2010年4月22日木曜日

市民は祈る。市民救助者の惨事ストレス。

  興味深い記事を見つけた。惨事ストレス。災害救援者が凄惨な現場に出動した際にかかるストレスだ。恐怖や職業上の強い責任感から心身に不調が生じるとされ、心拍数が上がったり、情景がフラッシュバックしたりする。PTSDにつながる恐れもあるという。
記事は、2005年のJR福知山線の脱線事故の際、救援を手伝った「市民救助者」に焦点を当てていた。消防隊員などプロの救助者には対策が取られているが、市民の現状はほとんど顧みられていない。北里大学の調査によると、事故から4年を経た段階で、市民の3割近くが「不眠」「疲労感」「罪悪感」などストレス症状が続いているという。
市民救助者はたまたま事故現場に居合わせたに過ぎない。状況によると思うが、「火事場の見物」でもよかったはずだが、止むにやまれず「救助者」となったのだろう。本来なら賞賛されるはずの勇気ある行為が、当人の心のトラウマとなっていくとは、何と悲痛なことだろう。
<救助にかかわったHさんは、電車内から『お母さん、助けて』」という若い女性の声がしたため、バールを探して戻ったが、もう声は聞こえなかった。負傷者に肩を貸すなど救助を手伝い、作業着は血だらけに。その日から1週間、地獄のような情景が夢に現われた。今も朝夕、現場に向かって手を合わす。「もっと多くの人を救えたのでは、と自責の念にかられた」という>(読売2010年4月8日)
Hさんの「自責の念」の要因は、自ら招いたものではない。たまたまた現場にいた、そして見かねて救援を手伝った。それが、その後何年も拭いきれない「縛り」となってしまう。それぞれに領分があって、自分にできることには限界があるのだ。プロでも苛まれる惨状であったのなら、果たして自発的であったにせよ市民救助者を迎えるべきだったか、とも考えてしまう。
Hさんは、「(その後は)冥福を祈ることが心の救いになった」という。個人では背負いきれないストレス感情を、神仏の領域に預けるということかもしれない。自分の限界点まで辿りついて、人間はようやく諦観の念を起こす。あとは仏の救済力に任せて、自分は手を引くのだ。
 近代は、ずっと個人の可能性を推し進めてきた。「自分には限りない可能性がある」と刷りこんで、自己実現から自己責任まで、実体のない「自己像」を売りさばいた。けれど、やがて個人ではどうにもならない現実に行きあたる。自分の能力の限界を思い知る。それは近代から見れば「敗北」かもしれないが、私には、もうひとつの可能性としての「霊性の気づき」のようにも見える。自らの弱さ、無力さから立ち上がる、宗教的感覚の発見といってもいい。
 国内外で自然災害や大事故が続く。死傷者何万人という数字が強調され、あちこちで募金活動が活発になる。それ自体はだいじなことだが、だから「してあげた」と傲慢になってはいけない。忘れてならないのは、自然の脅威を前に、私たちの無力さを自覚しながら、誰かのために真摯に「祈る」ということではないか。惨事ストレスのニュースを見て、そんなことを感じた。(秋田光彦)

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