアは、とても難しいものと感じている。愛する人を亡くした人にどのように接したらいいのか正直、分からない。ただ米虫さん話を聞いて、相手に耳を傾け、思いやりを持って見守り、そして生活面の困難にも留意することが大切だと教えられた。死別後に辛かったこととして、「思いやりのない言葉をかけられた」というのはアンケートの上位にある。言葉をかけた本人にはそのつもりはなかったのだと思うが、だから余計に難しい。
 今後、Formal care:サポートグループや追悼会、個別カウンセリング、Informal care:家族や友人知人、医療関係者などによる慰めや傾聴、という両輪が必要である。また突然死ではなく、施設、在宅ホスピスなどに見られるように、死のプロセスが大切となるだろう。
 今回、お話を聞いて、グリーフケアへの寄り添い方について理解することができたが、実際には自分自身を振り返っても、悲嘆は一人ひとり違い、とても難しい領域であると感じた。あまり他人にふれられたくないとさえ思う。
 実際、素朴に思うのは、グリーフはやはり人間関係からくるもので、生前からきちんと相手と向き合って、共感理解できる関係性を持てるように努めることが必要であり、これにどう対処するかで、私たち自身の生き方が問われていると思う。(浦嶋偉晃)

<参考>
下記の日本ホスピス・緩和ケア研究振興財団のURLで「これからのとき 大切な人をなくしたあなたに」という冊子がダウンロードできる。

http://www.hospat.org/korekara.html

2009年12月3日木曜日

「葬送と仏教~死生観の視座をもとめて~」の講演をお聞きしました。

 去る11月21日、大阪YWCAにてエンディング講座「葬送と宗教~死生観の視座をもとめて~」のパネルディスカッションに参加した。時間も限られており、議論も十分掘り下げるには到らなかったが、意欲的な企画に敬意を表したい。
 当日はコーディネーター役にジャーナリストの北村敏泰さん、パネリストに大蓮寺住職・秋田光彦さん、公益社執行役員・廣江輝夫さん、宗教思想史家 笠原芳光さん、イースター式典社社長・小林望さんの4名の方からお話を聞いた。参加者は50名を数えた。
 冒頭、北村さんから現在増え続けている「直葬」の話題が提供された後、「葬送の現況と今後の展望」というテーマについてパネリストがそれぞれの立場から語った。以後はその発言要旨である。

 廣江さんの話で印象的だったのは、現在の葬儀は「参加する儀式」という指摘だ。昔はご近所さんが中心になって葬儀を担当していたのが、今は主導権を葬儀社が握り、喪主も単なる参加者の一人になっている。高齢者も葬儀文化を伝えようとしない。葬儀社中心の葬儀になっていくのは、それでいいのか。また、葬儀を合理化し、単純化する傾向が著しい。本来、葬儀は人間関係の再構築の場であるべきだが、その意味も損なわれている。
 葬儀の様式にはそれを行う人たちの死生観、宗教観が深く埋め込まれいる。葬儀は故人のためだけでなく、残されたもののために行われるという意味合いも強くある。残された人々が人の死をいかに心の中で受け止め、位置付け、そして処理していくか、これを行うための援助となる儀式が葬儀である。
 小林さんも「葬儀の大切さ」を話され、葬儀はお世話になった方へのお礼の場であると言われた。
 一方、笠原さんは、仏陀もイエスも共に葬儀は必要ない、生きている者を大切にしなさい、葬儀よりも生者のほうが大切であると説かれていると言われたが、正直なところ、この部分の解釈は今の私には難解であると感じた。

 秋田さんは、葬送は長い人生の死生観を生きるための人生儀礼である、と述べた。また「仏陀の弟子アーナンダの裏切り」を例に挙げ、葬式仏教は仏陀の死から始まった。仏陀の「遺体を焼いて、そのあとで骨を拾ったり供養の対象にしたりする必要はない」という遺言に対して、供養の気持ちを押しとどめることができなかったアーナンダは背いてしまった。
 現在、仏教を批判して、葬式仏教と嘲笑をあびせる人々の声は絶えない。しかし現実は日本の仏教がかくも長く生きながらえてきたのは、アーナンダ以来その死の儀礼を執行しつづけてきたからではないか。
日本の葬送文化の基軸は、仏として再生するという浄土往生思想にある。日本人の浄土観では、浄土は遠い所にあるのではなく、常に生活の延長線上の身近にある。
 現在、「地縁型寺院の崩壊」があり、都市社会において、死はどんどん「個人化」(一人称化)して、閉ざされている。現在の葬送は文化というより市場サービスであり、宗教観、共同的死生観が衰退し、二人称としての視点が後退している。
 死の「個人化」と「脱宗教性」により、死の共同性が喪われている。

 大蓮寺では、7年前から生前個人葬「自然」を設けた。生前に個人の資格で参加する「共同墓」において、血縁でなく「結縁」で結ばれた人、同じ仲間どうしが支えあう関係づくりをしている。それば言わば、死に向かうトレーニングにもなっている。
 死は究極の公共問題であり、「死」を閉じた私事から地域の絆として開く試みを通して、新しいタイプの「葬式仏教」のデザインが必要となってくる。
死生観とは「生」を考えることであり、また死生観は知識や情報ではない。人間は喪失に直面した時、共感、共苦を感じる。
 命に対する社会の動きにもっと関心をもってほしい、一人称の死だけに関心が偏っている、それを教えるのは寺院の役目でもあるはずだ。

 最近は、私の周りでも、葬送の簡略化が目立ち、また会葬者の都合を優先しすぎた余り、逆の意味での儀式の簡略化加速したと思っている。今回、お話しを聞き、改めて葬送と仏教の関係の大切さについて考えさせられた。またそれだけに、葬送に宗教者がどうかかわっているのか、また宗教とのかかわりはどうなのかがますます興味が湧き、期待する。

 私自身、宗教、お寺の大いなる可能性と、いざという時に宗教者が支えになれることを信じている人間である。また途切れないように、そういう気持ちを子供たちに伝えていきたいと感じた。(浦嶋偉晃)