2009年6月20日土曜日

秋葉原・無差別殺傷事件1年に思うこと

■格差社会の悲劇なのか?

去年のあの忌まわしい秋葉原連続殺傷事件から一年が経ちました。
20代の男性が、歩行者天国の秋葉原に乱入して、次々と無差別に7人を殺傷、若者にとってハレの場所であるアキバが一転して 地獄絵図となり、その衝撃は世間を震撼とさせました。容疑者は「会社が悪い」 「親が悪い」 「社会が悪い」 と徹底的に責任を転嫁して、一方で 「負け組」 「ブス」 と自己を完全に否定していました。 彼にとって、ネットに写し取った自分だけが、客観的に自己として認識できるものだったのかもしれません。 生きることのリアリティが失われ、絶望的な孤立感だけが際立っていました。
 虐待、落ちこぼれ、派遣労働、ネット依存等々、メディアが飛びつくには格好の事件でしたが、これを「格差社会がもたらした悲劇」 などと安易に整理してしまうことにも不満を覚えました。 その背景の根幹には、とくにバブル崩壊以降、日本社会が抱え込んだ「関係性の喪失」が大きく横たわっていると考えるからです。
 人間は誰かに関心を持たれたり、頼りにされたり、愛されることで、自分の存在を創り上げていきます。 児童虐待が悲劇なのは、犠牲者である子ども自身が「自分は生まれてこなければよかった」と満足な自尊感情を持てないことです。 自己のかけがえのなさを感じられない人間は、むろん他者を愛することもできない。 問題は格差社会が悪いというより、「喪われた関係性」にあると思います。

■生きることの練習問題

この悲劇を繰り返さないためには、どうすればいいのか。何かを取り締まったり、規制したりしても、所詮付け焼刃に過ぎません。 結局、一人ひとりが地域社会における関係性の恢復に努める以外にないのですが、あえて付け加えれば、家族や学校におけるつながりが希薄になったからこそ、それに代わる もうひとつの関係づくりが必要とされているのではないでしょうか。
 金儲けとか成績アップとか、一律的な物差しで人生の価値を測られることに、敏感な若者たちは異議申し立てを始めています。 應典院には 容疑者と同じような世代の、(また非正規雇用の)若者が集まってきますが、でも、彼らが事件を決して犯さないと確信できるのは、そこで市民活動や芸術活動など 自ら求めて濃密な人間関係づくりをていねいに重ねてきているからです。 それは「生きることの練習問題」といってもいい。 それほど、日本の社会には、悩んだり、考えたりしながら、若者が関係づくりを自ら試みる場所が希薄なのだと思います。
 仏教の「縁起」の思想は すべては相互にかかわりながら存在していると説きます。 互いを認め 互いを必要とする自利利他の関係づくりこそ、これからの共生社会の要諦でしょう。 とりわけ「下流世代」といわれる現代の若者に対し、先行世代の私たちが無関心であってはいけません。お寺もまた、困窮する若者たちのいまに何ができるのか、その役割は小さくありません。(秋田光彦)

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