2009年8月20日木曜日

死生観を取り戻す。お墓を起点とした、もうひとつの共同体づくり。


本稿は仏教タイムスから依頼されて寄稿したものです。9月上旬に掲載の予定。

 映画「おくりびと」は、われわれ僧侶の間では「宗教抜き」の映画として話題となった。「葬儀」を扱って大ヒットしたこの映画には、宗教の教えはもちろん、住職も寺もていねいに取り除かれていて、まったく姿がない。制作側は、特定の宗教色に偏向することを警戒したのだろうが、また今さら日本人誰にも共通する死生観などすでにないことを承知していたのではないか。たいせつなものは個々人の思いであって、融通の利かない死生観に拘泥されるものであってはならない。そういう規範や因習より個人の自由な価値観が優先されるべき、という風潮は、最近のスピリチュアルブームにも通底するものがある。
 もとより死生観は個人の面貌ほど多様であることに異論はない。「宗教なき死生観」も否定しない。しかし、死生観は人生の経験と学習の中で熟度を深めるものであって、ろくに思索も対話もないまま、「自分らしくありたい」と何でも好き勝手をすることと意味が違う。逆にそういう個人の小さな経験を積み重ねながら、全体のコンセンサスを規範として高めていく共同体のありかたに無関心であっていいのか。
 2002年から、大蓮寺の墓域に生前個人墓「自然」という新しい考え方の墓を設けた。すでに申し込みをされた会員は80名を超えたが、大方はまだ元気な人たちで、年三回の合同供養のほかに、セミナーやバスツアー、懇親会等で互いの交流を深めてきた。生前に個人の資格でお墓を準備するということは(申し込みを受けた直後に個人の墓碑を建碑する)、死を見据えてこれからを生きるということであり、それを血縁を超えて会員どうしで支えあおうというのが、この墓のポリシーだ。最初は一人ひとりは他人でも、「自然」を出会いの場として、やがて互いを供養しあえるような、共同体的な関係づくりを目指している。
 一般に年齢を重ねれば、自ずと死生観は深まるというが、どうもそれは疑わしい。「自然」申し込みに際し、これまで200人以上の中高年と面談してきたが、熟年世代であっても、痩せた死生観しか持ち合わせない人も少なくない。かつては地域共同体の中で継承されてきた生死にまつわる作法や知恵が途絶え、現代ではそれに代わってインターネットで収集したような情報や知識が幅を利かす。しかし、死生観とは検索エンジンで手軽に巡りあえるものではないだろう。
「自然」の場合も、個人墓といいながら、その根幹を成しているのは会員どうしがともに向き合う生死の共同体験だ。入会当初は戸惑いがちだった会員たちも、お寺が織りなすさまざまな「場」から、死生観の基本を学びとっていく。毎年夏に行う会員セミナーでは、葬送の変化の様々を学習しているし、生前戒名授与の道場には、すでに会員の七割が結縁した。
 日本全国に8万もの寺があるというが、私は、寺こそがそれぞれの地域における死生観形成の拠点でなくてはならないと思う。
 役所も学校も親も教えてくれない「いのち」「生死」について、地域社会に問い続け、また学びの場を持続的に提供すること。葬儀や墓についての学習や相談は、その入り口として誰にも馴染みやすいものだろう。また、「いのち」の視点から積極的に社会問題にも関心を寄せていってほしい。このたび実施した大蓮寺のエンディングセミナーでも、グリーフケアや在宅ホスピス、脳死・臓器移植問題などを話題に取り上げたが、いずれも生死の問題を「私事」に閉じ込めずに、たえず公共的な視点で問い返して、開かれた関係をつくりあげていくことをねらいとしている。当事者のみならず、専門家や市民を巻き込み、多様な知恵と実践を出し合うことによって、地域全体の潜在力を高めていく。それはやがて、死生観についての共感や合意を育み、「いのち」を主体としたまちづくりへとつながっていくだろう。
 「死生観なき現代」に向けて、生死の道を架橋するのは仏教の大きな使命である。それも、上から目線の布教伝道ではなく、地域の暮らしや人々の生き方と対話、協働を通して、仏教の実践的強度を高めていかなくてはならない。同時にそういう臨床的な態度から数々の仏典を読み込めば、それぞれが「生きる思想書」として新たな指標を与えてくれるにちがいない。大蓮寺の塔頭應典院では、この秋から現代人に向けたさまざまな仏典講座も開催する。
その地平の行方に、日本人の死生観を支えてきたゆたかな土壌として、日本仏教の可能性が再び見出せる、と思う。
(秋田光彦)


(大蓮寺の施餓鬼法要の一場面。家族が集って、先祖の御霊を祀る。日本のお盆の典型的な光景だ。8月19日撮影)

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