2009年8月14日金曜日

少子化時代の「供養」をどう考えるか。お盆に想うこと。

お盆のこの時期、私たち僧侶は「棚経」といって連日檀家さん宅を回ってお経をあげていますが、伝統的な先祖供養の中で大きな変化を実感することがあります。
 複数の檀家さんから同様の相談を受けました。
 「妻の生家の仏壇(位牌)を、当家(婚家)で祀りたい」。
 そうしなければ、妻の実家の先祖を供養することが守っていけない。供養の途絶です。今後、少子化が加速すると、これまで家族直系で継承されてきた供養の保証がますます難しくなってくることでしょう。私が死んだら、いったい誰が供養をしてくれるのか。そういう「供養の不安」は、いまや日本人の共通の危機感としてじわりと浸透しはじめています。
 日本人の供養とは、絶えず「先祖」という血縁とセットで継承されてきました。相手の顔は知らずとも、代々の祖先を祀り、子々孫々に引き継いでいく。それが「家」を基軸とした、いのちのつながりを形作ってきました。ふだんそんなことに意識はなくても、お盆やお彼岸という国民的行事を通して、日本人の霊的な感性は自然と養われてきたともいえるでしょう。
 ところが、少子化時代となって、ドラスチックな変化が起きます。家が縮んで、仏壇や墓の継承が困難となり、供養が途絶していく。それを恐れる心理からか、「(死後)迷惑をかけたくないから」散骨・自然葬を選ぶ人も少なくないと聞いたことがあります。また「供養の不安」という問題は、何でも自己決定すればいいと、安易な市場主義をはびこらせる要因ともなっています。
 現実の供養システムが、家族を基軸としている限り、やがて機能不全を来すことは想像に難くありません。では、明日の供養をどう救済すればいいのか。私は血縁による供養が難しくなったいま、「結縁」による供養のシステムづくりを考えなくてはならないと思います。いわば血縁に頼らない、もうひとつの家族づくりです。供養のネットワークといってもいい。
 その実践の取り組みとして、2002年から大蓮寺で始めた「生前個人墓・自然(じねん)」について、次回から述べていきたいと思います。(秋田光彦)

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