2009年7月24日金曜日

日本人の死に方が問われている。臓器移植法について

 これまで「資源」という言葉を比較的肯定的にとらえてきました。
 まちづくりの現場では、眠っている資源をいかに活かすかという文脈で、地域の歴史や生活を語ってきました。が、今回の臓器移植法における議論は、「臓器は公共の医療資源?」という、とんでもない資源の濫用となっていると思います。
 7月13日参院で可決なった今回の法改正で、今後死後の臓器提供については、本人の承諾がなくても、家族さえ承諾すれば摘出可能となりました。子どもの場合も、親が承諾すれば摘出できる。つまり、これまでの「臓器摘出は本人の生前の意思に限る」という箍(たが)が外れた分、すべての家族が「脳死者となった家族」の臓器の提供をするか、しないかの意思表示を求められる、ということになります。しかし、そもそも子どもの臓器は、親の意思で自由になるものなのでしょうか。
 メディアは「日本人の死生観が変わる」と騒いでいますが、いったい死生観というような民俗的な観念が国の法律ごときに左右されてしまっていいのか。医療の暴走を抑制しようと長く議論されてきた生命倫理からの問い直しはどこへ行ってしまったのかとあまりのなし崩しに憤りをおぼえます。東大の島薗進さんは、欧米諸国の場合は「キリスト教の立場からの主張とそれに対抗する論理が拮抗する中で、生命倫理の基礎づけが行われてきた」と言います。つまり、前提となる大きな死生観があって、それと際限なく発展する科学技術との両者の調整や合意に長い時間をかけてきたのです。が、今回の法案成立は違う。最初から日本人全体が含意するような死生観などなかったのかと思えてしまいます。
 心身一如の仏教的立場からいえば、死は身体と切り離して考えられません。日本人にとって死はたえず遺体や遺骨とともに認識されてきたのであって、それと共に死は諦観(真理)として受け入れられてきました。航空機事故で犠牲者の遺体や遺骨を収集するのは、日本人だけの特性です。「看取り」もまた身体まるごとの関係性との別れであって、肌は暖かく、血は流れ、ひげも伸びる「脳死者」を、「これは遺体だ」と認識できるのでしょうか。
 おかしなことです。脳死者はむろん、遺体を見たこともない人たちが、死の定義を論じている。世間では年間の自殺者3万人といいながら、そのことが社会問題の第一に挙げられることはない。そして「誰でもよかった」殺人の続発…。社会全体から死のリアリティーが失われています。というより、そういう厄介な問題はなるべく見ないようにして、「世の中のためになるから」というわかりやすさに走り、生死の一大事を技術操作の具にしている、といえないでしょうか。
 延命のみ優先して、死を追いやることは、やがて生命の限界を受け入れらない、痩せた死生観しかつくり得ません。死とどう向き合い、いまをどう生きるのか。今回の臓器移植法は、医療だけの問題ではなく、日本人全体の生き方と死に方が問われていると思います。 (秋田光彦)

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