2010年11月23日火曜日

死刑と市民と死生観

■市民が選択した極刑
 市民がかかわる裁判員裁判で、初めて死刑が選ばれました。
 11月16日、横浜地裁は、麻雀店経営者ら2名の殺害事件の被告に対し、その計画性、残虐性から死刑判決を言い渡しました。市民が自ら命の裁きを下したことになります。
今回の裁判では、事実関係の争いはありませんでした。被告は裁判当初は同情や共感を拒み、自ら死刑に追い込むような言動が目立ちました。それが審理を経るうちに「心情が変わっていくのが、よくわかった」(裁判員の男性)といいます。「被告に人間性は残っている。わずかでも死刑をためらう気持ちがあれば、死刑にしてはならない」(弁護人弁論)。そして、市民が加わって3日間の評議を経た結果の判決は、被告の人間性を問いながらも、極刑の選択をしました。
これまでは「お上にお任せ」の裁判でしたが、去年、裁判員裁判制度が始まって以来、急速に市民の関心は高まっています。量刑の如何にかかわらず、判決という究極の判断から誰もが逃れられなくなったからです。人権の立場から「死刑反対」というのは簡単だが、自分が裁く側となった時、その主張を貫くことが可能なのか、国民全員に重い課題が突き付けられています。

■他者の死と向き合う
 当初、裁判員制度立案の経緯では、裁判員のストレスなどを考慮して、刑の軽い事件から対象とすべき、という声があったといいます。しかし、それでは本当の司法の参加にならない。人の生死がかかる重大な犯罪にこそ、市民の良識を反映させる必要があるとされました。「裁判員が実際に判断することで、死刑が刑罰として適切なのか、今でも日本に必要なのかを社会全体で考えることにもつながる。制度を維持するなら、私たち1人1人が責任をもって向き合う必要がある」(土井真一京大教授)。
 市民社会は、それまでの「お任せ民主主義」を批判して生まれました。社会における重大な決定を、お上に任せるのではなく、自分たちに主体を取り戻そうという運動の結果でもありました。裁判員制度の誕生にも、その精神は活かされているはずで、「死刑判決だけは別」とはいかないのです。
今回の判決の結果は、尊重しなくてはなりません。今後、死刑を含む司法参加は進んでいくことでしょう。同時に、「司法的殺人」として死刑に反対する声についても熟慮を重ねなくてはなりません。死刑に市民が皆、向き合わなくてはならないのです。
 私は、もう1つ、今回の死刑判決が日本人の死生観にも大きな影響を及ぼす、と感じています。人間は一般に自己を中心に、家族や同僚、知人といった、親しい2人称の死までしか体験することはありませんでした。それが生死のかかる裁判では、自分が他者の死に意識的に関与し、責任を負い、公正な判断をしなくてはなりません。「最期まで自分らしく」というようなフレーズが委縮してしまうほど、「他者の死」は冷徹なほど自己の死生観を相対化していきます。
 判決言い渡し後、裁判員の一人は記者会見でこう発言しています。
 「日本がいまどんな状況にあるかを考えると、一般国民が裁判に参加する意味はあると思う」(趣旨)。
 犯罪、裁き、償い…そして、人間性とは何か。市民社会における死生観とは、個人の生死のみならず、そういう重く深い命題を引き受けていかざるを得ない、と思います。(秋田光彦)

*本稿は、11月16日、17日の各新聞報道を参考にしました。

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