2010年1月1日金曜日

(4)若者とスピリチュアリティ

葬送文化の専門誌「SOGI」に、秋田光彦住職のロングインタビューが掲載されました。大蓮寺や應典院の取り組みを通して、新しい時代の死生観について言及しています。5回に分けて連載します。

 死生観の個人化という変化にいま一番近接しているのが「スピリチュアリティ」だと思います。今やちょっと流行語になっていて、SOGIの前号にも碑文谷創さんが書いていましたが、あまりに多義的、多層的で私もよくわかりません。言葉の咀嚼力が大きく、何でも呑みこんでしまうような胃袋を持っているから、わからない余白の分、解釈の自由度があるのでしょうか、フレキシブルな言葉であることには違いないが、やや振り回されている感も否めません。
 7月に高知で日本在宅ホスピスケア研究会の全国大会があって参加してきたのですが、やはり大きなテーマのひとつがスピリチュアルケアでした。宗教的ケアを論じたシンポジウムでは、京都大学のカール・ベッカーさんが日本の仏教による伝統的な死生観を語る一方で、同じ舞台に幸福の科学や前世療法の信奉者(いずれも臨床医)が登壇し、非常に違和感を覚えました。何がスピリチュアリティと宗教の境界なのか、スピリチュアリティとは宗教の代替なのか、臨床の現場も混乱しているという印象でした。
 むしろ、それを現場で予感するのは、應典院(大蓮寺の塔頭寺院)で起きている、若者たちのユニークな取り組みについてです。スピリチュアリティという言葉は使いませんが、死を見据えていかに生きるかというようなワークショップの数々が連続して起きています。宗教体験も乏しい、20代の若者に死生が語れるのか、と鼻白むかもしれませんが、私はむしろそこに新たな死生観への模索が始まっていると受け止めています。
 若者たちにはそもそも従来型の死生観がありません。拘泥するものがないから、自由に死生観をデザインすることができるように思います。いまはワークショップやカウンセリングの手法が発達しており、これまで一方的に「教わる」対象であったものから、自分たちで編み出すことができます。言い換えれば「救済される客体」から「自ら変容していこうとする主体」へと自覚的な変化が起き始めているように感じます。
 應典院で実施している、二つの事例を挙げます。
 ひとつは、自死者の遺児たちが主宰する「グリーフタイム」。母親を亡くした20代のふたりの若者、臨床心理士の宮原俊也さんと大学生の尾角光美さんが9月から始めました。グリーフケアというと、私は遺族支援を連想しますが、ここでは死別のみならずここでは「大切なものを失われた方」すべてが対象です。ペットの死、健康な体を失う、両親の離婚、引っ越しや転校による人間関係や環境の変化、失業により役割や自信がなくなる…すべてがその人にとってグリーフであり、その時自分の気持ちをいかに大切にすることができるか、が重要と考えます。集まってくる人たち(全部女性でしたが)がみな原因のはっきりしたグリーフを抱えているとも限りません。本を読んだり、お茶を飲んだり、銘々に好きな時間を過ごします。全体の交流やカウンセリングはしない。助言もせずに、ただ体験者どうしが静かな時間を共有していきます。
 若年層は周囲に死別などの体験者が少なくグリーフケアから取り残されることが多いといいます。ここでは原因究明や問題解決が目的ではなく、悲嘆を抱えた若者たちが誰にも介入されず、それぞれが自分の内面と向き合う「場」を提供しているように思えます。何らかの悩みや問題を抱えている人が当事者どうしで集まり、交流を通して相互に支えあうためのネットワークをセルフヘルプグループと言いますが、こういうのも「スピリチュアルな人間関係」であり、これに救われる若者たちもいます。
 もうひとつは、NPO法人のシティズンシップ共育企画の川中大輔さんたちと3年前から共催している「生と死の共育ワークショップ」です。07年に「自死」、08年は「葬式」、09年は「老い」(予定)をテーマにそれぞれ大蓮寺に泊まり込んでの合宿形式で行われました。08年、「自分のお葬式はどうあげられたいか?」」のネットの広報文を一部少し紹介します。
 「『お葬式』」という生者と死者が共に過ごす、場の持つ意味を探りながら、自分が死ぬ時、どのように記憶され、見送られていきたいのか、その『ありたい死』」を考えた時に、私はいま何をすべきかという問いが深みをもっておとずれるのではないかと考えています。
 『よく死ぬことはよく生きることだ』」という言葉があります。自分や他者の「死」と向き合いながら、これからの自分の『生きかた』」をゆっくりと考える時間を共にしませんか? 」
 これを書いた主催の川中さんは29歳。彼は、さまざまなテーマを参加学習の手法で伝えるファシリテーターとして将来を嘱望されてる人材ですが、最大の関心のひとつが「生死」といいます。
 一日目こそ、寺の住職として私が仏式の葬儀の基本を講義しましたが、そのあとは翌日いっぱいまで参加者どうしが生と死を巡って語りたいことを存分に語り合う場となりました。自他の死の葬送、自らの死にざま・生きざま、あるいは死後のイメージなど、様々な話題が広がりました。全国から集まってきた20人ほどの若者が、お寺でひたすら死生について語り合う、というのは寺の住職にとっては感動的な場ですらありました。しかし、ここでは仏教はあくまで参照点でしかなく、重要なことはそれぞれの個にとっての死生観の創造なのです。「答えを求めるのではなく、問いを温める場所」(川中さん)として、こういうワークショップが生まれ始めていることを私は、これまでの伝統的な死生観とは異なる、スピリチュアリティの萌芽ではないかとらえています。
 ここは非常にデリケートな問題も孕んでいるのですが、私はこのスピリチュアリティの動きと伝統的な仏教が対立的な関係にあるとは思いません。彼ら彼女ら應典院というお寺に場を求め、住職である私に「法話」を要請してきました。入信・折伏といった直接的な宗教体験を求めるのではなく、一定の距離を担保しつつ、重要な参照点としてアクセスしようとしています。
 先に「伝統的な儀礼や教義は一旦退行した」と述べましたが、それは権威的であり、教条主義的なものの退行であって、若者たちもまた先人たちの知の蓄積に学ぼうとしていることを強く感じます。問題はそういう若者たちの立ち位置を尊重できない、いまの仏教の定形化された話法であり、硬直したコミュニケーションスタイルにあるのではないでしょうか。一方的な教化圧力が浮き立つだけで、若者との対話や共感がない。そうなれば、当然僧侶の役割もアジテーターからメデュエーター(仲介者)へと転換していくと思います。語ること以上に、聴く姿勢が求められます。そのうえで、両者は今後寄り添いながら、緩やかな連携を深めていくのではないでしょうか。
 川中さんの団体名にもある「シティズンシップ」とは、個人の市民性、市民的行動と訳され、市民社会とはそういった主体的な個人参加型の社会をいいます。個人というものが欲望だけを肥大させるのではなく、説明や合意をどう図りながら、ゆるやかな共同性を獲得していくのか、これは個人の時代における社会観形成の上で、極めて重要な意味を持つと思います。いま注目される「公共宗教」とは、東京基督教大学の稲垣久和さんの定義によれば、「私と公の間に市民的・公共的領域が多様に存在し、宗教はそこで(国家的統制を受けず)本来の役割を果たすことが期待」され、「そのような市民社会形成のエートスを与える宗教」(稲垣久和・金泰昌編「公共哲学16 宗教から考える公共性」東京大学出版会)を言うといいます。もし、そうであれば、まさに仏教もまたつぎのステージを模索しはじめる時を迎えているのではないでしょうか。まだまだ今後の動きを見つめていかなくてはなりませんが、その考察は今後も深めていきたいと思っています。(秋田光彦)

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